トップページ不定期刊・きょうのトピックス不定期刊・きょうのトピックス2014年(平成26年)分「福岡」紀行

「福岡」紀行(2014年〔平成26年〕1月5日公開)

 「福岡」と聞くと多くの人は九州地方の北端にある県やその県の県庁所在地を思い浮かべることであろう。その「福岡」という地名は実は中国地方のある場所の地名を採ったものであることを知っている方はどのくらいいるのだろうか。ちょうど今日からNHK大河ドラマで福岡城(福岡市中央区城内)を築いた黒田官兵衛(黒田如水とも黒田孝高〔よしたか〕と呼称する場合がある。1546〜1604)の生涯を描いた「軍師官兵衛」が始まるのだが、2013年(平成25年)12月のある日、その「福岡」なる地はどんなところなのか行ってみたので報告したい。

 その「福岡」という地は岡山市中心部から直線距離で東へ約15kmほどの瀬戸内市長船(おさふね)町にある。私が住んでいる福山市からだと国道2号線を岡山市東区竹原まで東進し、そこから県道83号飯井・宿線に入って吉井川にかかる邑上(ゆうじょう)橋を渡った先からが「福岡」、すなわち瀬戸内市長船町福岡というわけであるが、「福岡」の中核は邑上橋を渡った先で左折して県道464号服部・射越線(吉井川左岸堤防道路)に入り、少し北上したところにある。進行方向右側に下の写真のような案内看板が出ているのでそれに注意していれば良い。

 自動車で行った場合、どこに駐車するのかが分かりにくいのが難点である(妙興寺のすぐ北側〔地図リンクはこちら〕に未舗装の駐車場がある)が、車を置いてまずは恵比須宮の境内(地図リンクはこちら)にある「福岡の市跡」の石碑(左下の写真)を見物する。ここで私はある事実を知ることになった。この地で鎌倉時代中期の僧侶で時宗の開祖として知られる一遍上人(いっぺんしょうにん。1239〜1289)が1278年(弘安元年)に説法をしたというのである。その様子は国宝に指定されている「一遍聖絵(いっぺんひじりえ。一遍上人絵伝とも称する)」に描かれていると石碑の横にある案内板(右下の写真)に記されているのだが、13世紀後半には既にこの地が栄えていたことがうかがえる。

 

 「福岡の市跡」の石碑の50m東方には大正時代初頭に建てられた医院を利用した備前福岡郷土館(下の写真。地図リンクはこちら)があるのだが、この備前福岡郷土館が開館するのは日曜日の午前10時〜午後3時だけ(入館料は無料)であり、訪れた日は平日だったので残念ながら閉館していた(但し備前福岡史跡保存会〔電話番号:0869-26-3211〕に連絡すれば閉館日である平日でも対応して頂けるとのことである)。

 その備前福岡郷土館の玄関の前に東屋のような建物(上の写真の錆びたトタン屋根を持つ建物)があるのだが、そこに展示してあるのは何と縄文時代中期に洪水が原因で埋もれ、それから5,000年近くが経過した平成時代初頭に吉井川の底から発見された木であった。「吉井川の流路は今とは違っていたのだろうか」と思ったものであるが、この吉井川の流路が実は「福岡」の消長に関わっていたことにその時は気付かなかった。
 さて、備前福岡郷土館を後にして「福岡」の街並みを散策する。恐らく江戸時代以降の建物なのだろう(建物の知識がないのでもし違っていたら大変申し訳ないが…)が、古い建物が多く残っている(下の4枚の写真)。

 

 

 更に町の各所には町名や街路名を記した看板が設置されている。「殿町」という町名からは城下町として栄えていた時代があったことを、「市場小路」という街路名からは商業都市として栄えていた時代があったことをそれぞれ感じる(下の2枚の写真)。

 

 また、町の各所には井戸も残されている。「七つ井戸」と称していることから町内には7箇所井戸があったことが推察される(中にはなくなったものもあるようだが)。商業都市として栄えていた当時、この町の女性達はそこで洗濯や炊事に使う水を汲み、文字通りの井戸端会議に花を咲かせていたのだろうか。

町内に残っている井戸の一つ

 岡山平野東部の田園地帯にこれだけの古い町並みがあるのはなぜなのだろうか。しかも13世紀後半には既に商業集積があったことが「一遍聖絵」からも明らかになっているのだが、私はこのように考えた。
・すぐそばを吉井川が流れていること。かつては美作地域と備前地域を結ぶ河川交通が存在したことが考えられる。
・山陽道が通っていたこと。江戸時代の山陽道(西国街道)は「福岡」を通らなくなったが、瀬戸内市長船地区に伝わる郷土料理・どどめせ(炊き込みご飯に酢を混ぜた炊き込み寿司で、備前ばら寿司の元祖的存在)は中世「福岡」にあった渡し場のそばのめし屋で生まれたという話があることを考えると中世の山陽道は「福岡」を通り、吉井川を渡し舟で越えていた可能性が考えられる。
・瀬戸内市長船地区は古くからの刀剣の名産地だったこと。吉井川の源流がある中国山地は砂鉄が豊富に採れ、かつてはたたらによる製鉄が盛んにおこなわれていたが、それが川舟で長船の地に運ばれて刀剣に加工され、山陽道を通って京(現在の京都市)などに運ばれていったのではないのだろうか。「福岡」でも刀剣の製造は行われており、福岡一文字派という刀工の発祥地になっている。

 

「福岡一文字造剣之地」の石碑(左)とその説明文(右)

・近くに備前国府があった可能性があること。備前国府は岡山市中区国府市場周辺にあったとされているが、なぜか瀬戸内市長船地区には国府小学校(正式名称は瀬戸内市立国府小学校〔瀬戸内市長船町福里〕)が存在する。邑久郡国府村(1889〜1955。現在の瀬戸内市長船町のうちの磯上・牛文・土師〔はじ〕・福里に相当する区域)にある小学校ということで国府小学校になったのだが、恐らく瀬戸内市長船町のうちの磯上・牛文・土師・福里のどこかに備前国府が設置されていたという資料があって、それを元に市制町村制施行時に邑久郡磯上・牛文・土師・福里各村が統合して発足した村の名前を国府村としたのだろう。また、瀬戸内市長船町のうちの長船・服部(はっとり)・福岡・八日市はかつては邑久郡行幸(みゆき)村(1889〜1955)となっていて、現在も小学校の名前(瀬戸内市立行幸小学校〔瀬戸内市長船町服部〕)として残っているのだが、「行幸」とは天皇陛下が外出されることを意味する単語であり、瀬戸内市長船町のうちの磯上・牛文・土師・福里のどこかに備前国府が設置されていたことと関係があるのだろうかと考えたくなる。
・福岡城の城下町として栄えたこと。福岡城はそんなに規模の大きな城ではなかったことや吉井川の流路変更の影響を受けたことなどから今日では明確な遺構を残していないのだが、邑久郡(2004年〔平成16年〕消滅)と上道郡(1971年〔昭和46年〕消滅)の境にある城として築かれ、地域の豪族の争奪戦の舞台となった。16世紀前半に廃城になったようであるが、それまでは商業都市・福岡を治める城として存在したのではないのだろうか。

福岡城があったことを伝える碑。吉井川左岸土手のそばにあるが明確な遺構は判然としない。

 しかし、「福岡」の地の繁栄は戦国時代末期までであった。繁栄の終焉になった原因は次の通りである。
・「福岡」周辺を治めていた宇喜多直家(1529〜1582)が1573年(天正元年)に居城を亀山城(沼城とも称する。岡山市東区沼)から旭川のそばにある丘の上にあった石山城(後の岡山城〔岡山市北区丸の内一丁目〕)に移し、石山城とその城下町の整備を行ったこと。この際「福岡」で商業活動を行っていた人々を強制的に石山城の城下町に移住させている。江戸時代初頭の石山城改め岡山城の城下町には「福岡」からの移住者が多く住んでいる地域を示す「福岡町」があったようであるが、その後上之町に統合されてしまった(その上之町も戦災復興実施後の住居表示で北区天神町と北区表町に再編されて現存しない)。
・1591年(天正19年)に吉井川の水害により甚大な被害を受けたこと。この水害によりそれまで「福岡」の東側を流れていた吉井川は「福岡」のど真ん中を流れるようになったのである。水害の被害に遭う前は現在の岡山市東区寺山・一日市(ひといち)周辺にも「福岡」の町並みはあったのだろうが、この水害のせいで「福岡」の町は規模が小さくなってしまった。
 それでも江戸時代「福岡」は岡山藩から商業活動を認められ、戦国時代以前ほどではないにしても商業都市として栄えるわけである(今残る町並みは恐らくこの頃から後のものではないのだろうか)が、岡山藩が消滅した明治時代以降は農村と化してしまい、市制町村制施行後は自治体の中心(中心になると役場や小学校が置かれることが多い)になることはなかったのである。
 今では静かな集落となった「福岡」であるが、古い町並みや今も残る町名・街路名以外にも昔の繁栄をしのばせるものはいくつもある。それを挙げると次の通りになる。
・妙興寺。「福岡」に残る数少ない寺院の一つで、境内には黒田官兵衛の曽祖父に当たる黒田高政(15世紀後半〜1523?)と黒田官兵衛の祖父に当たる黒田重隆(1508〜1564)、宇喜多直家の父に当たる宇喜多興家(1500年前後〜1536or1540)の墓所がある。かつては大規模な寺院だったようであるが、今も山門にその面影を残している。

妙興寺の入口にある門

 

妙興寺本堂。周囲にはNHK大河ドラマ放送を宣伝する幟がいくつも立てられていた。

黒田高政・重隆父子の墓所の脇にある説明板

境内側から撮影した妙興寺山門。かつての寺院の規模の大きさを感じさせる。

・だんじり。瀬戸内市の指定文化財に指定されており、毎年10月第2土曜日・日曜日に豊年を祝って町中を巡行する。

 

だんじりが収められている倉庫(左)とその説明を記した看板(右)

 また、最近では第4日曜日の午前8時〜午後2時に往年の賑わいを再現しようということで備前福岡の市が開催されている。特に4月と11月は「備前福岡の大市」と銘打って開催されるのだが、今回の訪問でも各所でこのポスターを見かけた。地域の農産品や水産品などが並ぶようであるが、開催当日は多くの人々で賑わうのだろう。

 

備前福岡の大市のポスター(ポスターは2013年〔平成25年〕11月24日開催のもの。次は2014年〔平成26年〕4月27日開催予定)

 ところで、今回「福岡」を訪れて気付いたことがもう一つある。「福岡」は日本の人権史上重要なある事件の舞台の一つになったということである。それは1856年(安政3年)に起きたいわゆる渋染一揆である。この一揆に参加した人々が集結したのが「福岡」の吉井川河川敷だったのである。この渋染一揆は様々な解釈や問題があるのでここでは詳細を書くのは控えるが、黒田官兵衛ゆかりの地はそういう事件の舞台でもあったということを知って百聞は一見に如かずという思いを新たにしたものであった。きちんと「福岡」にある観光案内図や「福岡」で入手できるパンフレットには渋染一揆結集の地は記載されているのだが、そこは現在長船カントリークラブ(瀬戸内市長船町福岡)というゴルフ場の敷地になっているらしく、立ち入りは断念した(ちなみに福岡城があったと思しき小さな丘も長船カントリークラブの敷地の中になっている)。

 

「福岡」にある観光案内図(左)と「渋染一揆結集の地」「福岡城跡」と記されている部分の拡大写真(右)

 本当に奥深い土地だったと訪ねて感じたのだが、ならばなぜ黒田官兵衛は関ヶ原の戦い(1600年〔慶長5年〕)の後移封された土地に曽祖父・祖父が住んでいた土地の名前を付けたのだろうか。「福岡市は平地もあるが丘陵地が多い町。丘陵地の多い町に幸福がもたらされることを願って福岡と付けたのではないか」と思う方が多いのではないかと思うのだが、私は祖父からその繁栄ぶりを聞いていた「福岡」が通る度に寂れていくのを見て「『福岡』の西方に新たな城(=岡山城)とその城下町(現在の岡山市中心部)が作られつつある今、この土地が再び繁栄することはまずないのではないか。いつか大大名になって新たな城とその城下町を作れるようになったら曽祖父と祖父が住んでいたこの土地の名前をそこに付けて、大きく繁栄していくように努めたい」と考えていたのではないかと考えている。つまり、曽祖父と祖父が住んでいた当時繁栄を極めていた町をどこかで再現したかったのではないのだろうか。その機会は関ヶ原の戦いの後もたらされたわけであるが、関ヶ原の戦いの後居城とした土地、すなわち福岡はその後大きく発展し、今や人口は150万人を超える九州地方随一の大都市に成長したことはもうここで記す必要はないであろう。福岡市のそばに吉井川のような大きな川はないけれど、福岡市は岡山平野のような広い平地の中にはないけれど、黒田官兵衛の思いは見事に実現したのである。

 「福岡」という町は決して知られた観光地ではないし、今年のNHK大河ドラマの主人公の曽祖父と祖父が住んでいたところでその墓所はあるが主人公本人が住んでいた土地ではない。随所にNHK大河ドラマで「軍師官兵衛」が放送されることを宣伝する幟は立っていたがそれでどれだけ注目され、観光客が来るかは分からない。けれど、近くには有名な観光地が多数あるし国道2号線から少し外れたところにあるので立ち寄り、殷賑(いんしん)を極めた昔に思いをはせてはいかがであろうか。

(参考文献・サイト)

・瀬戸内市・瀬戸内市観光協会発行の各種観光パンフレット

・「角川日本地名大辞典」第33巻岡山県(1989年〔平成元年〕角川書店〔東京都千代田区富士見一丁目〕刊)

瀬戸内市公式サイト

中国四国農政局公式サイト(サイト内の「中国四国地域の伝統料理」でどどめせが紹介されている)

一文字公式サイト(一文字は瀬戸内市長船町福岡の県道464号服部・射越線沿いにあるうどん店。どどめせがメニューに入っている)