トップページ不定期刊・きょうのトピックス不定期刊・きょうのトピックス2014年(平成26年)分鳥取県道254号清水川・福成線の65年

鳥取県道254号清水川・福成線の65年(2014年〔平成26年〕4月1日公開)

(本ページをご覧頂くに当たってのお断り)

・本ページは参考資料(このページの最下部で紹介しております)を基に執筆しましたが、中には自分の想像で書いた箇所があります。その点はご了承願います。

・私は理由が不明確な都道府県道路線の整理には反対の立場をとっておりますし都道府県道路線の整理を推進すべきだと主張する考えも一切ありません。その点を踏まえた上でご覧頂きますようお願い致します。

 日がだんだん長くなり、暖かくなり、緑が芽吹き始め、花が咲き始める春。けれど、その春は日本においてはお別れの季節である。新聞で警察官や公務員、教職員の人事異動が報じられる。あちらこちらの学校で卒業式や教職員の離任・退任式(注1)が開かれる。長年放送され、多くの方々に愛されてきた番組が改編により最終回を迎える。JRグループのダイヤ改正により長年愛されてきた列車が運行を取りやめる。日本においては春は年度替わりの季節だから致し方ないことなのだろうが、寂しい思いを抱く方は多いのではないのだろうか。
 そんな中、2014年(平成26年)3月31日鳥取県告示第231号で鳥取県道254号清水川・福成線が廃止され、通過市町村である西伯郡南部町に移管されることになった。今年3月15日に国道180号線南部バイパス(西伯郡南部町阿賀〜米子市吉谷間)が全線開通したことに伴う路線再編(下表参照)の一環なのだが、「致し方のないことだ」とか「交通量の少ない生活道路同然の県道路線を通過市町村に移管するのは当然の帰結だ」という意見がある中で私は今回の県道路線廃止に対して釈然としない思いを抱いているところである。そこで今回の「不定期刊・きょうのトピックス」では旧道路法時代に認定された前身路線からの鳥取県道254号清水川・福成線の歴史を振り返るとともに果たしてこれまで鳥取県道254号清水川・福成線を管理してきた鳥取県の対応は良かったのかどうかなどを考えることにしたい。

路線名称 再編概要 備考
国道180号線 2014年(平成26年)3月31日鳥取県告示第232号により南部バイパスに一本化された。
鳥取県道/島根県道1号溝口・伯太線 (再編なし)
鳥取県道244号福成・戸上・米子線 2014年(平成26年)3月31日鳥取県告示第233〜234号により西伯郡南部町福成(起点)〜西伯郡南部町境(国道180号線南部バイパス交点)間が区域から外され、西伯郡南部町に移管された。更に2014年(平成26年)3月31日鳥取県告示第235号により鳥取県道244号境・車尾線に改称された。
鳥取県道254号清水川・福成線 2014年(平成26年)3月31日鳥取県告示第231号により廃止され、西伯郡南部町に移管された。

その始まり

 鳥取県道254号清水川・福成線の起源は1949年(昭和24年)4月22日鳥取県告示第196号により認定された鳥取県道197号福成・天津停車場線(注2)である。西伯郡天津村福成で鳥取県道119号福成・伯耆大山停車場線(注2)から分岐し、山陰中央鉄道法勝寺(ほっしょうじ)線天津駅(西伯郡天津村清水川)に至る路線であった。西伯郡天津村(1889〜1955(注3))は現在の西伯郡南部町阿賀・境・清水川・福成で構成されていた自治体であり、村役場は福成にあったことから西伯郡天津村の中心地と西伯郡天津村の代表駅であり、天津村役場の最寄り駅である山陰中央鉄道法勝寺線天津駅を結ぶ路線として認定されたのであろう。

国道180号線南部バイパスに沿って南西に延びる天津駅付近の山陰中央鉄道法勝寺線→日ノ丸自動車電車部法勝寺鉄道跡地

現在も残っている山陰中央鉄道法勝寺線→日ノ丸自動車電車部法勝寺鉄道天津駅のプラットホーム

 この山陰中央鉄道法勝寺線は米子市中心部と西伯郡法勝寺村(1889〜1955(注3))→西伯郡西伯町(1955〜2004)→西伯郡南部町の中心地・法勝寺を結ぶ鉄道路線だったのだが、起点となる米子市駅(米子市道笑町三丁目)はJR山陰本線・境線米子駅(米子市弥生町)の東側にあり、米子市中心部から離れたところにあったことや米子市中心部の南方にある丘陵地帯を避けて敷設したこと、天万(西伯郡手間村〔1889〜1955(注3)〕→西伯郡会見〔あいみ〕町〔1955〜2004〕の中心地。現在は西伯郡南部町天万庁舎がある)などの人口集中地帯を経由させて敷設したこと、運転本数は多くはなかったこと、列車はそんなに速くはなかったことなどから利便性は必ずしも良かったとは言えなかった。しかし、鳥取県道197号福成・天津停車場線が認定された1949年(昭和24年)当時はまだ道路整備が進んでいなかったこともあり、利用は多かったのではないかと思われる。恐らく中心地と代表駅を結ぶ道を整備したいが財政事情が厳しいということで西伯郡天津村が鳥取県に県道昇格を要望し、鳥取県道197号福成・天津停車場線が認定されたのではないのだろうか。ちなみに1949年(昭和24年)4月22日鳥取県告示第196号では鳥取県道197号福成・天津停車場線を含めて県道路線が21路線認定されているのだが、そのうちの12路線が鉄道の駅を起終点とする路線であり、当時はまだ道路よりも鉄道が重要視されていたことをうかがわせている(注4)

何もかもが変わる時代

 鳥取県道197号福成・天津停車場線が認定されたのは1949年(昭和24年)4月のことである。第二次世界大戦が終わってまだ数年しか経っていない時期であり、日本は再興の途上にあった。よって、いろいろなものが変わる時期でもあった。
 まずは道路法である。鳥取県道197号福成・天津停車場線が認定されてから3年ほど経った1952年(昭和27年)にいわゆる現行道路法が公布・施行された。これによりいわゆる旧道路法によって認定された都道府県道路線は主要地方道に移行したもの(注5)を除いて廃止されることになった。ただ、(後で記すのだが)1952年(昭和27年)頃から各地で市町村合併が推進されたことから現行道路法による一般都道府県道路線の認定は1950年代末期から1960年代初頭にずれ込み、当面の間現行道路法で制定された一級国道・二級国道・主要地方道と旧道路法で指定された一般都道府県道が混在することになった(注6)
 次に市町村である。鳥取県道197号福成・天津停車場線が認定された1949年(昭和24年)4月22日時点で鳥取県に存在した市町村の数は170(2市6郡23町145村)であった。当時の鳥取県の市町村の面積の平均は20平方キロメートル程度、人口の平均は3,500人程度だから別に合併しなくても…と考えたくなるのだが、問題になったのは市町村の財政規模が十分かどうかということ(財政規模が小さいと必要なものでも整備できないということが起きる恐れがある)と地方自治の遂行が可能かどうかということ(人数が少ないと首長や市町村議会議員、役所または役場の職員の数が確保できない恐れがある)であった。そこでいわゆる昭和の大合併が展開され、鳥取県で現行道路法による一般県道路線の認定が実施された1958年(昭和33年)4月30日時点では鳥取県に存在した市町村の数は48(4市6郡33町11村)、面積の平均は73平方キロメートル程度、人口の平均は1万2,800人程度になった。
 鳥取県道254号清水川・福成線の前身となる鳥取県道197号福成・天津停車場線が通る西伯郡天津村もこれらの流れとは無縁ではいられなかった。まず変動が生じたのは市町村である。全国的な市町村合併の流れの中で西伯郡法勝寺村を中心とした地域の合併問題が浮上し、論議を重ねた結果1955年(昭和30年)3月30日に西伯郡天津・大国・上長田・東長田・法勝寺各村が統合して西伯郡西伯町が発足することになったのである。これにより西伯郡天津村は約65年半の歴史に終止符を打つことになったのだが、実はこの市町村合併が鳥取県道197号福成・天津停車場線とその後身の鳥取県道254号清水川・福成線に大きく影響してくることになる。そのことはまた後で書くことにしたい。
 次の変動は道路である。まず、西伯郡西伯町が発足してから3ヶ月ほど経った1955年(昭和30年)6月28日鳥取県告示第320号で西伯郡西伯町を南北に貫く主要地方道米子・石見・新見線(1955〜1977(注7))が認定された。この主要地方道米子・石見・新見線は明地峠の前後の区間に自動車通行不能箇所を抱えていた二級国道180号岡山・松江線(1953〜1965)に代わって岡山県と鳥取県西部を結ぶ幹線道路としての役割と、日野郡日野町福長〜米子市糀町二丁目間で日野郡日野町根雨・日野郡江府町・日野郡溝口町(1931〜2004)・西伯郡岸本町(1955〜2004)を経由するために遠回りな経路をとる二級国道183号広島・米子線(1953〜1965)に代わって広島県と鳥取県西部を結ぶ幹線道路としての役割を有する路線であった。ただ、西伯郡西伯町中心部を過ぎるといくつも山越えをしなければならなかったことや人口が少ない地域を通っていること、二級国道との格差は如何ともしがたかったことなどから重要性があるわりには二級国道180号岡山・松江線や二級国道183号広島・米子線ほど整備は進まなかった。
 そして1958年(昭和33年)4月30日鳥取県告示第188号で今度は鳥取県を通る一般県道路線のうちの鳥取県で完結する路線が認定された。鳥取県道254号清水川・福成線―当時の名称は鳥取県道173号清水川・福成線だったのだが―もその時認定された路線の一つなのだが、異例だったのは1958年(昭和33年)4月30日に新規認定路線の区域決定告示や供用開始告示、それまで存在した一般県道路線の廃止告示がなされなかったことである。島根県での一般県道路線の認定告示が近かったこともあったのだろうが、1958年(昭和33年)5月27日鳥取県告示第232号により認定された島根県に跨る一般県道路線(注8)を含めて新規認定路線の区域決定告示や供用開始告示、それまで存在した一般県道路線の廃止告示がなされたのは1958年(昭和33年)9月12日のことであった(注9)。1958年(昭和33年)9月12日時点でまだ兵庫県や岡山県に跨る一般県道路線の認定はなされていなかった(注10)のだが、鳥取県の現在の道路体系は1958年(昭和33年)9月12日に確立したと考えて良いのではないのだろうか。

なぜ清水川・福成線となったのか

 鳥取県道254号清水川・福成線は1958年(昭和33年)9月12日鳥取県告示第423号により廃止された鳥取県道197号福成・天津停車場線を継承して発足した路線になるわけであるが、ここでこのような疑問を持つ方がいるかもしれない。
「なぜ福成・天津停車場線とか天津停車場・福成線ではダメだったのだろうか」
 確かに1958年(昭和33年)4月30日鳥取県告示第188号及び1958年(昭和33年)5月27日鳥取県告示第232号で認定された県道路線の中には1958年(昭和33年)9月12日鳥取県告示第423号で廃止された県道路線と全く同じ名称のものがいくつもある(陸上〔くがみ〕・岩井線や矢口・鹿野線など)。単に道路法が改正されただけであるなら別に福成・天津停車場線とか天津停車場・福成線という名称で認定しても良かったはずである。それならなぜできなかったのか。私は次のように考えている。
・山陰中央鉄道法勝寺線改め日ノ丸自動車電車部法勝寺鉄道の駅を起終点とする県道路線は経由市町村の代表駅を起終点とするもののみ県道路線とすることになったこと。この結果西伯郡会見町の代表駅となる手間駅(西伯郡会見町天万)を起点とする鳥取県道135号手間停車場線(1958〜1969)と、西伯郡西伯町の代表駅となる法勝寺駅(西伯郡西伯町法勝寺)を起点とする鳥取県道136号法勝寺停車場線(1958〜1969)だけになった(米子市駅は…と思う方がいるかもしれないが、米子市の代表駅はあくまでも国鉄山陰本線・境線米子駅であり、日ノ丸自動車電車部法勝寺鉄道米子市駅ではないという考えがあって対象から外したのではないかと思われる)。
・鳥取県道197号福成・天津停車場線の終点の数十m先を島根県道103号/鳥取県道16号伯太・岸本線(1958〜1982(注11))が通っていること。国道路線または都道府県道路線まであと数十mのところで終わりというのではその間を市町村道が取り持つとしても、1958年(昭和33年)当時まだ都道府県道路線については路線識別手段がなく、そういうことは部外者には分からないとしても道路ネットワークの観点からどうかという意見があったのだろう。
・鳥取県道197号福成・天津停車場線の終点のすぐ横に日ノ丸自動車電車部法勝寺鉄道天津駅があるためにもし天津駅を起終点とする県道路線を認定したとすると駅前通りらしくないとか停留所に通じる県道路線は必要があるのかという意見が出る恐れがあったこと。しかし、停留所とされている駅を起終点とする都道府県道路線も、駅のすぐ横を起終点とし、その駅のある鉄道路線と直角に交差する都道府県道路線も存在すること(注12)を思えばこの意見はどうかと思うのだが…。

鳥取県道197号福成・天津停車場線の終点付近(2010年〔平成22年〕11月19日撮影)。写真中央付近が終点で、左の建物のすぐ右側に踏切があったものと思われる。

 真相は分からないのだが、私は道路ネットワークの観点から中途半端になってしまう西伯郡西伯町福成と日ノ丸自動車電車部法勝寺鉄道天津駅を結ぶ路線ではなく、西伯郡西伯町清水川と西伯郡西伯町福成を日ノ丸自動車電車部法勝寺鉄道天津駅のすぐ横を通って結ぶ路線を認定したのではないかと考えたい。決して鳥取県道254号清水川・福成線は西伯郡西伯町福成と日ノ丸自動車電車部法勝寺鉄道天津駅を結ぶ目的を放棄したわけではないこと(つまり「大は小を兼ねる」という発想があったのだろう)や西伯郡西伯町天津地区の幹線道路の一つであること、島根県道103号/鳥取県道16号伯太・岸本線と鳥取県道244号福成・戸上・米子線(1958〜2014)を結ぶいわゆる橋渡し路線としての機能があることが鳥取県道254号清水川・福成線が認定された理由であろう。しかし、(前にも書いたが)ここにも西伯郡天津・大国・上長田・東長田・法勝寺各村の統合による西伯郡西伯町発足の影響があったことは否定し得ないであろう。

西伯町立天津小学校の廃校と日ノ丸自動車電車部法勝寺鉄道の廃止

 鳥取県道254号清水川・福成線が認定された1958年(昭和33年)は世の中は高度経済成長の真っ只中にあった。若年者を中心に都会へ出ていく人が増え、農業や林業、漁業しか主たる産業がない地方では過疎化が進展した。西伯郡西伯町もその波をかぶらざるを得なかった。高度経済成長期(1954〜1973)の西伯郡西伯町の人口を示すと下表の通りになる(データは国勢調査による)。

国勢調査実施年月日 人口
(単位:人)
増減数
(単位:人)
増減率
(単位:%)
備考
1955年(昭和30年)10月1日 8,901 −92 −1.02 1950年(昭和25年)10月1日実施の国勢調査によると西伯郡西伯町に相当する区域、すなわち当時の西伯郡天津・大国・上長田・東長田・法勝寺各村の合計人口は8,993人。増減数と増減率は1950年(昭和25年)10月1日実施の国勢調査による西伯郡西伯町に相当する区域の人口との比較である。
1960年(昭和35年)10月1日 8,454 −447 −5.02
1965年(昭和40年)10月1日 7,778 −676 −8.00
1970年(昭和45年)10月1日 7,353 −425 −5.46

 1955年(昭和30年)から1970年(昭和45年)までのわずか15年間で1,500人以上も人口が減ったことや1955年(昭和30年)以降人口減少が加速したことが上表からうかがえるのだが、特に深刻だったのは山間部の過疎化であった。そこで企図されたのが小学校の統合であった。「過疎化の著しい地域の小学校だけを統合対象とすべきだ」とか「大勢の中で揉まれたほうが他人に対する思いやりや協調性を育むのに効果があるし多くの人数を必要とするクラブ活動も可能になる。財政の効率化から考えても町内の小学校を一つにまとめたほうが良い」といった意見が出た中で導き出された結論は町内の小学校を一つに統合することであった。西伯郡西伯町は中学校については西伯郡西伯町発足時点で西伯町立法勝寺中学校(現:南部町立法勝寺中学校〔西伯郡南部町馬場〕)に統合されており、そのことも町内の小学校を一つに統合することを後押ししたとも考えられる(つまり統合により発足した小学校の卒業生は原則として西伯町立法勝寺中学校へ進学することになるというわけであるが、教職員はともかく生徒の顔触れはほぼ同じなので新鮮味を感じられなくなるのではないかと思うのは私だけであろうか)。
 無論天津地区にある西伯町立天津小学校(西伯郡西伯町福成)もその対象の一つであった。「米子市と境を接し、米子市のベッドタウンになって児童数が増加する可能性があるのに統合の対象に入れるとは何事か」とか「地域の象徴を奪うなんて到底認められない」という反対意見もあったが、結局は受け入れざるを得なかった。こうして1967年(昭和42年)春、西伯町立天津小学校は名目統合により100年近い歴史に終止符を打ち、西伯町立西伯小学校天津校舎と改称した。その後2年間は天津地区には小学校は残ったのだがそれも1969年(昭和44年)春の完全統合により廃校になった。西伯町立天津小学校改め西伯町立西伯小学校天津校舎在りし当時、西伯郡西伯町清水川に住んでいた小学生は鳥取県道254号清水川・福成線を通って小学校に通っていたのだが、小学校の廃校によりその流れは途絶えることになったのである。
 西伯郡西伯町内の小学校統合問題とほぼ同時に起きたのが米子市と西伯郡西伯町を西伯郡会見町経由で結ぶ日ノ丸自動車電車部法勝寺鉄道の廃止問題であった。前にも書いたように起点となる米子市駅はJR山陰本線・境線米子駅の東側にあり、米子市中心部から離れたところにあったことや米子市中心部の南方にある丘陵地帯を避けて敷設したこと、西伯郡会見町役場のある天万などの人口集中地帯を経由させて敷設したこと、運転本数は多くはなかったこと、列車はそんなに速くはなかったことなどから利便性は必ずしも良かったとは言えなかったのだが、それに加えて米子市中心部と西伯郡西伯町中心部をほぼまっすぐに結んでいる主要地方道米子・石見・新見線の改良が進んだことと路線バスが設定されたこと、過疎化が進んだことで利用者が減ってしまったのである。そもそもこの日ノ丸自動車電車部法勝寺鉄道は1924年(大正13年)に開業した時から下表に示すように社名の変更が何度も行われ、路線の改廃も目まぐるしい鉄道であった。社名の変更と路線の改廃には第二次世界大戦の影響もあったのだが、それを差し引いて考えてもどれだけ経営が厳しかったかがうかがえよう。

年月日 記事 備考
1924年(大正13年)7月8日 米子町〜大袋間が開業する。 当時の社名は法勝寺鉄道。
米子町駅は西伯郡米子町が市制施行して米子市に移行した頃(1927年〔昭和2年〕)に米子市駅に改称。
1924年(大正13年)8月12日 大袋〜法勝寺間が開業する。
1925年(大正14年)2月12日 法勝寺鉄道が伯陽電鉄に改称する。 鳥取県西部の旧国名・伯耆と山陽地方(岡山県か広島県かは不明)を結ぶという意味を込めたものと思われるが、人口が少ない地域を通過することや地形的に建設が困難だったことから実現する可能性は皆無に等しかった。
1930年(昭和5年)1月1日 阿賀〜母里間が開業する。 母里は島根県安来市伯太地区の中心部。元々安来市方面との交流が盛んだったことや米子市と母里を結ぶのに遠回りだったことから開業当初から利用は低迷した。
1944年(昭和19年)1月10日 阿賀〜母里間が不要不急路線に指定され、休止に追い込まれる。 元々利用が少なかった路線だったため第二次世界大戦終結後も再興されることはなく、結局1959年(昭和34年)9月17日に正式に廃止された。
1944年(昭和19年)10月31日 島根県の広瀬鉄道と統合して山陰中央鉄道に改称する。
1948年(昭和23年)4月1日 広瀬線が島根鉄道として独立する。 島根鉄道は1954年(昭和29年)12月1日に一畑電気鉄道(現:一畑電車〔出雲市平田町〕)に吸収合併され、一畑電気鉄道広瀬線に改称するが利用者の減少と施設の老朽化により1960年(昭和35年)6月20日に廃止された。
1953年(昭和28年)9月15日 バス業者の日ノ丸自動車(鳥取市古海)に吸収合併されたため日ノ丸自動車電車部法勝寺鉄道に改称する。

 多くの地方に路線を持つ鉄道会社は路線バスも運行し、二本立ての経営を進めていたのだが、鉄道は自由自在に路線が設定できないことや駅から遠いと利用しない傾向が高まること、乗り換えの不便が生じること、維持費がかかることなどから不採算部門と見なされ、会社の経営が苦しくなると切り捨てられる運命にあった。殊に高度経済成長により若年者を中心とした人口流出が著しくなった地方ではその傾向が強かった。そして日ノ丸自動車は鉄道部門からの撤退を決断した。「地域の足を奪うな」とか「勝手に決めるな」とか「現地に来て実情を見るべきだ。遠い土地にある本社の会議室で全てを決めるな」というような反対の声もあったが結局1967年(昭和42年)5月15日、日ノ丸自動車電車部法勝寺鉄道は43年間の歴史に終止符を打ったのである。なお、日ノ丸自動車電車部法勝寺鉄道は名称からもうかがえるように電化されていたのだが、鳥取県唯一の電化路線であった日ノ丸自動車電車部法勝寺鉄道の廃止により鳥取県では電車の走る鉄道路線はなくなり、中国地方で唯一電車の走る鉄道路線のない県になった(その後1982年〔昭和57年〕7月1日にJR伯備線の全線とJR山陰本線・伯耆大山〜西出雲間が電化されたことでそれは解消された)。
 小学校の統合と沿線に存在した鉄道路線の駅の消滅により
鳥取県道254号清水川・福成線は前身路線の鳥取県道197号福成・天津停車場線が認定されてから20年で存在意義の大半を喪失することになってしまった。それでも県道として存続できたのは島根県道103号/鳥取県道16号伯太・岸本線と鳥取県道244号福成・戸上・米子線を結ぶいわゆる橋渡し路線としての機能があったからであるが、交通量は多いとは言えなかった。そのため道路改良はほとんど行われず、わずかに1969年(昭和44年)に法勝寺川にかかる天津橋の前後の上下2車線化が行われただけであった(注13)。この改良が完成した頃から(このように表現して良いのかどうかは分からないのだが)鳥取県道254号清水川・福成線の傍目に見れば不遇な後半生が始まったのである。

 

鳥取県道254号清水川・福成線の写真(左:起点側/右:終点側)。よく見ると写真中央部の盛り上がったところだけ道幅が広くなっていることが分かる。

運命を大きく変えた国道180号線の経路変更

 岡山市と米子市を結ぶ経路は新見市以北で三つに分かれる。その三つの経路は次の通りである。
Aルート:新見市中心部から高梁川支流の西川に沿って進み、谷田峠(たんだだわ)で岡山・鳥取県境を越え、日野郡日南町の中心部を通り過ぎた後ほぼまっすぐに米子市を目指す。
Bルート:新見市中心部から高梁川支流の西川に沿って進み、谷田峠で岡山・鳥取県境を越え、日野川とその支流の石見川に沿って米子市を目指す。
Cルート:新見市中心部から高梁川に沿って進み、明地峠で岡山・鳥取県境を越え、日野川に沿って米子市を目指す。
 1969年(昭和44年)時点の名称で記せばAルートは主要地方道米子・石見・新見線、Bルートは国鉄伯備線または主要地方道米子・石見・新見線→国道183号線→国道180号線、Cルートは国道180号線となる。下表に示すようにどの経路にも一長一短があった。

経路名 長所 短所
Aルート ・新見〜米子間の最短経路である。
・日野郡日南町生山で広島県からの交通路(国道183号線)と合流するため日野郡日南町生山以北では岡山市と米子市を結ぶ最短経路になるだけでなく広島市と米子市を結ぶ最短経路にもなり得る。
・岡山・鳥取県境の谷田峠、日野郡・西伯郡境の五輪峠と二度も山越えをしなければならない。
・特に岡山県側は谷底を通っているところが多く、改良が難しい。
・主要地方道であるが故に改良が進んでいない。
・途中中心部を通る自治体は岡山県側では阿哲郡神郷町(1955〜2005)、鳥取県側では日野郡日南町と西伯郡西伯町しかない。
Bルート ・川沿いに進み、峠越えは谷田峠だけで済んでいるため鉄道敷設には最適な経路である。
・岡山県側では阿哲郡神郷町、鳥取県側では日野郡日南町・日野郡日野町・日野郡江府町・日野郡溝口町・西伯郡岸本町の中心部を通る。
・1969年(昭和44年)当時三つの経路の中で唯一曲がりなりにも使い物になっていた。
・屈曲を多く入れざるを得ず、優等列車を設定したとしても速く走れない。
・鉄道敷設には最適だが途中でAルートからCルートに移動する経路をとるため結果三つの経路で最も遠回りになる。
・主要地方道部分の改良が遅れている。
Cルート ・岡山県側は新見市しか通過市町村がないが、鳥取県側は日野郡日野町・日野郡江府町・日野郡溝口町・西伯郡岸本町の中心部を通る。
・日野郡日野町高尾(こお)で津山方面からの国道181号線と合流するため交通量が多くなる。
・改良は鳥取県側を中心に進みつつあった。
・改良が遅々として進んでいない。
・岡山・鳥取県境の明地峠の標高が高い。
・明地峠の前後で国道180号線は途切れており、交通路としては使い物になっていない。
・明地峠の鳥取県側は短い距離で下らざるを得ないために急な屈曲を入れざるを得ない。

 この三通りの経路の中で道路として最も重要視されたのはCルートである。まだ通行不能区間が解消されていなかったとはいえ、岡山市と松江市を結ぶ幹線道路でありながら一級国道に昇格できず、そのほとんどが県管理だった(注14)とはいえ、まだ改良が進んでいなかったとはいえ国道路線になっているからであるが、1960年代末期になると明地峠の前後に存在する通行不能箇所の解消が進められるようになった。更に中国横断自動車道岡山・米子線が日野郡江府町以北で並行することが決まったことや日野郡日野町以北で並行する国鉄伯備線に特急列車が設定され(注15)、更に改良(全線の電化と一部区間の複線化)が計画されたことでどんどん株を上げていくことになった。
 その動きに焦りを感じ始めたのが西伯郡西伯町である。米子市と境を接する福成地区に米子ニュータウンという名称の大規模団地を造成したことなどで人口は増加に転じたものの町内を南北に貫く幹線道路である主要地方道米子・石見・新見線の整備は山間部で進まず、岡山・広島両県と米子市を結ぶ幹線道路としては十分であるとは言えなかった。既に触れたように鉄道路線はなくなっており、B・C両ルートの上にある自治体との格差は開く一方であった。
 そこで西伯郡西伯町は主要地方道米子・石見・新見線の国道昇格を要望していくことになったのだが、1974年(昭和49年)11月12日政令第364号に基づいて1975年(昭和50年)4月1日に実施された国道再編でそれは成就した。しかし、それは意外なものであった。国道180号線のうちの日野郡日野町根雨〜米子市糀町二丁目間の経路を日野郡江府町・日野郡溝口町・西伯郡岸本町経由から日野郡日野町黒坂地区・日野郡日南町菅沢・西伯郡西伯町経由に変更するというものであった。恐らく多くの方が鳥取県西南部の道路地図を見た時「何で国道180号線はこんな経路をとっているのか。理解に苦しむ」と思うことであろうが、なぜこのようになったのか。私は次のように考えている。
・新見市上市〜米子市糀町二丁目間の国道180号線を新見市千屋地区・日野郡日野町根雨地区・日野郡江府町・日野郡溝口町・西伯郡岸本町経由から阿哲郡神郷町・日野郡日南町・西伯郡西伯町経由に変更すると1974年(昭和49年)12月3日にようやく開通した明地トンネル及びその前後の区間の改良が滞る恐れがあったこと。
・新見市上市〜米子市糀町二丁目間の国道180号線を新見市千屋地区・日野郡日野町根雨地区・日野郡江府町・日野郡溝口町・西伯郡岸本町経由から阿哲郡神郷町・日野郡日南町・西伯郡西伯町経由に変更し、なおかつ新見市と福山市を結ぶ路線である国道182号線を新見市千屋地区・日野郡日野町根雨地区・日野郡江府町・日野郡溝口町・西伯郡岸本町を経由して福山市と米子市を結ぶ路線に再編した場合、短い距離を隔ててどちらも岡山県または鳥取県が管理する国道路線が並行するのはどうかという意見があったこと(更に福山市と鳥取県を岡山県経由で結ぶ国道路線が複数できる結果になること(注16)も問題視されたものと思われる)。
・1975年(昭和50年)頃は高度経済成長が第一次石油危機(1973年〔昭和48年〕)を契機に終焉を迎えた頃であり、国道180号線の経路を改良に多額の費用がかかるAルートに全て変更することは困難だったこと。
・国道183号線の日野郡日野町福長以北の経路を日野郡日野町根雨地区・日野郡江府町・日野郡溝口町・西伯郡岸本町経由から日野郡日南町菅沢・西伯郡西伯町経由に変更することも考えられない話ではなかったが、その場合県道になる可能性が高い日野郡日野町福長〜日野郡日野町根雨間の国道183号線だった道の改良が滞る恐れがあったこと。
・Aルートの沿線には賀祥ダム(西伯郡南部町下中谷)、Cルートの沿線には千屋ダム(新見市菅生〔すごう〕)の計画がそれぞれあったこと。
・(もし国道180号線が米子市で終点だったら考えられなかったかもしれないのだが)「山陰の大阪」と称されるほど商業が盛んで交通の要衝であるが故に交通量が多い米子市中心部を通らないで西伯郡西伯町方面と安来市方面を結ぶ道路が必要という声が高まっていたこと。
・1975年(昭和50年)当時、米子市中心部の渋滞解消を目的として米子市中心部の南方で国道9号線米子バイパスの建設が進められていたが、主要地方道米子・石見・新見線改め国道180号線との接続は地形的な問題から見送られており、国道9号線米子バイパスと接続する道路が必要という声が高まっていたこと(そうしないと西伯郡西伯町方面と西伯郡大山町方面の往来も円滑にできなくなる)。
・1974年(昭和49年)3月30日鳥取県告示第273号で鳥取県道300号米子環状線が認定されたのだが、米子市中心部に集中する交通を捌く機能を有するほどになるにはかなりの時間がかかる恐れがあったこと。
・頻繁に通る方や地域住民ならともかく、地理に不案内な方はいくら案内標識が整備されていたとしても主要地方道や一般都道府県道、市町村道よりも国道を信用する傾向があったこと。
・日野郡日野町根雨以北については国道180号線が通らなくなった後も国道181号線が通ることになるため整備は引き続き積極的に行われることになっていたこと。
 真相は不明であるが、いずれにせよ当時の状況が不可解な経路を生み出したことは間違いないであろう。
 それはさておき、西伯郡西伯町を南北に貫く道が国道180号線になった後、整備は一段と進んだ。有名な巨根(おおね)橋(日野郡日南町菅沢)もその一環で整備されたものである(注17)。しかし、前記の問題に加えて米子ニュータウンの造成などによる交通量の増加や道路規格の低さ(上下2車線で整備されていても歩道がなかったり狭い感じを通行者に抱かれたりするような状況を指す)などが今度は問題になってきた。そこで西伯郡西伯町阿賀〜米子市陰田町間のバイパス計画が本格的に浮上してきたのである。それが西伯郡西伯町天津地区を通る県道路線の命運を握ることになるとは当時誰も考えなかったことであろう。

冷遇

 中国地方の他の県では1972年(昭和47年)に登場した県道標識(正式名称は都道府県道番号)であるが、鳥取県だけはなぜか他の中国地方各県と同調せず、主要地方道・一般県道とも1号から路線番号を付ける方式を貫いていた。しかし、他県から鳥取県に来た方々は鳥取県内の県道路線に県道標識がないことや案内標識に県道番号の記載がないことをどうかと感じていたようである。考えてみれば鳥取県と境を接する県、すなわち兵庫県・島根県・岡山県・広島県は下表の通り1972年(昭和47年)までに現行の県道番号体系に移行していたから鳥取県だけ孤立するのはいかがなものかという声が上がっていたのであろう。もっとも、県道標識を設置しないでいた都道府県は鳥取県だけではなかったのだが…(注18)

県名 状況 備考
兵庫県 1966年(昭和41年)2月15日に現行の県道番号体系に変更され、そのまま県道標識導入に至った。 1966年(昭和41年)2月15日兵庫県告示第150号・第153号により認定された鳥取県または岡山県に跨る県道路線について廃止または路線番号統一(1994年〔平成6年〕実施。但し兵庫県はそのことを告示していない)まで同じ路線番号を使い続けていたことから1966年(昭和41年)2月15日に現行の県道番号体系になったと判断した。
島根県 1972年(昭和47年)8月1日に現行の県道番号体系に変更された。 1972年(昭和47年)8月1日島根県告示第595号(島根県道200号仁万停車場線など6路線の認定)・第596号(島根県道24号松江・木次線と島根県道/山口県道126号益田・阿武線〔現:島根県道/山口県道14号益田・阿武線〕の起点変更)による。なお、1972年(昭和47年)8月1日島根県告示第596号で益田・阿武線の起点変更前の路線番号が山口県で使用されていたもの(38。島根県側は33)を記していたことから山口県と一緒に県道番号変更を実施した可能性がある。
岡山県 1972年(昭和47年)11月1日に現行の県道番号体系に変更されたものと思われる。 広島県道/岡山県道102号下御領・井原線の認定(1972年〔昭和47年〕11月24日岡山県告示第1,192号及び広島県告示第983号による)が契機になったものと思われる(注19)。そのため私としては変更時期は広島県と合わせたのではないかと考えている。
広島県 1972年(昭和47年)11月1日に現行の県道番号体系に変更された。 「国・県道路線一覧表」に1972年(昭和47年)11月1日に路線番号変更を行った旨の記述がある。

 ようやく鳥取県が県道路線の路線番号を主要地方道路線については1号から、一般県道路線については101号からそれぞれ付けるように改正したのは1982年(昭和57年)9月10日のことであった。更にその約2年後の1984年(昭和59年)8月31日鳥取県告示第645号で県道標識導入前、すなわち1955〜1982年(昭和30〜57年)に認定された県道路線の告示変更が実施され、現行の県道番号体系が発足したのである。なぜ告示する必要があったのか、はっきりしたことは分からないのだが、鳥取県は例規に「県道の路線認定」を収録していること(公式サイトで閲覧可能。但し一部にデータの誤りがある)や周知期間を置きたかったことが考えられる。
 鳥取県道254号清水川・福成線も記すまでもなくその対象になり、鳥取県道173号清水川・福成線から改称したわけであるが、鳥取県道254号清水川・福成線への鳥取県の対応は冷たかった。県道番号再編当時設置した路線識別手段は一つだけ、島根県道103号/鳥取県道16号伯太・岸本線改め鳥取県道/島根県道1号溝口・伯太線伯太方面用の案内標識だけであった。つまり、鳥取県道/島根県道1号溝口・伯太線を天万方面から走ってきた場合だけ鳥取県西部広域行政管理組合消防局米子消防署南部出張所(西伯郡南部町清水川)を過ぎてすぐのところで右に分岐する道が鳥取県道254号であることを認識できただけであり、鳥取県道/島根県道1号溝口・伯太線を国道180号線方面から走ってきた場合と終点で接続する鳥取県道244号福成・戸上・米子線を国道180号線方面から走ってきた場合、国道181号線方面から走ってきた場合については鳥取県道254号の存在を知ることはできなかったのである。

鳥取県道254号の存在を知ることのできる唯一の案内標識。夜間の視認性向上を目的として反射材入りの矢印を取り付けたため設置当初のものではない。

 

鳥取県道254号清水川・福成線にある鳥取県管理の道路であることを示す数少ない物件

鳥取県道254号清水川・福成線の終点。接続する鳥取県道244号福成・戸上・米子線のどこにも鳥取県道254号の存在を示すものはない。

 なぜ鳥取県はこのような仕打ちをしたのか。交通量が少ないこともあるのだが、起点で接続する鳥取県道/島根県道1号溝口・伯太線と終点で接続する鳥取県道244号福成・戸上・米子線の視点で考えた場合下表に示すように広域的に考えれば有用な路線ではないことが大きかったものと思われる。つまり、積極的な案内をしないことで地理に不案内な方が鳥取県道254号清水川・福成線に入り込まないようにしようとしたのである。

場合 状況
鳥取県道/島根県道1号溝口・伯太線溝口・天万方面と
鳥取県道244号福成・戸上・米子線国道180号線方面の往来
国道180号線米子市中心部方面と鳥取県道/島根県道1号溝口・伯太線溝口・天万方面を往来する場合の最短経路ではあるが西伯郡会見町と米子市中心部を往来する場合は鳥取県道316号米子・岸本線を通るのが普通であり、まず通ろうとは考えない。米子市南部地区と鳥取県道/島根県道1号溝口・伯太線溝口・天万方面を往来する場合を考えてもそれほど需要があるわけではなく、結局広域的な需要はない。
鳥取県道/島根県道1号溝口・伯太線溝口・天万方面と
鳥取県道244号福成・戸上・米子線国道181号線方面の往来
遠回りになるため需要はない。
鳥取県道/島根県道1号溝口・伯太線国道180号線方面と
鳥取県道244号福成・戸上・米子線国道180号線方面の往来
遠回りになるため需要はない。
鳥取県道/島根県道1号溝口・伯太線国道180号線方面と
鳥取県道244号福成・戸上・米子線国道181号線方面の往来
遠回りになるため需要はない。

 鳥取県にはある地域と幹線道路、または幹線道路と幹線道路を結ぶいわゆる橋渡し路線(他には国道53号線〔国道373号線重用〕と鳥取市河原町八日市を結ぶ鳥取県道232号八日市・釜口線や鳥取県道21号鳥取・鹿野・倉吉線と鳥取県道205号木地山・倉吉線を結ぶ鳥取県道235号本泉・大瀬線がある)がいくつも存在するのだが、最も微妙な立場に置かれたのがこの鳥取県道254号清水川・福成線であった。(私の主張・考えではないことをあらかじめお断りしておくが)路線識別手段がほとんどないことや交通量が少ないこと、田園地帯をまっすぐに貫く道であることを見て「単なる農道でしかない」とか「農耕車しか通らない道」とか「県道にしておく意味はない。西伯郡西伯町に移管させ、県道としての認定を解くべき」と揶揄する方も少なくなかった。一方では「せっかく鳥取県が管理している道なのだから県道標識ぐらいは設置すべき」というような、鳥取県の無責任を批判する意見もあった。私としてはせっかくの県道である以上責任を示し、責任を完遂するためにも県道標識ぐらいは設置すべきであるし、何らかの活用策を考えるべきだったと思うのだが、鳥取県がそれらのことを全く考えなかったのは何らかの契機があったら西伯郡西伯町→西伯郡南部町に移管させようという思惑があったからではないのだろうか。今にして思えばそういう気がするのである。

ある新聞記事とその予兆

 2006年(平成18年)6月3日付中国新聞朝刊で鳥取県が山陰自動車道の県内区間全線開通を契機に国道9号線を山陰自動車道に移行させる考えがあることとそれまでの国道9号線を県道(無論一般県道路線になる)に移行させること、それで管理費用が増大するために既存の県道路線を整理する考えがあることが報じられた。鳥取県では中国新聞は全くと言って良いほど出回ってはおらず(注20)、反対に鳥取県で出回っている地方紙、すなわち日本海新聞と山陰中央新報ではこの件は全く報じられていない(私の調査不十分の可能性もあるが…)ので鳥取県に居住している方でそういう話があることを知っている方がどのくらいいるかははっきりしないのだが、少なくとも中国新聞を購読している道路マニアには衝撃を与えたニュースとなった。
 都道府県の財政事情が厳しくなれば都道府県道路線の新規認定は見送るし、通過市町村への移管を進めようとする。それは中国地方各県でも既に見られていた。山口県では1994〜1995年(平成6〜7年)に鉄道の駅を起終点とする県道路線を23路線(注21)も廃止し、そのほとんどを通過市町村に移管したし、深刻な財政難に陥ったことが大きく報じられた岡山県では1996年(平成8年)を最後に県道路線の新規認定を見送っている(注22)。そして鳥取県でもある動きが起きていた。
 例えば鳥取県の南西端にある日野郡日南町の中心部と鳥取県西部の中心都市である米子市を自動車で往来しようとした場合、国道180号線米子バイパス(2004年〔平成16年〕12月21日全線開通)や国道183号線生山道路(2005年〔平成17年〕7月26日全線開通)が全線開通する前は国道183号線と国道180号線だけを走れば良かった。しかし、国道180号線米子バイパスの全線開通に伴う旧道処分(2005年〔平成17年〕10月18日鳥取県告示第785〜788号)や国道183号線生山道路の全線開通に伴う旧道処分(2006年〔平成18年〕3月31日鳥取県告示第232号・第233号・第236号)で例えば日野郡日南町役場(日野郡日南町霞)とJR山陰本線・境線米子駅を往来する場合、経由する道路に市町村道が挟み込まれることになったのである。つまり、岡山県道/鳥取県道8号新見・日南線→鳥取県道223号生山停車場線→日南町道→日野町道→国道183号線→国道180号線→米子市道→鳥取県道/島根県道102号米子・広瀬線となったわけである。国道180号線の米子市道になった区間(米子市吉谷〜米子市古市間)にしても、国道183号線の日南町道・日野町道になった区間(日野郡日南町生山〜日野郡日野町福長間)にしてもいくら並行してバイパスが建設・開通したとしてもいささかも重要性は減じるわけでもないのに県道路線に再編されなかったのである。「ある自治体の中心部から地域の中心都市に行く時に市町村道を通らざるを得ないところはどこにでもある。重箱の隅を突くようなことは言うべきではない」という意見もあるところであるが、この二つの旧道処分が鳥取県のこれ以上県道路線の認定は行わないという意思表示であり、県道路線の整理を行うという予告編だったと解釈できるのではないのだろうか。ただ、市町村道に移管した部分は広域的に考えた場合、広島県と米子市中心部を一般道路経由で往来する場合通るところでもあり、その点に対する配慮がないことが私にはどうかと思うのだが…。
 それから数年間は何の変動もなく、さすがに沿線住民や通過自治体が難色を示したから話は自然消滅したのだろうと思っていた。ところが、2009年(平成21年)以降今回の鳥取県道254号清水川・福成線を含めて4路線(下表参照)が廃止され、通過自治体に移管された。その一方で新規に認定された県道路線は鳥取県道326号大山スマートインター線(2009年〔平成21年〕11月10日鳥取県告示第679号により認定。2011年〔平成23年〕3月1日鳥取県告示第104号で鳥取県道326号大山高原スマートインター線に改称)だけである(注23)。鳥取県の構想は現実のものとなったのである。

廃止年月日/
告示番号
廃止路線名称 通過自治体 備考
2009年(平成21年)12月1日
鳥取県告示第712号
鳥取県道180号伯耆溝口停車場線
鳥取県道222号岸本停車場線
西伯郡伯耆町 鳥取県道326号大山スマートインター線認定の見返りとしての廃止(西伯郡伯耆町への移管)とする説もある。
2012年(平成24年)7月10日
鳥取県告示第499号
鳥取県道272号智頭停車場線 八頭郡智頭町 鳥取県内にある鉄道路線の分岐駅を起終点とする県道路線として初の廃止→通過自治体への移管路線となった。
2014年(平成26年)3月31日
鳥取県告示第231号
鳥取県道254号清水川・福成線 西伯郡南部町 初めて○○停車場線以外の県道路線が整理対象になった。

 一方で鳥取県を東西に結ぶ高速道路の建設も進み、2013年(平成25年)12月21日には大栄東伯インターチェンジ(東伯郡琴浦町槻下)〜島根県境間の山陰自動車道が一本の道に繋がった。しかし、今のところ東伯郡琴浦町槻下〜米子市陰田町間の国道9号線現道を一般県道路線に移行させるための議案は鳥取県議会には提出されていない。現在のところ鳥取西インターチェンジ(鳥取市嶋)〜青谷インターチェンジ(鳥取市青谷町青谷)間とはわいインターチェンジ(東伯郡湯梨浜町はわい長瀬)〜大栄東伯インターチェンジ間の開通予定時期が確定しておらず、いつ国道9号線のバイパスとして建設されている山陰自動車道の鳥取県内区間が全線開通するかはっきりしたことは分かっていないのだが、今後どういう動きがあるのだろうか。

あまりにも露骨な細工

 2004年(平成16年)12月21日、国道180号線米子バイパスが全線開通し、西伯郡南部町方面と西伯郡大山町方面または安来市方面の往来が楽になった。しかし、国道180号線を西伯郡南部町方面から進んできて国道180号線米子バイパスに入る場合、一旦右折して200mほど進み、今度は左折して国道180号線現道(2005年〔平成17年〕10月18日鳥取県告示第785〜788号により米子市に移管し米子市道に再編)を跨ぐという手順をとることから国道180号線米子バイパスには南進構想があることに気付く人は少なくなかった。まあ西伯郡南部町方面と直接接続する格好にならなかったことや国道180号線現道を跨ぐ橋が建設されていたことを目にした方は「国道180号線米子バイパスは米子市吉谷で完結ではなく、南進させるつもりなのだろう」と開通前から気付いていたのだろうが、案の定国道180号線米子バイパスは南進されることになった。それが国道180号線南部バイパスである。
 西伯郡南部町方面と西伯郡大山町方面または安来市方面の往来を更に円滑にするために、米子ニュータウンの造成などによる人口の増加で頻発した渋滞を解消するために、早い時期に改良されたために生じた規格の低い箇所を回避するために、沿線住民の安全を確保するために南進、すなわち国道180号線南部バイパスが企図されたわけであるが、問題はその経路である。西伯郡南部町阿賀〜米子市吉谷間を東に大きく迂回する格好で計画されることになった(理由としては用地が確保しにくかったことや狭隘箇所が残る鳥取県道/島根県道1号溝口・伯太線のバイパス機能も持たせたかったことが考えられる)のだが、国道180号線南部バイパスと並行する鳥取県道/島根県道1号溝口・伯太線、国道180号線南部バイパスと途中で交差する鳥取県道244号福成・戸上・米子線と鳥取県道254号清水川・福成線には国道180号線南部バイパスの全線開通後下表に記すような影響が出る可能性があった。

路線名称 考えられる影響
鳥取県道/島根県道1号溝口・伯太線 ・国道180号線南部バイパスと並行する区間、すなわち西伯郡南部町清水川〜西伯郡南部町阿賀間について経路が変更され、国道180号線と重用することになる。
・もし国道180号線南部バイパスと並行する区間について経路を変更しなかった場合は改良されないままになる。恐らく通行を推奨しない旨の注意書きが案内標識に施されることになる。
鳥取県道244号福成・戸上・米子線 ・国道180号線南部バイパスとの交点は西伯郡南部町境になるため起点を国道180号線南部バイパスとの交点にした場合は路線名称変更の必要が生じる。
・西伯郡南部町阿賀〜米子市吉谷間の国道180号線現道が県道路線に再編されるのであれば路線名称及び区間の変更はない。
・西伯郡南部町阿賀〜米子市吉谷間の国道180号線現道のうち西伯郡南部町及び米子市に移管される区間が西伯郡南部町福成〜米子市吉谷間だけだった場合は西伯郡南部町阿賀〜西伯郡南部町福成間を引き取らざるを得なくなるので路線名称変更の必要が生じる。
鳥取県道254号清水川・福成線 ・西伯郡南部町阿賀〜米子市吉谷間の国道180号線現道が県道路線に再編されるのであれば路線名称及び区間の変更はない。
・西伯郡南部町阿賀〜米子市吉谷間の国道180号線現道のうち西伯郡南部町福成〜米子市吉谷間を引き取って路線を延伸した場合路線名称の必要が生じる。
・1960年代末期までに存在意義の大半を喪失していることや交通量が少ないこと、広域的に考えて有用とは言い難いことから西伯郡南部町への移管が検討されるようになる。

 いずれにせよ西伯郡南部町天津地区を通る県道路線のうち鳥取県道244号福成・戸上・米子線と鳥取県道254号清水川・福成線の運命は国道180号線南部バイパス全線開通後の国道180号線現道の旧道処分次第となったのである。まあ米子市吉谷〜米子市古市間の国道180号線現道が国道180号線米子バイパスが全線開通した後に県道路線にならず、米子市に移管されたことを思えば国道180号線南部バイパス全線開通後の鳥取県道244号福成・戸上・米子線と鳥取県道254号清水川・福成線の運命は既に決まっていたようなものであるのだが…。
 そして2011年(平成23年)6月29日に国道180号線南部バイパスのうち西伯郡南部町阿賀〜西伯郡南部町清水川間が部分開通した。私が国道180号線南部バイパスの部分開通区間の終点を訪れたのはそれから1ヶ月ほど経った2011年(平成23年)8月5日のことであるのだが、現地の案内標識を見て驚愕させられた。何があったのか、まずは下の写真でご覧頂きたい。

 

鳥取県道/島根県道1号溝口・伯太線伯太方面用案内標識(左)とその拡大写真(右)

 

鳥取県道/島根県道1号溝口・伯太線伯太方面用案内予告標識(左)とその拡大写真(右)

 

国道180号線南部バイパス米子方面用案内標識(左)とその拡大写真(右)

 どの案内標識も「254」の部分が取り外せるようになっていることに気付いたのではないのだろうか。まあ標識製作業者が誤ってしまい、後で「254」の部分を取り付けたとも考えられるのだが、問題は国道180号線南部バイパス米子方面の行き先が同じように取り付けた青色の板で伏せられていることである。恐らく「米子」または「米子市街」と「山陰道」と書かれてあったのを未開通ということで伏せたのだろうが、私はこの案内標識を見て鳥取県は国道180号線南部バイパスの全線開通後に鳥取県道254号清水川・福成線を廃止して西伯郡南部町に移管させる考えがあることを確信したのである。ただ、前にも記したように業者の誤りである可能性があったことや沿線住民の感情を害したくないこと、不確実なことは書きたくなかったこと、いつ起きることかはっきりしなかったことなどからこれまで一切公にしないできたのである(目にした方は少なくないとは思うのだが…)。
 鳥取県の考えは分からないわけではないのだが、私はこのやり方はあまりにも露骨すぎるし、鳥取県道254号清水川・福成線にしてみれば屈辱的な仕打ちでしかないと考えている。そのように思う理由は次の通りである。
・国道180号線南部バイパスの全線開通の時期は2013年度(平成25年度)とされており、実際そうなったが、もしかしたらよんどころない事情が起きて遅れるかもしれなかったこと。
・例えば広島県では「国・県道路線一覧表」で路線再編などの事情により近い将来廃止する予定の県道路線については「備考」欄に「廃止予定」と記載していたが、「国・県道路線一覧表」を一般市民が自由に閲覧できるのは広島県庁(広島市中区基町)の南館1階にある行政情報コーナーか広島県立図書館(広島市中区千田町三丁目)ぐらいのものであり、多くの人の目に触れるものではなかったこと(注24)。ここまで大っぴらに廃止予定であることをさらしたのは鳥取県道254号清水川・福成線が初めてである。
・県道路線を廃止したり一部区間を通過市町村に移管したりするのであればその県道路線の路線番号が書かれている箇所を青色の板かシールで伏せれば良いだけであること。

市町村に移管された県道路線の路線番号をシールを貼って伏せた例(笠岡市入江。上段の矢印に消去痕があるのが見える)

・県道路線の廃止についてはその必要が生じた時まで公にすべきではないと考えていること。
 結局鳥取県道254号清水川・福成線は2014年(平成26年)3月31日鳥取県告示第231号によって廃止され、西伯郡南部町に移管されることになったわけであるが、前身の鳥取県道197号福成・天津停車場線時代からの65年間を考えた時、鳥取県道254号清水川・福成線は時代に翻弄され、そして管理者の鳥取県に冷遇された路線だったのではないかと考えたくなる。非常に辛いことばかりあったわけであるが、果たして今どのようにこの65年間を考えているのだろうか。

最後に

 今回一つの県道路線の認定から廃止までを書いてみたのだが、県道路線の奥深さを感じる一方で時代の波に翻弄され、管理者に冷遇される姿は悲しささえ感じたものであった。最近何かこういう県道路線が多いように感じるのだが、道路にも尊厳があると考えるようになったからか、それとも…。
 鳥取県道254号清水川・福成線を廃止に追い込んだのは鳥取県の方針にあったわけであるが、私は鳥取県の方針には賛成ではない。その理由は次の通りである。
・財政事情が良好な市町村が少ないことを分かっているはずなのに通過市町村に負担を押し付けようとしていること。
・整理対象の基準が不明確であること。
・存在意義が消滅した県道路線の市町村への移管に苦慮した経験(注25)があり、更に現在も存在意義が消滅した県道路線の市町村への移管に苦慮している状況(注26)があること。
・県道路線の整理や新規認定見送りは道路ネットワークの破壊に繋がる恐れがあること。
・このまま整理が推進されれば区域未決定路線や通行不能箇所を抱える路線、他県に跨る路線なのに相手の県が認定を拒んでいる路線なども対象になり、道路の奥深さや興味深さを損なう恐れがあること。
・国道9号線の山陰自動車道への移行は自動車優先の思想に立ったものであり、高齢化が他の地域より早く進んでいる県の考えることではないと思うこと。
・国道9号線は自動車だけのものではないと考えていること。
・ストロー効果(ストロー現象)の激化や凶悪犯罪の増加など高速道路の開通がもたらす負の側面への対策についても思いを巡らせるべきだと思うこと。
・国道2号線(第二神明道路→加古川バイパス→姫路バイパス→太子・竜野バイパスに並行する部分)や国道25号線(名阪国道に並行する部分)など、長距離の自動車専用道路が完成した今でも現道を別の国道路線や都道府県道路線に転用しないで残しているところが少なくないこと(注27)
・もし国道9号線を山陰自動車道に移行させたとすると国道9号線に起終点を置く国道路線や県道路線の再編も必要になり、かえって事務処理が煩雑になること。
・もし国道9号線を山陰自動車道に移行させたとするとラジオの交通情報では当分の間「県道○○・××線、元の国道9号線の△△交差点では…」と言わなければならなくなること(注28)
・山陰自動車道は国道路線のバイパスとして建設されているところが少なくないが、鳥取県と島根県はともかく、山口県では国道9号線が日本海・響灘沿岸を通らないこと(益田市から中国山地を横断して山口市に出て国道2号線と重用した後下関市郊外の長府地区から単独区間になり、終点に至る)から国道191号線や国道491号線のバイパスとして建設されているところ(注29)があり、将来山陰自動車道が一本の道に繋がった時に国道番号が複数あることで困惑する方が出る恐れがあること。
・都道府県道路線の整理に積極的なところ(私の知っている範囲では三重県と大阪府)がある一方で岡山県は深刻な財政難に陥っても1970年代に多数の市町村道を県道に昇格させた経緯があることや区画整理への支援の見返り措置として県道に認定したところがあること(注30)、通過市町村や沿線住民の感情に配慮しなければならないことなどから県道路線の整理には全く手を付けておらず、何とかすれば路線の現状維持は可能だと考えられること。
・都道府県道路線の新規認定見送りや通過市町村への移管でどれだけの費用が節約できるか全く不透明であること。
・「財政事情が厳しいので…」ということで都道府県道路線の新規認定を見送った結果、都道府県道になってもおかしくない道が都道府県道にならずじまいになるためその都道府県の姿勢を疑いたくなること。
・単なる厄介払いの姿勢を感じたくなること。
 ご承知の通り都道府県道路線の認定または廃止については都道府県議会での議決が必要になるため記すまでもなく政治的な問題も絡んでくるわけであるが、政治に全く関係しない人間である以上今後の動向は傍観する以外に方法はない。しかし、改善していく余地は多数あるのではないかと考えている。私が考えているものは次の通りである。
・県道路線の管理を市町村に移すことはできないだろうか。中国地方では新見市や三次市が市内で完結する一般県道路線の管理を県から引き継いでいる(注31)し、広島県では県道路線の管理の一部を市町が行うようにしている。
・もう少し道路に関する情報を積極的に公開することはできないだろうか。鳥取県が県道路線の整理を行う方針を持っていることを知っている鳥取県民がどのくらいいるのか全く分からないし、鳥取県で出回っている新聞ではなく鳥取県では全くといって良いほど購読する人のいない新聞で報じられてもどうにもならない。また、都道府県により公開内容に差があるのもどうかと思っている。
・都道府県道路線を管理する以上責任を完遂することはできないだろうか。広域的に有用ではない路線や○○停車場線のような短距離路線、通行に支障がある路線については案内がいい加減になる傾向があるが、だからといって差別や格差を付けて良いものではない。最低限案内標識に都道府県道番号を記入するとか路線方向表示を設置するとかもし通行に支障がある場合はその旨を記した標識(規制標識の「最大幅」や「高さ制限」、「重量制限」、「通行止め」などを付記したほうが望ましい)をその路線に入る前に見られるように設置するとか考えて欲しい。

福山市神辺町川南にある案内標識。神辺駅方面に延びる道も県道(広島県道214号神辺停車場線)なのに県道番号が記されていない。

 

笠岡市押撫にある案内標識(左:修正前/右:修正後)。右折後の道に狭隘箇所があるために修正を施したのだが通行上の不都合に関する説明がない。

広島県神石郡神石高原町草木にある案内標識。ただ「通行困難」とだけ書いたのではどういう通行上の支障があるのかが分からない。

島根県最短の県道路線である島根県道205号浅利停車場線の路線方向表示。JR山陰本線浅利駅(江津市浅利町)に通じる県道路線の存在がうかがえる。

島根県道218号八川停車場線全景。わずか24mの県道路線だがこういうところでも県道標識が設置されているのが嬉しい(但し地名表記は昔のままだが)。

山口市内の自動車通行不能区間にある県道標識。最初見た時は驚いたが著名な渓谷のそばを通るということで設置されたのだろう。

・県道路線の認定・廃止について県の公式サイトなどでなぜそのようにせざるを得なくなったのかを説明するようにし、一般市民から意見を募った上で県議会の議案にするかどうか決めるようにすることはできないだろうか。最近鳥取県以外でも例えば岡山県道195号神島(こうのしま)外港線の路線短縮(2011年〔平成23年〕3月11日岡山県告示第165号による(注32))や広島県道191号備後赤坂停車場線(1960〜2010)の廃止(2010年〔平成22年〕2月8日広島県告示第88号による(注33))、山口県道324号綾木・秋吉線(1974〜2011)の廃止(2011年〔平成23年〕5月27日山口県告示第230号による(注34))など理解に苦しむ整理が行われているが、なぜ廃止して通過市町村に移管せざるを得なくなったのかきちんと説明し、納得させる努力があっても良いのではないのだろうか。
・都道府県道路線の認定でかかる費用や都道府県道路線の整理で節約できる費用をおおよその数値で良いから明示できないだろうか。「財政事情が厳しいから県道路線を市町村に移管させる」とか「財政事情が厳しいから県道路線の新規認定は行わない」と言うが、具体的な数値は全くと言って良いほど語られない。守秘義務や機密事項の問題もあるのだろうが、具体的な数値がないと恣意的に整理をやっているとか面倒だから認定を見送っているのではないかと受け取られかねないのではないか。
・いくら財政事情が厳しいとしても広域的に必要だと思う路線については都道府県道に認定することはできないだろうか。例えば国道180号線南部・米子両バイパス開通に伴う旧道処分で西伯郡南部町と米子市に移管された西伯郡南部町阿賀〜米子市古市間や国道183号線生山道路開通に伴う旧道処分で日野郡日南町と日野郡日野町に移管された日野郡日南町生山〜日野郡日野町福長間は県道路線にしてもおかしくない。更にこれらの箇所が県道路線になれば広島県と米子市を往来する場合でも市町村道を通るという現状が解消され、広域的にも有用になる。「木を見て森を見ず」という発想は考え直すべきではないのだろうか。
・高速道路に国道番号を導入することはできないだろうか。既に全線が自動車専用道路の国道路線(注35)は登場しているし、全線が自動車専用道路の都道府県道路線でも都市高速道路を中心に路線番号が付けられているもの(注36)が少なくない。国道再編は日本の国土の広さや国の財政事情、人口動態を考えれば今後は行われない可能性が高いが、既に高速道路が道路交通の中核を担っていることや元々「高速自動車国道」と称していたこと、「○○自動車道」と呼称するのも良いが路線番号を付ければ更に簡素化され、外国人にも分かりやすくなることを考えれば高速道路への国道番号導入については検討されても良いのではないのだろうか。ただ、解決させなければならない問題は山ほどあるのだが…。
・道路は誰もが必ず使うものであるためありふれた存在となった感が否めないのだが、もう少し我々一般市民は道路に関心を持ってはどうであろうか。例えば利用の少ない鉄道路線やバス路線について「もう存在意義はないも同然」とか「運営している会社は早く廃止すべきだ」とインターネットで訴えたら「お前は何を考えているのか」とか「沿線住民のことを考えろ」とか「上から目線で物を見るな。お前は神様か」などと批判されるが、道路についても同じことが言える。更に特に道路の問題が大きく取り上げられるようになってからは民間テレビ放送局の総本山の地域の実情を蔑ろにした、いわゆる上から目線での問題の伝え方が気に障るようになっている。道路も鉄道路線やバス路線、航路と同じかけがえのない交通路なのだからもう少し関心を持って欲しいと考えている。
 鳥取県道254号清水川・福成線は存続させるべきだったのか、それとも廃止して西伯郡南部町に移管されるべきだったのか、それは私の判断することではない。しかし、ただ一つ言えることは時代の波に翻弄され、管理者の意向に振り回された路線の一つだったということである。こういう路線は他にもあることであろうが、今回この路線を取り上げたことで私は今後も道路の尊厳を考え、訴えていきたいという思いを新たにしているところである。
 最後になったが、この春から南部町道として新たなスタート地点に立った鳥取県道254号清水川・福成線だった道が今後も愛され、親しまれることを願ってやまない。

(注釈コーナー)

注1:私が小学生・中学生・高校生だった頃(おおよそ1980年代)は4月中旬に開催され、小学校の離任・退任式の場合、司会者の「会うは別れの始まりと申しますが…」という言葉で始まっていた。ところが、広島県の場合、現在では三学期の終業式を前にした3月22日頃に教職員の異動が発表されるようになったこと(私が小学生・中学生・高校生だった頃は三学期の終業式の後〔当初は3月28日頃だったがその後3月26日頃に繰り上がった。もっとも、私が小学校に入学する前は3月31日頃に発表されていた〕に発表されていた。なぜ発表時期が早くなったのかは全く分からない)から小学校・中学校の離任・退任式は三学期の終業式と同じ日(今年の場合は3月25日〔火曜日〕)に開催されるようになっている。

注2:各都道府県で路線番号(整理番号)が都道府県道路線の認定告示または廃止告示の際に付けられるようになったのは現行道路法が施行された1952年(昭和27年)12月5日以降である(少なくとも「鳥取県公報」や「岡山県公報」、「広島県報」を調べた結果そうであった)。しかし、1958年(昭和33年)9月12日鳥取県告示第423号で福成・伯耆大山停車場線と福成・天津停車場線が廃止された時はどちらも路線番号(整理番号)が付けられていたので便宜上廃止告示に記されていた路線番号(整理番号)が1949年(昭和24年)4月22日時点でも存在したと見なし、鳥取県道X号○○・××線と表記することにした。

注3:西伯郡天津・手間・法勝寺各村が発足した当時(1889年〔明治22年〕10月1日)の天津・手間・法勝寺各村の所属郡はいずれも会見郡だったが、1896年(明治29年)3月29日に会見・汗入(あせり)両郡が統合して西伯郡が発足した時に所属郡がいずれも西伯郡に変わった。

注4:1949年(昭和24年)4月22日鳥取県告示第196号で認定された路線は下表の通りである。

※路線番号は廃止時点のものを記している。

※起点及び終点で記している自治体の名称は1949年(昭和24年)4月22日時点のものである。

路線
番号
路線名称 読み方 起点 終点 備考
193 陸上・岩井線 くがみいわいせん 岩美郡東村 岩美郡岩井町
194 若桜・浜坂線 わかさはまさかせん 八頭郡若桜町 (兵庫県境)
195 栄・下北条停車場線 さかえしもほうじょうていしゃじょうせん 東伯郡栄村 東伯郡下北条村
196 束積・赤碕停車場線 つかづみあかさきていしゃじょうせん 東伯郡上中山村 東伯郡赤碕町
197 福成・天津停車場線 ふくなりあまつていしゃじょうせん 西伯郡天津村 西伯郡天津村
198 多里・新郷線 たりしんごうせん 日野郡多里村 (岡山県境)
199 後藤停車場・皆生線 ごとうていしゃじょうかいけせん 米子市 米子市
200 青木停車場・岸本線 あおきていしゃじょうきしもとせん 西伯郡尚徳村 西伯郡大幡村
201 河原停車場・佐貫線 かわはらていしゃじょうさぬきせん 八頭郡国中村 八頭郡散岐村
202 鷹狩・智頭線 たかがりちづせん 八頭郡大村 八頭郡智頭町
203 大山・御来屋停車場線 だいせんみくりやていしゃじょうせん 西伯郡大山村 西伯郡光徳村
204 大宮・多里線 おおみやたりせん 日野郡大宮村 日野郡多里村
205 倉吉・江尾線 くらよしえびせん 東伯郡倉吉町 日野郡江尾村
206 日光・溝口停車場線 にっこうみぞぐちていしゃじょうせん 日野郡日光村 日野郡溝口町 駅名は伯耆溝口駅。
207 国坂・上井停車場線 くにさかあげいていしゃじょうせん 東伯郡中北条村 東伯郡上井町
208 大山口停車場・妻木線 だいせんぐちていしゃじょうむきせん 西伯郡所子村 西伯郡高麗村
209 大高・淀江線 おおたかよどえせん 西伯郡大高村 西伯郡淀江町
210 阿毘縁・西比田線 あびれにしひだせん 日野郡阿毘縁村 (島根県境) 1951年(昭和26年)12月21日鳥取県告示第560号により砥波尻・横田線に改称されたが1958年(昭和33年)9月12日鳥取県告示第423号で廃止された時の名称はなぜか阿毘縁・西比田線になっている。
211 松崎停車場・長瀬線 まつざきていしゃじょうながせせん 東伯郡松崎村 東伯郡長瀬村
212 矢口・鹿野線 やぐちしかのせん 気高郡瑞穂村 気高郡鹿野町
213 末恒停車場線 すえつねていしゃじょうせん 気高郡末恒村 気高郡末恒村

鉄道の駅を起終点に持つ路線は国鉄路線の駅が10路線、私鉄路線の駅が2路線となる。そのほとんどが鉄道の駅とある場所を結ぶ路線であるところに当時の鉄道の重要性が感じられる。

注5:鳥取県にはそういう路線は存在しない。中国地方では島根県と広島県、山口県に存在したが、現在では島根県に2路線(島根県道22号松江停車場線〔1920〜〕と島根県道33号浜田港線〔1920〜〕)、山口県に5路線(山口県道50号岩国停車場線〔1920〜〕と山口県道51号下松停車場線〔1923〜〕、山口県道52号徳山港線〔1923〜〕、山口県道53号徳山停車場線〔1920〜〕、山口県道55号宇部港線〔1933〜〕)がそれぞれ残るのみとなっている。

注6:現行道路法が施行された1952年(昭和27年)12月5日以降に認定された一般都道府県道路線であっても現行道路法による一般都道府県道路線の認定の際に廃止され、結果短命に終わったものが少なくない(鳥取県では鳥取県道45号境港線〔1955〜1958〕がある)。しかし、1954年(昭和29年)7月30日山口県告示第512号により認定された山口県道155号東浦・西浦線(平郡島〔柳井市〕を通る路線)と山口県道246号長府・前田線、山口県道300号宇津・本村線(見島〔萩市〕を通る路線)は現行道路法による一般都道府県道路線の認定(山口県では1958年〔昭和33年〕10月1日山口県告示第644号の2により実施)をくぐり抜けて中国地方最古参の一般県道路線として現在も存続している。

注7:主要地方道米子・石見・新見線の存続期間は鳥取県側のものを記している(岡山県側の存続期間は1954〜1979年〔昭和29〜54年〕)。

注8:島根県における一般県道路線の認定は1958年(昭和33年)6月13日島根県告示第525号でなされている。1958年(昭和33年)4月30日鳥取県告示第188号の付記には隣接する県に跨る県道路線の認定告示は隣接する県の認定時期と合わせなければならないので追って告示するとあるのだが、なぜか島根県に跨る路線の場合は鳥取県側が島根県側より17日早く認定告示を行っている。

注9:新規認定路線の区域決定告示は1958年(昭和33年)9月12日鳥取県告示第421号、新規認定路線の供用開始告示は1958年(昭和33年)9月12日鳥取県告示第422号、それまで存在した一般県道路線の廃止告示は1958年(昭和33年)9月12日鳥取県告示第423号でそれぞれなされている。

注10:兵庫県に跨る一般県道路線は1959年(昭和34年)10月6日鳥取県告示第528号で、岡山県に跨る一般県道路線は1960年(昭和35年)3月18日鳥取県告示第109号でそれぞれ認定されている。

注11:島根県道103号/鳥取県道16号伯太・岸本線の名称は廃止時点のものを記載している。

注12:広島県道215号道上停車場・中野線はそのどちらも満たした路線である。起点はJR福塩線道上駅(福山市神辺町道上)のすぐ東側にあるし、広島県道215号道上停車場・中野線はすぐにJR福塩線を踏切(起踏切)で渡っている。

JR福塩線道上駅。かつては自転車やバイクが置いてある辺りに駅舎があったのかもしれないが現存しないし架線からもうかがえるように列車の交換もできない。

道上駅の駅前広場から見た広島県道215号道上停車場・中野線起点(舗装の変わり目が福山市道と県道の境)。左に見えるのは起踏切。

起踏切の看板。最上段に「道上駅構内」と記されていることに注目(道上駅は左方にある)。

注13:なぜ1969年(昭和44年)に改良が行われたのかが分かったのかというと、天津橋の欄干に「昭和44年2月竣功」と記された銘板が埋め込まれているからである。当時の「鳥取県公報」を調べると1969年(昭和44年)4月30日鳥取県告示第270号で区域を変更する告示が、1969年(昭和44年)4月30日鳥取県告示第271号で1969年(昭和44年)4月30日から供用を開始する旨の告示がそれぞれなされているので開通したのは1969年(昭和44年)4月30日のことだったと思われる。

 

天津橋の欄干(左)と竣工年月を記した銘板の拡大写真(右)

注14:国道180号線は岡山市北区中央町と松江市雑賀町を結ぶ路線(但し岡山市北区中央町〔起点〕〜岡山市北区奉還町一丁目間は国道53号線と、米子市陰田町〜松江市雑賀町〔終点〕間は国道9号線とそれぞれ重用。よって実質的な区間は岡山市北区伊福町一丁目〜米子市陰田町間となる)であるが、国土交通省が管理している区間は国道9号線及び国道53号線との重用区間と岡山市北区伊福町一丁目〜総社市種井(総社市・高梁市境)間だけである(つまり残りの高梁市松山〔総社市・高梁市境〕〜新見市千屋花見〔岡山・鳥取県境〕間は岡山県が、日野郡日野町門谷〔岡山・鳥取県境〕〜米子市陰田町間は鳥取県がそれぞれ管理しているということになる)。
※岡山市と松江市を結ぶ国道路線なのに二級国道179号岡山・鳥取線(1953〜1963。現:国道53号線)や二級国道182号広島・松江線(1953〜1963。現:国道54号線)のように一級国道に昇格できなかったのは特に岡山県側で地形的な問題から改良が難しい箇所が多かったことや岡山・鳥取県境の明地峠が自動車の通行が不可能だったことが考えられる。国道180号線の改良は地形的な問題から改良が難しい箇所が多かったことや大半の区間が県管理であることからつい最近までかかり、ようやく全線が上下2車線以上になったのは2008年(平成20年)3月14日のことであった(高梁市津川町今津〜高梁市川面町間に存在した狭隘箇所の拡幅工事が完成したことによる)。

注15:JR伯備線初の特急列車は1971年(昭和46年)4月26日に新大阪〜出雲市間に設定された「おき」号である。この「おき」号は翌1972年(昭和47年)3月15日に実施されたダイヤ改正で廃止され、代わって現在も活躍を続けている「やくも」号が岡山〜出雲市・益田間に設定された(岡山〜益田間の列車はJR伯備線の全線とJR山陰本線・伯耆大山〜西出雲間が電化された時に廃止)。

注16:1969年(昭和44年)12月4日政令第280号に基づいて1970年(昭和45年)4月1日に倉吉市と福山市を岡山県経由で結ぶ国道313号線が発足している。1969年(昭和44年)12月4日政令第280号では福山市と島根県(雲南市)を結ぶ国道314号線も発足しており、いくら当時の福山市の発展が著しかったとはいえ県庁所在地ではない福山市が三つも陰陽連絡国道路線の起終点を持つのはどうかという意見が出たことは想像に難くない。
※その後国道313号線は1992年(平成4年)4月3日政令第104号に基づき1993年(平成5年)4月1日から福山市と鳥取県東伯郡北栄町を結ぶ路線に再編されている。また、国道314号線は福山市明神町二丁目(起点)〜庄原市東城町川西間は国道182号線と重用しているため発足時点から現在に至るまで福山市内に単独区間は一切存在しない。そのため国道314号線が福山市内を通っていることを知らない方が少なくない。

注17:巨根橋は菅沢ダム(日野郡日南町菅沢)のダム湖・日南湖の西岸を通る国道180号線の改良(直線化)の一環として建設されたものであり、1996年(平成8年)3月31日に開通したものと思われる(1996年〔平成8年〕3月29日鳥取県告示第242号・第244号による)。開通から半年も経たない時期に発売された「月刊タウン情報ひろしま」1996年(平成8年)9月号(1996年〔平成8年〕ひろしまタウン情報〔広島市中区小町〕発行)の投稿欄の「投稿写珍」というコーナーで巨根橋と記された標識(新見・庄原方面用)の写真が掲載されており、交通量はそんなに多くはないものの開通当時から面白い地名が付いた橋ということで知られていたことがうかがえる(ちなみに編集者〔恐らく男性〕のコメントは「実にありがたい名前の橋だ」であった)。
※「月刊タウン情報ひろしま」は広島市及びその周辺で発行されていたタウン情報誌がインターネットの普及や売り上げ低迷などの理由により次々と廃刊に追い込まれていく中で現在も発行されているが発行元は産興(広島市中区舟入南一丁目)に変わっている。

  

巨根橋の標識(左は米子方面用、右は新見・庄原方面用。南から望湖橋→巨根橋となる)

巨根橋の橋名板(撮影当時漢字表記のものは残っていなかった。何者かが盗んだものと思われる)

注18:他には滋賀県がある。1987年(昭和62年)夏に滋賀県に行ったことがあるのだが、県道路線に県道標識はなく、路線名称を記した標識しかなかったことを覚えている。

注19:実は岡山県は一般県道路線の路線番号を中国地方で初めて101号から付けるようにした県である。1960年(昭和35年)に現行道路法による一般県道路線の認定が実施された時点では主要地方道路線は1号から、一般県道路線は41号からそれぞれ路線番号を付けていたのだが、1971年(昭和46年)6月26日建設省告示第1,069号で岡山県を通る主要地方道路線が45路線になったことからこの路線番号体系に破綻が生じた。そこで1972年(昭和47年)3月21日岡山県告示第263号で一般県道路線の番号を101号から付けるようにしたのである。しかし、1972年(昭和47年)3月31日岡山県告示第322号を最後にこの番号は見られなくなった。短期間で放棄した理由としては広島県道/岡山県道102号下御領・井原線の認定を前提として島根・広島・山口各県と県道番号統一することに踏み切ったことや岡山県と境を接する県、すなわち兵庫県・鳥取県・広島県が同調しなかったこと、県道標識導入までの仮番号でしかなかったことが考えられるが真相は不明である。

注20:1960年代には朝刊について鳥取版があったが売れ行き不振により廃止されている(鳥取版の存在は中国新聞縮刷版で確認できる)。鳥取県でほとんど出回っていないことを裏付けるように例えば朝刊に掲載されている訃報(ふほう)欄は島根・岡山・広島・山口各県だけを対象にしており、鳥取県の逝去者は掲載されていない。

注21:1994〜1995年(平成6〜7年)に廃止された山口県の鉄道の駅を起終点とする県道路線は下表の通りである。

路線
番号
路線名称 廃止年月日/
告示番号
備考
127 通津(つづ)停車場線 1994年(平成6年)3月29日
山口県告示第259号
重用していた山口県道141号祖生(そお)・通津停車場線に移行。よってJR山陽本線通津駅(岩国市通津)と国道188号線を結ぶ道は県道のままになった。
128 柱野停車場線 1995年(平成7年)3月31日
山口県告示第262号
終点で接続していた山口県道/広島県道118号柱野・大竹線(1960〜1994)が主要地方道岩国・大竹線に再編された際に経路を変更したことが廃止の遠因になったものと思われる。
147 島田停車場線 1995年(平成7年)3月31日
山口県告示第262号
154 柳井停車場線 1994年(平成6年)3月29日
山口県告示第259号
終点で接続する山口県道7号柳井・周東線の付け替えにより終点で県道路線と接続しなくなったことで実延長を失ったことが廃止→柳井市への移管の原因になったものと思われるが詳細は不明。
175 周防久保停車場線 1995年(平成7年)3月31日
山口県告示第262号
184 三田尻港・防府停車場線 1994年(平成6年)3月29日
山口県告示第259号
1994年(平成6年)3月29日山口県告示第257号で認定された山口県道184号三田尻港・徳地線に全区間が取り込まれたことが廃止の原因になった。
204 宮野停車場線 1995年(平成7年)3月31日
山口県告示第262号
207 大歳(おおとし)停車場線 1995年(平成7年)3月31日
山口県告示第262号
209 嘉川停車場線 1995年(平成7年)3月31日
山口県告示第262号
221 厚東(ことう)停車場線 1995年(平成7年)3月31日
山口県告示第262号
236 大嶺停車場線 1995年(平成7年)3月31日
山口県告示第262号
廃止2年後の1997年(平成9年)4月1日にJR美祢線大嶺支線(南大嶺〜大嶺間2.8km)が廃止されたため大嶺駅(美祢市大嶺町奥分)自体も消滅した。但し山口県道236号大嶺停車場線自体の廃止→美祢市への移管はJR美祢線大嶺支線の廃止への動きとは関係なく行われたのではないかと思われる。
237 四郎ヶ原停車場線 1995年(平成7年)3月31日
山口県告示第262号
258 吉見停車場線 1995年(平成7年)3月31日
山口県告示第262号
264 黒井村停車場線 1995年(平成7年)3月31日
山口県告示第262号
273 特牛(こっとい)停車場線 1995年(平成7年)3月31日
山口県告示第262号
274 阿川停車場線 1995年(平成7年)3月31日
山口県告示第262号
278 長門湯本停車場線 1995年(平成7年)3月31日
山口県告示第262号
279 渋木停車場線 1995年(平成7年)3月31日
山口県告示第262号
284 長門三隅停車場線 1995年(平成7年)3月31日
山口県告示第262号
297 東萩停車場線 1994年(平成6年)3月29日
山口県告示第259号
終点で接続する国道191号線の付け替えにより区域がほとんどなくなったことが廃止→萩市への移管の原因になったものと思われるが詳細は不明。
298 長門大井停車場線 1995年(平成7年)3月31日
山口県告示第262号
312 長門峡(ちょうもんきょう)停車場線 1995年(平成7年)3月31日
山口県告示第262号
313 地福停車場線 1995年(平成7年)3月31日
山口県告示第262号

路線の内訳は山陽本線の駅を起終点とするもの6路線、山陰本線の駅を起終点とするもの7路線、岩徳線の駅を起終点とするもの2路線、美祢線の駅を起終点とするもの4路線、山口線の駅を起終点とするもの4路線となり、移管先は別の県道路線になったもの2路線、山口市5路線、岩国市1路線、宇部市1路線、下松市1路線、下関市4路線、長門市3路線、萩市2路線、光市1路線、美祢市2路線、柳井市1路線となっている。この結果、JR美祢線の駅を起終点とする県道路線は起点の厚狭(あさ)駅(山陽小野田市厚狭)と終点の長門市駅(長門市東深川)を除けば山口県道267号中ノ川・於福停車場線だけになったし、柳井市内の駅を起終点とする県道路線も皆無になった(もっとも柳井駅以外そういう県道路線は存在しなかったのだが)。いろいろ事情はあったのだろうが、果たしてこれで良かったのだろうかと感じているところである。

注22:例えば国道53号線岡山北バイパスの全線開通により旧道になった岡山市北区伊島北町〜岡山市北区吉宗間の国道53号線は岡山県に移管されてもおかしくなかったのに岡山市に移管されたため岡山市北区伊島北町〜岡山市北区吉宗間の国道53号線を終点としていた岡山県道237号日応寺・栢谷(かいだに)線や岡山県道238号上芳賀(かみはが)・岡山線はいずれも終点で岡山市道と接続せざるを得なくなった。岡山県道237号日応寺・栢谷線の岡山市北区津島南二丁目への延伸も考えられるところであるがそれも見送られたままになっている。
※岡山市は2009年(平成21年)4月1日に政令指定都市に移行したため岡山市内を通る県道路線は原則として岡山市が管理することになったが、実は政令指定都市に移行した後でも政令指定都市の中で完結する県道路線が認定された例が広島県に存在する。広島市安佐北区可部町今井田と広島市安佐南区緑井一丁目を結ぶ広島県道269号今井田・緑井線である。この広島県道269号今井田・緑井線は広島市が政令指定都市に移行してから16年経過した1996年(平成8年)4月25日広島県告示第469号で認定されており、政令指定都市移行後でも政令指定都市の中で完結する県道路線の認定が可能であることを示している。よって、岡山市が望めば岡山市で完結する県道路線を認定することは実現しないわけではない。

注23:この他の異動としては2013年(平成25年)12月20日鳥取県告示第891号による鳥取県道184号樗谿(おうちだに)神社線の鳥取県道184号樗谿公園線への改称と2014年(平成26年)3月31日鳥取県告示第235号による鳥取県道244号福成・戸上・米子線の鳥取県道244号境・車尾線への改称がある。

注24:最近では広島県公式サイトで過去3年分について閲覧できるようになっている。但し広島県公式サイトで閲覧できるようになってからは「備考」欄に「廃止予定」と記された路線はない。

注25:国鉄(日本国有鉄道)の経営再建の一環として1985年(昭和60年)4月1日に廃止された国鉄倉吉線の駅を起終点とする県道路線について廃止→通過市町村への移管に10年近い時間がかかっている。倉吉線の駅(起点でJR山陰本線と接続している倉吉駅〔倉吉市上井〕を除く)を起終点とする県道路線は倉吉線廃止時点で下表に示した通り5路線存在した。

駅名 読み方 所在地 倉吉駅からの
営業キロ
(単位:km)
開業年月日 駅前を起終点とする
県道路線
(存在する場合のみ路線名称を記載)
備考
上灘 うわなだ 倉吉市見日町 2.4 1912年
(大正元年)
10月1日
(なし) 第二次世界大戦終結前に開設された駅で唯一駅前を起終点とする県道路線を持たなかったが理由は不明。
打吹 うつぶき 倉吉市明治町 4.2 1912年
(明治45年)
6月1日
鳥取県道26号打吹停車場線 1972年(昭和47年)1月10日倉吉駅から改称。
西倉吉 にしくらよし 倉吉市西倉吉町 6.8 1941年
(昭和16年)
5月17日
鳥取県道177号西倉吉停車場線
小鴨 おがも 倉吉市中河原 8.8 1941年
(昭和16年)
5月17日
鳥取県道218号小鴨停車場線
上小鴨 かみおがも 倉吉市上古川 10.6 1941年
(昭和16年)
5月17日
鳥取県道309号大柿・上小鴨停車場線
関金 せきがね 東伯郡関金町大鳥居 15.2 1941年
(昭和16年)
5月17日
鳥取県道219号関金停車場線
泰久寺 たいきゅうじ 東伯郡関金町泰久寺 18.2 1958年
(昭和33年)
12月20日
(なし)
山守 やまもり 東伯郡関金町堀 20.0 1958年
(昭和33年)
12月20日
(なし)

 この5路線は倉吉線が廃止された後も長らく残り続け、通過市町村に移管されたり別の路線に再編されたりしたのは倉吉線廃止から10年経った1995年(平成7年)3月28日鳥取県告示第275号(鳥取県道309号大柿・上古川線の認定)・第276号(鳥取県道152号打吹停車場線と鳥取県道177号西倉吉停車場線、鳥取県道218号小鴨停車場線、鳥取県道219号関金停車場線、鳥取県道309号大柿・上小鴨停車場線の廃止)によってであった(再編後の状況は下表参照)。時間がかかった理由としては倉吉市と東伯郡関金町(1953〜2005。現:倉吉市関金町)の財政事情が厳しく、移管や再編に向けた協議が難航したことが挙げられる。5路線の中で唯一主要地方道に指定されていた打吹停車場線は1993年(平成5年)5月11日建設省告示第1,270号で主要地方道の指定を解除されたことを受けて1994年(平成6年)3月15日鳥取県告示第230号で鳥取県道152号打吹停車場線に改称し、その状態で廃止→倉吉市への移管の時を迎えたことから1994年(平成6年)時点でもまだ移管協議が決着していなかったことがうかがえる。

路線名称 再編後の状況
鳥取県道26号打吹停車場線→
鳥取県道152号打吹停車場線
倉吉市道
鳥取県道177号西倉吉停車場線 倉吉市道(〜1999年〔平成11年〕3月30日)→鳥取県道237号仙隠・岡田線
※1999年(平成11年)3月31日鳥取県告示第232号・第234号による。
鳥取県道218号小鴨停車場線 倉吉市道
鳥取県道219号関金停車場線 関金町道(〜2005年〔平成17年〕3月21日)→倉吉市道
※2005年(平成17年)3月22日に倉吉市が東伯郡関金町を編入したため。
鳥取県道309号大柿・上小鴨停車場線 鳥取県道309号大柿・上古川線
鳥取県道38号倉吉・福本線
国道313号線
倉吉市道
※鳥取県道309号大柿・上小鴨停車場線は倉吉市岩倉〜倉吉市広瀬間で鳥取県道38号倉吉・福本線と、倉吉市上古川で国道313号線とそれぞれ重用していた。

注26:鳥取県道178号大篠津停車場線を指す。鳥取県道178号大篠津停車場線はJR境線大篠津駅(米子市大篠津町。1902〜2008)と鳥取県道10号米子・境線(1955〜1982)→国道431号線を結ぶ路線であるが、2008年(平成20年)6月15日に米子空港(境港市佐斐神〔さいのかみ〕町)の拡張とそれに伴う鳥取県道47号米子・境港線及びJR境線の付け替え、更に鉄道駅と米子空港の近接化により大篠津駅は廃止された(正式には境港市佐斐神町に移転して米子空港駅に改称したことになっている)。その後2009年(平成21年)3月31日鳥取県告示第223号により起点から鳥取県道47号米子・境港線大篠津支線との交点までの374mが区域から外されており、現在は鳥取県道47号米子・境港線と国道431号線を結ぶ路線となっている(もっとも米子空港の拡張工事や鳥取県道47号米子・境港線大篠津支線の敷地への転用により2008年〔平成20年〕夏頃には路線序盤の大篠津駅前通りの部分は通行できなくなったものと思われる)。
※2008年(平成20年)6月15日には米子市大篠津町にあるもう一つのJR境線の駅である御崎口駅が大篠津町駅に改称している。この大篠津町駅は国道431号線から鳥取県道178号大篠津停車場線に入ると途中で米子市道に変わるが一度も曲がらずにたどり着けるのだが御崎口駅改め大篠津町駅は1987年(昭和62年)11月1日に開業した停留所であること(停留場でもそこを起点とする県道路線はないわけではないのだが…)や鳥取県の財政事情が厳しいことから大篠津町駅と国道431号線または鳥取県道47号米子・境港線を結ぶ県道路線の認定は行われていない。

注27:自動車専用道路ではない長距離バイパスが全線開通した後も現道も残している例は多数存在する。代表的な例としては埼玉県から茨城県・栃木県にかけての国道4号線や大阪府内の国道170号線がある。理由としては都道府県道路線などに再編すると管理が行き届かなくなることや沿線住民が困惑することが挙げられる。

注28:2008年(平成20年)に広島市中区紙屋町二丁目〜広島市西区横川町二丁目〜広島市安佐南区緑井一丁目間の国道54号線祇園旧道が国道183号線(国道261号線重用)に再編された時、ラジオの交通情報ではしばらくの間「国道183号線、元の国道54号線の長束(広島市安佐南区の地名)付近では…」と言っていた。国道183号線は1953年(昭和28年)に二級国道183号広島・米子線として発足した時からずっと広島市中区と米子市を結ぶ国道路線ではあるが単独区間が始まる三次市が起点だと思っている人が多かったことや40年以上国道54号線だったのにいきなり国道183号線に変わることに困惑する方が少なくなかったことからこのようにしたものと思われる。

注29:国道191号線のバイパスとして建設されているのは萩・三隅道路(2011年〔平成23年〕9月23日全線開通)、国道491号線のバイパスとして建設されているのは長門・俵山道路(現在建設中)である。現在のところ益田市以西の山陰自動車道で具体化しているところはこの2箇所だけである。
※山口県内の山陰自動車道は交通上の難所の迂回路となるところから進められているのだが、理解できないのは長門・俵山道路が近くを通る国道316号線ではなくいくらか離れたところを通っている国道491号線のバイパスとして建設されていることである。開通したところで山口県道34号下関・長門線の難所・大寧寺峠を迂回する道にしかならないわけであるが、なぜそのようにしたのであろうか。もしかしたら山陰自動車道の終点は美祢市ではなく下関市小月地区になりそうになっていることと関係があるのかもしれないのだが…。

注30:代表的な例としては岡山県道421号総社停車場線(1979年〔昭和54年〕4月3日岡山県告示第314号により認定)や岡山県道470号柳井原・上二万線(1995年〔平成7年〕7月1日岡山県告示第426号により認定)がある。特に岡山県道470号柳井原・上二万線は認定当時ほぼ全線が軽自動車一台がやっと通れる道だっただけになぜこの路線が…と思った方も多かったのではないのだろうか。

 

岡山県道421号総社停車場線(左)と岡山県道470号柳井原・上二万線(右)の起点付近。どちらも区画整理が実施された地域を通り抜けていく路線である。

岡山県道470号柳井原・上二万線旧道。2010年(平成22年)7月1日に倉敷市に移管された。

注31:新見市については2006年(平成18年)4月1日から、三次市については2007年(平成19年)10月26日からそれぞれ市内で完結する一般県道路線の管理を行うようになっている。

注32:背景には岡山県道47号倉敷・長浜・笠岡線西大島バイパス(笠岡市西大島〜浅口郡里庄町浜中間)の全線開通(2008年〔平成20年〕3月15日)がある。西大島バイパスの全線開通により岡山県道195号神島外港線は岡山県道47号倉敷・長浜・笠岡線の笠岡市入江〜笠岡市一番町(終点)間を引き取り、笠岡市一番町まで延長されるのではないかと思っていたのだが、延長されるどころか2011年(平成23年)3月11日岡山県告示第165号により路線が短縮され、笠岡市入江の国道2号線笠岡バイパスとの交点で打ち切られてしまったのである。笠岡市が移管を求めたことや県道路線が短い距離を隔てて並行するのは好ましくないという意見があったことが原因と思われるが、一方で西大島バイパスの全線開通で生じた岡山県道47号倉敷・長浜・笠岡線の旧道のうち笠岡市富岡〜笠岡市一番町(終点)間が岡山県道406号寄島・笠岡線を介しないと岡山県道47号倉敷・長浜・笠岡線西大島バイパスに行けない状況にあるにもかかわらず岡山県道47号倉敷・長浜・笠岡線(岡山県道406号寄島・笠岡線重用)のまま残されている。

注33:福山市内のJR山陽本線の駅を起終点とする県道路線としては広島県道190号福山停車場線(1960〜1974)と広島県道192号松永停車場線(1960〜2005)、そしてこの広島県道191号備後赤坂停車場線があったのだが、福山市の都市計画上の都合により1974年(昭和49年)2月19日広島県告示第136号により広島県道190号福山停車場線が、2005年(平成17年)8月8日広島県告示第933号により広島県道192号松永停車場線がそれぞれ廃止され、福山市に移管されてからは広島県道191号備後赤坂停車場線だけになっていた。広島県道190号福山停車場線の起点があるJR山陽新幹線・山陽本線・福塩線福山駅(福山市三之丸町)は福山市の代表駅、広島県道192号松永停車場線の起点があるJR山陽本線松永駅(福山市松永町)は松永市(1954〜1966)→福山市松永地区の代表駅となっており、都市化が著しいのに対し広島県道191号備後赤坂停車場線の起点があるJR山陽本線備後赤坂駅(福山市赤坂町赤坂)の周辺は都市化はそんなに進展しておらず、さすがに広島県道191号備後赤坂停車場線の廃止はないだろうと思っていたのだが、結局広島県道190号福山停車場線や広島県道192号松永停車場線と同じ運命をたどることになった。広島県としては福山市の都市計画上の都合(備後赤坂駅周辺の整備を進めるに当たって広島県道191号備後赤坂停車場線を福山市に移管させたほうが都合が良くなるため)が廃止の理由であるとしているのだが、福山市は備後赤坂駅周辺の整備を進めることやその一環として広島県道191号備後赤坂停車場線を福山市に移管することを広報誌や公式サイトで一切広報しておらず、釈然としない思いが残る結果になった(地域住民に対して説明会は開催したのだろうが…)。福山市はJR福塩線・井原鉄道井原線神辺駅(福山市神辺町川南)西口周辺の区画整理事業(川南区画整理事業とも言う。深安郡神辺町〔1929〜2006〕在りし頃から計画されているが住民の強硬な反対により全く進んでいない)を抱えているため備後赤坂駅周辺の整備を進めるのは神辺駅西口周辺の区画整理事業が終わってからだろうと思っていたのだが、最近備後赤坂駅の近くを通りかかった時広島県道191号備後赤坂停車場線だった道の東側にあった民家が全て解体されて更地や駐車場になり、広島県道54号福山・尾道線から備後赤坂駅の駅舎が見通せるようになっているのに気付いており、まだ断定はできないものの備後赤坂駅周辺の整備が進められる可能性が出ている。

広島県道191号備後赤坂停車場線在りし頃の広島県道191号備後赤坂停車場線全景。現在は道路右側の民家が全て解体され、更地や駐車場になっている。

注34:山口県道324号綾木・秋吉線の廃止の背景にあったのは地域高規格道路に指定されている小郡・萩道路の開通(2011年〔平成23年〕5月28日)に伴う美祢市秋芳・美東地区の国道路線・県道路線の大幅な再編である。その再編の中で山口県道240号湯ノ口・美祢線の経路がなぜか遠回りするものに改められ、山口県道324号綾木・秋吉線の前半部分(美祢市美東町綾木〔起点〕〜美祢市美東町大田間)を編入したことや山口県の財政事情が厳しいために小郡・萩道路を含めて再編対象とした全ての国道路線・県道路線の面倒を見切れなくなったことから山口県道324号綾木・秋吉線を廃止することになったのではないかと思われる。もっとも山口県道240号湯ノ口・美祢線の経路を遠回りなものにしなければ山口県道324号綾木・秋吉線は存続し得た可能性があるのだが、山口県道324号綾木・秋吉線は改良率が低く、山口県としては厄介払いしたかったのではないかと思うのは私だけであろうか。

注35:全線が自動車専用道路となっている国道路線は下表の通りである。

番号 路線名称 指定年月日/告示番号 発足年月日 備考
271 小田原・厚木道路 1963年(昭和38年)3月30日
政令第109号
1963年(昭和38年)4月1日 最後に指定された二級国道路線である。
450 旭川・紋別自動車道 1992年(平成4年)4月3日
政令第104号
1993年(平成5年)4月1日 起点は北海道旭川市とされているが実際の起点があるのは北海道上川郡比布(ぴっぷ)町である(旭川〜比布間をどのように考えているのかは不明)。
468 首都圏中央連絡自動車道 1992年(平成4年)4月3日
政令第104号
1993年(平成5年)4月1日
470 能越自動車道 1992年(平成4年)4月3日
政令第104号
1993年(平成5年)4月1日
474 三遠南信自動車道 1992年(平成4年)4月3日
政令第104号
1993年(平成5年)4月1日
475 東海環状自動車道 1992年(平成4年)4月3日
政令第104号
1993年(平成5年)4月1日
478 京都縦貫自動車道 1992年(平成4年)4月3日
政令第104号
1993年(平成5年)4月1日
483 北近畿豊岡自動車道 1992年(平成4年)4月3日
政令第104号
1993年(平成5年)4月1日
497 西九州自動車道 1992年(平成4年)4月3日
政令第104号
1993年(平成5年)4月1日
506 那覇空港自動車道 1992年(平成4年)4月3日
政令第104号
1993年(平成5年)4月1日

注36:中国地方では広島高速道路の一部路線が県道に認定されている。

(参考文献)

・月刊タウン情報ひろしま1996年(平成8年)9月号(1996年〔平成8年〕ひろしまタウン情報〔広島市中区小町〕発行)

・JR・私鉄全線各駅停車第7巻「北陸・山陰820駅」(1993年〔平成5年〕小学館〔東京都千代田区一ツ橋二丁目〕刊)

・中国新聞(中国新聞社〔広島市中区土橋町〕発行)

・鳥取県公報(鳥取県総務部政策法務課発行)

・NEKO MOOK1555「新・消えた轍―ローカル私鉄廃線跡探訪―」第9巻中国(2010年〔平成22年〕ネコ・パブリッシング〔東京都目黒区碑文谷四丁目〕刊)