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山陰放送開局60周年(2014年〔平成26年〕3月1日公開)
(本ページをご覧頂くに当たってのお断り)
・本ページは参考資料(このページの最下部で紹介しております)を基に執筆しましたが、中には自分の想像で書いた箇所があります。その点はご了承願います。
・本ページの内容に関する誹謗・中傷は固くお断り致します(もしそういう内容のメールが来ても一切対応致しません。悪しからず)。
今日、すなわち3月1日は1954年(昭和29年)に中国地方3番目の民間放送局であり、鳥取・島根両県初の民間放送局である山陰放送(BSS、米子市西福原一丁目)が本放送を開始した日である。つまり、今日山陰放送は開局60周年を迎えたのである。過疎化が著しい地域を放送区域としているために経営環境は厳しいものがあるのだが、鳥取・島根両県に住む方々にとっては欠かせない存在になっている。そこで今回の「不定期刊・きょうのトピックス」では山陰放送に関する興味深い話をいくつか紹介することにしたい。
開局当初から複数の県を放送区域としていた民間放送局
中国地方は下表の通り複数の県を放送区域としている民間放送局が多いところである(便宜上中国地方に属していない香川県に本社がある放送局も記載している)。
県名 | 放送局名 | 開局年月日 | 他県への 放送区域拡大年月日 |
備考 |
---|---|---|---|---|
鳥取県 (→島根県) |
日本海テレビジョン放送 (NKT、鳥取市田園町四丁目) |
1959年(昭和34年)3月3日 | 1972年(昭和47年)9月22日 | |
山陰放送ラジオ (BSS、米子市西福原一丁目) |
1954年(昭和29年)3月1日 | 1954年(昭和29年)3月1日 | 開局当時から鳥取・島根両県を放送区域としている。 | |
島根県 (→鳥取県) |
山陰放送テレビ (BSS、鳥取県米子市西福原一丁目) |
1959年(昭和34年)12月15日 | 1972年(昭和47年)9月22日 | 本社は鳥取県にあったが開局当時は島根県だけを放送区域とするという変則体制をとっていた。 |
山陰中央テレビジョン放送 (TSK、松江市西川津町) |
1970年(昭和45年)4月1日 | 1972年(昭和47年)9月22日 | 開局当時の社名は島根放送(愛称:テレビしまね)だったが1972年(昭和47年)4月1日に現在の社名に変更(無論鳥取県への放送区域拡大を念頭に置いた改称である)。 | |
エフエム山陰 (愛称:V-air。松江市殿町) |
1986年(昭和61年)10月1日 | 1986年(昭和61年)10月1日 | 開局当時から鳥取・島根両県を放送区域としている。 | |
岡山県 (→香川県) |
山陽放送テレビ (RSK、岡山市北区丸の内二丁目) |
1958年(昭和33年)6月1日 | 1979年(昭和54年)4月1日 | |
岡山放送 (OHK、岡山市北区学南町三丁目) |
1969年(昭和44年)4月1日 | 1979年(昭和54年)4月1日 | ||
テレビせとうち (TSC、岡山市北区柳町二丁目) |
1985年(昭和60年)10月1日 | 1985年(昭和60年)10月1日 | 開局当時から岡山・香川両県を放送区域としている。 岡山市・高松市とも五大都市(札幌・東京・名古屋・大阪・福岡)に入っていないのに岡山・香川両県にテレビ東京系列に属する民間テレビ放送局があるのは岡山・香川両県の民間テレビ放送の放送区域統合の前に岡山県第三民間テレビ放送局用のチャンネル割り当てが郵政省(現:総務省)によりなされていたこととそれが岡山・香川両県の民間テレビ放送の放送区域統合後岡山・香川両県の第五民間テレビ放送局用のチャンネルに移行したこと、更にその頃テレビ東京系列が発足したことが理由である。そのせいか中継局の整備が進んでいない、中国地方に本社を置く民間テレビ放送局で唯一広島市に支社が設置できていない、テレビ東京系列に属する民間テレビ放送局が存在しない広島県では放送されたテレビ東京(TX、東京都港区虎ノ門四丁目)及びその系列局制作の番組が放送されずじまいになる(注1)といった問題がある。 |
|
香川県 (→岡山県) |
西日本放送テレビ (RNC、高松市丸の内) |
1958年(昭和33年)7月1日 | 1979年(昭和54年)4月1日 | |
瀬戸内海放送 (KSB、高松市西宝町一丁目) |
1969年(昭和44年)4月1日 | 1979年(昭和54年)4月1日 |
鳥取・島根両県の民間テレビ放送の放送区域統合によって複数の県を放送区域とするようになった放送局(山陰放送テレビ・日本海テレビジョン放送・山陰中央テレビジョン放送)と岡山・香川両県の民間テレビ放送の放送区域統合によって複数の県を放送区域とするようになった放送局(山陽放送テレビ・岡山放送・西日本放送テレビ・瀬戸内海放送)、開局時点から複数の県を放送区域とするようになった放送局(山陰放送ラジオ・エフエム山陰・テレビせとうち)の3通りに分かれるのだが、上表をご覧頂ければ分かるようにその元祖が山陰放送ラジオであった。
なぜ山陰放送ラジオは複数の県を放送区域として開局したのか。考えられる理由は次の通りである。
・山陰放送が開局する前の1950年(昭和25年)10月1日に実施された国勢調査によると鳥取県の人口は60万177人しかおらず、鳥取県だけを放送区域とする民間放送局の開局は困難だったから。
・山陰放送が開局する前の1950年(昭和25年)10月1日に実施された国勢調査によると島根県の人口は91万2,551人おり、島根県だけを放送区域とする民間放送局の開局は十分可能だったのだが、もしそのようにすると鳥取県側から取り残されてしまうなどとして反発が起きる恐れがあったから。
・鳥取県と島根県の統合による新県発足は様々な事情から不可能なことであったが、繋がりは深く、協力し合うべきだという雰囲気が強かったから。
つまり、もし山陰地方で民間放送局を開局させるのであれば鳥取県と島根県の協力は不可欠だという考えがあったのだろう。
なぜ県庁所在地ではない都市に本社が設置されたのか
こうして山陰地方初の民間放送局開局へと話は進んでいくことになるわけであるが、ならばどこに本社を置くべきかが問題になってくる。鳥取県の県庁所在地である鳥取市か、島根県の県庁所在地である松江市か。鳥取市は山陰地方の東に寄りすぎているし、松江市は山陰地方のほぼ中央に位置しているが経済力に難がある。そこで白羽の矢が立ったのは島根県と境を接している米子市であった。
米子城跡(米子市久米町)から見た中海。鳥取・島根県境が通っている湖である。
なぜ米子市なのか。島根県に境を接していること以外の理由を挙げると次の通りになる。
・「山陰の大阪」と称されるほど商業が盛んだったから。
・国道4路線・国鉄路線3路線(注2)が集まる交通の要衝だったから。
・米子市は江戸時代の城下町を起源としているのだが、米子城には山陰地方最大と称されていた天守(四層五階。明治時代初頭に解体)が建てられており、江戸時代初頭に米子藩が廃されて鳥取藩の支城にならなければもしかしたら山陰地方の中心都市として発展し、明治時代以降に県庁所在地になった可能性があるから(注3)。
下から見た米子城天守台
横から見た米子城天守台
米子城天守台。本丸との高低差があまりないことに注目。
中国地方最高峰の大山(標高:1,729m)をバックに撮影した米子城天守台。撮影日はあいにく天候が芳しくなく、大山山頂は雲に隠れていた。
米子城天守台から眺めた中海。奥に見える山並みは島根半島。
米子城天守台から眺めた米子市街地。その奥に見えるのは日本海と島根半島(美保関)。
・山陰放送が開局した当時山陰地方の主たる地方紙(県紙)には鳥取県を地盤とする日本海新聞と島根県を地盤とする山陰新報(その後島根新聞→山陰中央新報と改題)があったが、どちらも米子市を発行地としていなかったために米子市は地方紙の中立地帯になっていたから。
・米子市は鳥取市からはかなり離れているし、松江市からは近いが繋がりが深いというわけではないから。
山陰地方は岡山市や広島市のような傑出した存在の都市がないし鳥取県と島根県に分かれているのでどうしても地域を統べるものについては誘致合戦が起きてしまうのだが、そのように考えた時商業が盛んで交通の要衝であり、鳥取市や松江市の影響をあまり受けない米子市は民間放送局の本社を置くのに最適なところだったのだろう。
演奏所が置かれたところは…
民間放送局の本社といえば多くの方が独立した社屋を思い浮かべることであろうが、それはテレビ局の場合である。ラジオ局になると独立した社屋を持っていない場合が多い。中国地方に存在する県域民間放送局の場合、エフエム山陰と岡山エフエム放送(岡山市北区中山下一丁目)が開局した当時から独立した社屋を持っていない。
エフエム山陰本社が入居しているビル(左)と岡山エフエム放送本社が入居しているビル(右)
無論山陰放送も開局当初は独立した社屋を持っていなかった。1954年(昭和29年)3月1日に開局した当時の山陰放送本社は何と米子市東倉吉町のパチンコ店の2階にあったのだという。「激動二十年 島根県の戦後史」(1965年〔昭和40年〕毎日新聞社西部本社〔北九州市小倉北区紺屋町〕刊)の中の一編「民間放送始まる」(178〜179ページ)によるとパチンコ店の騒音と本社前の通り(現在の国道9号線)を走るトラックの警笛の音がアナウンス室まで入り込む有様だったという。「パチンコ店やトラックの警笛の音が入ってくるアナウンス室って…」と思う方がいるかもしれないのだが、ここにも地域にこれといった産業がなく、更に地方紙(県紙)を後ろ盾に持たずに開局した山陰放送の窮状がうかがえる(注4)。
山陰放送がようやく独自の社屋を持てたのはテレビ放送が始まり、テレビ・ラジオ兼営局に転向した後の1960年(昭和35年)2月のことである。
現在の山陰放送本社。前を通るのは国道9号線。
サービス放送の時代から放送されていた中国地方最長寿番組
山陰放送ラジオといえば「音楽の風車」を挙げる方が多いのではないのだろうか。毎日正午前後に放送されているリクエスト番組(但し洋楽は一切受け付けない)である。公式には放送開始日は1954年(昭和29年)3月1日になっているのだが、「山陰放送40年譜」(1996年〔平成8年〕山陰放送総務局編)によると本当の放送開始日はサービス放送が始まった1954年(昭和29年)2月21日だったと記されている。つまり、本当の放送回数は8回更に多いということになるのだが、サービス放送は開局後流れる番組を宣伝することや放送局の存在を放送区域に住む方々に伝えること、番組担当者が放送に慣れるようにすること、放送に支障がないか確認することが目的で行われるものであることを考えるとやはり1954年(昭和29年)3月1日に始まったと考えるのが妥当ではないのだろうか。
この「音楽の風車」はよほどのことがない限り放送休止にならないことでも知られている。山陰放送の公式サイトで公開されている木野村尚子アナウンサーの日記を見ると2008年(平成20年)12月6日に「音楽の風車」の放送回数が2万回に達したとある。1954年(昭和29年)3月1日から2008年(平成20年)12月6日までの日数は2万5日だから休んだのはわずか5日だけということになる。何十年も続いてきてなおかつほぼ100%の放送率を持つ番組は恐らく他にはないのではないのだろうか(無論ニュースや天気予報、交通情報は除く)。
なお、2008年(平成20年)12月7日以降も放送休止がなかったとすると「音楽の風車」は山陰放送が開局60周年を迎える今年3月1日には2万1,911回を、そして今年5月29日には2万2千回をそれぞれ迎えることになる。
57年間不変
こちら(民間放送)とこちら(日本放送協会〔NHK〕)、更にこちら(中国地方の中波ラジオ放送局の周波数一覧表)をご覧頂ければ分かることであるが、現在の日本の中波放送の周波数は全て9で割り切れる数になっている。かつては全て10で割り切れる数だったのだが、世界的に周波数が逼迫したことを理由に1978年(昭和53年)11月23日に全て9で割り切れる数に一斉に変更されたのである。
この時周波数変更をせずに済んだのが9と10の公倍数が周波数になっているところである(つまり90で割り切れる数)。中国地方の民間放送局の本局では中国放送ラジオ(RCC、広島市中区基町)と山陰放送ラジオが該当した。中国放送ラジオの本局の周波数は1350kHz、山陰放送ラジオの本局の周波数は900kHzであるが、ならばどちらが古くから使われているのか、「山陰放送40年譜」や「RCC20年のあゆみ」(1972年〔昭和47年〕中国放送編)、「中国放送の50年〜その時、そばにいつもいた〜」(2002年〔平成14年〕中国放送50年史編纂委員会編)を元に調べたところ、山陰放送ラジオは1956年(昭和31年)10月1日から、中国放送ラジオは1962年(昭和37年)10月1日からであることが分かった。つまり、山陰放送ラジオの本局の周波数は1956年(昭和31年)10月1日からずっと900kHzのままということになるのである。半世紀以上にわたり米子市及びその周辺では900kHzに合わせると山陰放送ラジオの番組が楽しめたということになるのだが、こういうところは他にはあまりないのではないのだろうか。
幻の江津中継局
現在山陰放送ラジオの中継局は米子本局と鳥取・倉吉・出雲・大田・浜田・益田各中継局の合計7箇所ある。山陽放送ラジオ・中国放送ラジオと同じ数なのだが、実はもう一つ中継局を設置しようとしていたことはあまり知られていない。その場所とは中国地方で最も人口が少ない市になった江津市(注5)である。「山陰放送40年譜」によると1960年(昭和35年)9月8日に設置することを取り下げたとある。
「江津市は浜田市の隣町(注6)であり、その距離はわずか20km足らず。なぜ設置する必要があるのか」と思った方がいるかもしれない。しかし、福山市の隣町であり、20kmも離れていない府中市(注7)にも中国放送がラジオ中継局を設けていること(注8)を考えれば何の不思議もない。要するに山陰放送ラジオ浜田中継局の電波が江津市では受信しにくいから江津市にも中継局を設置しようという話になったのだろう。現に江津市と浜田市の間にはいくつも山があり、江津市内で山陰放送ラジオの受信が難しくなる可能性は十分に考えられる。
しかし、民間放送局は利益を上げないと立ち行かなくなるものである。当然のことながら慈善事業で放送をやっているわけではない。「山陰放送40年譜」には取り下げの理由は記されていないが恐らく山陰放送の経営上の問題で江津中継局設置計画は断念せざるを得なくなったのではないのだろうか。後に浜田中継局の周波数や位置を変えるなどして受信環境改善を図っているのだが、果たしてどうなったのだろうか。
なお、現在江津市にあるラジオの中継局はNHKラジオ第一だけである。
本社は鳥取県にあるのに…
1950年代後半になると民間中波放送局は相次いでテレビ放送も開始し、テレビ・ラジオ兼営局に転向していった。中国地方では山陽放送が1958年(昭和33年)6月1日に、中国放送が1959年(昭和34年)4月1日に、山口放送(KRY、周南市徳山)が1959年(昭和34年)10月1日にそれぞれテレビ放送を開始し、テレビ・ラジオ兼営局に転向している。
そして山陰放送も1959年(昭和34年)12月15日にテレビ放送を開始したわけであるが、ここで奇妙な問題が起きたのである。山陰放送の本社は鳥取県米子市にあるのに、テレビ放送の放送区域は島根県だけになったのである。まあ鳥取県でも境港市や米子市、西伯郡では辛うじて山陰放送テレビの番組は視聴できたのだろうが、なぜこうなってしまったのか。実は山陰放送がテレビ放送を開始する9ヶ月ほど前の1959年(昭和34年)3月3日に鳥取県を放送区域とする民間テレビ放送局となる日本海テレビジョン放送が開局していたからである。つまり、もし山陰放送も本社が鳥取県にあるので…ということで鳥取県を放送区域として開局しようとすると次に挙げるような不都合が生じる恐れがあったのである。
・たださえ人口が少ない鳥取県に二つも民間テレビ放送局が存在することになり、たちまち経営難に陥る。
・島根県を放送区域とする民間テレビ放送局が存在しないことになり、島根県民は当分の間NHK以外のテレビ放送を楽しめなくなる。
・そもそも米子市周辺に本局を設置できるような山がないため鳥取県を放送区域として開局するのが困難になる。
そこで山陰放送と日本海テレビジョン放送の統合も模索された(もし統合が成立していればこの時点で鳥取・島根両県の民間テレビ放送の放送区域統合が実現していたかもしれないが…)のだが、民間テレビ放送局と民間中波放送局の統合で発足した朝日放送(ABC、大阪市福島区福島一丁目)やRKB毎日放送(福岡市早良〔さわら〕区百道浜〔ももちはま〕二丁目)と違って本社が離れすぎている(注9)し鳥取市と米子市はいろいろな面で張り合っているライヴァルである。当然のことながらうまく行くわけがない。結局物別れに終わるしかなかった。
そこで山陰放送はテレビ放送は島根県を放送区域とすることにしたのである。島根県なら米子市周辺に本局を設置できるような山(枕木山〔標高:453m〕)があるし、島根県には独自で民間テレビ放送局を開局させようという動きは起きていない。記すまでもなく都合が良かったのである。こうして山陰放送は本社は鳥取県、ラジオの放送区域は鳥取県と島根県、テレビの放送区域は島根県という他の地域の方から見れば奇妙な状態でテレビ・ラジオ兼営局に転向したのである。
社名だけでなく略称までも…
中国地方の民間放送局には社名を変えたところ(島根放送→山陰中央テレビジョン放送、ラジオ中国→中国放送、ラジオ山口→山口放送)も略称も変えたところ(広島ホームテレビ〔HOME、広島市中区白島北町〕。開局した当時の略称はUHT(注10))もいくつか存在する。しかし、そのどちらも変えたというのは山陰放送だけである。
山陰放送は1954年(昭和29年)3月1日に開局した当時の社名はラジオ山陰であり、略称はRSB(=Radio San-in Broadcasting)であった。テレビ・ラジオ兼営局に転向した後の1961年(昭和36年)6月1日に山陰放送に改称したのだが、略称もそのまま…とは行かなかった。何とBSS(=Broadcasting
System of San-in)という新しい略称を用いることにしたのである。
ラジオ局として出発した中国地方の他のテレビ・ラジオ兼営局は社名変更を経なかった山陽放送も、山陰放送と同じ日にラジオ山口から改称した山口放送も、なぜかかなり遅れて1967年(昭和42年)4月1日になってようやくラジオ中国から改称した中国放送も全て略称にはラジオ局だったことを示す「R」が入っており(山陽放送…RSK、中国放送…RCC、山口放送…KRY)、別に山陰放送がRSBを略称として使い続けることには何の不都合もなかったはずである。なぜそれでもあえて略称を変えたのか。私は次のように考えている。
・ラジオ山陰改め山陰放送はテレビ・ラジオ兼営局であり、ラジオ単営局ではないことを示す必要があったから。
・略称に「R」が入っているテレビ・ラジオ兼営局は実は少数派であり、中国・四国・九州地方にそのほとんどがあったものの全国的な流れに乗ったほうが得だという考えがあったから(注11)。
SBSとSBCはどちらも既に使われていた(SBSは静岡放送〔静岡市駿河区登呂三丁目〕が、SBCは信越放送〔長野市問御所町〕がそれぞれ使用)ので使えなかったためにBSSになったものと思われる。それならRSBのままで良かったのでは…という声もあるところであるが、山陰放送の考え方も一理あると言えるのではないのだろうか。
放送区域統合へ
こうして日本海テレビジョン放送は鳥取県を、山陰放送テレビは島根県をそれぞれ放送区域として放送を続けてきたのだが、1960年代後半になって島根県でこういう声が上がった。
「山陰放送テレビは鳥取県米子市に本社がありながら島根県を放送区域としており、純粋な島根県の民間テレビ放送局にはなっていない。更に中国地方各県で民間放送の本社がないのは島根県だけである。島根県に本社を置き、島根県を放送区域とする民間放送局を実現させるべきだ」
こうして1970年(昭和45年)4月1日、島根県に本社を置き、島根県を放送区域とする初めての民間放送局となる島根放送が開局した。島根放送の開局と前後して岡山県では岡山放送、山口県ではテレビ山口(TYS、山口市大内御堀)が開局し、鳥取県を除く中国地方各県が民間テレビ局2局体制に移行した(注12)。これで取り残されたのが鳥取県である。鳥取県の人口は日本の都道府県で最も少なく、どのように考えても鳥取県だけで民間テレビ局2局体制に移行するのは困難である。しかもその頃徳島県で2局目の民間テレビ放送局開局計画が頓挫するという事件が起きた(注13)。1970年(昭和45年)当時鳥取県と徳島県は市の数がともに四つしかなく、いずれも海岸部かその近くにあること(注14)や山間部が多く、過疎化が進展していること、当時まだ交通網の整備は進んでいなかったが京阪神から近い地域にあることで共通しており、相当な衝撃をもって受け止めたことは想像に難くない。
一方で鳥取県の境港市・米子市・西伯郡では山陰放送テレビと島根放送を、島根県の松江市・安来市では日本海テレビジョン放送をそれぞれ視聴することはできたのだが、当然のことながらそれ以外の地域では視聴することはできなかった。そのため鳥取県の大部分の地域ではTBS系列とフジテレビ系列の人気番組を、反対に島根県の大部分の地域では日本テレビ系列の人気番組をそれぞれ視聴することができなかった。やっと多くの地域で民間テレビ放送2局体制に移行した1970年(昭和45年)時点ではそういうことは至極当たり前のこと(注15)だったのだが、こうなってくると浮上するのが山陰放送ラジオが鳥取・島根両県を放送区域としているのと同じように山陰放送テレビ・日本海テレビジョン放送・島根放送も鳥取・島根両県を放送区域にするということであった。そして1972年(昭和47年)9月22日から山陰放送テレビと日本海テレビジョン放送は島根県を、島根放送改め山陰中央テレビジョン放送は鳥取県をそれぞれ放送区域に編入し、三大都市圏以外では初めての複数の都道府県で構成される民間テレビ放送の放送区域が発足したのであった。なお、島根放送はこの放送区域統合の約半年前の1972年(昭和47年)4月1日に山陰中央テレビジョン放送に改称しており、山陰地方唯一の県名を付けた民間放送局はわずか2年で消滅した(注16)。その後鳥取・島根両県で構成される放送区域は都道府県域民間エフエム放送局でも適用され、エフエム山陰はJFN系列で唯一の複数の都道府県を放送区域とする民間エフエム放送局として開局している。
放送区域統合は必ずしも良いことだけをもたらさない
鳥取・島根両県の放送区域統合は実は良いことばかりではなかったのである。それで生じた問題をここからは書いていくことにしたい。
まず、鳥取・島根両県の放送区域統合で理不尽な思いを抱くことになった県が中国地方に生じたことである。それは鳥取・島根両県の合計人口より人口が多い岡山県と山口県であった。岡山県はこの後香川県との民間テレビ放送の放送区域統合を推進したので問題は解決したのだが、問題は山口県である。鳥取・島根両県より人口も市の数も10万人以上の市の数も経済力も上回っていたのに長らく山口放送テレビとテレビ山口の二つしか民間テレビ放送局がない時代が続いたのである。まあ鳥取・島根両県の民間放送の放送区域統合が実施された頃はまだテレビ山口が開局して間もない時期であり、致し方なかったとは言えるのだが、さすがにそれが長く続くとどうにかならないのかという声が上がることになった。しかし、次に挙げる事情からなかなか解消には至らなかったのである。
・山口県には県域全体に影響を及ぼす中核都市が存在しないこと。県庁所在地である山口市や広い平野があり、工業が盛んな防府市、重化学工業都市として栄えている徳山市(1935〜2003)、宇部興産(宇部市小串)のお膝元・宇部市、県内最大の都市・下関市のいずれも中核都市になるには一長一短があり、中核都市にはなり得なかった。
・山口県には有力な地方紙が存在しないこと。下関市で発行されていた防長新聞は1978年(昭和53年)4月に廃刊に追い込まれた(注17)し、下関市で発行され、防長新聞に代わって台頭してきた山口新聞も広く購読されているとは言い難い状況がある。
やっと山陰地方との放送格差是正に動き出したのは平成時代に入ってからであり、その結果開局したのが中国地方最新の民間テレビ放送局となる山口朝日放送(YAB、山口市中央三丁目)だったというわけであるが、「もう10年早く開局させることはできなかったのか」とか「現在の倉敷市や福山市と同じくらいの人口を持つ都市が県の中央部にあったら良かったのに…」という声は少なくない。
次に、地方紙の勢力が大きく変わり、倒産・休刊の憂き目に遭った地方紙が出たことである。島根放送改め山陰中央テレビジョン放送の開局に大きな役割を果たした企業の一つに島根県を地盤としていた地方紙・島根新聞社があるのだが、この島根新聞社は1973年(昭和48年)3月25日に山陰中央新報社(松江市殿町)に改称し、更に新聞の題字も島根新聞から山陰中央新報に改め、鳥取県への進出を始めたのである。これで苦境に陥ったのが鳥取県を地盤としていた日本海新聞で、その2年後の1975年(昭和50年)に倒産・休刊に追い込まれたのである。鳥取県には他に地盤とする地方紙がなかったので再興させようという動きが起き、1年後に見事再興するわけである(現在の日本海新聞の発行元の名称が新日本海新聞社〔鳥取市富安二丁目〕となっているのはそのため)が、地方紙の倒産・休刊を当時の鳥取県民はどのように受け止めたのであろうか。
そして最後に、放送区域統合後も3局中2局で同じ時間に同じ番組を放送するという、奇妙な現象が起きたことである。放送区域統合前、日本海テレビジョン放送と山陰放送テレビはテレビ朝日(EX、東京都港区六本木六丁目)制作のワイドショーを二つネットしていたのだが、放送区域統合後もそのネットを続けたのである。よって、「モーニングショー」(1964〜1993年〔昭和39年〜平成5年〕放送)と「アフタヌーンショー」(1965〜1985年〔昭和40〜60年〕放送)及びその後継番組が日本海テレビジョン放送と山陰放送テレビで同時に放送されるという、奇妙な状況が生じたのである(注18)。
なぜこうなってしまったのか、はっきりしたことは分からないのだが、私は経営上の問題から日本海テレビジョン放送については島根県での中継局設置が、山陰放送テレビについては鳥取県での中継局設置がそれぞれ進まなかったからではないかと考えている(それでも鳥取県側の鳥取市や倉吉市、米子市、島根県側の松江市や出雲市、大田市、江津市、浜田市、益田市といった都市については早い段階で設置したのだろうが…)。しかし、統合から時間が経てば「何で日本海テレビジョン放送と山陰放送テレビで同時に同じ番組を放送するのか。いい加減にしてくれ!!」とか「『○○』というワイドショーをネットしろ!!」という声が高まってくる。更に「アフタヌーンショー」が真昼間に放送するのにふさわしくないような企画をでっち上げて放送したことが発覚し、打ち切りの憂き目に遭ってからはテレビ朝日制作の平日正午のワイドショーは低迷した。こうして1989年(平成元年)秋の改編でテレビ朝日制作のワイドショーは山陰放送テレビだけがネットすることになり、17年も続いた2局同時放送は終焉を迎えたのである(注19)。
なお、実は現在も日本海テレビジョン放送と山陰放送テレビで同時ではないが同じ番組を放送している例がある。テレビ朝日(注20)が幹事を務めている民間放送教育協会制作の番組で、現在は「日本! 食紀行」になっている。原則としてその都道府県で最初に開局した民間テレビ放送局(広島県の場合は中国放送テレビ)で放送することになっているのでそのようになっているようなのだが、この件は問題にはならないのだろうか。
来年のはずが12年後に…
1978年(昭和53年)に始まったテレビの音声多重放送は中国地方でも1979年(昭和54年)12月1日に広島テレビ放送(HTV、広島市中区中町)と山口放送テレビで始まった。その約1ヶ月前の1979年(昭和54年)11月4日付中国新聞朝刊にテレビの音声多重放送が始まるという記事が掲載されていたのだが、そこには中国放送テレビと山陰放送テレビでも近く始まるということが書かれていた。ところが、中国放送テレビは翌1980年(昭和55年)4月1日から音声多重放送を開始したのに対し、山陰放送テレビが音声多重放送を開始したのはそれから12年も後の1992年(平成4年)4月1日のことであった。恐らくその記事を書いた方は山陽放送テレビと山陰放送テレビを間違えたのではないかと思われるのだが、この記事の誤りは地方の民間放送局の経営状況を浮き彫りにする結果になったと言えよう。
音声多重放送はご存知の方も多いのではないかと思うのだが、実施時期がかなり遅くなったところが少なくなかった。かなり遅くなった放送局は経済力が脆弱な地域を放送区域としているところか1970年(昭和45年)前後に開局したところが多い。中国地方では前者は鳥取・島根両県が、後者は広島ホームテレビやテレビ新広島(TSS、広島市南区出汐二丁目)、テレビ山口、瀬戸内海放送がそれぞれ該当した。また、中国地方には存在しないが音声多重放送が始まってから開局したテレビ局でも音声多重放送を導入しなかったところ(注21)もある。記すまでもなく理由は音声多重放送を導入するための機器更新が早すぎて無駄になるとか多額の費用がかかってできる状況にないといったことである。まあテレビ受信機によっては音声多重放送に対応していないものがあるので別に導入されなくても問題はないと思う方もいたことであろうが、新聞やテレビ雑誌の番組欄に音声多重放送を実施していることを示す記号がないのを見て「なぜこの局は導入しないのだろうか。金がないのだろうか」とか「人気番組も多いのになぜ導入しないのか。経営者は何をとぼけているのか」と思う方はかなりいたのではないのだろうか。
このことを考えた時、2011年(平成23年)7月24日正午を期して一斉に実施したテレビ放送のアナログからデジタルへの切り替え(東日本大震災〔東北地方太平洋沖地震〕で甚大な被害を受けた岩手・宮城・福島各県は2012年〔平成24年〕3月31日に延期された)は果たして良かったのだろうかと私は思うのである。中継局を集約できるとか番組制作に手間がかからなくなるとかいろいろ理由はあったのだろうが、放送区域ごとに行ったほうがその地域の放送局の負担軽減に繋がったのではないかと思うのである。どちらが良かったのか、放送関係者ではない人間には分からないのだが、果たしてどうなのだろうか。
やっと終夜放送に移行したけれど
中国地方における通常放送における民間ラジオ放送局の終夜放送の始まりは1970年(昭和45年)10月5日のことであった。この日から中国放送ラジオがニッポン放送(LF、東京都千代田区有楽町一丁目)制作の「オールナイトニッポン」のネットを開始し、終夜放送に移行したのである(注22)。その後山陽放送ラジオも終夜放送に移行するのだが、山陰放送ラジオと山口放送ラジオはなかなか終夜放送に移行しなかった。青少年が夜遅くまで起きているのは好ましくないとか経営上終夜放送に移行するのは困難ということで見送り続けていたのだが、1980年代後半になるとそうも言っていられない状況が生じたのである。それは次の通りである。
・1980年代に入ると次々と地方でも民間エフエム放送局が開局したこと。山口県では1985年(昭和60年)12月1日にエフエム山口(FMY、山口市緑町)が、鳥取・島根両県では1986年(昭和61年)10月1日にエフエム山陰がそれぞれ開局した。
・エフエム山陰とエフエム山口は1988年(昭和63年)春の改編から早くも終夜放送に移行したこと。当時中国新聞朝刊でもそのことは報じられたのだが、山陰放送や山口放送の関係者は恐らく「これでは負ける…」と思ったのではないのだろうか。
・高速道路が次々と開通したこと。平成時代に入るとようやく鳥取県や島根県でも国土開発幹線自動車道が開通し(注23)、まだ中国地方の幹線高速道路である中国自動車道と接続するまでには至らなかったものの高速交通時代の幕開けとなった。
そして1990年(平成元年)春の改編でようやく山陰放送ラジオと山口放送ラジオは終夜放送に移行した。しかし、山陰放送ラジオと山口放送ラジオではある点が異なっていたのである。それは山口放送ラジオは月曜日早朝を除いて終夜放送を実施するようにしたのに対し、山陰放送ラジオは月曜日早朝に加えて日曜日早朝にも放送休止時間を設定し、山陽地方の民間ラジオ放送局(山陽放送ラジオ・中国放送ラジオ・山口放送ラジオ)とは一線を画したのである。なぜこのようにしたのか。考えられる理由は次の通りである。
・山陰放送ラジオは東西に細長い地域を放送区域としており、しかも高速道路の整備が進んでいなかったために機器調整のための技術職員を移動させるのにかなりの時間がかかること(米子〜鳥取間は約90km、米子〜益田間は約200km)。
・経営上の問題で日曜日早朝の終夜放送は見送らざるを得なかったこと。
・高額な通行料金がかかる中国自動車道や山陽自動車道、都市部を多く通過し、信号停車が多くなる国道2号線を避けた貨物輸送のトラックが国道9号線を多く行き交うが、日曜日の早朝はその数は少なくなること。
実は山陰放送ラジオと同じ格好で終夜放送に移行した民間ラジオ放送局が中国地方には存在する。それは中国地方初の都道府県域民間エフエム放送局である広島エフエム放送(HFM、広島市南区皆実町一丁目)である。広島エフエム放送は開局時点で10箇所(広島本局と大崎・尾道・呉・西条・佐東・千代田・福山・府中・三次)も中継局を擁していたこと(その後五日市・可部・世羅甲山各中継局が開局し、日本の都道府県域民間エフエム放送局としては最多の中継局を擁している。但し広島エフエム放送は一切このことを宣伝していない)や経営事情が良好ではなかったこともあって1989年(平成元年)春の改編で終夜放送に移行した時日曜日早朝にも放送休止時間を設けていたのである。広島エフエム放送は1990年代中期(時期不明。1993年〔平成5年〕頃?)には日曜日早朝の放送休止を解消するのだが、その影響はかなり後まで残り、聴取率低迷などを理由に打ち切りの憂き目に遭った、日曜日早朝に放送されていた番組は少なくない。
このように考えれば山陰放送ラジオとしては無理に日曜日早朝の放送休止を解消する必要はないという判断に傾くことは想像に難くない。よって、終夜放送開始から四半世紀近く経った今も日曜日早朝の放送休止は解消されていない。
また、これは余談だが、山陰放送ラジオの日曜日の放送終了は午前0時と中国地方の都道府県域民間ラジオ放送局では最も早い(注24)。「エフエム山陰でも午前0時30分までは放送しているのだからもう少し放送終了を繰り下げても良いのではないか」という意見もあるが、これも現在では困難な問題になっている。2008年(平成20年)頃の世界的な不況の影響もあり、2009年(平成21年)春の改編では山陽放送ラジオや西日本放送ラジオ、エフエム福岡(福岡市中央区清川一丁目)が放送終了時間を繰り上げ、西日本放送ラジオとエフエム福岡は山陰放送ラジオと同じ午前0時で放送を終了するようになったからである(これは今も変わらない)。「広島エフエム放送より放送区域人口が多く、本社のある福岡市は最近人口が150万人を突破したのになぜ…?」と思いたくなる(広島エフエム放送以上に自社制作番組が多いことや2008年〔平成20年〕に本社を移転したことが一因と思われる)のだが、このことを考えると放送終了の繰り下げはとんでもない!! ということがうかがえるのではないのだろうか。
恐らく山陰放送ラジオを聴いている方の中にはこれらのことに対して不満を持っている方はいるのではないのだろうか。しかし、現状では解消されることはまずあり得ないと言って良い。
周波数を見て感じたこと〜なぜ山陰放送ラジオはradikoに参加したのかを考える〜
江津市への中継局設置断念などあったが、山陰放送ラジオの現在の中継局体系は1993年(平成5年)に完成した。現在の中継局と周波数は下表の通りである。
県名 | 中継局名 | 周波数 (単位:kHz) |
備考 |
---|---|---|---|
鳥取県 | 米子 | 900 | |
鳥取 | 1431 | 1989年(平成元年)6月29日までの周波数は1485kHz。 | |
倉吉 | 1557 | ||
島根県 | 出雲 | 1431 | 1983年(昭和58年)12月25日開局。 |
大田 | 1485 | 1993年(平成5年)4月6日に開局した、山陰放送ラジオ最新の中継局。 | |
浜田 | 1557 | 1983年(昭和58年)10月10日までの周波数は1116kHz。 | |
益田 | 1431 | 1983年(昭和58年)10月10日までの周波数は900kHz。 |
※上表の開局年月日や周波数変更年月日は「山陰放送40年譜」を参考に記したものであり、もしかしたら間違っているかもしれない。
上表からうかがえることは次の通りである。
・島根県の県庁所在地・松江市には中継局がないこと(中国地方の県庁所在地では唯一。もっとも、厳密に言えば広島市にも中継局はない(注25))。
・山間部や隠岐諸島には中継局がないこと(反対にエフエム山陰は山間部や隠岐諸島にも中継局を設置している)。
・鳥取市から益田市に向かって移動した場合、6回周波数を合わせ直す必要があること(1431kHz〔鳥取〕→1557kHz〔倉吉〕→900kHz〔米子〕→1431kHz〔出雲〕→1485kHz〔大田〕→1557kHz〔浜田〕→1431kHz〔益田〕)。
・同じ周波数を離れた複数の中継局が使用していること(1431kHz〔鳥取・出雲・益田〕と1557kHz〔倉吉・浜田〕)。
・他の民間中波放送局の本局が使用している周波数を使用している中継局が多いこと(900kHzは高知放送ラジオ〔RKC、高知市本町三丁目〕や大韓民国の文化放送〔MBC〕の本局が、1431kHzは岐阜放送ラジオ〔GBS、岐阜市橋本町二丁目〕と和歌山放送〔WBS、和歌山市湊本町三丁目〕の本局がそれぞれ使用。また、浜田中継局がかつて使用していた1116kHzは新潟放送ラジオ〔BSN、新潟市中央区川岸町三丁目〕と南海放送ラジオ〔RNB、松山市本町一丁目〕の本局が使用している)。
なぜこのようになったのかは分からないのだが、そういうこともあって山陰放送ラジオの遠距離受信は困難を極めている。更に放送区域の鳥取・島根両県でも受信できないとか混信して困るという話もある。
そんな中、パソコンやスマートフォンで自分がいる地域のラジオ放送を聴取できるサービス、すなわちradikoが登場した。中国地方の民間ラジオ放送局では2011年(平成23年)7月20日に中国放送ラジオと広島エフエム放送が参加したのが始まりだが、参加当時中国放送の泉水(せんすい)はる佳アナウンサーと広島エフエム放送の笹原綾乃アナウンサーが出演した宣伝が盛んに流れたものである。
中国放送ラジオと広島エフエム放送が最初に参加するのは私としては予想通りであり、次は山陽放送ラジオと岡山エフエム放送では…と思っていた(注26)のだが、その次に参加したのが山陰放送ラジオであった。2012年(平成24年)1月30日から参加したのである。
山陰放送ラジオが参加してから費用がかかるとか位置誤判定が多いとかいう理由で中国地方の民間ラジオ放送局では全くradikoに参加したところが出ていないのだが、なぜ山陰放送ラジオはあえて参加に踏み切ったのか。記すまでもなく受信環境が芳しくないからである。山間部が多いことで受信できない方は少なくないし、海岸部でも日本はもとより大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国・中華人民共和国・ロシア連邦の放送局の電波(私は浜田市郊外の親戚宅〔日本海を望む高台にある〕で大韓民国のテレビ放送を見たことがある)が受信できるため混信することが少なくない。つまり、山陰放送にとって鳥取・島根両県の全域できれいな音声で番組を楽しめるようにすることは開局当時からの悲願だったのである。まあradikoは位置誤判定を起こすことが多いし、高齢化の進んでいる地域なのでどのくらいの高齢者がパソコンまたはスマートフォンを使いこなせるのか不透明な面があるのだが、radikoに参加したことで新たな段階に入ったと言えるのではないのだろうか。
もう一つの地域色を感じさせる番組
山陰放送ラジオといえばサービス放送が始まった時からほとんど休まずにずっと続く「音楽の風車」を挙げる声が多いが、実はもう一つ地域色を感じさせる番組がある。それは「山陰地区船舶気象通報」という番組である。地元出身・在住のタレントや歌手が担当する番組ではないのかと思った方もいるかもしれないのだが、広大な日本海に面し、海に関係した産業に従事する方には大切な番組なのである。
この「山陰地区船舶気象通報」はヤンマーホールディングス(大阪市北区鶴野町)一社の提供で、土曜日に3回(午前8時59分、午前10時59分、午後1時)、日曜日に3回(午前8時25分、午前10時59分、午後0時29分)それぞれ放送されている。海上保安庁が観測した三度崎(みたべざき)灯台(島根県隠岐郡西ノ島町浦郷)の気象情報を放送する番組である。地味だしあまり知られていないのだが、こういう番組が存在するところに海に面した地域の放送局であることを改めて感じることができる。
本社に支社がある放送局
山陰放送には本社以外に東京・大阪・鳥取・米子・松江・出雲・西部(浜田)・広島の8箇所に支社がある。ここで「なぜ本社のある米子にも支社があるのか」と思った方がいるかもしれない。無論本社の中に米子支社があるわけであるが、他の山陰地方を放送区域とする民間放送局でこのようにしているところはない。なぜこのようにしているのか、はっきりしたことは分からないのだが、次に挙げることがあるからではないのだろうか。
・山陰地方は「やっと終夜放送に移行したけれど」でも書いたように東西に長いから。
・あえて本社から米子支社を分離設定することで米子市及びその周辺(範囲は分からないが恐らく鳥取県の境港市・米子市・西伯郡・日野郡、島根県の安来市になるのではないのだろうか)での営業活動をやりやすくしたかったから。
山陰地方を放送区域とする民間放送局は二つの県に分かれていることで生じる調整の難しさや東西に長く、広大な放送区域を統べることの難しさに直面する。よって、支社は多く置かなければならなくなる。一例としてJFN系列に属する民間ラジオ放送局の場合、エフエム山陰は現在でも放送区域内に二つも支社(鳥取・米子)を置いている(中国地方にある都道府県域民間エフエム放送局で放送区域内に支社を置いているのはエフエム山陰だけ)。「エフエム山陰の本社は松江市にあり、米子市までは30kmほどしかないのになぜ支社を置くのか」と思う方もいることであろうが、そこに山陰地方を放送区域とする民間放送局の経営や調整の困難さを感じ取ることができるのではないのだろうか。支社を減らせば中継局の整備が進められ、日曜日早朝の放送休止も解消できるのではないかと思う方もいることであろうが、そうはいかないことを認識して頂きたいものである。
最後に
私が山陰放送の番組に触れるのは鳥取・島根両県に行った時だけであるが、山陰放送に感じるのは身の丈に合ったやり方を貫いていることと様々な困難を乗り越えて地道に努力してきたことである。
まず、「身の丈に合ったやり方を貫いていること」であるが、これはラジオの終夜放送への移行が平成時代に入ってからであり、しかも月曜日早朝だけでなく日曜日早朝にも放送休止時間を設けていることや日曜日深夜の放送終了を午前0時としていることに感じ取ることができる。鳥取・島根両県の民間ラジオ放送局(鳥取市・米子市・出雲市にあるコミュニティ放送局を含む)を見ると日曜日早朝に放送を休止するところ、そして日曜日の放送終了を午前0時にしているところは山陰放送ラジオだけであり、日曜日早朝の放送休止の解消や日曜日の放送終了時間の繰り下げを望む声は少なくない。しかし、山陰放送は今なおその声に応えようとはしていない。それどころか最近では日曜日早朝の放送休止を設定するところ(北日本放送ラジオ〔KNB、富山市牛島町〕・琉球放送ラジオ〔RBC、那覇市久茂地二丁目〕)や日曜日の放送終了時間を繰り上げ、午前0時で終了するところ(西日本放送ラジオ・エフエム福岡)が出ている。世界的な不況やラジオ業界自体の低迷などが背景にあるのだが、この状況を見て山陰放送の職員はどのように思うのだろうか。恐らく「日曜日早朝に放送休止時間を設けたことと日曜日の放送終了時間を午前0時としたことは正解だった。もし日曜日早朝の放送休止を解消したり日曜日の放送終了時間を繰り下げたりしていたら経営的に立ち行かなくなっていたことであろう」と思うのではないのだろうか。
確かに「対抗局のエフエム山陰や鳥取市・米子市・出雲市にあるコミュニティ放送局に一週間の放送時間数で負けていることを何とも思わないのか(注27)」という声はあると思う。しかし、よそはよそ、自分は自分である。金子みすゞ(1903〜1930)の詩の一節ではないが「みんなちがってみんないい」のである。経営が行き詰まりかねないようなことには手を出すべきではないし、自分を貫けば良い。山陰放送は見事にそれを実践しているのである。
次に「様々な困難を乗り越えて地道に努力してきたこと」であるが、山陰放送の60年間は本当に困難の連続だったと言って良いであろう。経済力が脆弱な山陰地方で開局したこと、地方紙の後ろ盾がなかったこと、開局当初の本社は国道9号線に面したパチンコ店の2階にあり、パチンコ店や国道9号線の騒音がアナウンス室まで入り込んだこと、中継局設置で放送区域を拡大したが経営上の都合などで中継局設置を見送らざるを得なくなったところがあること、受信環境が良好ではないこと、過疎化が進展し、経営にも影響していること…。それでも鳥取・島根両県に住んでいる方々に親しまれる存在になったし、サービス放送開始と同時に始まった「音楽の風車」はほとんど休むことなく毎日放送され、今では中国地方随一の長寿番組となった。恐らく開局当時の職員の大多数は鬼籍入りされているのではないかと思う(もし生きていたとしても80代以上)のだが、恐らく「あの時は苦労したが立派な放送局になったなあ…」と草葉の陰で思っていることであろう。
好印象を与えたい、視聴率(または聴取率)を稼ぎたいと思う放送局は少なくない。しかし、背伸びすれば背伸びする分だけ、派手になれば派手になるだけひずみは大きくなり、それに苦しむことになる。そして後で取り返しのつかない事態に陥る。最近フジテレビジョン(CX、東京都港区台場二丁目)が視聴率不振にあえいでいることはよく知られているが、それも結局は地道に努力することをやめ、派手な路線に走ったことが原因であった。気持ちは分からないわけではないのだが、もし地道さがフジテレビジョンにあったらどうなっていたのだろう。あそこまでひどい状況には陥っていなかったかもしれない。
身の丈に合ったやり方を貫き、様々な困難を乗り越えて地道に努力してきた山陰放送であるが、鳥取・島根両県の人口減少や高速道路の開通による京阪神・岡山・広島方面へのストロー効果の発生など状況は厳しくなりつつある。それをどのように乗り切っていくのか。更にFM電波を使って中波放送を補完することが検討され始めているが、山陰放送はそれをどのように考えているのか。山陰自動車道が延伸されたことで鳥取市から益田市に移動する間に6回も周波数を合わせ直さなければならない現状が問題視される可能性があるが、それをどのように考えているのか(注28)。採用が抑制され、人員が削減され、男女とも移籍やフリーランスへの転向が少なくない現在のアナウンサー事情(注29)の中で次代の山陰放送を担う存在は育成できるのか。これからの時代はいくつもの難局を乗り越えていくことになることであろうが、果たしてどうなっていくのだろうか。
ともあれこれまで60年間にわたり山陰地方の喜怒哀楽や今を伝え続けてきた山陰放送である。これからも山陰地方の喜怒哀楽や今を伝え続け、山陰地方に住んでいる方々に親しまれる存在であり続けて欲しいと思う。
(注釈コーナー)
注1:最近ではAKB48の柏木由紀が主演した深夜ドラマ「ミエリーノ柏木」(2013年〔平成25年〕放送)がある(広島県ではテレビ新広島で放送)。記すまでもなく広島県で放送されなかったり途中で打ち切られたりするテレビ東京及びその系列局制作の番組のほうが多いのだが、恐らく岡山・香川両県で最も人口が多い都市である岡山市でも70万人程度であることやテレビせとうちはテレビ東京系列に属する民間テレビ放送局で放送区域人口が最も少ないことが放送見送りの一因になっているのではないかと思われる。
※「ミエリーノ柏木」についてはBS JAPANでも放送されたため岡山・香川両県で全く見られなかったというわけではない。
注2:山陰放送が開局した1954年(昭和29年)3月1日時点では次の通りになっていた(市区郡町村名や路線名称は1954年〔昭和29年〕3月1日時点のもので記載)。
種類 | 路線名称 | 備考 |
---|---|---|
国道路線 | 一級国道9号線 二級国道180号岡山・松江線 二級国道181号津山・米子線 二級国道183号広島・米子線 |
二級国道180号岡山・松江線の事実上の終点は米子市。 二級国道181号津山・米子線と二級国道183号広島・米子線の事実上の終点はいずれも鳥取県日野郡根雨町。 |
国鉄路線 | 山陰本線 境線 伯備線 |
伯備線の終点は伯耆大山駅になっており、なおかつ1954年(昭和29年)3月1日時点では伯耆大山駅及びその周辺はまだ米子市に編入されていなかった(当時の所在地表記は鳥取県西伯郡巌〔いわお〕村蚊屋。西伯郡巌村は1954年〔昭和29年〕6月1日米子市に編入)のだが伯耆大山駅を通る列車は全てが最低限米子駅まで乗り入れるため米子市を通っている国鉄路線と見なした。 |
注3:鳥取藩の本拠地は鳥取城(鳥取市円護寺及び東町二丁目)にあったが、鳥取城は久松山(きゅうしょうざん。標高:263m)の山頂付近にある山城と、久松山の山麓にある麓で構成されていることから米子城天守ほどの大規模な天守は建てられなかった。
※鳥取城の天守は山城にあり、布勢天神山城(鳥取市湖山町南三丁目)から1573年(天正元年)に移築されたという伝承がある(恐らく事実ではないものと思われる。1560〜1570年代に現在の鳥取県で天守を持つ城郭、言い換えれば近世城郭が築けたかどうか自体疑問があるからである。しかも1573年〔天正元年〕は織田信長〔1534〜1582〕による安土城〔滋賀県近江八幡市安土町下豊浦〕築城〔1576年〈天正4年〉〕や羽柴秀吉〔=豊臣秀吉。1537〜1598〕による鳥取城の飢〔かつ〕え殺し〔1581年〈天正9年〉〕より前のことになるし…)。当初は三層だったが後に二層に改造され、17世紀末期まで残っていたが、1692年(元禄5年)に落雷を受けて焼失し、その後は再建されることはなかった(2001年〔平成13年〕5月5日に鳥取市に行った時に山城に登ったことがあるのだが、焼失からかなりの年数が経過しているせいか天守台の残存状況は芳しくないように見えた)。山城の天守が焼失した後は麓の二の丸にあった御三階櫓が明治時代初頭に解体されるまで天守の代わりになっていた(この御三階櫓については解体前に撮影した写真が残されており、鳥取市による復元構想もある)。
注4:「激動二十年 島根県の戦後史」によると送信所は電電公社の借り物だったという。
注5:中国地方で最も人口が少ない市は美祢市だろうと思った方もいるかもしれないのだが、実は平成の大合併で美祢市の人口が江津市の人口を上回ったため江津市が中国地方で最も人口が少ない市になってしまったのである(2010年〔平成22年〕10月1日実施の国勢調査によると江津市の人口は2万5,697人、美祢市の人口は2万8,630人。逆転したのは美祢市と美祢郡秋芳・美東両町が統合して改めて美祢市が発足した2008年〔平成20年〕3月21日のことである)。更に2010年(平成22年)10月1日実施の国勢調査によると江津市の人口は今は亡き簸川郡斐川町(1965〜2011。現在の出雲市斐川町)の人口も下回っており(簸川郡斐川町の人口は2万7,689人)、その深刻さがうかがえる。
注6:江津市と浜田市が隣接するようになったのは浜田市が那賀郡国府町(1951〜1969。現在の浜田市宇野町・大金町・上府〔かみこう〕町・久代町・国分町・下有福町・下府〔しもこう〕町)を編入した1969年(昭和44年)3月1日のことである。
注7:福山市と府中市が隣接するようになったのは福山市が芦品郡芦田町(1955〜1974。現在の福山市芦田町)を編入した1974年(昭和49年)4月1日のことである。
注8:中国放送ラジオ府中中継局(府中市土生〔はぶ〕町)は府中市街地の南方の丘陵地に1980年(昭和55年)9月26日に設置されたのだが、特色としては次のようなことが挙げられる。
・NHKラジオ第一と中継局を共有していること(全国初の事例)。
・府中市内にある唯一の府中中継局であること(他、すなわちテレビ放送とエフエム放送の府中中継局は全て福山市新市町にある)。
注9:朝日放送は大阪テレビ放送と朝日放送が、RKB毎日放送は西部毎日テレビジョン放送とラジオ九州がそれぞれ統合して発足したものである。大阪テレビ放送と朝日放送はともに大阪市内に、西部毎日テレビジョン放送とラジオ九州はともに福岡市内にそれぞれ本社があったので紆余曲折はあったのだろうが統合できたと言える。
注10:UHF Hiroshima-Home Televisionの略。1970年(昭和45年)12月1日(開局日)から1986年(昭和61年)3月31日までの15年4ヶ月間使われていた。コーポレーションアイデンティティ(CI)導入に伴いこの略称は廃止されたのだが、何を略したのかがよく分からないという方(実は私もその一人)が多かったことを考えると現在の略称(HOME)を導入しようという話が出たのは当然の帰結と言って良いのではないのだろうか。
注11:略称にラジオ局であることを示す「R」が入っている民間テレビ・ラジオ兼営局は下表の通りである。
ラジオ局の 放送区域 |
放送局名 | 略称の意味 | 備考 |
---|---|---|---|
青森県 | 青森放送 (RAB、青森市松森一丁目) |
Radio Aomori Broadcasting |
|
岡山県 | 山陽放送 (RSK、岡山市北区丸の内二丁目) |
Radio San-you Kabushikigaisha |
社名は開局時点から山陽放送を使っている。 |
広島県 | 中国放送 (RCC、広島市中区基町) |
Radio Chuugoku Corporation |
テレビ・ラジオ兼営局移行後8年間にわたりラジオ中国という社名で通したが、これはテレビ・ラジオ兼営局で最長記録になっている。 |
山口県 | 山口放送 (KRY、周南市徳山) |
Kabushikigaisha Radio Yamaguchi |
|
香川県 | 西日本放送 (RNC、高松市丸の内) |
Radio Nishinihon Corporation |
社名はラジオ四国→ラジオ香川→西日本放送と変遷しており、ラジオ西日本と称したことはない。 |
愛媛県 | 南海放送 (RNB、松山市本町一丁目) |
Radio Nankai Broadcasting |
社名は開局時点から南海放送を使っている。 |
高知県 | 高知放送 (RKC、高知市本町三丁目) |
Radio Kouchi Corporation |
|
福岡県 | RKB毎日放送 (RKB、福岡市早良区百道浜二丁目) |
Radio Kyuushuu Broadcasting |
前身会社の一つのラジオ九州の略称を現行会社の略称としている。 |
熊本県 | 熊本放送 (RKK、熊本市中央区山崎町) |
Radio Kumamoto Kabushikigaisha |
|
宮崎県 | 宮崎放送 (MRT、宮崎市橘通西四丁目) |
Miyazaki Radio and Television |
開局当時の社名はラジオ宮崎、略称はRMK(Radio Miyazaki Kabushikigaisha)だったが1961年(昭和36年)7月1日に現行の社名に変更した際に略称も変更した。 |
現在民間中波放送局は47社あり、このうちテレビ・ラジオ兼営局(かつてはテレビ・ラジオ兼営局だったところで現在は分社しているところも含む)は36社あるが、略称にラジオ局であることを示す「R」が入っている民間テレビ・ラジオ兼営局は上表に記載した10社だけである。いかに少数派であるかがよく分かる。
注12:広島県は人口が多かったこともあり、1962年(昭和37年)には早くも民間テレビ放送2局体制に移行し、更に島根放送・岡山放送・テレビ山口が開局した頃には3局体制に移行しようとしていた。
注13:1969年(昭和44年)11月19日付中国新聞朝刊に郵政省(現:総務省)が広島県を放送区域とする「瀬戸内海放送」と、徳島県を放送区域とする「ニュー徳島放送」に予備免許を与えたという記事がある。「瀬戸内海放送」はその後広島ホームテレビに改称して無事に開局に至ったわけであるが、「ニュー徳島放送」については結局開局に至らず、後に郵政省(現:総務省)のチャンネル割り当ても破棄されている。開局計画が甘く、どこかで空中分解を起こしたとか開局に関与した方が問題を起こしたとか経営上不利になると考えた先発局の四国放送(JRT、徳島市中徳島町二丁目)の関係者が開局させまいとして圧力をかけた(もしそうならエフエム徳島〔徳島市幸町一丁目〕も開局できなかったことになるが…)とかいろいろ原因は挙げられるところであるが、私は(関係者の方々には誠に申し訳ないことを書くかもしれないのだが)そもそも「ニュー徳島放送」という、どこか真面目さが感じられない社名を付けて開局への準備を進め、予備免許を取得したところに問題があると考えている。もし開局したとしても経営難に陥った可能性がある(それがその後開局への動きが起きず、結局チャンネル割り当て破棄に至った理由でもある)のだが、この事件は中国・四国地方の放送体系に大きな影響を与えたと私は考えており、例えば徳島テレビ放送とかテレビ徳島という社名で予備免許取得に臨むなどして本気を見せて欲しかったと思っているところである(それにしても徳島県民は複数民間テレビ放送局があったほうが良いとは全く思わなかったのだろうか。人口集中地帯〔東部の平野部・海岸部〕で近畿〔関西〕地区の民間テレビ放送局が視聴できたからそういう思いは浮かばなかったのかもしれないのだが、この問題は放置すべきではなく、徳島県を中心として何とかすべきだったと思うのは私だけであろうか。テレビ放送がデジタルに完全に移行したことを契機にケーブルテレビに加入しないと近畿〔関西〕地区の番組が視聴できなくなったことを思うと放置したことに対する罪は重いものがあると私は思うのだが…)。
注14:1970年(昭和45年)当時鳥取県は鳥取市・倉吉市・境港市・米子市しか、徳島県は徳島市・阿南市・小松島市・鳴門市しかそれぞれ市がなかった。倉吉市を除く7市はいずれも海に面しているし、倉吉市は海に面していないが海まで数kmのところに市街地がある。
※この後平成の大合併で徳島県には阿波市・美馬市・三好市・吉野川市が発足し、8市に増えるのだが、鳥取県は市の増減はなかった。また、平成の大合併で発足した徳島県の市はいずれも海に面していないし鳥取県倉吉市も海に面するようにはならなかった。
注15:注12でも触れた通り例外だったのが広島県だったのだが、実は広島県でも問題はあった。それは広島テレビ放送が日本テレビ系列とフジテレビ系列の双方に属しており、いわゆるクロスネットになっていたことである。更に広島ホームテレビがNET系列(現:テレビ朝日系列)に属したこともあり、広島ホームテレビが開局してから1年少々しか経っていない1972年(昭和47年)頃には4局目の開局を求める声があったことが当時の中国新聞で報じられている。
注16:日本にある都道府県の名称で都道府県域民間放送局の名称として用いられなかったのは鳥取県だけである。
注17:防長新聞は後に岩国市で発行された新聞の題名として使われたが、こちらも短命に終わっている。
注18:「モーニングショー」はテレビ朝日や広島ホームテレビ、瀬戸内海放送と同時ネットだったが、「アフタヌーンショー」などのテレビ朝日・広島ホームテレビ・瀬戸内海放送では正午から放送されるワイドショーは日本海テレビジョン放送・山陰放送テレビ・山口放送テレビは午後2時から放送していた。
注19:山陰放送テレビにおけるテレビ朝日制作のワイドショーのネットは1993年(平成5年)春の改編から「スーパーモーニング」(1993〜2011年〔平成5〜23年〕放送)だけになったが、これも2009年(平成21年)春の改編で打ち切られ、「はなまるマーケット」(TBS系)のネットに切り替わった。
注20:これはテレビ朝日が元々教育番組を専門に放送するテレビ局だったことの名残りである。
注21:独立局で1979年(昭和54年)4月1日に開局したテレビ埼玉(TVS、さいたま市浦和区常盤六丁目)が該当する。
注22:ネット開始当時は全部分(午前1時〜午前5時)をネットしていたが、中国自動車道の県内区間の開通が近付いたこと(1978年〔昭和53年〕10月28日に岡山県境〜三次インターチェンジ〔三次市西酒屋町〕間が開通)や青少年が早朝まで起きているのは好ましくないという意見が少なくなかったことから1976年(昭和51年)12月6日から午前1時〜午前3時のみのネットになり、午前3時〜午前5時は文化放送(QR、東京都港区浜松町一丁目)制作の「日野ミッドナイトグラフィティ 走れ! 歌謡曲」をネットするようになった。この「日野ミッドナイトグラフィティ 走れ! 歌謡曲」は2006年(平成18年)春の改編で火曜日から土曜日までの放送になり、日曜日の放送はなくなるのだが、中国放送ラジオは「日野ミッドナイトグラフィティ 走れ! 歌謡曲」が流れなくなった日曜日の午前3時〜午前5時について「オールナイトニッポン」のネットに戻すことはしなかった。
注23:島根県については1983年(昭和58年)に中国自動車道が開通したことで高速道路のある都道府県になっていたのだが、中国自動車道は鹿足郡吉賀町しか通らず、鹿足郡吉賀町に設置された六日市インターチェンジ(鹿足郡吉賀町立河内)から入ると島根県内で出ることはできなかった(次の出口は下りは山口県の鹿野インターチェンジ〔周南市鹿野上〕、上りは広島県の吉和インターチェンジ〔廿日市市吉和〕になる)。そのため島根県における本格的な高速交通時代は1989年(平成元年)10月18日に浜田自動車道旭インターチェンジ(浜田市旭町丸原)〜浜田インターチェンジ(浜田市長沢町)間が開通したことで迎えたと考える方も少なくない。
注24:2014年(平成26年)3月1日時点の中国地方の都道府県域民間ラジオ放送局の日曜日の放送終了時間は下表の通りである。
時刻 | 放送局名 | 備考 |
---|---|---|
午前0時 | 山陰放送ラジオ | |
午前0時30分 | エフエム山陰 エフエム山口 |
エフエム山口は放送終了後試験放送として音楽を流している(停波することがあるのかどうかは未確認)。 |
午前1時 | 山陽放送ラジオ 岡山エフエム放送 |
岡山エフエム放送は開局時からこの時間で放送を終了していたが2013年(平成25年)4〜9月は自社制作番組「ゆいぽんとさえぴぃのおやすみNMB48」を設定していたため放送終了時間が15分繰り下がった(つまり「ゆいぽんとさえぴぃのおやすみNMB48」が一週間の最終番組になった。無論番組終了後すぐに放送終了のアナウンスが流れていた)。しかし、2013年(平成25年)秋の改編でこの「ゆいぽんとさえぴぃのおやすみNMB48」は放送時間が1時間繰り上がり、月曜日午前0時〜午前0時15分に放送されるようになったため再び放送終了時間は午前1時になった。 |
午前1時30分 | 中国放送ラジオ | |
午前2時 | 広島エフエム放送 |
なお、中国地方のコミュニティ放送局の中にはかなり早い時間に放送を終了するところがあり、例えばエフエムはつかいち(廿日市市住吉一丁目)は土曜日・日曜日は午後8時で放送を終了している(日曜日の夜に廿日市市内の国道2号線を走行していた時にエフエムはつかいちの放送終了に出くわしたことがある)。
注25:中国放送ラジオの広島本局は江田島市沖美町美能にあるからである(1961年〔昭和36年〕8月29日までは広島市内にあったが旧広島空港〔広島市西区観音新町四丁目。現:広島ヘリポート〕の拡張のために廿日市市住吉二丁目に移転し、更に2002年〔平成14年〕10月1日に現在地に移転した)。
注26:そのように考えた理由は次の通りである。
・山陽放送ラジオと岡山エフエム放送の放送区域である岡山県は広島県に次いで人口が多く、(人口は70万人程度ではあるが)政令指定都市もあるから。
・山陽放送ラジオは2011年(平成23年)3月まで岡山本局(岡山市北区撫川〔なつかわ〕)と高梁中継局(高梁市松原町松岡)で中波ステレオ放送を実施していたから。
・中国放送ラジオはradiko参加4ヶ月前の2011年(平成23年)3月まで広島本局で中波ステレオ放送を実施しており、その流れを考えれば山陽放送ラジオもradikoに参加するのではないかと考えていたから。
・岡山エフエム放送は開局した時から一切中継局は増やしておらず、受信困難地域がある可能性があったから。
ちなみに山陽放送ラジオは中波ステレオ放送を実施した経験がある民間中波放送局で唯一radikoに参加していない。
注27:2014年(平成26年)3月1日時点の山陰地方に本社を置いている民間ラジオ放送局の一週間の放送時間は下表の通りである。
放送区域 | 放送局名・所在地 | 放送開始時刻 | 放送終了時刻 | 放送時間合計 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
鳥取県 島根県 |
山陰放送ラジオ (BSS、米子市西福原一丁目) |
月曜日午前4時 | 日曜日午前3時 | 162時間 | |
日曜日午前5時 | 日曜日午前0時 | ||||
鳥取県 島根県 |
エフエム山陰 (愛称:V-air。松江市殿町) |
月曜日午前5時 | 月曜日午前0時30分 | 163時間30分 | |
鳥取市 | FM鳥取 (愛称:RADIO BIRD。鳥取市東品治町) |
月曜日午前5時 | 月曜日午前1時 | 164時間 | 公式サイトに掲載されているタイムテーブルには月曜日午前1時〜午前5時については番組の記載がないため放送を休止しているものと見なした。 |
米子市 | DARAZコミュニティ放送 (愛称:DARAZ FM。米子市法勝寺町) |
月曜日午前5時 | 月曜日午前2時 | 165時間 | |
出雲市 | エフエムいずも (愛称:愛ステーション。出雲市里方町) |
月曜日午前5時 | 月曜日午前5時 | 168時間 | 放送休止は原則として設定されていない。 |
上表からも山陰放送ラジオの放送時間が他局に比べて短いことがうかがえる。
注28:中国放送ラジオは広島県内の高速道路延伸に合わせて備北地区(庄原・東城・三次各中継局)・備南地区(福山・府中・三原各中継局)の中継局の周波数の統一を実施したことがある。広島県内で初めて国土開発幹線自動車道が開通した1978年(昭和53年)10月28日以降の動向を示すと下表の通りになる。
年月日 | 記事 | 備考 |
---|---|---|
1978年(昭和53年)10月28日 | 中国自動車道北房インターチェンジ(真庭市五名)〜三次インターチェンジ間が開通する。 | 広島県内で初めての国土開発幹線自動車道開通。 |
1978年(昭和53年)11月23日 | 中波放送の周波数の間隔を10kHzから9kHzに変更したことにより福山中継局(福山市北美台)の周波数が1060kHzから1062kHzに、三次中継局(三次市南畑敷町)の周波数が1500kHzから1485kHzにそれぞれ変更される。 | 広島本局と三原中継局(三原市明神三丁目)の周波数は9と10の公倍数である90で割り切れるものを使っていたため変更せずに済んだ(広島本局…1350kHz、三原中継局…720kHz)。 |
1980年(昭和55年)9月26日 | 府中中継局が開局する。 | 中継局の特色は注8で触れた通り。周波数は1530kHz。 |
1981年(昭和56年)7月18日 | 庄原中継局(庄原市西本町二丁目)が開局する。 | 周波数は720kHz。 |
1982年(昭和57年)3月27日 | 東城中継局(庄原市東城町川西)が開局する。 | 周波数は1458kHz。 |
1983年(昭和58年)3月24日 | 中国自動車道千代田インターチェンジ(山県郡北広島町丁保余原〔よおろほよばら〕)〜鹿野インターチェンジ間及び広島自動車道広島北ジャンクション(広島市安佐北区安佐町飯室)〜広島北インターチェンジ(広島市安佐北区安佐町飯室)間が開通する。 | これにより中国縦貫自動車道(営業路線名は中国自動車道)は全線開通した。 |
1984年(昭和59年)12月10日 | 庄原・三次両中継局の周波数を東城中継局が使用している周波数に変更することによって備北地区の中継局の周波数を1458kHzに統一する。 | |
1991年(平成3年)10月7日 | 平日午前9〜10時台について備南地区のみ別編成とし、福山支社(福山市北美台)が制作し、備南地区だけで流れる番組が放送を開始する。 | |
1991年(平成3年)12月7日 | 浜田自動車道千代田ジャンクション(山県郡北広島町有田)〜旭インターチェンジ間が開通する。 | これにより中国横断自動車道広島・浜田線(営業路線名は広島自動車道・中国自動車道・浜田自動車道)は全線開通した。 |
1992年(平成4年)10月1日 | 広島本局で中波ステレオ放送が開始される。 | |
1993年(平成5年)4月1日 | 中国放送テレビが「中国新聞文字ニュース」をフィラーとして流すことにより終夜放送を開始し、中国放送はテレビ・ラジオとも終夜放送に移行する。 | 終夜放送開始当初はラジオと同じく月曜日早朝に放送休止を設定していたが2001年(平成13年)秋の改編以降は月曜日早朝も終夜放送に移行した。 新聞や雑誌のテレビ欄では「中国新聞文字ニュース」は番組として扱われていたが、ある時期(時期不明)から通常番組から切り替わる時に「本日の放送は終了しました」というテロップが表示されるようになった。中国放送としては「中国新聞文字ニュース」を番組ではなくフィラーと見なしていたためにこのような表示を入れたものと思われる。 「中国新聞文字ニュース」をフィラーとして挿入した終夜放送は2005年(平成17年)春の改編で終了し、現在は通常番組や映画、通販番組、平日午後の情報番組「イマなま3チャンネル」の再放送、JNNニュースバードを放送することによって継続している。 |
1993年(平成5年)10月26日 | 山陽自動車道福山西インターチェンジ(福山市東村町)〜河内インターチェンジ(東広島市河内町入野)間が開通する。 | これにより広島・岩国道路で代替している箇所はあるが広島県内の山陽自動車道は全線開通した。 |
1994年(平成6年)11月14日 | 福山中継局の周波数を府中中継局が使用している周波数に変更することによって福山・府中両中継局の周波数を1530kHzに統一する。 | 正確な開始時期は不明だが福山・府中両中継局の周波数統一の数日後から福山・府中両中継局での中波ステレオ放送が開始された。 |
1995年(平成7年)2月13日 | 三原中継局の周波数を福山・府中両中継局が使用している周波数に変更することによって備南地区の周波数を1530kHzに統一する。 | 正確な開始時期は不明だが備南地区の中継局の周波数統一の数日後から三原中継局での中波ステレオ放送が開始された。この結果中国放送ラジオは最も多くの中継局で中波ステレオ放送を実施していた民間中波放送局となった。 |
2001年(平成13年)3月29日 | この日をもって平日午前9〜10時台に設定されていた福山支社が制作し、備南地区だけで流れる番組が終了する。 | |
2001年(平成13年)10月15日 | この日未明の放送終了をもって福山・府中・三原各中継局での中波ステレオ放送が終了する。 | |
2002年(平成14年)10月1日 | 広島本局が移転する。 | |
2006年(平成18年)4月29日 | 西瀬戸自動車道(本州・四国連絡橋尾道・今治ルート)生口島北インターチェンジ(尾道市因島洲江町)〜生口島南インターチェンジ(尾道市瀬戸田町荻)間が開通する。 | これにより西瀬戸自動車道は全線開通した。 ※西瀬戸自動車道の全線開通は1999年(平成11年)5月1日ではないのかと思った方がいるかもしれないのだが、実はその時点では橋自体は全て開通していたものの生口島と大島(今治市)では自動車専用道路が開通していなかったので全線開通はその2箇所の自動車専用道路の開通をもって実現したと見なしている。なお、愛媛県側で西瀬戸自動車道と接続する自動車専用道路、すなわち今治・小松自動車道は未だに全線開通していないため現在でも今治インターチェンジ(今治市矢田)で一旦一般道路に降りなければいけない状態が続いている。 |
2011年(平成23年)3月14日 | この日未明の放送終了をもって広島本局での中波ステレオ放送が終了する。 | これにより中国放送ラジオでの中波ステレオ放送は終止符を打った。なお、2011年(平成23年)3月21日には山陽放送ラジオ高梁中継局、2011年(平成23年)3月28日には山陽放送ラジオ岡山本局でも中波ステレオ放送が終了しており、中国地方における中波ステレオ放送の歴史は18年半で終止符を打っている。 |
2011年(平成23年)7月20日 | 広島エフエム放送とともにradikoに参加する。 | |
2015年(平成27年)春? | 尾道自動車道世羅インターチェンジ(世羅郡世羅町川尻)〜吉舎(きさ)インターチェンジ(三次市吉舎町矢井)間が開通する。 | これにより中国横断自動車道尾道・松江線(営業路線名は尾道自動車道・松江自動車道)は全線開通することになっている。 |
備北地区の中継局の周波数統一と備南地区の中継局の周波数統一が高速道路の開通に関連していることが上表からうかがえるのではないかと思うのだが、恐らく山陰放送ラジオも山陰自動車道の開通区間が延びることにより周波数を何度も合わせ直さないといけない現状が問題視されるようになるのではないのだろうか。ただ、本文でも触れたようにFM電波を用いて中波放送を補完することが現在検討されているためこの問題に取り組むよりもFM電波を用いて山陰放送ラジオの番組を流すほうに傾く可能性は否定し得ないであろう。無論FM電波を用いても日本海に面している地理上の都合から混信問題は解決できるわけではないのだが…(radikoに参加したのはそのこともあってのことであろう)。
なお、私の友人で「下関市立大学・大学祭実行委員会事務局OB会公式サイト」というサイト(今日から掲示板を設置して本格運用を開始するとのこと)を運営している中島孝祐(なかしま・こうすけ)さんは中国放送に一級上の先輩(男性)が勤務していたことや福山・府中両中継局の周波数が統一された当時福山支社にその先輩が勤務していたこと、福山支社制作の番組を担当していたことなどを話してくれた。残念ながらその方は10年前にとんでもない事件を起こして中国放送から追放され、今どうしているか全く知らないとのことであるが…。
注29:広島県を放送区域とする放送局でも山陰放送のアナウンサーだった方が活躍している例がある。石亀幸子元アナウンサーは中国放送テレビの平日夕方の情報番組「イブニング・ふぉー」(2005〜2012年〔平成17〜24年〕放送)のアシスタントを務めていたし、坪山奏子(かなこ)元アナウンサーは広島ホームテレビに移籍して2年近く勤務していた(その後広島東洋カープの天谷宗一郎外野手と結婚したために広島ホームテレビを退職し、間もなく妊娠したこともあって表舞台から姿を消していたが、最近は広島ホームテレビの金曜日午前中の情報番組「週末喫茶アサブランカ」に出演している)。
(参考文献)
・RCC20年のあゆみ(1972年〔昭和47年〕中国放送編)
・激動二十年 島根県の戦後史(1965年〔昭和40年〕毎日新聞社西部本社〔北九州市小倉北区紺屋町〕刊)
・山陰放送40年譜(1996年〔平成8年〕山陰放送総務局編)
・中国新聞(中国新聞社〔広島市中区土橋町〕発行)
・中国新聞縮刷版(中国新聞社発行)
・中国放送の50年〜その時、そばにいつもいた〜(2002年〔平成14年〕中国放送50年史編纂委員会編)
その他山陰放送公式サイトなど多くのサイトを参考にしている。