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この春四つの小学校が消えた…(2020年〔令和2年〕3月31日公開)

(本作をご覧頂くに当たっての注意)

・本作は学校の統廃合という非常に微妙な問題を取り扱っております。私は学校の統廃合に対しては賛成または推進の立場は一切とっていないことを理解した上で本作をご覧頂きますようお願い申し上げます。

・本作内に出てくる福山市内にある市立幼稚園・小学校・中学校の名称は原則として福山市立を省いて表記しております。

 この春も児童数または生徒数の減少を理由とした学校の再編が各地で行われた。私が住んでいる福山市でも四つの市立小学校がその長い歴史に終止符を打ち、新たな名称の二つの市立小学校が発足した。一度に四つの市立小学校が再編されるのは福山市では初めてのことになるのだが、そこで今回の「不定期刊・きょうのトピックス」では福山市の市立学校―福山市には市立高校も市立大学もある(注1)がここでは小学校と中学校に対象を限ることにする―の再編問題と今春再編されることになった市立学校の概要、そして自分のこの問題に対する考え方などを紹介することにしたい。

これまでの福山市の市立学校事情

増加し続けた学校数

 1960年代初頭の日本鋼管(現:JFEスチール〔東京都千代田区内幸町二丁目〕)の大規模な製鉄所の進出を契機に福山市の人口は大幅に増えた。各地で宅地開発が行われ、既存の学校は児童数または生徒数の増加に悩まされることになった。そこで福山市では1960年代後半以降下表に示すように市立学校の新設を進めたのである。

(下表をご覧頂くに当たっての注意)

・福山・松永両市が統合して改めて福山市が発足した1966年(昭和41年)5月1日以降に福山市が児童増加対策または生徒増加対策で設置した学校を対象にしている(1974〜2006年〔昭和49年〜平成18年〕に福山市が編入した自治体が児童増加対策または生徒増加対策で設置した学校については備考欄で触れることにしている)。

・学校名は小学校については福山市立と小学校を、中学校については福山市立と中学校をそれぞれ省略している。

・所在地は福山市を省略している。

・設置時期はその学校が正式に発足した時期とし、前身の教場時代は含めていない(注2)

新設学校名及び所在地 備考
小学校 中学校
1969年
(昭和44年)
伊勢丘(伊勢丘五丁目)
1970年
(昭和45年)
曙(曙町五丁目)
1972年
(昭和47年)
多治米(多治米町五丁目)
1974年
(昭和49年)
旭丘(引野町南二丁目) 中央(西深津町五丁目)
1975年
(昭和50年)
桜丘(北吉津町五丁目)
1976年
(昭和51年)
緑丘(春日町五丁目)
1977年
(昭和52年)
駅家東(駅家町法成寺)
長浜(引野町)
誠之(新涯町六丁目)
1979年
(昭和54年)
西深津(西深津町五丁目)
野々浜(大門町七丁目)
幕山(幕山台二丁目)
西深津小学校は敷地の大部分が東吉津町(注3)に属しながら正門(北東校門)が西深津町五丁目にある関係上所在地が西深津町五丁目になっているという珍しい学校である。
1980年
(昭和55年)
新涯(新涯町三丁目)
久松台(久松台一丁目)
城西(山手町)
大門(城興ヶ丘)
この年深安郡神辺(かんなべ)町(1929〜2006)では生徒増加対策として神辺東中学校(神辺町下竹田)を設置している。
1981年
(昭和56年)
日吉台(日吉台一丁目)
山手(山手町一丁目)
山手小学校は1957年(昭和32年)に郷分小学校(郷分町)との統合による福山市立泉小学校(山手町七丁目)の発足に伴い一度消滅しており、24年ぶりに校名が復活したことになる(但し設置場所は違う)。
1982年
(昭和57年)
川口東(東川口町五丁目)
1984年
(昭和59年)
駅家西(駅家町近田) 一ツ橋(東手城町一丁目) この年深安郡神辺町では生徒増加対策として神辺西中学校(神辺町川北)を設置している。
1987年
(昭和62年)
東朋(幕山台七丁目)
1988年
(昭和63年)
駅家南(駅家町江良)
1989年
(平成元年)
大谷台(大門町大門)
1997年
(平成9年)
明王台(明王台一丁目)

 上表から1969〜1997年(昭和44年〜平成9年)の28年間に小学校19校/中学校7校の合計26校が設置されたことがうかがえるのだが、やはりJFEスチールの大規模な製鉄所に近い地域の学校の新設が目立っている(小学校…曙・旭丘・伊勢丘・大谷台・長浜・野々浜・幕山・緑丘/中学校…大門・東朋・一ツ橋)。JFEスチールの大規模な製鉄所の進出によりJFEスチールの大規模な製鉄所に近い地域の宅地開発が推進されたことやそれにより人口が増加し、既存の学校はいわゆるマンモス校化していったことがうかがえる。
 こうして福山市の市立学校の数は1997年(平成9年)4月1日時点で小学校63校/中学校27校となった。1966年(昭和41年)5月1日時点の市立学校の数は小学校36校(分校1校を含む)/中学校16校だったから途中で周辺自治体の編入はあった(注4)とはいえかなり増えたことが分かる。

学校新設ラッシュの裏側で

 しかし、毎年のように新設が進められていった福山市の市立学校も平成時代に入るとその動きはパタリと止んだ。中学校は1988年(昭和63年)設置の駅家南中学校(福山市駅家町江良)が、小学校は1997年(平成9年)設置の明王台小学校(福山市明王台一丁目)がそれぞれ最後となった。その背景には何があったのかを記すと次の通りになる。
・高度経済成長が終焉を迎えたことや産業構造が変化したこと、少子化が進展したこと、若年者を中心に大都市に出ていく人が多くなったことなどから福山市の人口増加が鈍化傾向を示すようになったこと。
・少子化により児童数または生徒数が減少したこと。
・大規模な宅地開発や区画整理が人口増加の鈍化や対象地域の住民の強硬な反対、福山市の財政事情の悪化などが原因であまり行えなくなってきたこと。
・福山市内にある国立・市立・私立の高校が全て中高一貫校に移行したこと(注5)
 前記の通り市立学校の新設が打ち止めとなった1997年(平成9年)4月1日時点で小学校63校/中学校27校となり、南北に長い福山市域の各地に市立学校が存在するほどになったのだが、実は積極的に進めてきた学校新設の裏側である問題が起きていた。それは過疎化した地域の学校の児童数または生徒数が著しく減少するという事態であった。
 福山市は1950〜1970年代に周辺自治体との合併を何度も行っている(その状況は下表参照)。それぞれの合併の持つ意味合いは下表の備考欄で触れているのだが、それは同時に過疎地の学校、言い換えれば児童数または生徒数の少ない学校を抱えることでもあった。

実施年月日 内容 備考
1956年(昭和31年)9月30日 沼隈郡鞆・水呑(みのみ)両町及び赤坂・熊野・瀬戸・津之郷各村、深安郡市・千田・引野・御幸各村を編入する。 深安郡市村(?〜1956(注6))は蔵王(ざおう)山(標高:225.3m)の南東麓にあった自治体。福山市編入後は蔵王町に再編されている。
この合併により福山市の人口は10万人を超え、広島県南東部最大の都市の座に就いた。
1962年(昭和37年)1月1日 深安郡深安町を編入する。 深安郡深安町(1955〜1961)は岡山県と境を接していた自治体。福山市編入後は一旦全域が大門町に再編された後1965年(昭和40年)1月1日に深安郡春日(かすが)村(1889〜1955(注6))だった地域(宇山・浦上・能島・吉田)は春日町、深安郡大津野村(1889〜1955(注6))だった地域(大門・津之下・野々浜)は大門町、深安郡坪生(つぼう)村(?〜1955(注6))だった地域(坪生)は坪生町に分割された。そのこともあり深安郡深安町がどこにあったかは分かりにくくなってしまっている(注7)
この合併により福山市は岡山県と境を接することになった。
1966年(昭和41年)5月1日 松永市と統合し、再発足する。 中国地方初の市同士の合併。
この合併により福山市の人口は20万人を超えた。
松永市(1954〜1966)はわずか12年1ヶ月で消滅することになり
(注8)、2018年(平成30年)4月21日に中国地方最短命の市となっている(注9)
この合併により福山市は尾道市と境を接することになった。
1974年(昭和49年)4月1日 芦品郡芦田町を編入する。 福山市としては初めての芦品(あしな)郡に属する自治体との合併となった。
福山市と芦品郡芦田町(1955〜1974)の合計人口は1970年(昭和45年)10月1日実施の国勢調査によると26万1,726人(福山市…25万5,086人/芦品郡芦田町…6,640人)であり、下関市の人口(1970年〔昭和45年〕10月1日実施の国勢調査によると25万8,425人)を抜いて中国地方第四の都市の座に就いた
(注10)
この合併により福山市は府中市と境を接することになった。
1975年(昭和50年)2月1日 芦品郡駅家町と深安郡加茂町を編入する。 福山市と芦品郡芦田町・芦品郡駅家町(1947〜1975)・深安郡加茂町(1955〜1975)の合計人口は1970年(昭和45年)10月1日実施の国勢調査によると28万9,043人(福山市…25万5,086人/芦品郡芦田町…6,640人/芦品郡駅家町…1万8,725人/深安郡加茂町…8,592人)だったが、推計人口上はこの時点で30万人を超えていたものと思われる(注11)

 現に1950〜1970年代に福山市が合併した市町村で過疎化により廃校の憂き目に遭った市立学校はいくつかあった。それを示したのが下表となる。

※下表では学校名は福山市立を、所在地は福山市をそれぞれ省略している。

学校名 所在地 廃校年 統合先 備考
走島小学校宇治島分校 走島町 1962年
(昭和37年)
走島小学校
本校
宇治島は走島の南東約4kmのところにある離島。現在は無人島になっている。
また、2015年(平成27年)に走島小学校(走島町)は鞆小学校(鞆町後地。2019年〔平成31年〕廃校)に、走島中学校(走島町)は鞆中学校(鞆町後地。2019年〔平成31年〕廃校)にそれぞれ統合されたため現存しない(更に鞆小学校と鞆中学校は2019年〔平成31年〕に統合し、鞆小学校跡地に設置された義務教育学校・鞆の浦学園〔鞆町後地〕に移行している)。
走島中学校宇治島分校 走島町 1962年
(昭和37年)
走島中学校
本校
熊野小学校寺迫分校 熊野町 1969年
(昭和44年)
熊野小学校
本校
本郷中学校 本郷町 1971年
(昭和46年)
大成館中学校 本郷中学校は1953年(昭和28年)に今津町・神村(かむら)・東村・本郷村組合立だった大成館中学校(神村町)から独立して発足しているため18年ぶりに大成館中学校に合流したことになる。
本郷中学校が大成館中学校に統合されたのは1970年(昭和45年)のことであるが、1970年度(昭和45年度)は大成館中学校本郷分校として運営され、本郷中学校区に住む生徒が大成館中学校本校に通うようになったのは1971年(昭和46年)からである。そのため廃校年は1971年(昭和46年)としている。
服部小学校本郷分校 駅家町服部本郷 1983年
(昭和58年)
服部小学校
本校
福山市編入前の1970年(昭和45年)から休校。
服部(はっとり)小学校(駅家町助元)は2020年(令和2年)に駅家東小学校(駅家町法成寺)と統合して駅家東小学校跡地に設置された駅家北小学校(駅家町法成寺)に移行したため現存しない。

 いずれも過疎化に伴う児童数または生徒数の減少が廃校の主たる理由になったのだが、該当する学校のある地域に住む方はともかくとして福山市民でこのことに関心を示した方はあまりいないのではないかと思われる。廃校の憂き目に遭ったのはいずれも人口の少ない過疎地の学校だったことや本校自体の廃校があまりなかったこと、そもそも福山市は周辺自治体ほど学校の統廃合に積極的ではなかったこと(注12)などが理由として挙げられるのだが、そういうこともあり「福山市は人口も多いし財政規模が大きいからいくら児童数または生徒数が減少しても市立学校はなるべく維持させるよう努めるのだろう」と思う方も少なくなかったようである。

再編の足音

 しかし、それでももう維持できない市立学校が生じることになった。福山市最北の小学校として知られていた山野北小学校(福山市山野町山野)である。山野小学校(福山市山野町山野)まで距離のある地域(山野の一部と矢川の全域)に住む児童のために設置されたこの山野北小学校は過疎化の進展により児童数が減り、福山市は2002年(平成14年)春をもって休校することを決めたのである。

山野北小学校校舎。現在は福山市民病院附属田原診療所として使用されている。

 山野北小学校の休校は福山市の月刊広報誌「広報ふくやま」2002年(平成14年)3月号の巻頭特集で取り上げられており、それで知った市民も少なくないと思われるのだが、当時そのことを知った自分は山野小学校までの道、すなわち県道21号加茂・油木線の整備がまだ終わっていないのに休校にするのはどうなのかと思ったものである。無論道路整備が終わったから学校を統廃合しても良いという主張は一切する考えはないのだが、もうそういうことは言っていられないところまで事態は進んでいたのであろう。

狭隘箇所が残る福山市山野町山野の県道21号加茂・油木線。
福山市山野町の中心部から山野北小学校に行くにはこの道を通らなければならない。

 山野北小学校が休校になった頃、福山市では周辺自治体、すなわち芦品郡新市町(1907〜2003)・沼隈郡内海(うつみ)町(1955〜2003)・沼隈郡沼隈町(1955〜2005)・深安郡神辺町との合併問題が再燃していた(注13)。福山市は2003年(平成15年)から2006年(平成18年)にかけてこの四つの町を編入していくことになる(注14)のだが、それは同時に過疎化に悩む地域が拡大することでもあった。記すまでもなく福山市は編入した自治体が運営していた学校(注15)を全て受け入れ、市立学校として運営することになったのだが、その中に一つ休校状態のままの学校があったことはその象徴的な話であった。

深安郡神辺町が2003年(平成15年)に休校にした中条(ちゅうじょう)小学校三谷分校(福山市神辺町三谷)。
深安郡神辺町が福山市に編入されてからも休校状態は継続されている。
ちなみに後ろに見える校舎は1992年(平成4年)に建てられたものである。

 福山市の現在の市域が確定するのは2006年(平成18年)3月1日に深安郡神辺町を編入した時である。その時点での市立学校の数は小学校80校(分校を1校として数え、なおかつ休校中の学校を含めている)/中学校35校(入学試験の要らない学校のみ)となった。既に記した通り休校中の学校や児童数または生徒数の少ない学校もあったがこの校数はその後しばらく維持されることになる。

なぜ福山市は市立学校を再編することにしたのか

人口減少時代を見据えた市政への転換

 私の友人の中島孝祐(なかしま・こうすけ)さんが運営しているサイト「下関市立大学学園祭情報局〜中国地方最古参の市立四年制大学の学園祭のきのう・きょう・あす〜」には参考資料として下関市の人口や中国地方の人口上位5自治体の変遷を紹介しているページがある(それはこちら)。それを見ると福山市が中国地方の人口上位5自治体に登場した1965年(昭和40年)から最新のデータとなる2015年(平成27年)まで福山市の人口は一貫して増え続けている。
 しかし、だからと言って今後も福山市の人口が増え続ける保証はどこにもない。次に挙げる現実が差し迫っているからである。
・若年者を中心として大都会などに移住する人が増えていること。
・少子化が進展したこと。
・産業構造の変化により大規模な事業所でも人員削減が断行されたこと。
・これ以上の市域拡大は考えられなくなったこと。
・人口が減っている地域が増えていること。
 更に福山市に住んでいて感じることは中枢性が高いにもかかわらず、規模が大きいにもかかわらず全国展開している店舗でも進出しなかったり進出していたけれど撤退したりしたところがいくつもあること(注16)や中国地方初のコミュニティ放送局・エフエムふくやま(愛称:レディオBINGO。福山市西町二丁目)の放送内容がどうなんだろうというような印象を抱くこと(注17)などで劣等感を抱きたくなることである。近隣に岡山市・倉敷市・広島市・高松市・松山市といった強大な都市があり、どの都市とも高速道路で結ばれていること(注18)も影響しているのだろうが、このような現実を見れば早晩福山市は人口減少に転じる可能性は高いと言えよう。そういう中で福山市は2000年代に入り、今後の人口減少時代を見据えた市政を展開することになった。その主なものは次の通りである。
・競合相手が多い市立保育所・保育園・幼稚園の再編。

少子化により休園の対象になった市立幼稚園(写真は2004年〔平成16年〕から休園中の桜丘幼稚園〔福山市奈良津町一丁目〕)。

・福山市立女子短期大学(福山市北本庄四丁目。1974〜2012)の共学化・四年制化。
・福山市営競馬場(福山市千代田町一丁目。1949〜2013)の廃止。
・市街地化した地域に対する住居表示整備の休止(注19)
・長期間着手できないでいる都市計画道路の再編。
 そして遂に浮上したのが市立学校の再編であった。福山市教育委員会では2010年代に入ってから鞆地区について学校再編を実施している(注20)のだが、それとは別に2015年(平成27年)夏、福山市教育委員会は市立学校の再編計画を発表したのである。

学校再編の概要

 2015年(平成27年)夏に福山市教育委員会が発表した市立学校の再編計画は下表の通りであった。

(下表をご覧頂くに当たっての注意)

・下表では学校名は福山市立を、所在地は福山市をそれぞれ省略している。

・統合先に指定している小学校・中学校は統合実施後学校名が変わる可能性がある。

種類 学校名 所在地 統合先 備考
小学校 内浦 内海町 千年小学校
(沼隈町草深)
内海 内海町
服部 駅家町助元 駅家東小学校
(駅家町法成寺)
東村 東村町 今津小学校
(今津町)
広瀬 加茂町北山 加茂小学校
(加茂町中野)
2002年(平成14年)から休校中の山野北小学校については言及はないが、統合実施時点で正式に廃校になる可能性が高い。
山野 山野町山野
中学校 内海 内海町 千年中学校
(沼隈町草深)
広瀬 加茂町北山 加茂中学校
(加茂町下加茂)
山野 山野町山野

 対象にしたのは小学校6校/中学校3校である。なぜこの9校が対象になったのか。ここで示すのは福山市教育委員会が再編計画を公表した2015年(平成27年)時点の対象校の児童数または生徒数と学級数である。

(小学校)

学校名 児童数
(単位:人)
学級数 児童数の
順位
備考
内浦 15 4 76 学級の内訳は複式3・特別支援1。
内海 46 6 72 学級の内訳は通常2・複式2・特別支援2(1・2年生のみ通常学級で3年生以上が複式学級)。
服部 46 7 72 学級の内訳は通常4・複式1・特別支援2(1・2・3・4年生が通常学級で5・6年生が複式学級)。
東村 46 6 72 学級の内訳は通常4・複式1・特別支援1(1・2・5・6年生が通常学級で3・4年生が複式学級)。
広瀬 28 5 75 学級の内訳は通常2・複式2・特別支援1(1・2年生のみ通常学級で3年生以上が複式学級)。
山野 5 3 77 学級の内訳は通常1・複式2(4年生のみ通常学級で1・2・5・6年生が複式学級。3年生はいない)。
休校中の学校を除く福山市立の小学校で最も児童数が少ない。

(中学校)

学校名 生徒数
(単位:人)
学級数 生徒数の
順位
備考
内海 16 3 33 全て通常学級。
広瀬 22 4 32 学級の内訳は通常3・特別支援1。
山野 8 3 34 全て通常学級。
福山市立の中学校で最も生徒数が少ない。

 上表からうかがえることは次の通りである。
・どの学校も児童数または生徒数が少ないこと。
・小学校は全て複式学級を編成せざるを得なくなっていること。
・(表では示されないことであるが)部活動がある中学校ではある程度の人数が必要なクラブが結成しにくくなっていること。
・(同じく表には示されないが)教科ごとに担当教諭が変わる中学校では生徒より多くの教職員を抱えなければならなくなっていること。
 そこで福山市教育委員会としては児童数または生徒数が少ない学校は教育の観点からしても効率の観点からしてもどうかと考えて統廃合の対象に指定したのであろう。

露出する問題点

 記すまでもないことであるが、統廃合の対象になった学校のある地域では反対の声が上がった。統廃合の対象とされた学校がある地域は内海・沼隈地区、駅家地区、加茂・山野地区、松永地区の四つに分類できるのだが、それぞれの地区の問題点を示すと下表の通りになる。

地区名 問題点
内海・沼隈 ・もし再編が実施されると内海町から学校がなくなってしまう(注21)
・福山市教育委員会は沼隈郡内海町が1970年代前半に町立学校の再編
(注22)を行った時、田島東部にある内浦小学校(内海町)がその方針に反対して存続を勝ち取ったという過去(注23)を全く無視している。
・内海町に住む子供が沼隈町にある統合先の学校に通うためには内海大橋(全長:832m)を通る必要があるが、台風襲来時に通行止めになる
(注24)と登校または下校できなくなる。
駅家 ・再編対象となった服部小学校区は南北に長いため統合先の駅家東小学校までの距離が長くなるところが出る。
・駅家地区中心部と服部小学校区を結ぶ県道419号坂瀬川・駅家線は服部地区南部までは普通自動車同士ならすれ違いに難渋しない道であるが、それ以外の県道路線や市道路線に狭隘箇所が多い。
・服部小学校区では毎年6月第一土曜日・日曜日に服部ほたる祭を開催しており、広く知られる年中行事になったが、学校がなくなればその存続が危うくなる。
加茂・山野 ・もし再編が実施されると山野町から学校がなくなってしまう。
・統合先の加茂小学校(加茂町中野)または加茂中学校(加茂町下加茂)までの距離が長くなるところが出る。
・加茂地区中心部〜広瀬地区間には福山市道しか、加茂地区中心部〜山野地区間には県道21号加茂・油木線しかそれぞれ整備された道路がない。
・加茂地区中心部と広瀬・山野両地区を結ぶ道路には異常気象時通行規制区間
(注25)や広島県が2017年(平成29年)に指定した落石・土砂崩落危険区間(注26)があり、規制がかかると登校または下校できなくなる。
・広瀬地区・山野地区とも山岳地帯にあることから冬は積雪・路面凍結の恐れがある。
・広瀬地区・山野地区とも地域振興に力を入れているが、地域の象徴がなくなることでその動きが停滞する恐れがある。
松永 ・東村小学校区はほとんどの場合本郷小学校区を通らないと今津小学校区とは往来できない(注27)のに福山市教育委員会は統合先に本郷小学校(本郷町)ではなく今津小学校(今津町)を指定した(注28)
・今津小学校は標高約50mの高台にあり、通うには急な坂を上らなければならない。
・遠距離通学を余儀なくされる児童のために通学バスを設定することも考えられるが、今津小学校付近の道路は狭いところが多い。
・東村小学校区では毎年12月第一日曜日にかかし祭りを開催しており、広く知られる年中行事になったが、学校がなくなればその存続が危うくなる。
全地区
共通
・地域の象徴である学校がなくなることで過疎化に拍車がかかる。
・学校が近くにないために移住しようと思う人がいなくなる。
・統合先の学校は児童数または生徒数が多いことや市街地化や宅地開発が進んだところにあることから子供が何らかの問題(いじめ・登校拒否など)に遭遇しないか不安である。
・まだ児童数または生徒数が多いのに統合の対象にするのは理不尽極まりない。
・廃校になった後の敷地・建物の利用が定まるかどうかが分からない。

 まあどの学校の再編でも必ず出てくる問題が上表にも出てきているわけであるが、私としてはどの学校再編にも賛成できない。私は再編対象になった学校の卒業生でも在籍経験者でもないのだが、次に挙げる点でどうかと思うからである。
・地域の象徴を奪い、結果地域を衰退に追い込む行為でしかないこと。
・子供の安全や感情を全く無視していること。
・他地域からの移住願望を妨げる行為でしかないこと。
・道路事情が良くなったこと(注29)を良いことに強行しようとしている感じがあること。
 そのような考えを持つ私が注目したのは翌2016年(平成28年)に行われることになっていた二つの選挙、すなわち福山市議会議員選挙(2016年〔平成28年〕4月10日実施)と福山市長選挙(2016年〔平成28年〕8月28日実施)であった。昭和時代末期に人口減少に転じていた下関市では2008年(平成20年)に市立学校―下関市は福山市と同じく市立高校も市立大学もある(注30)がここでは小学校と中学校に対象を限ることにする―の適正規模・適正配置に関する答申を公表したのだが、市民が反対したことや2009年(平成21年)3月15日実施の下関市長選挙で市長が交代したことから学校再編に待ったがかかる格好になったからである(注31)。もし福山市議会議員選挙と福山市長選挙で市立学校再編問題が焦点になるのであれば結果如何(いかん)で風向きが変わるのではないかと考えたのだが、残念ながらそのようにはならなかった。2016年(平成28年)に相次いで行われた福山市議会議員選挙と福山市長選挙で市立学校再編問題が焦点にならなかったのは下関市と違って市内の一部の地域の問題でしかなく、市民全体の関心事にならなかったからである。
 まあ私がここで何を書こうとも事態は止まるわけはないのであるが、再編対象校のある四つの地区のうち駅家地区と松永地区で議論が進展し、2018年(平成30年)春に設置されたそれぞれの開校準備委員会では再編後の学校はどのようにするのかが話し合われた(詳細はこちらをご覧頂きたい)。そして今春、駅家地区と松永地区で四つの小学校がなくなり、二つの小学校が発足したのである。

今回再編された学校と学区の概要・駅家地区編

駅家東小学校

駅家東小学校の校門と校舎

(データ)

項目 記事
所在地 720-2413 福山市駅家町法成寺67番地
開校年 1977年(昭和52年)
運営自治体の変遷 福山市
通学区域 駅家町法成寺
駅家町万能倉(まなぐら。一部地域を除く
(注32)
児童数 359人(2019年〔令和元年〕5月1日現在)
進学中学校 福山市立駅家中学校(福山市駅家町法成寺)
学区内を通る
主な幹線道路
県道181号下御領・新市線
県道392号中野・駅家線
県道419号坂瀬川・駅家線
学区内の主要施設 駅家東公民館
JR福塩線万能倉駅
広島県立福山北特別支援学校(所在地は福山市加茂町下加茂)
福山北産業団地
福山市立駅家中学校
福山市立ふたば保育所
万能倉郵便局
わかば保育園
学区内の
名所・旧跡・自然
粟塚古墳の丘
西川
服部大池
服部川
福山古墳ロード(道中には古墳や山城などがある)
吉野川
学区の特色 ・大規模な宅地開発や区画整理こそ行われていないがスプロール現象(虫食い状態で宅地化が進む現象)が進み、人口が増加した地域である。
・学区内には小豆田(あずきだ)池(福山市駅家町万能倉)を含めて溜池が多く見られる。
・学区を構成する福山市駅家町法成寺と福山市駅家町万能倉は1956年(昭和31年)9月29日まで別々の郡に属していた
(注33)。今も郵便番号(注34)や市内局番(注35)にその痕跡が見られる。
・福山市駅家町法成寺は北部が丘陵地帯になっており、そこには古墳や山城が多数残されている。
・福山市駅家町法成寺の北部の丘陵地帯には工業団地が造成されており、中国新聞社(広島市中区土橋町)の印刷工場などが進出している。
・学区内を通る幹線道路は整備が進められつつあるが、中央線のない箇所や上下2車線化されてはいるが規格が低い箇所がある道路が多い。
備考 ・駅家小学校(福山市駅家町倉光)の児童数増加対策で設置された小学校である。
・1960〜1980年代の福山市の人口急増期に設置された小学校では初めて校名が消滅することになった学校となった。
・今回再編対象となり消滅した小学校では唯一福山市以外の地方自治体に属した歴史がない。
・今回再編対象となり消滅した小学校では最も歴史が浅い。
・今回再編対象となり消滅した小学校では唯一交差点名標に校名が使用されている(福山市駅家町万能倉/駅家東小学校入口交差点
(注36))。
・校歌の作曲者は現在放送中の朝の連続テレビ小説「エール」(NHK総合テレビなど)の主人公・古山裕一(演じているのは窪田正孝)のモデルとなった作曲家・古関裕而(こせき・ゆうじ。1909〜1989)である。

服部小学校

服部小学校の校門と校舎

(データ)

項目 記事
所在地 720-2524 福山市駅家町助元70番地
開校年 1909年(明治42年)
運営自治体の変遷 芦品郡服部村→芦品郡駅家町→福山市
通学区域 駅家町雨木
駅家町助元
駅家町新山(一部地域を除く
(注37)
駅家町服部永谷
駅家町服部本郷
児童数 54人(2019年〔令和元年〕5月1日現在)
進学中学校 福山市立駅家中学校(福山市駅家町法成寺)
学区内を通る
主な幹線道路
国道182号線
国道314号線(全区間国道182号線と重用しているため単独区間はない)
県道398号新山・府中線
県道419号坂瀬川・駅家線
県道462号百谷・新市線
学区内の主要施設 新山荘(高齢者介護施設)
服部公民館
服部郵便局
福山北警察署服部警察官駐在所
福山市駅家ふれあいプラザ
福山市立服部南保育所
学区内の
名所・旧跡・自然
蛇円山(標高545.5m。備後富士とも称する。福山市内最高峰の座に就いていた時期がある(注38)
助元川
大坊福盛寺
服部大池
服部川
福山古墳ロード(道中には古墳や山城などがある)
本永谷川
学区の特色 ・福山市駅家町北部の広い範囲を学区としている。
・学区の大半は山岳地帯となっている。
・服部川及びその支流(助元川・本永谷川など)に沿って展開している平地に民家や田畑が多く見られる。
・学区内を通る幹線道路で有用だと言えるのは福山市駅家地区中心部に通じる県道419号坂瀬川・駅家線
(注39)と、福山北産業団地に通じる福山市道だけである。そのせいか交通量は少なく、学区内には信号機は一切存在しない。
・道路整備が進んでいないことなどから開発はあまり進んでおらず、自然が多く残されている。
・平成時代初頭からホタルの里作りに力を入れており、毎年6月第一土曜日・日曜日に服部ほたる祭を開催している。
・服部小学校廃校半年前の2019年(令和元年)10月1日には中国バス(福山市多治米町六丁目)が学区内で運行していた路線バスが全廃されている。
備考 ・学区が南北に長く伸びていたことや遠距離通学を余儀なくされる児童がいたことからことから分校を二つ(新山・本郷)設置していた。児童数減少などの事情により新山分校(福山市駅家町新山)は1967年(昭和42年)に、本郷分校(福山市駅家町服部本郷)は1983年(昭和58年)にそれぞれ廃校になっている(注40)
・校歌の作詞者は童謡「夕日」などで知られる福山市神辺町出身の詩人・葛原しげる(1886〜1961)である。
・福山市駅家町服部地区(品治〔ほんじ(注41)〕郡服部村〔1889〜1898〕→芦品郡服部村〔1898〜1954〕だった地区。現在は福山市駅家町雨木・助元・新山・服部永谷・服部本郷の全域と福山市駅家町弥生ヶ丘〔やよいがおか〕の一部地域(注42)になっている)には中学校(駅家町立服部中学校〔福山市駅家町助元〕)も存在したが、1964年(昭和39年)に駅家中学校に統合されている
(注43)。結局福山市駅家町服部地区からは小学校・中学校ともなくなったということになる。
・服部小学校は福山市駅家町服部地区全域を学区としていると思われがちだが、実際は違う。福山市駅家町新山のうちの小山田・刈山両集落については芦品郡駅家町及び近田・服部・宜山(むべやま)各村が統合して改めて芦品郡駅家町が発足した時(1955年〔昭和30年〕1月1日)に駅家小学校に通学先を変更したため服部小学校は福山市駅家町服部地区全域を学区とはしなくなった。なお、現在は駅家西小学校(福山市駅家町近田)に通学先が変更されている(駅家西小学校が開校した1984年〔昭和59年〕に変更)。

なぜ服部小学校の統合先は駅家東小学校になったのか

 過疎化・少子化により児童数が減少し、福山市教育委員会によって再編対象になった服部小学校。ではどの学校と統合したほうが好ましいのか。同じ福山市駅家地区にあることと学区が隣接していることを条件に考えると駅家西小学校と駅家東小学校が候補として挙がる。その中で福山市教育委員会が統合先に選んだのは駅家東小学校であった。
 なぜ福山市教育委員会は服部小学校の統合先として駅家東小学校を選んだのか。考えられる理由は次の通りである。
・服部小学校からの直線距離(地図サイト「Mapion」のキョリ測で測定)は駅家東小学校までが約3.8km、駅家西小学校までが約4.5kmとなり、駅家東小学校のほうが近くなること。
・服部小学校・駅家東小学校とも近くを県道路線(県道419号坂瀬川・駅家線→県道392号中野・駅家線)が通っており、服部小学校から駅家東小学校への道程が簡単であること(反対に服部小学校から駅家西小学校への道程は何度も右左折を経る必要がある)。
・駅家東小学校は福山市駅家地区を横切って通っているJR福塩線より北側にあるのに対し、駅家西小学校はJR福塩線より南側にあること。
・福山市駅家町服部地区と駅家西小学校の間には丘陵地があり、地形的に一体とは言えないこと。
・駅家東小学校を卒業した児童と、服部小学校を卒業した児童は基本的に同じ中学校、すなわち駅家中学校(福山市駅家町法成寺)に進学することになっていること。
・駅家東小学校は1960〜1980年代の福山市の人口急増期に開校したため施設に余裕があること。
 駅家西小学校と駅家東小学校は1960〜1980年代の福山市の人口急増期に開校したことやその後の少子化に伴う児童数減少により施設に余裕があること、卒業した児童は基本的に駅家中学校に進学することで共通している。その中で統合先をどうするかを考えるとしたらやはり距離の近さと通いやすさ、地形の一体性を考えることであろう。よって、福山市教育委員会が服部小学校の統合先に駅家東小学校を選んだのは当然の帰結と言えよう。

再編後の学校について

 駅家東・服部両小学校の再編により発足することになった小学校は下表の通りになった。

項目 記事
名称 福山市立駅家北小学校
開校年 2020年(令和2年)
所在地 720-2413 福山市駅家町法成寺67番地(元駅家東小学校校地)
通学区域 駅家町雨木
駅家町助元
駅家町新山(一部地域を除く
(注37)
駅家町服部永谷
駅家町服部本郷
駅家町法成寺
駅家町万能倉(一部地域を除く
(注32)
進学中学校 福山市立駅家中学校(福山市駅家町法成寺)
学区内を通る
主な幹線道路
国道182号線
国道314号線(全区間国道182号線と重用しているため単独区間はない)
県道181号下御領・新市線
県道392号中野・駅家線
県道398号新山・府中線
県道419号坂瀬川・駅家線
県道462号百谷・新市線
学区内の主要施設 駅家東公民館
JR福塩線万能倉駅
新山荘
服部公民館
服部郵便局
広島県立福山北特別支援学校
福山北警察署服部警察官駐在所
福山北産業団地
福山市駅家ふれあいプラザ
福山市立駅家中学校
福山市立服部南保育所
福山市立ふたば保育所
万能倉郵便局
わかば保育園
学区内の
名所・旧跡・自然
粟塚古墳の丘
蛇円山
助元川
大坊福盛寺
西川
服部大池
服部川
福山古墳ロード
本永谷川
吉野川
備考 ・福山市駅家地区の大半(正確な数値は不明だがおおよそ7割)を占める地域を学区とする小学校。

 この再編により一世紀以上の伝統を紡(つむ)いできた服部小学校だけでなく、1960〜1980年代の福山市の人口急増期に開校した駅家東小学校もその歴史に終止符を打つことになった。伝統校・新興校双方の名称が消えることになったのだが、なぜこのようになったのか。理由を示すと次の通りになる。
・福山市教育委員会としては再編対象になった学校の歴史や伝統を継承した学校を作ることを念頭に置いたこと。
・もし駅家東・服部両小学校の再編により発足することになった小学校の名称が駅家東小学校になったとしたら服部小学校の関係者は駅家東小学校に吸収合併されたと感じるようになり、再編後の学校の運営に支障を来す恐れがあったこと。
・駅家東・服部両小学校の再編により発足することになった小学校は福山市駅家地区北部を全て学区とすることから「駅家東小学校」では方角的に合わなくなるため引き続き使用できなくなったこと。
 今記したように駅家北小学校区は福山市駅家地区北部を学区としている。学区は広大であり、多様な姿を持つ。そういう地域に住む子供をどのように育(はぐく)んでいくのか。駅家北小学校の教職員やPTAの手腕が問われることは間違いないであろう。

今回再編された学校と学区の概要・松永地区編

今津小学校

今津小学校の校門と校舎

項目 記事
所在地 729-0111 福山市今津町1561番地
開校年 1874年(明治7年)
運営自治体の変遷 沼隈郡今津村→沼隈郡今津町→沼隈郡松永町→松永市→福山市
通学区域 今津町
今津町二丁目
今津町三丁目
今津町四丁目(一部地域を除く
(注44)
今津町五丁目(一部地域を除く
(注44)
今津町六丁目
今津町七丁目
高西町一丁目
高西町二丁目
高西町三丁目
高西町四丁目
高西町川尻
高西町真田(さなだ)
高西町南
松永町一丁目(一部地域を除く
(注45)
南今津町
児童数 387人(2019年〔令和元年〕5月1日現在)
進学中学校 福山市立大成館中学校(福山市神村町)…今津地区(注46)
福山市立松永中学校(福山市松永町二丁目)…高西地区
(注47)
学区内を通る
主な幹線道路
尾道・福山自動車道(注48)
国道2号線松永道路(注49)
国道2号線松永・尾道旧道
(注49)
県道47号鞆・松永線
県道48号府中・松永線
県道54号福山・尾道線
学区内の主要施設 今津公民館
今津未来園(幼保連携型認定こども園)
軽自動車検査協会広島主管事務所福山支所
国道2号線松永道路今津ランプ
国道2号線松永道路今津パーキングエリア
尾道・福山自動車道今津ジャンクション
(注50)
高西簡易郵便局
高西公民館
高西コミュニティセンター
中国運輸局広島運輸支局福山自動車検査登録事務所
備南自動車学校
備後今津郵便局
福山市松永ふれあいプラザ
福山市立高西保育所
福山地区消防組合西消防署今津出張所
宮前保育所
学区内の
名所・旧跡・自然
今津本陣跡
長波(おさば)古墳
西国街道(山陽道とも称する)
真田川
高諸神社(おつるぎさんという愛称で知られる神社)
鳥越2号古墳
平櫛田中(ひらぐし・でんちゅう)旧居跡
藤井川
本郷川
薬師寺
蓮華寺(今津脇本陣跡)
学区の特色 ・今津地区(注46)は丘陵部に古墳がいくつかあることや高諸神社は朝鮮半島との関係があること(注51)、地名に港を意味する「津」が入っていることから考えて古くから栄えていたことが推察される。
・今津地区(注46)の本郷川右岸地域は江戸時代西国街道の宿場町として栄えていた。
・1891年(明治24年)11月3日に山陽鉄道(現:JR山陽本線)福山〜尾道間が開業し、唯一の中間駅
(注52)として松永駅(福山市松永町)が沼隈郡今津村(?〜1926)の東端部に近いところに設置されると松永駅に近い地域が発展した。この松永駅周辺地域がその後松永市→福山市松永地区の中心部になっていくわけであるが、そのことからもうかがえるように今津地区(注46)は福山市松永地区の中心部の一翼を担う存在になっている。
・「通学区域」欄を見て今津町一丁目がないことに気付いた方もいるかもしれないのだが、実は今津町一丁目は設定されずじまいになっている。福山市としては国道2号線松永・尾道旧道の南側を並行して通る都市計画道路松永中央線を境にその北側を今津町、その南側を松永町にそれぞれ再編しようとし、現に松永町一丁目と今津町二丁目の境はそのようになっているのだが、松永駅北口駅前広場から北に延びる通り(都市計画道路駅前・府中線。かつては松永駅北口駅前広場から福山市今津町/松永駅入口交差点までの区域は県道192号松永停車場線〔1960〜2005〕であった)との交差点(福山市今津町/松永駅北口交差点)周辺地域では今津町から松永町に編入されることに対して強硬に反対する人が多数いたことから今津町一丁目の設定と今津町一丁目・松永町一丁目への住居表示は行われずじまいになっている
(注53)。福山市の地域感情を無視した行政がもたらした問題である(注54)が、上から目線も甚だしいと思うのは私だけではないであろう。
・学区を構成するもう一つの地区である高西地区(注47)は藤井川左岸地区(真田)が沼隈郡西村(?〜1955)→尾道市西藤町だった地域、藤井川右岸地域(川尻)が沼隈郡高須村(?〜1955)→尾道市高須町だった地域である。沼隈郡高須・西両村は1955年(昭和30年)2月1日に尾道市に編入されるのだが、それを快く思わなかった松永市中心部に近い地域の住民が松永市への編入を求めた結果1955年(昭和30年)7月15日に松永市に編入されることになったものである。
・今津地区(注46)・高西地区(注47)とも幹線道路が整備されつつあり、国道2号線松永・尾道旧道や県道48号府中・松永線の沿線への商業集積が顕著になっている。現在更に整備が進められている幹線道路はいくつもあり、区画整理実施後に今津町・高西町真田の各一部区域をもって発足した南今津町など新たな発展が期待されるところも少なくない。
・市街地化が進んでいる地域ではあるが、一方では学区の真ん中を流れている本郷川をホタルの住む場所にしようという取り組みも行われている。今津小学校区ではホタルをモティーフにしたキャラクターを作ったりホタルが見られる季節にほたるの夕べを開催したりするなどしている。
備考 ・1981年(昭和56年)までは現在今津公民館(福山市今津町六丁目)や今津未来園(福山市今津町六丁目)がある辺りにあった。校地が手狭だったことや建物が老朽化したことから現在地に移転した。
・敷地には福山市今津町で少年時代を過ごした彫刻家・平櫛田中(1872〜1979)を記念した庭園があり、平櫛田中が残した言葉を揮毫(きごう)した石碑が建てられている。
・今津小学校を卒業した児童は原則として全員が大成館中学校に進学するわけではない。高西地区(注47)在住の児童については大成館中学校が遠いことなどから松永中学校(福山市松永町二丁目)に進学するようになっている。なお、今津地区(注46)については福山市教育委員会は松永中学校に進学しても良いとする指定学校変更許可地域を設定していないのでいくら松永中学校が目と鼻の先にあったとしても大成館中学校に進学せざるを得なくなっている。

東村小学校

東村小学校の校門と校舎

項目 記事
所在地 729-0251 福山市東村町2543番地
開校年 1874年(明治7年)
運営自治体の変遷 沼隈郡東村→松永市→福山市
通学区域 東村町
児童数 35人(2019年〔令和元年〕5月1日現在)
学区内を通る
主な幹線道路
山陽自動車道
尾道・福山自動車道(注48)
国道2号線松永道路
学区内の主要施設 山陽自動車道福山西インターチェンジ
生寿園(高齢者介護施設)
東村公民館
福山市立東村保育所
福山大学
ローズ東村(障害者支援施設)
学区内の
名所・旧跡・自然
宇戸山(標高:229.1m)
高岩古墳(戸田一号墳)
永松古墳
学区の特色 ・地名は「東村」だが福山市で最も西にある地域である(注55)
・宇戸山の南麓に平地が広がっており、平地には田畑が広がっている。
・第二次世界大戦終結後間もない1946年(昭和21年)から毎年12月第一日曜日に開催されているかかし祭りは有名で、広島県を放送区域とする都道府県域放送局が当日取材に来るほどである。
・1975年(昭和50年)に福山市初の私立四年制大学・福山大学(福山市東村町)が、1991年(平成3年)に本州・四国連絡橋尾道・今治ルート(西瀬戸自動車道〔愛称:瀬戸内しまなみ海道〕)の本州側の事実上の起点となる山陽自動車道福山西インターチェンジ(福山市東村町)がそれぞれ南部の丘陵地帯に設置されたが、学区内の人口を増やし、過疎化を解消するまでには至らなかった。
・福山市松永地区にある八つの小学校区(他には今津・金江・神村・藤江・本郷・松永・柳津〔やないづ〕がある)の中で唯一学区内を県道路線が通っていない
(注56)。また、学区内を通る高速道路(山陽自動車道及び尾道・福山自動車道)や国道路線(国道2号線松永道路)はいずれも自動車専用道路になっていることから学区内での出入りはできない状況にあり、他の地域との往来には市道を使わざるを得なくなっている。
・今年4月1日をもって鞆鉄道(福山市佐波町)が学区内で運行していた路線バスが全廃されることになっている。
備考 ・福山市で最も西にある市立学校である。

なぜ東村小学校の統合先は今津小学校になったのか

 過疎化・少子化により児童数が減少し、福山市教育委員会によって再編対象になった東村小学校。ではどの学校と統合したほうが好ましいのか。同じ福山市松永地区にあることと学区が隣接していることを条件に考えると今津小学校と本郷小学校が候補として挙がる。その中で福山市教育委員会が統合先に選んだのは今津小学校であった。
 実は東村小学校から見ると今津小学校よりも本郷小学校のほうがわずかながら近い(注28)。更に福山西警察署本郷警察官駐在所(福山市本郷町)は福山市本郷町だけでなく福山市東村町を管轄区域としていることやかつては備後本郷郵便局(福山市本郷町。郵便番号:729-02XX)が福山市本郷町だけでなく福山市東村町を配達区域としていたこと(注57)、本郷小学校は今津小学校の近くにあるような長くて急な坂を上らずに登校できること、福山市東村町と福山市今津町を往来する際、ほとんどの場合福山市本郷町を通ることになること(注27)を考えれば本郷小学校を統合先にしたほうが良いように思うのだが、なぜ今津小学校になったのか。考えられる理由は次の通りである。
・今津小学校は第二次ベビーブーム世代(おおむね1970年代前半に生まれた子供を指す)が小学生だった1981年(昭和56年)に福山市今津町六丁目から現在地に移転しており、施設に余裕があったこと。
・反対に本郷小学校の施設は福山市本郷町の少子化・過疎化が進展していた1992年(平成4年)に新築したことから余裕がなく、東村小学校区在住の児童を受け入れるのが難しかった(と福山市教育委員会は考えていた)こと。
・(国道2号線松永道路が東村小学校区を通過していると書いたことで分かった方もいるかもしれないのだが)実は福山市東村町でも本郷小学校よりも国道2号線松永道路のすぐそばにある今津小学校に近い地域があったこと。
・福山市東村町と福山市今津町を結ぶ市道は中央線がないが普通自動車同士ならば十分すれ違いできるほどの道幅を持っているのに対し、福山市東村町と福山市本郷町を結ぶ市道は狭隘箇所が多い上に分かりにくいこと。
 この他にもここでは書くべきではないと考えたのであえて書かないでいる理由(何かは閲覧者のご想像にお任せしたい)もあるのだが、結局福山市教育委員会は駅家地区にしても松永地区にしても1960〜1980年代の福山市の人口急増期に新設または新築した学校を活用するという方針を採ったことになる。校舎はまだまだ使えることや少子化による児童数または生徒数減少で施設に余裕があることが背景にあるのだろうが、駅家地区はともかく、松永地区はそれが妥当な判断だったのだろうか。私には判断し難い問題である(そもそも学校の統廃合自体賛成ではないし…)。

再編後の学校について

 今津・東村両小学校の再編により発足することになった小学校は下表の通りになった。

項目 記事
名称 福山市立遺芳丘小学校
開校年 2020年(令和2年)
所在地 729-0111 福山市今津町1561番地(元今津小学校校地)
通学区域 今津町
今津町二丁目
今津町三丁目
今津町四丁目(一部地域を除く
(注44)
今津町五丁目(一部地域を除く
(注44)
今津町六丁目
今津町七丁目
高西町一丁目
高西町二丁目
高西町三丁目
高西町四丁目
高西町川尻
高西町真田(さなだ)
高西町南
東村町
松永町一丁目(一部地域を除く
(注45)
南今津町
進学中学校 福山市立大成館中学校(福山市神村町)…今津地区(注46)・東村町
福山市立松永中学校(福山市松永町二丁目)…高西地区
(注47)
学区内を通る
主な幹線道路
山陽自動車道
尾道・福山自動車道
(注48)
国道2号線松永道路(注49)
国道2号線松永・尾道旧道
(注49)
県道47号鞆・松永線
県道48号府中・松永線
県道54号福山・尾道線
学区内の主要施設 今津公民館
今津未来園
軽自動車検査協会広島主管事務所福山支所
国道2号線松永道路今津ランプ
国道2号線松永道路今津パーキングエリア
尾道・福山自動車道今津ジャンクション
(注50)
山陽自動車道福山西インターチェンジ
生寿園
高西簡易郵便局
高西公民館
高西コミュニティセンター
中国運輸局広島運輸支局福山自動車検査登録事務所
東村公民館
備南自動車学校
備後今津郵便局
福山市松永ふれあいプラザ
福山市立高西保育所
福山市立東村保育所
福山大学
福山地区消防組合西消防署今津出張所
宮前保育所
ローズ東村
学区内の
名所・旧跡・自然
今津本陣跡
宇戸山
長波古墳
西国街道
真田川
高岩古墳
高諸神社
鳥越2号古墳
永松古墳
平櫛田中旧居跡
藤井川
本郷川
薬師寺
蓮華寺
備考 ・福山市で最も西にある市立学校の一つである(注58)
・遺芳丘(いほうがおか)小学校を卒業した児童は原則として全員が大成館中学校に進学するわけではない。高西地区
(注47)在住の児童については大成館中学校が遠いことなどから松永中学校に進学するようになっている。なお、今津地区(注46)については福山市教育委員会は松永中学校に進学しても良いとする指定学校変更許可地域を設定していないのでいくら松永中学校が目と鼻の先にあったとしても大成館中学校に進学せざるを得なくなっている。

 この再編により明治時代初頭から120年以上の長きにわたり伝統を紡いできた二つの小学校が消える格好になった。その二つの学校を統合して発足する学校の名称は遺芳湾(注59)と称される松永湾を望む丘の上に建っていることから遺芳丘小学校となった。

今津小学校改め遺芳丘小学校正門付近から眺める松永湾と福山市松永地区中心部

 今津・東村両小学校を統合して発足する小学校の名称に関してはいろいろな案があったのだが、(部外者ではあるのだが)私は遺芳丘小学校という名称は「遺芳」という単語が松永地区の象徴的存在としてとらえられていること(注60)や松永湾を望むところに学校があることを考えると好ましいのではないかと思っているところである。
 福山市松永地区中心部の一翼を担うところやこれからの発展が期待されるところ、地域の歴史を残すところ、田園地帯が広がるところ…と多様な姿を持つ遺芳丘学区。その学区をどのようにしていくのか。そういう地域に住む子供をどのように育んでいくのか。遺芳丘小学校の教職員やPTAの手腕が問われることは間違いないであろう。

これからの再編問題

現在再編問題が浮上している地域について

 この度駅家・松永両地区で市立小学校の再編が行われたわけであるが、福山市教育委員会としては更に三つの地区で市立学校再編に向けた準備を進めている。それを示すと下表の通りになる。

(下表をご覧頂くに当たっての注意)

・下表では学校名は福山市立を、所在地は福山市をそれぞれ省略している。

・統合先に指定している小学校・中学校は統合実施後学校名が変わる可能性がある。

地区名 学校名 所在地 統合先 備考
内海・沼隈 内浦小学校 内海町 千年中学校
(沼隈町草深)
左記7校を統合して内海地区全域と沼隈地区の大半(注61)を学区とする義務教育学校を発足させる計画。
内海小学校 内海町
千年小学校 沼隈町草深
常石小学校 沼隈町常石
能登原小学校 沼隈町能登原
内海中学校 内海町
千年中学校 沼隈町草深
加茂・山野 加茂小学校 加茂町中野 加茂小学校
(加茂町中野)
2002年(平成14年)から休校中の山野北小学校については言及はないが、統合実施時点で正式に廃校になる可能性が高い。
広瀬小学校 加茂町北山
山野小学校 山野町山野
加茂中学校 加茂町下加茂 加茂中学校
(加茂町下加茂)
広瀬中学校 加茂町北山
山野中学校 山野町山野
新市 新市中央中学校 新市町新市 新市中央中学校
(新市町新市)
常金中学校(新市町金丸)の跡地には常金丸小学校(新市町金丸)を移転させることになっている。
常金中学校 新市町金丸

 学校再編を行う一方で福山市教育委員会は常石小学校(福山市沼隈町常石)の跡地にイエナプラン教育(注62)を行う小学校を、広瀬中学校(福山市加茂町北山)の跡地に小学校と中学校を一体化し、福山市全域を通学区域とする特認校・広瀬学園(福山市加茂町北山)をいずれも2022年度(令和4年度)に設置することにしている。多様な学校が発足することになるわけであるが、再編論議の難航が予想される地区も少なくなく、どのように今後展開するのかは予断を許さない状況にある。

現時点で挙がる問題点

 現在福山市教育委員会が市立学校再編を行おうとしている三つの地区について、記すまでもなく問題点がないというわけではない。既に触れたものもあるが、改めてそれぞれの地区における問題点を挙げると下表の通りになる。

地区名 問題点
内海・沼隈 ・もし再編が実施されると内海町から学校がなくなってしまう(注21)
・福山市教育委員会は沼隈郡内海町が1970年代前半に町立学校の再編
(注22)を行った時、田島東部にある内浦小学校(内海町)がその方針に反対して存続を勝ち取ったという過去(注23)を全く無視している。
・内海町に住む子供が沼隈町にある統合先の学校に通うためには内海大橋(全長:832m)を通る必要があるが、台風襲来時に通行止めになる
(注24)と登校または下校できなくなる。
・能登原小学校区では毎年1月第二日曜日にとんど祭りを開催しており、広く知られる年中行事になったが、学校がなくなればその存続が危うくなる。
・(学校再編に賛成するという立場で記すつもりはないことをお断りしておくが)福山市沼隈地区にある山南(さんな)小学校(沼隈町中山南)・至誠中学校(沼隈町上山南)が対象外になったことを疑問視する声が出る可能性がある。
・常石小学校跡地にイエナプラン教育(注62)を行う小学校を設置するというが児童が集まるのかどうか疑問がある。
加茂・山野 ・もし再編が実施されると山野町から学校がなくなってしまう。
・統合先の加茂小学校または加茂中学校までの距離が長くなるところが出る。
・加茂地区中心部〜広瀬地区間には福山市道しか、加茂地区中心部〜山野地区間には県道21号加茂・油木線しかそれぞれ整備された道路がない。
・加茂地区中心部と広瀬・山野両地区を結ぶ道路には異常気象時通行規制区間
(注25)や落石・土砂崩落危険区間(注26)があり、規制がかかると登校または下校できなくなる。
・広瀬地区・山野地区とも山岳地帯にあることから冬は積雪・路面凍結の恐れがある。
・広瀬地区・山野地区とも地域振興に力を入れているが、地域の象徴がなくなることでその動きが停滞する恐れがある。
・広瀬中学校跡地に小学校と中学校を一体化し、福山市全域を通学区域とする特認校・広瀬学園を設置するというが児童・生徒が集まるのかどうか疑問がある。
新市 ・常金中学校跡地に常金丸小学校を移転させるというが常金中学校のすぐ東側を神谷(かや)川が流れており、集中豪雨の際浸水する恐れがある。
・統合先の新市中央中学校(新市町新市)までの距離が長くなるところが出る。
・(人家のあまりない地域の話にはなるのだが)常金中学校区(福山市新市町のうちの金丸・常・藤尾)を通る県道路線には狭隘箇所を抱えているもの
(注63)異常気象時通行規制区間(注64)に指定されているもの、広島県が2017年(平成29年)に制定した落石・土砂崩落危険区間(注65)に指定されているものがあり、通学に支障を来す恐れがある。
・もし新市中央・常金両中学校が統合した場合、新市中央中学校は名称を変更する可能性が高いが、20年足らずで再び改称を余儀なくされることを快く思わない人が出る可能性がある。
全地区
共通
・地域の象徴である学校がなくなることで過疎化に拍車がかかる。
・学校が近くにないために移住しようと思う人がいなくなる。
・統合先の学校は児童数または生徒数が多いことや市街地化や宅地開発が進んだところにあることから子供が何らかの問題(いじめ・登校拒否など)に遭遇しないか不安である。
・まだ児童数または生徒数が多いのに統合の対象にするのは理不尽極まりない。
・廃校になった後の敷地・建物の利用が定まるかどうかが分からない。

 まあここでいくつも問題点を挙げたところで事態が止まるということは恐らくないのだが、浮上してくる問題点に対してどのような回答を出し、関係者を納得させるのか。それが福山市教育委員会には求められることになろう。

対象は更に拡大するのか

 21世紀に入ってから休校または廃校になったか福山市教育委員会によって再編の対象になり、再編実施後は学校としては使用されなくなることになっている学校は中心部から遠く離れているところや交通が不便なところ、人口減少が著しいところ、人口が少ないところがほとんどである。下関市と異なって学校再編が市民の関心事にならないのは無理からぬことである。恐らく来月5日に実施される市議会議員選挙や今夏実施予定の市長選挙で争点となる可能性は高くないであろう(そもそもその前に選挙自体盛り上がらないという問題があるのだが…)。
 今のところ福山市教育委員会はこれ以上の学校再編に関する計画は公にしていないが、私には気になることがある。それは郊外だけでなく中心部にある学校も対象にするようになるのではないかということである。福山市より人口が少ない尾道市・呉市・府中市・下関市では既に行われている(注66)のだが、反対に福山市より人口が多い都市でも行われたところがある。それは中国地方では広島市に次いで人口が多い岡山市である。
 岡山市では中心部の人口が減少し、中心部にある小学校・中学校の小規模化が生じていた。そこで岡山市教育委員会は下表に示すような学校再編を実施した。

※下表では学校名は岡山市立を、所在地は岡山市をそれぞれ省略している。なお、地名は現在のものを記している。

記事
1999年
(平成11年)
・旭中学校(北区蕃山〔ばんざん〕町)と丸之内中学校(北区丸の内二丁目)を統合し、旭中学校の跡地に岡山中央中学校(北区蕃山町)を開校させる。
2001年
(平成13年)
・内山下小学校(北区丸の内一丁目)と深柢(しんてい)小学校(北区中山下二丁目)を統合し、深柢小学校の跡地に岡山中央南小学校(北区中山下二丁目)を開校させる。
・弘西(こうさい)小学校(北区弓之町)と南方小学校(北区南方一丁目)を統合し、南方小学校の跡地に岡山中央北小学校(北区南方一丁目)を開校させる。
2002年
(平成14年)
・出石(いずし)小学校(北区幸町)を廃校にし、在籍していた児童を岡山中央北小学校・岡山中央南小学校・鹿田小学校(北区大供〔だいく〕表町)に転校させる。
2005年
(平成17年)
・岡山中央北小学校と岡山中央南小学校を統合し、弘西小学校の跡地に岡山中央小学校(北区弓之町)を開校させる。

現在も残る岡山市立内山下小学校の門柱と校名板。
岡山市立内山下小学校は岡山城(岡山市北区丸の内二丁目)の西丸西手櫓(奥に下部だけ写っている)が校庭の片隅に残っていることでも知られていた(注67)
奥に見える円形の建物は岡山シンフォニービル(岡山市北区表町一丁目)である。

 2000年(平成12年)に岡山市立内山下・弘西・深柢・南方各小学校に入学した児童は6年間で二度も学校を変わらなければならなかったことや岡山市立出石小学校に通っていた児童は三つの小学校に分かれることになったことなどどうかと思う面があるのだが、なぜ岡山市は中心部の学校再編を断行したのか。次に挙げる事情があったからではないかと考えている。
・岡山市は他の中国地方の人口上位都市、すなわち倉敷市・広島市・呉市・福山市・下関市と異なって工業都市ではないために財政が潤沢とは言えないこと。
・確かに岡山市は中国地方では広島市に次いで人口が多い都市ではあるが、狭い広島平野の中に中心部がある広島市とは異なって広大な岡山平野の中に中心部があるため人口が分散していること。
・再編対象になった学校は児童数または生徒数が著しく減少していたこと(下表参照。なお学校名は岡山市立を省略している)。

※廃校時点の児童数または生徒数は岡山県立図書館公式サイト内の「デジタル岡山大百科」にある「想いでの学び舎(や)〜ラジコンヘリによる空撮記録〜」に記載されていたデータを記載している。

種類 学校名 廃校時点の
児童数または生徒数
(単位:人)
備考
小学校 出石 62
内山下 78
弘西 188
深柢 67
南方 127
中学校 297
丸之内 143

・小学校については複式学級を編成せざるを得なくなるため教職員の負担が重くなることが、中学校については教科ごとに教職員を配置せざるを得ず、かえって非効率になることやまとまった人数がないと結成できない部活動が生じることがそれぞれ問題になっていたこと。
 児童数または生徒数を増やすことは考えられなかったのかとかまだ十分な児童数または生徒数があるのに再編の対象にするのはどうなのかとか学校再編後中心部の人口がどのようになったのかとかもし都心回帰が岡山市でも生じているのなら教室は足りているのかというような疑問が生じるのだが、では福山市中心部の場合はどうなのか。2019年(令和元年)5月1日現在の福山市中心部にある小学校6校・中学校5校(注68)の状況は下表の通りになっている。

※下表では学校名は福山市立を、所在地は福山市をそれぞれ省略している。

種類 学校名 所在地 児童数
または
生徒数
(単位:人)
備考
小学校 入船町一丁目 262
霞町三丁目 273
樹徳 木之庄町一丁目 529
西 西町一丁目 425
東町三丁目 313
明治町 304
中学校 城南 光南町三丁目 720
城北 木之庄町四丁目 710
鷹取 草戸町四丁目 248
中央 西深津町五丁目 309
三吉町南二丁目 452

 上表からまだまだ福山市中心部の小学校・中学校の児童数または生徒数は多いことがうかがえるのだが、そのことから考えれば当面は福山市教育委員会は中心部の学校については現状維持とする可能性が高いと言えよう。無論今後どうなるかは分からないのだが、きめ細かな行政サービスは継続して頂きたいと思うところである(注69)

最後に

 今回は学校の統廃合の問題について取り上げたわけであるが、学校の再編に対する関係者の思いはどのようなものであろうか。小学校入学前の1年間通っていた福山市立の幼稚園が十数年前に休園になったという経験を持つ中島さんは「休園になるという話を知った時は30代初頭で、卒園からはかなりの年数が経っていた。だから当時の思い出と言ってもほとんど忘れてしまった。けれどそれは自分を構成してきたものがなくなるということであり、本当に残念だという思いを持ったものである。その幼稚園の前は時々通るのだが、長らく放置されている無人の建物を見るといつも淋しい思いを抱く」と話している。考え方は一様ではないのだが、恐らく中島さんと同じく多くの方が無念の思いを抱くのではないのだろうか。
 そんな中島さんは学校について本来の役割以外にも次に挙げる役割があると考えているという。
・地域の象徴
・地域の中心的存在
・人々の生活があることを示す証
 そのように思うようになった契機は中島さんが小学校5年生だった1982年(昭和57年)の夏休みに経験したある出来事であった。
「地元の社会人野球チーム(NKK硬式野球部〔現:JFE西日本硬式野球部〕)が後楽園球場(東京都文京区後楽一丁目。1937〜1987)で開催されていた第53回都市対抗野球大会に出場して勝ち進んだ(注70)というので父親(昨年8月86歳で逝去)と二人で地元の社会人野球チームを応援するために東京に行ったんですよ。それが自分にとっては初めての東京行きでした。その時後楽園球場以外にも皇居や新宿、池袋にも行ったのですが、京王プラザホテル(東京都新宿区西新宿二丁目)の真ん前に福山市では見ないような形の小学校があるのを見かけたんです」
 その小学校は中島さんの話によると新宿区道に沿って校舎が建ち(区道と校舎の間はあまり空間がなかったとのこと)、校舎の1階の一部が開けられて校門(新宿区道と校庭を結ぶ通路)になっていたのだという(小学校5年生の時の話であることと40年近く前の話であることから記憶違いの可能性もあるので注意)。十分な土地が確保できない大都会の中心部(注71)の学校であることを感じさせるのだが、中島さんはこのように思ったのだという。
「当時の新宿と言えば京王プラザホテルなどの高層ビルが建ち並ぶようになった一方で歌舞伎町ラヴホテル連続殺人事件(1981年〔昭和56年〕3月20日/4月25日/6月14日/6月25日(注72)。いずれも未解決(注73))や歌舞伎町ディスコナンパ殺傷事件(1982年〔昭和57年〕6月6日。未解決)が世間を騒がせていて怖い町なんだなと子供心に思ったものでした(注74)。その小学校はそれらの事件の起きたところ(注75)からそんなに離れておらず、なおかつ高層ビルが建ち並んでいるところにあったんですが、その小学校を見てこういうところにも人々が暮らし、子供達は学校生活を謳歌(おうか)しているんだなという思いを抱いたものでした。まあ学校ならどこにでもあるだろうとか田舎(いなか)者が何を言うのかとか地域の人々に失礼だろうとかいう指摘は受けるかもしれませんが当時の私がそのように思ったのは事実です」
 世間を騒がせた事件の舞台の近くに、高層ビルが林立しているところに福山市で見るものとは異なる小学校があるということに中島さんは衝撃と感銘を受けたというわけであるが、残念なことに中島さんが見た小学校、すなわち新宿区立淀橋第二小学校(東京都新宿区西新宿二丁目)は中島さんが初めて東京に行った時から3年半ほど後の1986年(昭和61年)春に児童数減少を理由に廃校になり、跡地は新宿ファーストウェストという高層ビルになったのだという(注76)。その後京王プラザホテルを中心とした地域、すなわち新宿区西部はドーナツ化現象が進展したことなどで人口が減少し、地域内の小学校・中学校のほとんどは統廃合の憂き目に遭う(注77)のだが、それでどれだけの方が無念の思いを抱いたのだろうか。
 中島さんの考え方には賛否両論あるのだが、中島さんの話を聞いていて私は学校というものは地域と一体の存在ではないかという気がした。そもそも学校というものは需要、すなわちある程度の人口(児童数または生徒数と置き換えても良い)があって初めて設置されるのだが、学校があることで次に挙げるような効果がもたらされていることは紛れもない事実であろう。
・学区の行事などで施設を利用できること。
・経済効果が期待できること。
・学校の周辺地域に卒業生及びその家族が多数住んでおり、愛着が生じること。
・卒業生に著名な人が出た場合、誇りを持てるようになること。
・同じ学校出身者だった場合、共通の話題で盛り上がれる可能性があること。
・学校から聞こえる音や声は地域に賑やかさと活気をもたらすこと。
 そのことを学校を運営する方々はどのようにとらえているのだろうか。確かに需要がなくなった(=人口が減り、進学する児童または生徒が少なくなった)とか財政事情が厳しいとか小規模な学校では教育効果は十分発揮できないとか学校を廃止するための大義名分はいくつも挙げるのだろうが、それで地域はどうなるのか、そして学校に関係する方々はどのように思うのか考えたことはあるのだろうか。「そこまで我々は考えない」とか「我々の知ったことではない」などと言うのだろうが、もう少しその点に考えを及ばせて頂きたいものだと思っている。
 一方で中島さんはこのようなことも訴えている。
「子供は人生経験が少ないし、未熟だし、大人が問題視しないことや些細(ささい)なこと、他人が良いだろうと思っていることでも傷付きやすい。大きな変化が起きる時はきちんと説明し、激変緩和措置をとる必要があると思いますね」
 まあ子供にとってみればクラス替えや級友の転校、自分自身の家庭の都合による転校、教職員の異動も大きな変化にはなるのだが、中島さんの言う「大きな変化」とは次に挙げるものである。
・学校の新設または廃止による転校。
・児童数または生徒数の減少や教職員の不足(注78)などに起因するクラス数削減。
 実は今挙げた二つの事柄はどちらも中島さんが経験したことである。その詳細などを示すと下表の通りになる。

中島さんの言う
「大きな変化」
中島さんの証言
(文中で出てくる学校は全て福山市立)
学校の新設または廃止による転校 ・自分はX小学校に入学したが、2年生の時に当時の自宅の近くにY小学校が開校したのでそこに通うことになった。
・Y小学校が当時の自宅近くに建設されていることを知ったのは小学校1年生の秋頃だったように思う。
・Y小学校に転校せざるを得なくなったことを知った時は多くの級友と別れることになるので寂しい思いがしたものだった。
・X小学校への最終登校日は1979年(昭和54年)3月24日だった
(注79)が、体調を崩し、父親の運転する車ですぐに帰宅したような覚えがある。よって十分級友などにお別れの挨拶ができなかったのが心残りになった(注80)
クラス数削減 ・Y小学校3年生の時とZ中学校2年生の時に経験している。
・Y小学校に転入した時自分の学年は4クラスあった。しかし、3年生の時から3クラスになった。2年生の時在籍したクラスの人数が確か35人前後だったことや教職員が足りなかったことなどがクラス数削減の理由だったのではないかと思うが詳細は全く知らない。
・Z中学校に入学した時自分の学年は8クラスあった。しかし、2年生の時から7クラスになった。自分の家の真向かいに住んでいた同級生など多くの生徒が転校し、生徒数が320人を下回ったことがクラス数削減の理由だったのではないかと思うがこちらも詳細は全く知らない。
・私が小学生・中学生だった頃、文部省(現:文部科学省〔東京都千代田区霞が関三丁目〕)はクラスの在籍人数を40人までとするいわゆる40人学級を推進していたはずなのに結局は実施されずじまいになった
(注81)。結果、小学校3〜6年と中学校2〜3年、高校時代に在籍したクラスはいずれも40人を超過していた。最大で48人になったこと(注82)もある。
・私と同世代の方は第二次ベビーブーム世代
(注83)だったことや教職員が足りなかったこと、子供の多い時代は数年で去ると見ていたことなどから40人以上学級になったことは致し方のないこととはとらえているが、それにしては説明がなく、子供に苦役を強いるのはどうなのだろうかと今感じているところである。
・40人以上学級など児童数または生徒数が多い状況は教職員にもかなりの重荷になっていたのでは…と考えている。Z中学校では採用後わずか数年で退職した女性教諭
(注84)やたった1年いただけで別の学校に転勤した男性教諭(注85)がいたが相当心労がたまっていたのかなと思いたくなる(注86)
・クラス数削減で残念だと思うことはもう一つある。自分は1年1組・2年2組・3年3組に在籍したことはある
(注87)が小学校の時のクラス数削減により4年4組には在籍できなくなってしまった。どうでも良いことではあるが…。

 中島さんの小学校・中学校・高校時代は今から30〜40年ほど前の話なのだが、当時は上(教育委員会・学校など)の決めたことには従うべきであり、事情を知らない保護者や世間を知らない児童・生徒からの異論は一切認めないという雰囲気が強かった。児童または生徒及びその保護者の感情は全くと言って良いほど無視されていたというわけであるが、時が流れ、人権意識が高まり、児童または生徒及びその保護者の感情に対して配慮が必要だとされるようになった今日、果たして状況はどうなったのだろうか。
 企業や官公庁などにとって整理という行為は必要なものである。記すまでもなくこれまでいろいろなものが財政事情や経営事情の改善などを大義名分として整理されてきた。それで生き残れたところも少なくない。しかし、次に挙げることはどのようにとらえているのだろうか。
・整理対象になったものがある地域の衰退に拍車をかけた。
・整理に際して十分な説明を行わず、整理対象になったものに関係する人々の不信を買った。
・整理断行後一般市民への接し方がぞんざいになった。
・整理を断行することに対して理解はするが整理断行後の将来像を描けているところがないような気がする。
・他にも方法はあったのでは…と思いたくなることが多い。
・整理対象になったものに関係する人々に対して苦役や負担を強いる結果になっている。
・整理を行ったことでどれだけの効果がもたらされたのか全くと言って良いほど公開していない。
・人権侵害だととらえる方が少なくない。
・そもそも整理するに至った理由を明らかにしていない場合が多い。
・整理断行以外眼中にない態度をとる場合が多い。
 企業や官公庁の都合が優先されれば泣く人や憤慨する人が多数出るし、反対に一般市民の感情や要望を優先すれば企業や官公庁は立ち行かなくなり、混沌(こんとん)とした状況が生まれることであろう。それをどのように両立させるかがこれからの社会には求められるのではないのだろうか。「社会は厳しくなくてはダメだ」とか「我々の考えていることが正しい」とか「そんな甘え事など聞いていられるか!!」などと言うのだろうが、前に記したように現代は人権意識が高まり、相手の感情に対して配慮が必要になっている。もう昔のようなやり方では通用しないことにそろそろ気付くべき時期だと私は思うのである。
 今後福山市の学校再編問題はどのようになっていくかは分からない。論議の結果撤回されるところが出るのか、更に対象になるところが出るのか、そして再編対象になった学校に関係する人々はどのようになるのか。前にも記したように今年実施される市議会議員選挙や市長選挙では争点になる可能性は低いが、新宿区・岡山市・尾道市・呉市・府中市・下関市の例を考えるとまだまだ児童数または生徒数の多い学校が多い中心部でも関心を持っても良いのではないかと思っているところである。福山市内にある学校の中には長い歴史と多くの卒業生を持つのに未だに同窓会組織すらないところや毎年3月に福山市内で開催される中国新聞社旗少年少女親善球技大会(注88)に児童数が少ないわけでもないのにチームが構成できないために出場を見合わせている小学校区があるのだが、そういう状況を福山市教育委員会が見て「この学校は地域に対する関心が低いのでまだまだ児童数または生徒数が多いけれど再編の対象にします」などと言い出したらどうするつもりなのだろうか。小学生・中学生を持つ方は異動(注89)の多い世代に相当することから地域への関心や愛着を持たなくなる傾向があり、それ故に同窓会が設立されなかったり中国新聞社旗少年少女親善球技大会への出場を見合わせたりするという現実が生じているとも言えるのだが、郊外で進められている学校再編を対岸の火事として看過するのではなく、このままでこの地域は良いのかと思う契機にすることはできないものであろうか。中島さんの言うように学校は地域の象徴であり、地域の中心的存在であるという役割も持っているのであればその思いは尚更である。
 果たして今後どんな論議があるのか。そして地域はどのように変わっていくのか。私は今後もこの問題に注目していくことにしている。

(注釈コーナー)

注1:福山市にある市立高校、すなわち福山市立福山高等学校(福山市赤坂町赤坂)と市立大学、すなわち福山市立大学(福山市港町二丁目)も幾多の再編を経ている。その概要は下表の通りである(下表では学科の再編については省略したことと現在の地名で所在地を記していることをご了承願いたい)。

学校名 概要
福山市立福山高等学校 ・1899年(明治32年)に創立された私立女学校を始祖とし、幾多の変遷を経た(あまりにも複雑なので詳細は福山市立福山中学校・高等学校の公式サイトをご覧頂きたい)が、1969年(昭和44年)に福山市が広島県福山女子高等学校(福山市地吹町。1965〜1969)を移管させたことにより発足した(発足時点の校地は現在福山市老人大学〔福山市地吹町〕になっている)。
・発足当初は女子校だったが、1974年(昭和49年)に現在地に移転した時に共学校に移行した(前身の私立学校時代に男子部を設置し、共学校になっていたことがあったが10年ほどで廃止している)。
・2004年(平成16年)に中学校を設置して中高一貫校に移行したことにより福山市立福山中学校・高等学校に改称した(ちなみに前身の私立学校時代に併設中学校を設置していたことがあったがわずか数年で休校し、福山市移管時に正式に廃止されている)。
福山市立大学 ・1963年(昭和38年)創立の福山女子短期大学(福山市北本庄四丁目。1963〜1974)を始祖とする。
・1974年(昭和49年)に福山市が福山女子短期大学を福山市に移管させたことにより前身の福山市立女子短期大学が発足した(ちなみに福山女子短期大学を運営していた学校法人は併設校として増川学園増川高等学校〔福山市北本庄四丁目。1948〜1975〕を有していたがこちらは広島県に移管され、広島県立北陽高等学校〔福山市北本庄四丁目。1975〜1988〕→広島県立福山明王台高等学校〔福山市明王台二丁目〕となっている〔北陽高等学校時代までは女子校だったが福山明王台高等学校になった時に共学校になっている〕)。
・福山市立大学は2011年(平成23年)に共学校として発足したが、それに伴い福山市立女子短期大学は2010年度(平成22年度)をもって学生の募集を停止し、2012年(平成24年)3月末をもって廃止された。
・福山市立大学は中国地方にある市立四年制大学としては下関市立大学(下関市大学町二丁目。前身校は下関商業短期大学〔下関市貴船町三丁目。1956〜1966〕)以来の市立短期大学とは別の場所で市立四年制大学を設置した事例となった。但し福山市立女子短期大学の跡地を福山市立大学が引き続き使用している点が下関市立大学とは異なる(下関商業短期大学の跡地はその後官公庁や公園などになっている。なお、中島さんによると下関商業短期大学があったことを示す物件〔石碑や看板〕は現地には全くないとのことである)。

上表から福山市は私立学校を移管させることで市立高校・市立短期大学→市立大学を有するに至ったことがうかがえるのだが、こういう都市も珍しいと言える。

注2:該当するのは福山市立伊勢丘小学校(福山市伊勢丘五丁目)と福山市立曙小学校(福山市曙町五丁目)である。伊勢丘小学校は1968年(昭和43年)設置の福山市立大門小学校伊勢丘教場を、曙小学校は1969年(昭和44年)設置の福山市立川口小学校教場をそれぞれ前身としている。

注3:福山市東吉津町は1983年(昭和58年)11月21日に実施された住居表示により発足した町である。前身は福山市北吉津町であった。
※福山市西深津町五丁目と福山市東吉津町の境は福山市立西深津小学校の敷地を流れている川になっている。

福山市立西深津小学校の敷地の間を流れている川(北側から撮影)。
川の左側が福山市西深津町五丁目、川の右側が福山市東吉津町となる。

注4:1966〜1997年(昭和41年〜平成9年)に福山市が編入した自治体は芦品郡芦田町(1955〜1974)・芦品郡駅家町(1947〜1975)・深安郡加茂町(1955〜1975)の三つである。それぞれの自治体が福山市に編入された時点で存在した町立学校は下表の通りである。

(下表をご覧頂くに当たっての注意)

・学校名は小学校については町立と小学校を、中学校については町立と中学校をそれぞれ省略している。

・分校は「○○・××」と表記している(正式な表記は○○小学校××分校または○○中学校××分校となる)。

・所在地は大字(おおあざ)のみで記している。

自治体名 所有学校及び所在地 備考
小学校 中学校
芦品郡芦田町 有磨(上有地)
福相(福田)
芦田(下有地)
芦品郡駅家町 駅家(倉光)
服部(助元)
服部・本郷(服部本郷)
宜山(今岡)
駅家(法成寺) 服部小学校本郷分校は1970年(昭和45年)から休校。
深安郡加茂町 加茂(中野)
広瀬(北山)
山野(山野)
山野北(山野)
加茂(下加茂)
広瀬(北山)
山野(山野)

注5:現在福山市内にある中高一貫校は下表の通りである。

(下表をご覧頂くに当たっての注意)

・学校名は中学校・高等学校を省略している。

・所在地は福山市を省略している。

・過去に中学校があったが休止または廃止していたところの中高一貫校移行年は現在ある中学校が設置された年としている。

学校名 所在地 中高一貫校
移行年
備考
国立広島大学附属福山 春日町五丁目 1952年
(昭和27年)
1978年(昭和53年)国立広島大学教育学部附属福山中学校・高等学校から改称。
福山市立福山 赤坂町赤坂 2004年
(平成16年)
注1でも触れたが前身の一つである門田(もんでん)女子高等学校(1948〜1953)が発足した時に中学校を設置したが1952年(昭和27年)に募集を打ち切り、福山市に移管した1969年(昭和44年)に正式に廃止されている。
盈進 千田町千田 1992年
(平成4年)
前身の盈進(えいしん)商業高等学校(1948〜1962)が発足した時に中学校を設置したが1959年(昭和34年)に募集を打ち切り、1961年(昭和36年)から休校状態になっていた。
英数学館 引野町 1983年
(昭和58年)
1994年(平成6年)には小学校も設置し、小中高一貫教育を実施している。
近畿大学附属広島 佐波町 1994年
(平成6年)
正式名称は近畿大学附属広島高等学校・中学校福山校(2013年〔平成25年〕近畿大学附属福山中学校・高等学校から改称)。
銀河学院 大門町大門 1997年
(平成9年)
福山女子高等学校(1980〜1998。記すまでもないが福山市立福山中学校・高等学校の前身校とは無関係)として発足。1997年(平成9年)に銀河学院中学校(開校当時から共学校)が開校したことと女子校から共学校に移行したことから1998年(平成10年)に銀河学院中学校・高等学校に改称。
2008年(平成20年)にはぎんがの郷小学校が開校し、福山市では二番目の小中高一貫教育校に移行している。
福山暁の星女子 西深津町三丁目 1952年
(昭和27年)
福山市唯一の女子校。
運営者の福山暁の星学院(西深津町三丁目)は他に幼稚園・小学校(いずれも共学)を同じ敷地内で運営している(名称はそれぞれ福山暁の星幼稚園・福山暁の星小学校となる)が入園対象または入学対象が異なること(幼稚園・小学校…男女双方/中学校・高等学校…女子のみ)もあり幼小中高一貫とはなっていない。

昭和時代末期の時点では3校しかなかった中高一貫校が7校に増えた背景としては次のようなことが挙げられる。
・総合選抜制度の導入により福山市内の公立高校の水準が著しく下がったこと。
・福山市外の私立学校に進学する子供が少なくなかったこと。
・少子化が進展していくと高校だけでは立ち行かなくなるという危機感が生じたこと。
・なるべくならいろいろな問題を抱えている公立学校に子供を進ませたくないという親が増えたこと。
・中高一貫校として長い歴史を有する国立広島大学附属福山中学校・高等学校や福山暁の星女子中学校・高等学校が多くの著名な人材を世に送り出していること。
・中高一貫校化することで学校の水準や印象、魅力を向上させたかったこと。

注6:深安郡市・大津野・春日・坪生各村の所属郡は1898年(明治31年)9月30日までは深津郡(721〜1898)だった。深津郡は1898年(明治31年)10月1日に安那郡(?〜1898)と統合して深安郡(1898〜2006)に移行したため消滅した。
※ちなみに深津郡は721年(養老5年)に安那郡から安那郡の南部地域(現在の地名で記すと御幸・千田・蔵王・春日・坪生各地区から南の地域)が分離して発足した郡である。つまり、深安郡の発足は深津・安那両郡の再統合だったということになる。

注7:実は今でも「深安町」が見られる資料が存在する。広島県公式サイトや広島県庁(広島市中区基町)の資料室、広島県立図書館(広島市中区千田町一丁目)で閲覧できる「国・県道路線一覧表」(広島県公式サイト掲載分〔過去3年分のみ閲覧可能〕はこちら)を見ると県道379号坪生・福山線の起点は「福山市深安町坪生」と記されている(現在の起点の正式な地名表記は福山市坪生町)。福山市坪生町がかつては深安郡深安町に属していたことを示す貴重な資料となっている(県道379号坪生・福山線は深安郡深安町在りし頃の1960年〔昭和35年〕10月10日広島県告示第682号により認定)。
※ちなみに「国・県道路線一覧表」を見ると地名表記が平成の大合併以前(言い換えれば2003年〔平成15年〕2月2日時点)の市町村名のままになっている箇所が多数存在する。いくら今年2月8日に最後の県道路線異動(福山市がJR山陽本線備後赤坂駅〔福山市赤坂町赤坂〕の駅前通りを拡幅整備することを目的として2010年〔平成22年〕2月8日広島県告示第88号により県道191号備後赤坂停車場線〔1960〜2010〕を廃止し、福山市に移管させたこと)から10年を超え、少なくとも今夏までは県道路線の異動がないとはいえこの状況はどうなのかなと思いたくなる。

かつて県道191号備後赤坂停車場線だった道(都合により画像処理を施している)。
現在ある道は2015年(平成27年)春に完成したものである(こちらでそのことは触れている)。

注8:中国地方における市の消滅は実は松永市が初めてではない。山口県にあった赤間関(あかまがせき)市(1889〜1902)が初めてである。赤間関市は1902年(明治35年)6月1日に下関市に改称したため消滅している。

注9:2018年(平成30年)4月21日に浅口市(2006年〔平成18年〕3月21日に岡山県浅口郡鴨方・金光・寄島各町が統合して発足)の市制施行からの日数が4,415日になり、松永市の存在日数の4,414日を超えたためである。今後中国地方で市制施行する可能性のある自治体としての町村は人口が5万人を超えている広島県安芸郡府中町があるが、市制施行を目指していた時期があるものの状況があまりにも厳しすぎること(広島市に取り囲まれていることや広島県が定める市制施行要件を満たしていないことなど)や強硬姿勢をとってまでも市制施行しようという姿勢が見られないこと、2016年(平成28年)5月29日実施の町長選挙の結果町制維持派の町長に代わったことなどから市制施行の可能性は遠のいてしまっている。よって当面の間松永市が中国地方最短命の市の座に就き続けることになるものと思われる。

注10:推計人口上は1971年(昭和46年)頃福山市の人口が下関市の人口を抜いたのではないかと思われる。

注11:1975年(昭和50年)10月1日実施の国勢調査によると福山市の人口は32万9,714人になっていた。そのことから考えると恐らく芦品郡駅家町と深安郡加茂町を編入した1975年(昭和50年)2月1日時点で人口は30万人を超えていたのではないかと思われる。

注12:例えば福山市の北西隣にある府中市では下表に掲げる市立学校が20世紀中に廃校の憂き目に遭っている。

※下表では学校名は府中市立を、所在地は府中市をそれぞれ省略している。

学校名 所在地 概要
阿字小学校 阿字町 1984年(昭和59年)大正小学校(木野山町)と統合して北小学校(木野山町。2010年〔平成22年〕廃校)に移行。
荒谷小学校 荒谷町 1972年(昭和47年)西小学校(出口町。2008年〔平成20年〕廃校)に統合。
岩谷小学校父石分校 父石町 1959年(昭和34年)下川辺小学校(篠根町)と統合して明郷小学校(篠根町。現:明郷学園)に移行。
河佐小学校 河佐町 1972年(昭和47年)明郷小学校に統合。
下川辺小学校 篠根町 1959年(昭和34年)岩谷小学校父石(ちいし)分校(父石町)と統合して明郷小学校に移行。
大正小学校 木野山町 1984年(昭和59年)阿字小学校(阿字町)と統合して北小学校に移行。
大正小学校空木分校 木野山町 1981年(昭和56年)大正小学校本校(木野山町。1984年〔昭和59年〕廃校)に統合。

現在も残る府中市立荒谷小学校の建物。
この建物の完成時期は分からないが校舎として使用された期間は短かったのではないかと思われる。

注13:福山市と周辺自治体との合併問題は1972年(昭和47年)に福山市が周辺の七つの町(芦品郡芦田町・芦品郡駅家町・芦品郡新市町・沼隈郡内海町・沼隈郡沼隈町・深安郡加茂町・深安郡神辺町)に合併の申し入れを行ったことに端を発する。

注14:その合併の状況は下表の通りである。

実施年月日 内容 備考
2003年(平成15年)2月3日 芦品郡新市町と沼隈郡内海町を編入する。 中国地方及び広島県における平成の大合併第一号。全国で見ると2003年(平成15年)最初の市町村合併でもある。
この時点で沼隈郡沼隈町との合併論議は進展していなかったため沼隈郡内海町改め内海地区と福山市の他の地域との往来は沼隈郡沼隈町を経由せざるを得ない飛び地状態になった。
この合併により福山市の人口は40万人を超えた。また、芦品郡が所属町村がなくなったことにより消滅した。
2005年(平成17年)2月1日 沼隈郡沼隈町を編入する。 この合併により内海地区の飛び地状態が解消された。また、沼隈郡が所属町村がなくなったことにより消滅した。
2006年(平成18年)3月1日 深安郡神辺町を編入する。 現時点で広島県における最新の市区郡町村異動になっている。
この合併により深安郡が所属町村がなくなったことにより消滅した。

注15:2003〜2006年(平成15〜18年)に福山市が編入した自治体で、福山市に編入された時点で存在した町立学校は下表の通りである。

(下表をご覧頂くに当たっての注意)

・学校名は小学校については町立と小学校を、中学校については町立と中学校をそれぞれ省略している。

・所在地主義をとっているため福山市が編入した自治体にあった組合立学校も町立学校として下表に入れている。

・分校は「○○・××」と表記している(正式な表記は○○小学校××分校または○○中学校××分校となる)。

・所在地は大字のみで記している。但し大字を設定していない沼隈郡内海町については便宜上田島(沼隈郡田島村〔1889〜1955〕だった区域)と横島(沼隈郡横島村〔1889〜1955〕だった区域)を大字として記している。

自治体名 所有学校及び所在地 備考
小学校 中学校
芦品郡新市町 網引(宮内)
新市(新市)
常金丸(金丸)
戸手(戸手)
中央(新市)
常金(金丸)
中央中学校は福山市中心部に同名の学校があるため福山市編入時に新市中央中学校(新市町新市)に改称している。
沼隈郡内海町 内浦(田島)
内海(横島)
内海(田島)
沼隈郡沼隈町 山南(中山南)
千年(草深)
常石(常石)
能登原(能登原)
至誠(上山南)
千年(草深)
至誠中学校は厳密には福山市・沼隈郡沼隈町学校組合が運営していた中学校。沼隈郡沼隈町に学校があったためここに記載している。
深安郡神辺町 神辺(川南)
竹尋(下竹田)
中条(東中条)
中条・三谷(三谷)
道上(道上)
御野(下御領)
湯田(川北)
神辺(湯野)
神辺西(川北)
神辺東(下竹田)
中条小学校三谷分校(神辺町三谷)は2003年(平成15年)から休校。

注16:福山市から撤退した主な全国展開の企業を挙げると下表の通りになる。

企業名 本社所在地 概要
イトーヨーカ堂 東京都千代田区二番町 1999年(平成11年)進出。福山店(入船町三丁目。1999〜2019)は最西端の店舗であった。2018年(平成30年)にイズミ(広島市東区二葉の里三丁目)と業務提携したことにより2019年(平成31年)2月11日をもって閉店。福山店閉店時点で中国地方に他に店舗はなかったため福山店閉店をもって中国地方から撤退した。
福山店だった建物は現在ゆめタウン福山として使用されている。
コジマ 宇都宮市星が丘二丁目 現在福山リハビリテーション病院(明神町二丁目)があるところにかつてあった家電量販店。すぐ近くにヤマダ電機(高崎市栄町)の店舗があったこともあり苦戦したのか撤退した。記すまでもないが当時の建物は既にない。
小僧寿し 東京都中央区日本橋蛎殻町一丁目 かつては市内各所に店舗があったが他社との競争に打ち勝てなかったことや店舗を展開していた会社が倒産したことから2014年(平成26年)秋に全て廃業した。跡地は持ち帰り弁当店などになっているが、廃業からかなりの年数が経過した今も看板が残っているところもある。
かつてほどの勢いがなくなり、経営状況が厳しくなっていることもあって公式サイトによると現在中国地方には11店舗(鳥取県8店舗/岡山県2店舗/広島県1店舗)しかない。福山市から見て最も近い小僧寿しの店舗は益野店(岡山市東区可知二丁目。福山市中心部から70kmほど離れている)となっている。
そごう 東京都千代田区二番町 1992年(平成4年)進出。福山そごう(西町一丁目。1992〜2000)は大きな建物と豪華な内装、複々線のエスカレーターが目を引いた百貨店であったが、バブル景気終焉後に開店したことや都市規模・商圏・経済圏に見合った店舗ではなかったこと、福山駅(三之丸町)から少し離れたところにあり、不便さが否めなかったことなどから苦戦した。このような状況だったため経営破綻の際に整理対象になり、2000年(平成12年)暮れに閉店した。
福山そごうだった建物はその後福山ロッツ(2003〜2013)→エフピコRim(2013〜2020)として使用されているが、商業施設として長続きしていない点や老朽化が進んでいる点などが問題になっており、今後どのように扱うべきなのか福山市などを悩ませる事態になっている。
なお、そごうはその後そごう・西武という社名に変更し、イトーヨーカ堂とともにセブン&アイ・ホールディングスの傘下に入っている(左記の本社所在地はそごう・西武のものを記載)。
ダイエー 東京都江東区東陽二丁目 福山駅のすぐ南西に東西2館体制で進出していた大型スーパー。昭和時代末期から十数年間はトポスというディスカウントストアになっていたことがある。ダイエーの経営難により整理対象になり、2005年(平成17年)に閉店している。その後東館・西館とも解体され、現存しない。
なお、ダイエーは2010年(平成22年)に中国地方から撤退している。
不二家 東京都文京区大塚二丁目 かつては市内各地に店舗があったが他社との競争に打ち勝てなかったことなどから全て撤退した。
公式サイトによると福山市に近いところでは高梁(たかはし)市・新見市・真庭市・広島市・東広島市・三次(みよし)市には現在も店舗がある(反対に岡山市・倉敷市には店舗はない)。
ベスト電器 福岡市博多区千代六丁目 かつては市内各地に店舗があったが他社との競争に打ち勝てなかったのか全て撤退した。
その後ベスト電器は福山市内に3店舗を持つヤマダ電機の子会社になっている。
マイカル 大阪市中央区久太郎町三丁目 ニチイやサティ、ビブレといった名称で全国展開していた大型スーパー。福山駅前や郊外にいくつも店舗を有していた。2000年(平成12年)前後にそれらの店舗は全て閉店し、福山市内から撤退した。
その後マイカルは経営破綻し、イオンリテール(千葉市美浜区中瀬一丁目)に吸収合併されたため現存しない。
ロイヤルホスト 東京都世田谷区桜新町一丁目 かつて福山市入船町二丁目の国道2号線沿線に店舗を持っていたファミリーレストラン。経営不振で廃業してからは長らく放置され、土曜ワイド劇場「タクシードライバーの推理日誌35」(テレビ朝日系。2014年〔平成26年〕10月11日放送)でその建物が映し出されたこともある(その真向かいにある高層ホテルの屋内から外を撮った際に映った。収録時期は2014年〔平成26年〕春頃と思われる)。
現在は解体され、跡地には外国車販売会社の店舗が建てられている。
ロッテリア 東京都新宿区西新宿三丁目 大手ハンバーガーチェーンの一つでかつては福山そごうの地下など各地に店舗があったが、他社との競争に打ち勝てなかったのか全て撤退している。

私として福山市に再進出して欲しいと思っているのはロイヤルホストとロッテリアである。その理由は次の通りである。
・福山市より少しだけだが人口が多い倉敷市や福山市より人口が少ない下関市に店舗があるのに福山市に店舗がないのはおかしいと思うから(倉敷市・下関市にあって福山市にない理由の一つとしては大学が少なく、若年者人口が少ないことがあるのではないかと思われる)。
・全国的に有名なこれらの企業が福山市にないというのはどうかと考えているから。
・福山市は政令指定都市がすぐ近くにある倉敷市や下関市よりは中枢性はあると思うから。
・進出に適した場所はまだあると考えるから。
・私以外にもこのことに不満を抱いている方はいると思うから。
今後の社会情勢を考えれば難しいものがあるが、この思いは果たして実現するのだろうか。

注17:私が特に問題視しているのは次の点である。
・深夜・早朝や週末はJ-WAVE(東京都港区六本木六丁目)の再送信で埋めていること。特に土曜日午後0時から月曜日午前6時までの42時間はずっとJ-WAVEまたはその関連の番組が流れている(「その関連の番組」と書いたのはJ-WAVEが放送を休止する月曜日午前1時〜午前5時に「J-WAVE MUSIC SELECTION」を流しているためである)。
・近隣のコミュニティ放送局、すなわち笠岡放送(愛称:エフエムゆめウェーブ。笠岡市笠岡)や尾道エフエム放送(愛称:エフエムおのみちまたはエフエムおのみち79.4。尾道市東御所町)との差別化を図ろうとしたのかミュージックバード(東京都千代田区麹町一丁目)の喋り手のいる番組を2015年(平成27年)春までに全て打ち切ってしまったこと。
・若年者向け番組が少ないこと(注16でも触れたが市内に高等教育機関が少ないことも一因と思われる)。
・近隣のコミュニティ放送局、すなわち笠岡放送や尾道エフエム放送などとの連携が見られないこと(但しエフエムふくやま・笠岡放送双方で番組を担当している方はいる)。
・福山市中心部の南西に聳(そび)えている彦山(標高:429.7m)に本局を設置したため彦山の山頂が見えない地域、特に沼隈半島の大部分で受信環境が芳しくないこと。
・人気があったのにスポンサーが付かなかった自社制作番組を収益が見込めないとして次々と打ち切った結果人材流出を招いたこと。
・かつては月曜日未明に放送休止時間を入れていたが今はほとんど入れなくなったこと。
※笠岡放送はかつてのエフエムゆめウェーブ(笠岡市笠岡。2006〜2020)である。笠岡市内のケーブルテレビ業者・笠岡放送の子会社として設立され、2006年(平成18年)5月1日に開局したのだが、業務効率化を理由に本日笠岡放送に吸収合併された。

注18:但し松山市との往来には一般道路を経由せざるを得ないところがある。本州・四国連絡橋尾道・今治ルートと松山自動車道を繋ぐ今治・小松自動車道が未だに整備されていないからである(現在今治インターチェンジ〔今治市矢田〕〜今治湯ノ浦インターチェンジ〔今治市長沢〕間の建設が進められているが当該区間の開通は早くても2020年代中期になるものと思われる)。ただ、今治・小松自動車道が全線開通しても松山〜今治間には整備が進んでいる国道196号線や国道317号線があり、それらの道路のほうが距離が短いため今治・小松自動車道や松山自動車道を通って福山〜松山間を往来する方はそんなにいないのではないかと思われる。

注19:福山市が住居表示整備を休止したのは実施しようとしたが対象地域の住民の理解を得られなかったところがいくつもあったこともある。

注20:その概要は下表の通りである。

※下表では学校名は福山市立を省略している。

記事
2015年
(平成27年)
走島小学校が鞆小学校に統合される。
走島中学校が鞆中学校に統合される。
2019年
(平成31年)
鞆小学校と鞆中学校が統合して義務教育学校・鞆の浦学園が鞆小学校跡地で発足する。

注21:福山市と松永市が統合して改めて福山市が発足した1966年(昭和41年)5月1日以降に消滅した広島県南東部にあった自治体で、その行政区域内にあった学校が全くなくなってしまったところが一つだけ存在する。それは現在の府中市阿字町・木野山町・斗升町・行縢(むかばき)町に相当する区域に存在した芦品郡協和村(1955〜1975)である。
芦品郡協和村が府中市に編入された1975年(昭和50年)2月1日時点で行政区域内にあった学校は下表の通りであった。

※下表では所在地は府中市を省略している。

種類 学校名 所在地 備考
小学校 府中市立阿字小学校 阿字町
府中市立大正小学校 木野山町
府中市立大正小学校
空木分校
木野山町 空木は府中市木野山町東部にある集落の名称。福山市新市町金丸と境を接している。
中学校 府中市立第四中学校 木野山町 府中市編入時に協和中学校から改称。
高等学校 広島県立府中高等学校
協和分校
木野山町

上表に出てきた学校がその後どうなったかを示すと下表の通りになる。

年月日 記事
1980年(昭和55年)4月1日 広島県立府中高等学校協和分校が廃止される。
1981年(昭和56年)4月1日 府中市立大正小学校空木分校が廃止される。
1984年(昭和59年)4月1日 府中市立阿字小学校と府中市立大正小学校が統合して府中市立北小学校が発足する(校地は統合前の学校とは別の場所に設定)。
2009年(平成21年)4月1日 府中市立第四中学校が府中市立第三中学校(府中市篠根町。現:府中市立明郷学園)に統合される。
2010年(平成22年)4月1日 府中市立北小学校が府中市立明郷小学校(府中市篠根町。現:府中市立明郷学園)に統合される。

つまり、芦品郡協和村域にあった学校は府中市編入から35年後に全てなくなったのである。このことはかつてこちらで触れたことがあるのだが、これにより府中市協和地区に住む子供はかなりの距離を通学しなければならなくなったのである。背景に著しい過疎化があることは記すまでもないのだが、せめて小学校・中学校ぐらいは残しておいても良かったのでは…と思うのは私だけだろうか。
※ちなみに府中市協和地区には府中市役所の支所もない。府中市中心部まで15kmもあることや府中市中心部〜府中市協和・上下両地区間を短絡する道路を整備する目的で1996年(平成8年)に認定された県道388号木野山・府中線の整備が諸事情により進んでいないことを考えるとこれはどうなのかと思いたくなるのだが…。

 

府中市立北小学校(左)と府中市立第四中学校(右)。
府中市立北小学校は公民館として、府中市立第四中学校は高齢者介護施設としてそれぞれ活用されている。

注22:沼隈郡内海町には1970年(昭和45年)時点で下表に示す町立学校が存在した。

地区名 小学校 中学校 備考
田島 内浦
田島
横島 横島 西

沼隈郡内海町が学校再編を企図した背景にあったのは次に挙げることである。
・過疎化による人口の減少。沼隈郡田島・横島両村が統合して発足した直後、すなわち1955年(昭和30年)10月1日に実施された国勢調査によると人口は8,001人だったが、15年後の1970年(昭和45年)10月1日に実施された国勢調査では5,273人になっており、15年間で2,800人近く減ったことになる。
・教育の効率化。福山市周辺の自治体では1960年代中期に芦品郡駅家町(対象は小学校)や深安郡神辺町(対象は中学校)でそれを目的とした学校再編が行われている。
沼隈郡内海町は前記の通り沼隈郡田島・横島両村が統合して発足した自治体だから一つの学校にまとめるのであれば小学校と中学校は別々の地区に設置したほうが良いと考えたのであろう。そこで統合小学校は横島に、統合中学校は田島にそれぞれ設置するという計画を立てたのである。

注23:反対の声を上げた主たる理由は次の通りである。
・統合先の学校までが遠い(場合によっては片道の距離が9km近くになるところもある)。
・沼隈郡内海町を東西に貫く幹線道路である県道386号箱崎・横田港線(1965〜1982)の整備が進んでいない。
・地域の象徴がなくなることで過疎化が更に進展する。

注24:内海大橋は風速が秒速15m以上になった場合歩行者と二輪車に対して、秒速25m以上になった場合自動車に対してそれぞれ通行止め規制をかけることになっている。

注25:福山市加茂・山野地区、すなわち深安郡加茂町だった地域にある異常気象時通行規制区間は下表の通りである。

路線名称 規制区間起点 規制区間終点 規制基準 備考
時間雨量 日雨量
県道21号加茂・油木線 福山市山野町山野 神石郡神石高原町近田 20mm 80mm
県道104号坂瀬川・芳井線 神石郡神石高原町坂瀬川 福山市山野町山野 40mm 120mm 規制起点=路線起点。
規制終点は県道21号加茂・油木線交点。
県道418号井関・加茂線 神石郡神石高原町井関 福山市加茂町粟根 15mm 60mm 全線。

注26:福山市加茂・山野地区、すなわち深安郡加茂町だった地域にある落石・土砂崩落危険区間のうち広島県が注意を喚起する標識を立てているところ(広島県がレベル4に指定しているところ)は下表の通りである。
※広島県は走行注意区間という名称を使っているがそれでは分かりにくいため本サイトでは落石・土砂崩落危険区間という名称を使っている。

路線名称 規制区間起点 規制区間終点 備考
県道21号加茂・油木線 福山市加茂町粟根 福山市加茂町北山
福山市山野町山野 神石郡神石高原町近田 異常気象時通行規制区間内。
県道103号七曲・井原線 福山市山野町山野 福山市神辺町三谷
県道104号坂瀬川・芳井線 神石郡神石高原町坂瀬川 福山市山野町矢川 異常気象時通行規制区間内。

福山市加茂町粟根の県道21号加茂・油木線にある落石・土砂崩落の危険性があることを注意喚起する標識

ちなみに福山市内には落石・土砂崩落危険区間レベル4に指定されているところが7箇所あるが、そのうちの4箇所までが加茂・山野地区に存在しており、地形の険しさを物語っている(その他の3箇所は県道26号新市・七曲・西城線と県道251号後山公園・洗谷線、県道419号坂瀬川・駅家線)。

注27:福山市東村町と福山市今津町を往来する際に多くの方が通る道は福山市今津町/東大橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)から本郷川右岸に沿って北上する市道(上下2車線幅)である。途中から本郷川からそれて西に向きを変えて福山市東村町に至るのだが、その道は障害者支援施設のローズ東村(福山市東村町)がある辺りで福山市本郷町をかすめている。

注28:直線距離を地図サイト「Mapion」のキョリ測で測ると東村小学校〜本郷小学校間は約1.8km、東村小学校〜今津小学校間は約1.9kmとなり、本郷小学校のほうが今津小学校よりもわずかだが近いことになる。

注29:道路事情が良くなったことが過疎化に拍車をかけ、結果学校再編の遠因になったと言えるのは内海・沼隈地区と加茂・山野地区である。それぞれの地区の道路事情の変化を記すと下表の通りになる。

地区名 道路事情の変化
内海・沼隈 ・内海大橋の建設(1989年〔平成元年〕10月4日開通)。
・内海大橋に接続する県道路線(県道53号沼隈・横田港線と県道386号田島循環線)の整備。
加茂・山野 ・県道21号加茂・油木線新七曲トンネル(全長:640m)の建設(1998年〔平成10年〕6月30日開通)。
・山野地区中心部における県道21号加茂・油木線のバイパス建設。
・急な屈曲が多いことや狭いこと、異常気象時通行規制区間に指定されていることなどから有用ではなかった県道418号井関・加茂線の迂回路的存在となる加茂地区と広瀬地区を結ぶ市道(四川ダムのそばを通る道)の整備。

 

内海大橋(左)と新七曲トンネル(右)

注30:下関市にある市立大学は注1で触れているのだが下関市立大学である。一方下関市にある市立高校は下関商業高等学校(下関市後田町四丁目)である(正式名称は下関市立下関商業高等学校ではない)。
※実は下関市は過去にもう一つ市立高校を持っていた。山口県立下関中等教育学校(下関市彦島老町二丁目)の前身となる下関市立下関第一高等学校(下関市彦島老町二丁目。1962〜1970)である。下関市立大学と同じ1962年(昭和37年)に開校したのだが、下関市の財政事情の悪化などによりわずか8年後の1970年(昭和45年)に山口県に移管されて山口県立下関第一高等学校(下関市彦島老町二丁目。1970〜2006)に改称している。

注31:確かに市立学校再編に待ったがかかる格好にはなったが、それは一時的なものであり、下関市教育委員会は2015年(平成27年)8月に市立学校の適正規模や適正配置に関する計画を公表し、市立学校再編推進に再び舵を切っている(興味のある方はこちらをご覧頂きたい)。この結果、下関市と豊浦郡菊川・豊浦・豊田・豊北(ほうほく)各町が統合して改めて下関市が発足した2005年(平成17年)2月13日以降に廃校の憂き目に遭った市立学校は下表の通りになった。

(下表をご覧頂くに当たっての注意)

・学校名は小学校については市立と小学校を、中学校については市立と中学校をそれぞれ省略している。

・分校は「○○・××」と表記している(正式な表記は○○小学校××分校または○○中学校××分校となる)。

・所在地は下関市を省略している。

・読み方が独特な学校が多いため読み方欄を付けている。

種類 学校名 読み方 所在地 廃校年 備考
小学校 阿川 あがわ 豊北町阿川 2020年
(令和2年)
豊北小学校(豊北町滝部)に統合。
粟野 あわの 豊北町粟野 2020年
(令和2年)
豊北小学校に統合。
神玉 かみたま 豊北町神田上 2019年
(平成31年)
滝部小学校(豊北町滝部)に統合。
神田
(旧下関市)
かんだ 西神田町 2017年
(平成29年)
若くして不治の病に倒れた名優・松田優作(1949〜1989)の出身校として知られる。
桜山小学校(上新地町二丁目)に統合。
神田
(旧豊北町)
かんだ 豊北町神田 2019年
(平成31年)
滝部小学校に統合。
三豊 さんぽう 豊田町地吉 2015年
(平成27年)
2008年(平成20年)から休校(事実上西市小学校〔豊田町矢田〕に統合)。
滝部 たきべ 豊北町滝部 2020年
(令和2年)
豊北小学校に統合。
敷地は豊北小学校が引き続き使用。
田耕 たすき 豊北町田耕 2015年
(平成27年)
滝部小学校に統合。
角島 つのしま 豊北町角島 2020年
(令和2年)
豊北小学校に統合。
殿居 とのい 豊田町殿居 2016年
(平成28年)
豊田中小学校(豊田町浮石)に統合。
豊東・轡井 とよひがし・くつわい 菊川町轡井 2007年
(平成19年)
下関市の一部になる前の2002年(平成14年)から休校(事実上豊東小学校本校〔菊川町上大野〕に統合)。
二見 ふたみ 豊北町北宇賀 2015年
(平成27年)
2011年(平成23年)から休校(事実上滝部小学校に統合)。
中学校 宇賀 うか 豊浦町宇賀 2005年
(平成17年)
豊浦中学校と統合して夢が丘中学校(豊浦町小串)に移行。
角島 つのしま 豊北町角島 2006年
(平成18年)
豊北第一・豊北第三・豊北第二各中学校と統合して豊北中学校(豊北町滝部)に移行。
豊浦 とようら 豊浦町川棚 2005年
(平成17年)
宇賀中学校と統合して夢が丘中学校に移行。
豊田西 とよたにし 豊田町浮石 2012年
(平成24年)
豊田東中学校と統合して豊田中学校(豊田町矢田)に移行。
豊田東 とよたひがし 豊田町矢田 2012年
(平成24年)
豊田西中学校と統合して豊田中学校に移行。
敷地は豊田中学校が引き続き使用。
豊北第一 ほうほくだいいち 豊北町滝部 2006年
(平成18年)
角島・豊北第三・豊北第二各中学校と統合して豊北中学校に移行。
豊北中学校は豊北町滝部にあるが豊北第一中学校とは別の場所に設置されている。
豊北第三 ほうほくだいさん 豊北町阿川 2006年
(平成18年)
角島・豊北第一・豊北第二各中学校と統合して豊北中学校に移行。
豊北第二 ほうほくだいに 豊北町神田上 2006年
(平成18年)
角島・豊北第一・豊北第三各中学校と統合して豊北中学校に移行。

いわゆる平成の大合併で下関市の一部になった地域の廃校が目立つが、中心部でも神田小学校(下関市西神田町)が廃校になっており、今後は中心部でも統廃合の憂き目に遭う学校が出る可能性が高まっている。
※それにしてもどうかと思ったのは平成の大合併で下関市は二つ神田小学校を抱えることになったのに改称措置をとらなかったことである(ちなみに下関市には神田という地名が入った町または大字が七つもある〔神田町・西神田町・東神田町〈以上中心部〉、王司神田・神田〈以上王司地区〉、豊北町神田・豊北町神田上〈以上豊北地区〉〕)。12年間二つの神田小学校が併存したわけであるが、何らかの区別処置はしていたものの名称を変えることは考えなかったのだろうか(まさか合併論議の段階から市立学校の統廃合を考えていたわけではないだろうが…)。

注32:福山市駅家町万能倉のうち福山市立駅家東小学校→福山市立駅家北小学校が学区としているのはおおよそJR福塩線以北の地域である。福山市駅家町万能倉のうちおおよそJR福塩線以南の地域は福山市立駅家小学校(福山市駅家町倉光)に進学するようになっている。

注33:広島県で市制町村制が施行された1889年(明治22年)4月1日以降の福山市駅家町法成寺と福山市駅家町万能倉の所属自治体の変遷は下表の通りである。

年月日 所属自治体名 備考
福山市駅家町法成寺 福山市駅家町万能倉
1889年(明治22年)4月1日 安那郡法成寺村 品治郡万能倉村 市制町村制施行。安那郡法成寺村・品治郡万能倉村とも廃置分合を経ずに発足。この時点で大字は設定されなかった。
1898年(明治31年)10月1日 深安郡法成寺村 芦品郡万能倉村 深津郡と安那郡が統合して深安郡が、芦田郡(?〜1898)と品治郡(?〜1898)が統合して芦品郡がそれぞれ発足したことにより法成寺村・万能倉村それぞれの所属郡が変更になる。
1913年(大正2年)7月1日 深安郡法成寺村 芦品郡駅家村 芦品郡江良・倉光・中島・坊寺・万能倉各村が統合して芦品郡駅家村が発足。品治郡万能倉村→芦品郡万能倉村だった地域の地名表記は芦品郡駅家村万能倉となる。
1941年(昭和16年)10月1日 深安郡加法村 芦品郡駅家村 深安郡下加茂・法成寺両村が統合して深安郡加法村が発足。安那郡法成寺村→深安郡法成寺村だった地域の地名表記は深安郡加法村法成寺となる。
1947年(昭和22年)11月3日 深安郡加法村 芦品郡駅家町 芦品郡駅家村が町制施行して芦品郡駅家町が発足。品治郡万能倉村→芦品郡万能倉村だった地域の地名表記は芦品郡駅家町万能倉に変更された。
1956年(昭和31年)9月30日 芦品郡駅家町 芦品郡駅家町 深安郡加法村が深安郡加茂町(下加茂の全域と法成寺の一部地域)と芦品郡駅家町(法成寺の大部分)に分割されたため消滅。安那郡法成寺村→深安郡法成寺村だった地域の地名表記は芦品郡駅家町法成寺に変更された。
この時をもって福山市駅家町法成寺と福山市駅家町万能倉は同じ自治体(芦品郡駅家町)に属することになった。
1975年(昭和50年)2月1日 福山市 福山市 芦品郡駅家町が福山市に編入されたことにより消滅。安那郡法成寺村→深安郡法成寺村だった地域の地名表記は福山市駅家町法成寺に、品治郡万能倉村→芦品郡万能倉村だった地域の地名表記は福山市駅家町万能倉にそれぞれ変更された。

注34:福山市駅家町法成寺の郵便番号は720-2413、福山市駅家町万能倉の郵便番号は720-1131となっている。福山市駅家町法成寺は加茂郵便局(福山市加茂町下加茂)が、福山市駅家町万能倉は駅家郵便局(福山市駅家町江良)がそれぞれ集配業務を担当していたことにより郵便番号の上五桁が異なっている。なお、現在は福山市駅家町全域と福山市加茂町全域の集配業務は駅家郵便局が担っている。

注35:福山市駅家地区中央部・南部の市内局番は976局だが、福山市駅家町法成寺の全域と福山市駅家町万能倉の一部地域の市内局番は972局になっている(現在は他の市内局番も使われている)。同じ福山市駅家地区中央部・南部に属しながら市内局番が違うのはかつては福山市駅家地区の大部分の市外局番は08497(市内局番は駅家地区中央部・南部が6局、北部〔服部地区〕が8局)だったのに対して福山市駅家町法成寺の全域と福山市駅家町万能倉の一部地域の市外局番は福山市加茂地区と同じ084972だったことに由来する。1982年(昭和57年)1月24日に芦田・新市・松永各地区を除く福山市域の市外局番が0849に統一された時福山市駅家町全域で市内局番から電話をかけるようになったのだが、なぜ安那郡→深安郡に属した経歴のない福山市駅家町万能倉の一部地域の市外局番が福山市加茂地区で使われていた084972になったのかはっきりした理由は分からない。
※同じ状況は福山市駅家町の東隣にある福山市御幸町でも見られた。福山市御幸町の大部分(下岩成・中津原・森脇〔もりわけ〕)の市外局番は0849(市内局番は55局)だったのに対して福山市御幸町上岩成だけは市外局番は084972になっていた。無論福山市御幸町上岩成が安那郡に属したことはない(地名表記は深津郡上岩成村〔?〜1898〕→深安郡上岩成村〔1898〜1938〕→深安郡御幸村上岩成〔1938〜1956〕→福山市御幸町上岩成と変遷している)。

注36:福山市駅家町万能倉/駅家東小学校入口交差点の交差点名標を撮った写真は下の通りである。福山市駅家町万能倉/駅家東小学校入口交差点福山市立駅家東小学校→福山市立駅家北小学校の南約200mのところにある福山市道同士の交差点である。

注37:本文でも触れた通り福山市駅家町新山のうちの小山田・刈山両集落については福山市立服部小学校→福山市立駅家北小学校から離れたところにあることから福山市立駅家西小学校に進学するようになっている。

注38:現在の福山市の最高峰は福山市新市町藤尾にある京ノ上山(標高:611.1m)である。

注39:県道419号坂瀬川・駅家線は記すまでもなく神石郡神石高原町坂瀬川と福山市駅家町法成寺を結ぶ路線である。福山市駅家町服部地区以北に関しては狭隘箇所や異常気象時通行規制区間、落石・土砂崩落危険区間がある上に災害で長期間通行止めになることが多いために有用な道にはなっていない。

 

福山市駅家町服部本郷にある県道419号坂瀬川・駅家線坂瀬川方面に関する情報を伝えている標識の数々。
県道419号坂瀬川・駅家線坂瀬川方面の道路状況が厳しいことがよく分かる。

注40:本文でも触れているが駅家町立服部小学校本郷分校→福山市立服部小学校本郷分校は1970年(昭和45年)に休校になっている。よって、福山市立服部小学校が擁していた二つの分校は1969年度(昭和44年度)末までに事実上廃止されたことになる。

注41:品治は「ほんち」と読む説もある。

注42:福山市駅家町弥生ヶ丘は福山市駅家町中島と福山市駅家町新山に跨る丘陵地に造成された大規模団地をもって発足した大字(おおあざ)であるため福山市駅家町服部地区に属している部分は一部だと記している。

注43:駅家町立服部中学校が駅家町立駅家中学校に統合されたのは1962年(昭和37年)のことであるが、1962〜1963年度(昭和37〜38年度)は駅家町立駅家中学校服部教場として運営されている。よって、駅家町立服部中学校の正式な廃校時期は1964年(昭和39年)のことになる。

注44:1998年(平成10年)11月30日実施の住居表示において松永町から今津町に編入された地域を指す。

注45:松永町一丁目のうちのJR山陽本線のすぐ北側を通る市道に面した地域を指す。その市道の十数m北側に現在は大半が暗渠(あんきょ)化された水路があり、それが福山・松永両市が統合して改めて福山市が発足した頃の福山市今津町と福山市松永町の境になっていた。

注46:今津地区に属する地域は次の通りである。
今津町
・今津町二丁目
・今津町三丁目
・今津町四丁目(
住居表示実施前は松永町だった地域を除く)
・今津町五丁目(住居表示実施前は松永町だった地域を除く)
・今津町六丁目
・今津町七丁目
・松永町一丁目(区画整理実施前は松永町だった地域を除く

・南今津町(区画整理実施前は高西町だった地域を除く)

注47:高西地区に属する地域は次の通りである。
・高西町一丁目
・高西町二丁目
・高西町三丁目
・高西町四丁目
・高西町川尻
・高西町真田
・高西町南
・南今津町(区画整理実施前は今津町だった地域を除く)

注48:1987年(昭和62年)に策定された第四次全国総合開発計画で制定された国土交通大臣指定に基づく高規格幹線道路(一般国道の自動車専用道路)の一つで、山陽自動車道と本州・四国連絡橋尾道・今治ルートを結ぶ役割を有している。山陽自動車道福山西インターチェンジのランプウェイ(数百mだけだが上下4車線化されたところがある)と国道2号線松永道路の今津ジャンクション(福山市今津町)〜高須インターチェンジ(尾道市高須町)間で構成されている。1991年(平成3年)3月20日に福山西インターチェンジのランプウェイが開通したところで早くも全線開通を果たしたのだが、構成部分(福山西インターチェンジのランプウェイと国道2号線松永道路)でその名称を目にすることはないため知名度は低い(但し接続する道路にある案内標識では略称となる尾道福山道という単語が記されている)。

福山市内で尾道福山道という単語を見ることのできる唯一の物件(福山市高西町一丁目)。
もっとも、この案内標識は国道2号線松永道路(尾道・福山自動車道)西藤インターチェンジ(尾道市西藤町)に関するものである。

 

尾道市内で尾道福山道という単語を見ることのできる物件(左:尾道市西藤町/右:尾道市高須町)

注49:国道2号線は福山市神村町〜尾道市正徳町間で経路が二つになることから区別するため国道2号線松永道路と国道2号線松永・尾道旧道と記している。なお、国道といえども管理者が違っている(松永道路…国土交通省/松永・尾道旧道…広島県)。

注50:日本道路交通情報センター(JARTIC)公式サイトなどでは福山西ジャンクションとしているのだが、本サイトでは次に挙げる事情により今津ジャンクションという名称を用いている。
・本来なら山陽自動車道と尾道・福山自動車道の接続点となる福山西インターチェンジが福山西ジャンクションという名称になるのが妥当ではないかと考えていること。
・よって、国道2号線松永道路と福山西インターチェンジのランプウェイの接続点となるジャンクションについて別の名称を付ける必要が生じること。
・山陽自動車道玉島インターチェンジ(倉敷市玉島長尾)のランプウェイと国道2号線玉島バイパスの接続点は船穂(ふなお)ジャンクション(倉敷市船穂町船穂)と称されていることを考えれば福山西インターチェンジのランプウェイと国道2号線松永道路の接続点についても地区名を用いた名称を付けても良いのではないかと考えていること。
・地区名から松永ジャンクションとしたほうが良いのかもしれないが、福山市今津町に住んでいる方々が抱く感情などに配慮したこと。
・今津ジャンクションのすぐそばに今津小学校があったこと。

注51:在日朝鮮人作家・金達寿(キム・タルス。1920〜1997)の著作「日本の中の朝鮮文化」でも高諸神社が取り上げられている。

注52:現在山陽本線福山〜尾道間には松永駅の他に備後赤坂(びんごあかさか)駅(福山市赤坂町赤坂)と東尾道駅(尾道市高須町)があるのだが、備後赤坂駅は1916年(大正5年)6月5日に、東尾道駅は1996年(平成8年)7月21日にそれぞれ開業している。
※備後赤坂駅の開業当初の駅名は水越(みのこし)駅。現在の名称である備後赤坂駅になったのは1918年(大正7年)1月1日のことである。

注53:実は松永駅北口周辺には沼隈郡神村(?〜1954)だった地域も存在する。地図を見ると西福山病院(福山市松永町)の敷地の一部が福山市神村町になっているのが見えるのだが、福山市はそこも松永町一丁目に再編し、住居表示を実施しようとしたのではないかと思われる。しかし、そこも住民が強硬に反対したために再編は見送っているのであろう。

注54:他にも福山市が周辺の七つの町、すなわち芦品郡芦田・駅家・新市各町と沼隈郡内海・沼隈両町、深安郡加茂・神辺両町に対して合併の申し入れを行った頃福山市は福山市西深津町五丁目に生徒増加対策のための中学校新設を企図したのだが、芦品郡新市町に中央中学校があることを知りながら新設中学校の名前を中央中学校にしたことが挙げられる。これでは新市側の中央中学校は福山市に編入された時点で名称を変えるべきだと言わんばかりの態度である。

注55:では東村の対になる地名、すなわち西村はなかったのかというと、きちんと存在した。福山市東村町の南隣にある尾道市西藤町の前身となる自治体が沼隈郡西村という名称であった。沼隈郡西村だった地域は1955年(昭和30年)2月1日に尾道市に編入された時に尾道市西藤町に改称されたために地名としては廃れたことから事情を知らない人が見るとなぜ東村だけが残ったのかとか西村はどこに消えたのかと思うことであろう。
※東村と西村は興味深い謎がいくつもある。それは次の通りである。
・東村と西村の境界線(=尾道市西藤町・福山市東村町境)は北西から南東に向けて引かれているのに東村と西村になっていること。
・東村と西村にはいかなる関係があったのかということ。
東村と西村の境界は丘陵地を通っていることから元々一つの村だったとは考えられないわけであるが、果たしてどんな経緯があったのだろうか。

注56:今年3月31日現在の福山市松永地区にある小学校区の県道路線の通過状況は下表の通りである。

小学校区名 所属町名 通過県道路線名 備考
今津 今津町
高西町
松永町
南今津町
県道47号鞆・松永線
県道48号府中・松永線
県道54号福山・尾道線
今津町四丁目の一部地域と今津町五丁目の一部地域は松永学区(住居表示実施の際松永町から今津町に編入された地域)。
松永町で今津学区となっているのは松永町一丁目の一部地域(区画整理実施後に今津町から松永町に編入された地域)。
金江 金江町 県道47号鞆・松永線
県道382号熊野・松永線
神村 神村町
宮前町
県道54号福山・尾道線
県道157号松永・新市線
県道378号御幸・松永線
神村町の一部地域は松永学区(松永町四丁目・松永町五丁目に隣接した地域)。
東村 東村町 (なし)
藤江 藤江町 県道47号鞆・松永線
県道389号草深・古市・松永線
本郷 本郷町 県道48号府中・松永線
県道158号尾道・新市線
松永 今津町
神村町
松永町
南松永町
柳津町
県道47号鞆・松永線
県道54号福山・尾道線
今津町で松永学区となっているのは今津町四丁目の一部と今津町五丁目の一部地域(住居表示実施の際松永町から今津町に編入された地域)。
神村町で松永学区となっているのは松永町四丁目及び松永町五丁目に隣接した地域。
松永町一丁目の一部地域は今津学区(区画整理実施後に今津町から松永町に編入された地域)。
松永町五丁目の一部地域は柳津学区(住居表示実施の際柳津町から松永町に編入された地域)。
柳津町で松永学区となっているのは松永町五丁目に隣接した地域。
県道54号福山・尾道線は学区内に単独区間を有していない(国道2号線松永・尾道旧道と重用しているため)。
柳津 松永町
柳津町
県道47号鞆・松永線
県道382号熊野・松永線
松永町で柳津学区となっているのは松永町五丁目の一部地域(住居表示の際柳津町から松永町に編入された地域)。
柳津町の一部地域は松永学区(松永町五丁目に隣接した地域)。

東村学区、すなわち福山市東村町を県道路線が通過しない理由としては福山市松永地区中心部から放射状に延びる幹線道路の経路から外れたところにあることや例えば福山市本郷町と尾道市西藤町を結ぶ路線を設定しようとしても費用対効果が見込めないことや県道路線を発足するのに必要な大義名分がないこと、広島県の財政事情が厳しいことなどからできないことが挙げられる。

注57:現在は福山市松永地区全域と尾道市のうちの浦崎町・高須町・西藤町の郵便配達業務は松永郵便局(福山市松永町四丁目)が担っている。

注58:実は本郷小学校と遺芳丘小学校、松永中学校は一直線に並んでおり、どれが福山市で最も西にある市立学校であるかが判然としないためこのように記している。

注59:松永湾に遺芳湾という別称を付けたのは江戸時代後期の儒学者・菅茶山(1748〜1827)である。

 

菅茶山旧宅・廉塾(福山市神辺町川北)。
廉塾とは菅茶山が開いた私学である。
菅茶山旧宅と廉塾は江戸時代西国街道の宿場町として栄えた神辺宿の中にある。

注60:市立学校再編が行われる前の松永地区にある学校における「遺芳」の使用状況を示すと下表の通りになる。

※下表では学校名は広島県立または福山市立を、所在地は福山市をそれぞれ省略している。

種類 校名 所在地 使用状況
小学校 今津 今津町 ・校歌の歌詞(二番)。
金江 金江町金見 ・校歌の歌詞(二番)。
東村 東村町 ・校歌の歌詞(二番)。
松永 松永町六丁目 ・校歌の歌詞(二番)。
柳津 柳津町五丁目 ・校歌の歌詞(二番)。
中学校 大成館 神村町 ・校歌の歌詞(三番)。
松永 松永町二丁目 ・校歌の歌詞(二番)。
高等学校 松永 神村町 ・校歌の歌詞(三番)。
・生徒会誌の名称。
・文化祭の名称。

注61:沼隈地区にある市立学校でも山南小学校と至誠中学校は対象に含まれていない。恐らく至誠中学校が熊野・山南両小学校の児童の進学先となっており、至誠中学校を統合対象にすると熊野小学校区に住む児童は遠く離れた済美(せいび)中学校(福山市赤坂町赤坂)に通わざるを得なくなることや福山市熊野町と済美中学校を往来する際に通る県道381号熊野・瀬戸線は未改良箇所が少なくない上に人家のあまりない淋しいところを通っているために通学に不安が生じることが背景にあるものと思われる。

注62:20世紀前半に現在のドイツ連邦共和国で始められた教育手法。異なった学年の児童を一つのクラスに編成することが大きな特色となっている。
※ちなみに「イエナ」とは大学の名前である(但し現在はフリードリヒ・シラー大学イェーナ〔通称:イェーナ大学〕に改称している)。

注63:常金中学校区を通る県道路線は県道26号新市・七曲・西城線と県道399号金丸・府中線、県道400号藤尾・井関線、県道402号金丸・市場線の四つである。いずれも狭隘箇所を抱えているが、改良が進められているのは福山市新市地区中心部方面に至る県道26号新市・七曲・西城線と府中市中心部に至る県道399号金丸・府中線だけである。

注64:福山市新市地区にある異常気象時通行規制区間は下表の通りである。

路線名称 規制区間起点 規制区間終点 規制基準 備考
時間雨量 日雨量
県道26号新市・七曲・西城線 福山市新市町金丸 神石郡神石高原町父木野 40mm 120mm
県道400号藤尾・井関線 福山市新市町藤尾 神石郡神石高原町井関 20mm 80mm 全線。

注65:福山市新市地区で落石・土砂崩落危険区間レベル4に指定されているところは県道26号新市・七曲・西城線の福山市新市町藤尾である。神谷川が形成した川井谷渓谷に沿ったところである。

注66:尾道市・呉市・府中市・下関市それぞれの中心部における市立学校の再編状況は下表の通りである。

※下表では学校名は○○市立を、所在地は○○市をそれぞれ省略している。

都市名 状況
尾道市 ・2000年(平成12年)に筒湯小学校(東久保町)を久保小学校(東久保町)に統合した。
・2019年(令和元年)11月に尾道市教育委員会は久保小学校と土堂小学校(西土堂町)、長江小学校(長江二丁目)を2021年(令和3年)に統合し、2023年(令和5年)に久保小学校跡地に統合小学校を開校させる計画を公表した。久保・土堂・長江各小学校廃校から統合小学校開校までの2年間は久保小学校跡地に新校舎を建設するため久保小学校に通っていた児童は山波小学校(山波町)に、土堂・長江両小学校に通っていた児童は栗原小学校(西則末町)にそれぞれ通わせる措置をとるとしたのだが、児童の安全が確保できないなどとして関係者からの反発が起きたため今年2月に撤回されている。但し中心部の人口減少が続いていることからいずれは新たな再編案を公にするものと思われる。
呉市 ・2005年(平成17年)に吾妻(あづま)小学校(吾妻二丁目)と上山田小学校(伏原二丁目)を統合して上山田小学校跡地に明立小学校(伏原二丁目)を開校させた。
・2007年(平成19年)に五番町小学校(西中央三丁目)と二河(にこう)小学校(西中央四丁目)を統合して呉中央小学校(西中央四丁目)を開校させた。同時に二河小学校のすぐそばにあった二河中学校(西中央四丁目)は呉中央中学校に改称し、小中一貫の呉中央学園を発足させた。
・2008年(平成20年)に片山小学校(西片山町)と荒神町小学校(東中央三丁目)、辰川小学校(東辰川町)を統合して荒神町小学校の跡地に荘山田小学校(東中央三丁目)を開校させた。
府中市 ・2008年(平成20年)に岩谷小学校(目崎町)と西小学校(出口町)、東小学校(府中町)、広谷小学校(鵜飼町)を統合して第二中学校(府中町)の校地に府中小学校(府中町)を開校させた。同時に第二中学校は府中中学校(府中町)に改称し、小中一貫の府中学園を発足させた。
・2017年(平成29年)に府中小学校と府中中学校が統合し、府中小学校・府中中学校跡地に義務教育学校・府中学園(府中町)が発足した。
下関市 ・2008年(平成20年)に全域を対象とする市立学校の適正規模・適正配置に関する答申を公表した。市長交代などで動きが止まったこともあったが、再編計画は現在も改訂を経ながら実施されている。
・2017年(平成29年)に神田小学校(西神田町)を桜山小学校(上新地町二丁目)に統合した。それまで廃校の憂き目に遭ったのは郊外の学校ばかりだったが、神田小学校は中心部の学校として初めて廃校の憂き目に遭うことになった。

注67:岡山市立内山下小学校の敷地には岡山空襲(1945年〔昭和20年〕6月29日)まで岡山城の石山門も残っていた。岡山空襲で天守・塩蔵(天守西側の付櫓。天守への入口としての役割を担っていた)とともに焼失するのだが、天守・塩蔵は1966年(昭和41年)に鉄筋コンクリートで再建されたのに対し、石山門は現在も再建されないままになっている。復元されないままになっている理由としては図面が残っていないことや南西方向からの写真しか残っていないこと(RSK山陽放送〔RSK、岡山市北区丸の内二丁目〕の本社がある方向〔北東方向〕や内山下小学校敷地〔北西方向〕からの写真は私は見たことがない)、(理由は分からないが)石山門焼失後南側の土台が大きく削られてしまったこと、石山門跡を市道が通っており、もし再建しようとすると市道を封鎖せざるを得なくなるために住民の理解を得られないことなどが挙げられる。
※余談だが岡山城石山門は岡山市中心部の西方にある矢坂山(標高:131.5m)にあった富山(とみやま)城(岡山市北区矢坂東町及び矢坂本町)の大手門を移築したとの伝承がある。岡山城ではこの他本丸にあり、明治時代初頭に解体された大納戸(おおなんど)櫓が亀山城(別名:沼城。岡山市東区沼)の天守を移築したとの伝承があるのだが、真相はどのようなものだったのだろうか。どちらも岡山城のような近世城郭ではなかったことを思うと事実とは思えないのだが…。

RSK山陽放送本社前から撮影した岡山城石山門跡。
南側の土台と北側の土台(岡山市立内山下小学校敷地)に著しい高低差が生じているのがうかがえる。

南西方向から撮影した岡山城石山門跡。
この方向から石山門を撮影した恐らく唯一の古写真は城郭関連の書籍によく掲載されている。
後方に見えるのはRSK山陽放送本社である。

岡山城石山門跡地に設置されている石山門に関する説明看板。
石山門に関する恐らく唯一の古写真が掲載されている。

注68:「福山市中心部」の範囲をどこまでとするかは様々な解釈があるが、私は学区が戦災復興の総仕上げとして1965年(昭和40年)9月1日に実施された住居表示の対象地域を含んでいることを条件とした。それぞれの学区の住居表示実施地域は下表の通りとなる。

※住居表示実施地域は現在の町名を記している。

学校名 住居表示実施地域 備考
中学校 小学校
城南 霞町・光南町・昭和町・住吉町・延広町・花園町・船町・松浜町・御門町・緑町・
南町・明治町・元町
霞町は一丁目のみ学区としている。
松浜町は一丁目・二丁目のみが住居表示の対象地域となった(残る三丁目・四丁目の住居表示は1983年〔昭和58年〕2月7日実施)。
城北 樹徳 丸之内 城北中学校・樹徳小学校は住居表示の対象地域の外にある(学校付近の住居表示はどちらも1985年〔昭和60年〕11月25日実施)。
丸之内は二丁目の一部地域のみ学区としている。
西 三之丸町・西桜町・西町・東桜町・丸之内 西桜町は一丁目の一部地域を除く。
丸之内は一丁目の全域と二丁目の一部地域のみ学区としている。
鷹取 霞町・地吹町・道三町・西桜町・野上町・古野上町・紅葉町 鷹取中学校は住居表示の対象地域の外にある(学校付近の住居表示は1987年〔昭和62年〕11月24日実施)。
霞町は一丁目を除く。
西桜町は一丁目の一部地域のみ学区としている。
中央 胡町・桜馬場町・城見町・大黒町・東町・本町・丸之内・吉津町・若松町 中央中学校は住居表示の対象地域の外にある(学校付近の住居表示は1983年〔昭和58年〕11月21日実施)。
東町は二丁目・三丁目のみ学区としている。
丸之内は二丁目の一部地域のみ学区としている。
旭町・今町・入船町・笠岡町・宝町・寺町・東町・伏見町・御船町・三吉町南 東町は一丁目のみ学区としている。

注69:福山市中心部におけるきめ細かな行政サービスとして挙げられるものとしては警察施設の多さがある。福山市役所(福山市東桜町)の半径2km圏内には福山東警察署(福山市三吉町南二丁目)とその管轄下にある駅前・胡町(えびすまち)・深津・本庄・港町・御船町・吉津の各交番がある。結果中央・東両中学校区には三つずつ交番がある格好になっている(中央中学校区…胡町・深津・吉津/東中学校区…駅前・港町・御船町)。大都市はともかくとして人口40万人程度の都市の中心部に多数警察施設があるところは珍しいと言えるのではないのだろうか。

注70:この時のNKK硬式野球部は準優勝になっている。中島さん親子が観戦したのは準決勝戦(1982年〔昭和57年〕8月7日。夜間試合〔いわゆるナイター〕)と決勝戦(1982年〔昭和57年〕8月8日。昼間試合〔いわゆるデーゲーム〕)の2試合であった。

注71:中島さんが初めて東京に行った1982年(昭和57年)8月時点ではまだ東京都庁舎は東京都新宿区西新宿二丁目にはなく、東京都千代田区丸の内三丁目にあった。現在地、すなわち東京都新宿区西新宿二丁目に移転したのは1991年(平成3年)のことである。

注72:このうち1981年(昭和56年)6月25日の事件は未遂に終わっている(つまり被害者は助かっているということ)。歌舞伎町ラヴホテル連続殺人事件で殺害されたのは3人ということになる(3月20日の事件…45歳女性/4月25日の事件…20歳前後の身元不明の女性/6月14日の事件…17歳女性)。

注73:中島さんの初めての東京行きは一泊二日の日程だったのだが、歌舞伎町ラヴホテル連続殺人事件の身元不明の被害者の似顔絵を載せたポスターは一切見かけなかったという。この身元不明の被害者に関してはテレビのワイドショーの公開捜査企画などで情報提供を呼びかけていたこともあり、そこでの情報提供が契機になって身元が判明したのだろうと中島さんは思ったそうであるが、残念ながら身元判明には至っていない(平成時代初頭に放送されたあるテレビのドキュメンタリー番組で進行役の男性アナウンサーが触れていたのを見た覚えがあるという)。
※中島さんが歌舞伎町ラヴホテル連続殺人事件の身元不明の被害者の似顔絵を載せたポスターを一切見かけなかったのは捜査態勢が最初の事件から1年も経たないうちに縮小されたことが考えられる(現に1982年〔昭和57年〕2月のある日の全国紙に捜査態勢を縮小したという記事がある)。もし捜査に積極的だったのなら新たな情報提供を呼びかけるポスターを作成・公開したことであろうが、捜査を担当した新宿警察署(東京都新宿区西新宿六丁目)としては手がかりも有力な情報提供もないことやもし被害者の身元が判明しても事件解決には結び付かないだろうと考える方が少なくなかったことから見送ったのだろう。歌舞伎町ラヴホテル連続殺人事件は1996年(平成8年)3〜6月に相次いで公訴時効が成立したのだが、その報道が全く見当たらないことを考えるとやがて捜査本部は解散し、忘れ去られた事件になってしまったことが想像される。

注74:無論現在はそういう印象は持っていないし、中島さんは成人してから東京に行った時都内を一人で移動したことは何度でもあった(その時経験したのがこちらで綴ったことである)が危険な目には一度も遭わなかったという。

注75:歌舞伎町ディスコナンパ殺傷事件の発生地(女子中学生2人が殺傷されたところ)は千葉市花見川区横戸町(地名は現在のものを記載)である。よって、捜査を担当したのは千葉中央警察署(千葉市中央区中央港一丁目。1982〜1994)→千葉北警察署(千葉市稲毛区長沼原町。1994〜1997)となる。
※歌舞伎町ディスコナンパ殺傷事件の捜査担当警察署が変わったのは千葉市北部の人口増加により1994年(平成6年)に事件発生地周辺を管轄する千葉北警察署が設置されたからである。しかし、捜査はすぐに行き詰まったことや千葉北警察署設置時点では忘れ去られた事件になっていたことを考えると捜査本部が千葉中央警察署から千葉北警察署に移転したかどうかは疑問が残る(状況から考えて千葉北警察署設置時点では解散していた可能性が高い)。無論この歌舞伎町ディスコナンパ殺傷事件も歌舞伎町ラヴホテル連続殺人事件と同じく当時の新聞には公訴時効成立報道は一切見当たらない。

注76:新宿ファーストウェストの敷地内に新宿区立淀橋第二小学校があったことを示す石碑が建立(こんりゅう)されている他新宿ファーストウェストの中には新宿区立淀橋第二小学校に関する展示コーナーが設けられており、かつてそこに小学校があったことを今に伝えている。

注77:新宿区西部の小学校・中学校の統廃合の状況は下表の通りである。

※下表では学校名は新宿区立を、所在地は新宿区をそれぞれ省略している。なお、地名と後継学校の所在地は現在のものを記している。

種類 学校名 所在地 状況 備考
小学校 淀橋第一 西新宿八丁目 1997年(平成9年)淀橋第七小学校(北新宿二丁目)と統合して柏木小学校(北新宿二丁目)に移行。
跡地は西新宿中学校(西新宿八丁目)になっている。
タレントの玉袋筋太郎はこの学校の卒業生である。
淀橋第二 西新宿二丁目 1986年(昭和61年)淀橋第六小学校(西新宿四丁目)に統合。
跡地は新宿ファーストウェストという高層ビルになっている。
淀橋第三 西新宿六丁目 1997年(平成9年)淀橋第六小学校と統合して西新宿小学校(西新宿四丁目)に移行。
跡地は芸能花伝舎(西新宿六丁目)になっている。
淀橋第五 新宿三丁目 国民学校時代(1941〜1947)に廃校になったらしいが詳細不明。第二次世界大戦末期の空襲で焼失し、再興されずじまいになった可能性がある。
跡地はヤマダ電機LABI新宿東口館になっている。
淀橋という地名の入った学校としては唯一JR山手(やまのて)線以東の地域にあった。
新宿区が成立したのは1947年(昭和22年)3月15日のこと(牛込・四谷・淀橋各区の統合による)なので淀橋第五小学校は淀橋区時代(1932〜1947)に廃校になった可能性がある。
中国地方でも下関市立菁莪(せいが)小学校(下関市上田中町二丁目)が第二次下関空襲(1945年〔昭和20年〕7月2日)の際に焼失し、そのまま廃校になっている例があるので淀橋第五小学校が空襲で焼失し、再興されずじまいになったことは考えられない話ではない。
淀橋第六 西新宿四丁目 1997年(平成9年)淀橋第三小学校(西新宿六丁目)と統合して西新宿小学校に移行。
跡地は西新宿小学校になっている。
深夜番組「トゥナイト2」(テレビ朝日系。1994〜2002年〔平成6〜14年〕放送)の人気女性レポーターだったせがわきりはこの学校の卒業生であり、在学当時の思い出を綴ったエッセイ集「新宿キッズ」(1998年〔平成10年〕リヨン社〔東京都千代田区神田三崎町二丁目〕刊)を出版している。
淀橋第七 北新宿二丁目 1997年(平成9年)淀橋第一小学校(西新宿八丁目)と統合して柏木小学校に移行。
跡地は柏木小学校になっている。
中学校 淀橋 北新宿一丁目 1997年(平成9年)淀橋第二中学校(西新宿四丁目)と統合して西新宿小学校(西新宿八丁目)に移行。
跡地は大智学園高等学校東京校(北新宿一丁目)になっている。
淀橋第二 西新宿四丁目 1997年(平成9年)淀橋中学校(北新宿一丁目)と統合して西新宿中学校に移行。
跡地は西新宿小学校になっている。

この結果新宿区西部では小学校は7校から2校(西新宿小学校と淀橋第四小学校〔北新宿三丁目〕)に、中学校は2校から1校(西新宿中学校)にそれぞれ減ってしまった。どれだけ人口(子供と言い換えたほうが良いだろう)が減ってしまったのだろうかと思うと何とも言えない気分になる。

注78:中島さんがそのように感じたのは中学校・高校時代である。その状況を示すと下表の通りになる。

種別 状況
中学校 一人の教諭が複数のクラスの副担任に就いていた。
高校 養護教諭がクラスの副担任に就いていた(中島さんによるとそれは一度だけだったという)。

注79:福山市立小学校・中学校の三学期の終業式は中島さんの小学校・中学校時代は3月25日となっていたが、1979年(昭和54年)3月25日は日曜日だったために前日の3月24日になったものである(当時の曜日パターンはこちら)。なお、中島さんの小学校・中学校・高校時代は学校はまだ週休二日制にはなっていなかった(導入されたのは1992年〔平成4年〕以降)。

注80:実はX小学校とY小学校の卒業生の進学先はZ中学校となっている。そのためZ中学校で再会できた級友も少なくなかったという。

注81:中島さんの小学校・中学校・高校時代に40人学級が推進されなかった理由としては当時展開されていた行財政改革のあおりを受けたことが挙げられる。

注82:中島さんの通った高校はクラスは47人学級を基本線としていたのだが、次の場合それを超過しても良いことになっていた。
・海外からの留学生が入ってきた場合。
・留年者を編入した場合。
だから48人学級になる場合もあった。

注83:1971〜1974年(昭和46〜49年)に生まれた子供を指す。団塊(だんかい)ジュニアと呼称することもある。

注84:女性教諭の退職の主たる理由は結婚に伴い広島県外に移住することである。

注85:この男性教諭がたった1年でZ中学校を去ったのは男性教諭宅〜Z中学校間には道路事情が芳しくないところが多いのに長距離通勤(20km以上)を強いられることになったこともあったのではないかと中島さんは話している。福山市教育委員会もその点を配慮して異動を決めていればこういうことにはならなかったのではないかと思うのは私だけだろうか。

注86:中島さんとして残念に思っていることの一つはZ中学校に通っていた当時の養護教諭が30歳の若さで退職したことであるという。Z中学校に新卒採用されてから10年間勤務して退職した(その間には結婚・妊娠・出産も経験している)のだが、この養護教諭が退職したことを知った時何があったのだろうかと考えたという。真相はこの養護教諭のみぞ知るところと言ったところであるが…(ちなみにこの養護教諭は十数年前に40代後半の若さ〔現在の中島さんより若い年齢〕で逝去したという。中島さんは自宅で購読している中国新聞朝刊の訃報〔ふほう〕欄でそのことを知ったのだが、なぜこうなったのだろうと思ったそうである)。

注87:中島さんは結局小学校2校・中学校1校・高校1校の合計4校に通ったのだが、その全てでその時の学年と組の数が同じクラス(つまり1年1組・2年2組・3年3組)に在籍するという珍(?)記録を持っている(恐らく他にも多数いることだろうが…)。
※なお、Z中学校など福山市立の一部の中学校のクラス表記は○年×組ではなくXYR(Xは○年×組の○に、Yは○年×組の×にそれぞれ相当する)となっている。よって、中島さんは中学校ではXXRに属していたということになる。

注88:国際児童年を記念して1979年(昭和54年)に始まった大会(第42回大会となるはずだった今年は新型コロナウィルス感染症の影響により中止)。原則として福山市内の小学校区ごとにチームを結成し、男子児童はソフトボールの試合を、女子児童はフットベースボールの試合をそれぞれ行っている。

注89:ここでの異動は主に次に挙げるものとなる。
・転勤。
・学区外への転居。
・離婚または別居。