トップページ不定期刊・きょうのトピックス不定期刊・きょうのトピックス2016年(平成28年)分福山市市制施行100周年企画・道路編

福山市市制施行100周年企画・道路編(2016年〔平成28年〕7月1日公開)

 本日、私が住む福山市は市制施行100周年を迎えた。1916年(大正5年)7月1日に広島県では4番目(注1)、中国地方では9番目(注1)に市制施行してから一世紀。いろいろなことがあったが、今や広島県第二の都市に成長している。
 ということで、今回の「不定期刊・きょうのトピックス」では本サイトが取り上げる分野における福山市の状況を紹介することにしたい。なお、ここでは道路に関することを綴ることにする(地理歴史編はこちら、ラジオ編はこちら)。

総論

 福山市内にある高速道路(国土交通大臣指定に基づく高規格幹線道路〔一般国道の自動車専用道路〕を含む)と国道路線、主要地方道路線、一般県道路線は下表の通りである。

(下表をご覧頂くに当たっての注意)

・表内で福山市内の町名を表記する場合は「福山市」は省いて記載している。

・「起点」欄・「終点」欄で「(○○市境)」「(××郡△△町境)」と書いているものは他の市町村に路線が跨るものである。なお、「(井原市境)」「(笠岡市境)」とあるものは岡山県境でもある。

・他の市町村に跨る路線の中には何度も福山市と他の市町村の境を越えるものがあるが、その場合の起点は最初に福山市に入ったところ、終点は最後に福山市から出たところとしている。

種類 路線名称 種別 起点 終点 備考
高速道路
(2路線)
山陽自動車道 現道 坪生町
(笠岡市境)
東村町
(尾道市境)
尾道・福山自動車道 現道 高西町川尻
(尾道市境)
東村町 国道2号線松永道路(尾道市境〜今津ジャンクション(注2)〔福山市今津町〕間)と山陽自動車道福山西インターチェンジ(福山市東村町)のランプウェイで構成されている。
国道
(5路線)
国道2号線 現道 大門町野々浜
(笠岡市境)
高西町川尻
(尾道市境)
国土交通省管理路線。
旧道 神村町 高西町三丁目
(尾道市境)
広島県管理路線。
本サイトでは国道2号線松永・尾道旧道と称している。
国道182号線 現道 加茂町百谷
(神石郡神石高原町境)
明神町二丁目
国道313号線 現道 入船町一丁目 神辺町上御領
(井原市境)
新道 神辺町下御領 神辺町上御領
(井原市境)
福山市神辺町上御領〜福山市神辺町八尋〜福山市神辺町上御領間は未開通。
国道314号線 現道 明神町二丁目 駅家町服部本郷
(神石郡神石高原町境)
福山市内は全区間で国道182号線と重用しているため単独区間はなく、知名度は皆無に等しい状況になっている。
国道486号線 現道 神辺町上御領
(井原市境)
新市町新市
(府中市境)
新道 神辺町上御領
(井原市境)
神辺町下御領 福山市神辺町上御領〜福山市神辺町八尋〜福山市神辺町上御領間は未開通。
主要地方道
(10路線)
県道3号井原・福山港線 現道 坪生町
(笠岡市境)
引野町
県道21号加茂・油木線 現道 加茂町中野 山野町山野
(神石郡神石高原町境)
県道22号福山・鞆線 現道 入船町三丁目 鞆町鞆
県道26号新市・七曲・西城線 現道 新市町新市 新市町藤尾
(神石郡神石高原町境)
県道47号鞆・松永線 現道 鞆町鞆 今津町四丁目
県道48号府中・松永線 現道 芦田町柞磨
(府中市境)
今津町三丁目
県道53号沼隈・横田港線 現道 沼隈町草深 内海町
県道54号福山・尾道線 現道 瀬戸町山北 高西町真田
(尾道市境)
県道72号福山・沼隈線 現道 水呑町 沼隈町下山南
別線 野上町三丁目 草戸町
県道76号神辺・大門線 現道 神辺町平野 引野町
一般県道
(39路線)
県道102号下御領・井原線 現道 神辺町下御領 神辺町八尋
(井原市境)
県道103号七曲・井原線 現道 山野町山野 神辺町三谷
(井原市境)
県道104号坂瀬川・芳井線 現道 山野町矢川
(神石郡神石高原町境)
山野町山野
(井原市境)
県道157号松永・新市線 現道 神村町 新市町戸手
県道158号尾道・新市線 現道 本郷町
(尾道市境)
新市町相方
県道181号下御領・新市線 現道 神辺町下御領 新市町戸手
県道189号福山・上御領線 現道 蔵王町六丁目 神辺町上御領 福山市蔵王町六丁目/福山市民病院入口交差点(起点)〜福山市神辺町下竹田/誠和団地入口交差点(信号機・交差点名標なし)間は区域未編入。
県道213号横尾停車場線 現道 横尾町一丁目 横尾町一丁目
県道214号神辺停車場線 現道 神辺町川南 神辺町川南
県道215号道上停車場・中野線 現道 神辺町道上 加茂町中野二丁目
県道216号戸手停車場線 現道 新市町戸手 新市町戸手 鉄道の駅の駅前広場を起点とはしていない稀有な路線。
県道217号新市停車場線 現道 (府中市中須町) (府中市中須町) 道の真ん中を福山市・府中市境が通っている路線。本サイトの規則により起点と終点はともに府中市にあることになっているが、福山市に区域がかかっているため本表に掲載している。
県道244号福山港線 現道 引野町 手城町四丁目
県道251号後山公園・洗谷線 現道 鞆町後地 水呑町 事実上の終点は福山市瀬戸町長和にある(福山市瀬戸町長和〜福山市水呑町間は県道72号福山・沼隈線と重用)。
県道260号福山港・松浜線 現道 一文字町 松浜町二丁目
県道378号御幸・松永線 現道 御幸町森脇 神村町
県道379号坪生・福山線 現道 坪生町 奈良津町三丁目
県道380号水呑・手城線 現道 水呑町 南手城町四丁目
県道381号熊野・瀬戸線 現道 熊野町 瀬戸町山北
県道382号熊野・松永線 現道 熊野町 柳津町
県道385号内浦・箱崎港線 現道 内海町 内海町
県道386号田島循環線 現道 内海町 内海町
県道387号横島循環線 現道 内海町 内海町 横島西岸部(シーパーク大浜〔福山市内海町〕付近)に区域未決定区間がある。但し「国・県道路線一覧表」などの広島県発行の資料にはそのことは一切記載されていない。
県道389号草深・古市・松永線 現道 沼隈町草深 藤江町
県道390号三谷・神辺線 現道 神辺町三谷 神辺町川南
県道391号加茂・福山線 現道 加茂町中野 御幸町中津原
新道 御幸町森脇 御幸町中津原 福山市御幸町中津原以南の経路は未確定(福山市千田町薮路で国道313号線に出る経路と久松台を経由して福山市西町一丁目で国道2号線に出る経路の二通りが考えられているがどちらになるかが決まっていない)。
県道392号中野・駅家線 現道 加茂町中野 駅家町上山守
県道393号粟根・神辺線 現道 加茂町粟根 神辺町川南
県道395号川南・近田線 現道 神辺町川南 駅家町近田
県道396号柞磨・駅家線 現道 芦田町柞磨 駅家町上山守
県道397号福田・戸手線 現道 芦田町福田 芦田町福田 「福田・戸手線」という名称ながら一切福山市新市町戸手に区域がかかっていない路線。
県道398号新山・府中線 現道 駅家町新山 新市町宮内
(府中市境)
福山市駅家町助元〜福山市新市町下安井間は自動車通行不能。
県道399号金丸・府中線 現道 新市町常 新市町常
(府中市境)
かつては本当に福山市新市町金丸が起点だったが起点で接続する県道26号新市・七曲・西城線の改良により福山市新市町常を起点とする路線となっている。
県道400号藤尾・井関線 現道 新市町藤尾 新市町藤尾
(神石郡神石高原町境)
県道402号金丸・市場線 現道 新市町金丸 新市町金丸
(府中市境)
県道418号井関・加茂線 現道 山野町山野
(神石郡神石高原町境)
加茂町北山
県道419号坂瀬川・駅家線 現道 駅家町服部本郷
(神石郡神石高原町境)
駅家町法成寺
県道462号百谷・新市線 現道 加茂町百谷 新市町戸手
県道463号津之郷・山守線 現道 津之郷町津之郷 駅家町上山守 事実上の終点は福山市駅家町今岡にある(福山市駅家町今岡〜福山市駅家町上山守間は県道396号柞磨〔たるま〕・駅家線と重用)。
福山市津之郷町津之郷〜福山市駅家町今岡間は自動車通行不能。

 データ量が膨大になるため各路線の通過地域の一覧表(選択ページはこちら)や各路線の概要(選択ページはこちら。更に現存しない県道路線の概要を紹介するページもこちらに設けているので併せてご覧頂きたい)は別のページで触れることにするのだが、意外に思ったのは次に挙げる点であった。
・一般県道の路線数が広島県の市町では最多であり、中国地方の市町村では第3位になっていること(注3)
・県道路線の総数が広島県の市町では第2位に、中国地方の市町村では第5位にそれぞれなっていること(注4)
・一般県道の路線数・県道路線の総数とも中国地方の県庁所在地以外の都市では最多になっていること。
 いわゆる平成の大合併で福山市より面積の広い市町村が中国地方に多数できたこと(注5)や2010年(平成22年)までに福山市内にあるJR山陽本線の駅の駅前広場を起終点とする県道路線が全て廃止され、福山市に移管されたこと(注6)、福山市中心部を通る県道路線が少ないことを考えればもっと路線数の多い市町村はあるのでは…と思っていたのだが、なぜこのように多数の路線を擁する都市になったのか。私は面積がある程度広いことや平地が多く、県道路線の設定がしやすかったことがあったのではないかと考えている。ちなみに福山市は中国地方の県庁所在地ではない都市で最も多くの県道路線がある都市となっている。
 ではこのように多くの路線を有する福山市の道路の歴史―ここでは現行道路法が施行された1952年(昭和27年)以降を範囲とする―とはどのようなものだったのか、次から見ていくことにしたい。

歴史編

他の市にはあるのに…

 現行道路法が施行された1952年(昭和27年)6月10日時点で福山市が属する広島県には五つ市があった。すなわち広島市と尾道市、呉市、福山市、三原市である。現行道路法施行の約半年後の1952年(昭和27年)12月4日には一級国道40路線(広島県を通るのは一級国道2号線と一級国道31号線の2路線)が発足したのだが、広島県では全ての市に一級国道路線が通ることになった。すなわち一級国道2号線は福山市・尾道市・三原市・広島市を、一級国道31号線は呉市をそれぞれ通ることになったのである(注7)
 一級国道発足の約半年後の1953年(昭和28年)5月18日には今度は二級国道144路線(広島県を通るのは二級国道182号広島・松江線と二級国道183号広島・米子線、二級国道184号松江・尾道線、二級国道185号呉・三原線、二級国道186号広島・浜田線の5路線)が発足したのだが、今度は二級国道路線が通らない市が二つ生じたのである。一つは1953年(昭和28年)5月1日に発足したばかりで島嶼(とうしょ)部だけで構成されていた因島(いんのしま)市(1953〜2006)であり、もう一つは福山市であった。現行道路法が施行された1952年(昭和27年)6月10日時点で存在した広島県の市は全て第二次世界大戦前に発足した市だった(注8)から福山市は第二次世界大戦前に発足した広島県の市で唯一一級国道2号線以外国道路線が通らない市になってしまったのである。似た例は島根県でもあった(注9)のだが、なぜこうなったのか。簡単に記せば設定のしようがなかったからであった。
 もし福山市を起終点とする路線を設定しようとした場合、考えられる行き先としては岡山方面と広島方面、四国方面、中国山地方面、山陰方面が挙げられる。しかし、下表に示す通りいずれも設定は難しい話であった。

行き先 設定が難しい理由
岡山方面 ・並行して一級国道2号線が存在するから。
・一級国道2号線の10kmほど北方を並行して通る旧山陽道(西国街道)を踏襲(とうしゅう)した路線は考えられないことはないが沿線人口が少ないから。
広島方面 ・並行して一級国道2号線が存在するから。
四国方面 ・1953年(昭和28年)5月18日時点で本州と四国を結ぶ国道路線は一級国道しか設定されていなかったから(注10)
・福山市付近の瀬戸内海には人口の多い大きな島がないから。
・設定するに足る目的などが見出せなかったから。
中国山地方面 ・1953年(昭和28年)5月18日時点で中国山地には津山市以外市がなかったから。
・中国山地の中にある人口の多い自治体の中には周辺町村と統合して市制施行しようという動きが起きていたところがあるが、1953年(昭和28年)5月18日時点では確定事項ではなかったから。
山陰方面 ・米子市や松江市、出雲市といった山陰地方中央部の主要都市に通じる路線を設定した場合、どこかで他の二級国道路線に頼らざるを得なくなるから。
・人口10万人以上の都市が存在しない広島県南東部から複数の陰陽連絡国道路線を設定することは当時としては認められないことだったから。

 当時はまだモータリゼーションが進展していなかったことや道路より鉄道に重きが置かれていたこと、道路の整備があまり進んでいなかったこともあって道路は地域振興の材料とはあまり考えられていなかった。だから明確な目的を持ち、大きな効果が得られる路線設定しか考えられなかった。考えてみれば広島県南東部を通る二級国道路線はいずれもそれを満たしていた(注11)。軽んじられたという思いの一方で致し方ないという雰囲気があったことは想像に難くない。

県内の市で最多の路線数

 明治時代に広大な福山・神辺平野に将来性を見出し、福山市及びその周辺地域を岡山県から編入させた過去がある広島県としても福山市を通る二級国道路線が一切設定されなかったことは心外に感じていたことであろう。二級国道路線の設定は建設省(現:国土交通省〔東京都千代田区霞が関二丁目〕)が進めたものであり、広島県に責任はないのだが、これでは福山市及びその周辺地域で広島県は福山市及びその周辺を冷遇しているという声が上がり、最悪の場合広島県からの離脱→岡山県への帰属という強硬な主張をする人間が出かねない。無論これは広島県にとっては容認できない問題である。まあ建設省としては国道路線はこれ以上増やさないという方針はとっていなかったのが救いではあったのだが、それでもいつ次の国道路線再編があり、そして福山市を通る二級国道路線が発足するか分かったものではない。その実現の時まで何らかの懐柔策が必要な状況となった。
 そんな中、都道府県道と大都市(注12)の市道のうち重要だとされるものを指定する主要地方道が設定された。道路の序列としては一級国道、二級国道に次ぐものであり、広域路線が大半を占めた。初めての路線指定は1954年(昭和29年)1月20日建設省告示第16号により実施されたのだが、広島県関係では下表に示した23路線が主要地方道として指定された。

※下表における市区郡町村名は1954年(昭和29年)1月20日時点のものを記載している。

路線名称 読み方 起点 終点 備考
出雲・西城線 いずもさいじょうせん (島根県境) 比婆郡西城町
出雲・三次線 いずもみよしせん (島根県境) 双三郡三次町 事実上の終点は島根県飯石郡来島村野萱(島根県飯石郡来島村野萱〜広島県双三郡三次町三次〔終点〕間は二級国道182号広島・松江線〔二級国道184号松江・尾道線重用〕と重用。そのため広島県内に単独区間は存在しない)。
厳島公園線 いつくしまこうえんせん 佐伯郡大野町 佐伯郡宮島町
大竹・加計線 おおたけかけせん 佐伯郡大竹町 山県郡加計町
大田・三次線 おおだみよしせん (島根県境) 双三郡三次町
尾道・因島線 おのみちいんのしません 尾道市 因島市
加計・廿日市線 かけはつかいちせん 山県郡加計町 佐伯郡廿日市町
加計・八重線 かけやえせん 山県郡加計町 山県郡八重町
呉・倉橋島線 くれくらはしじません 呉市 安芸郡倉橋町
呉・西条線 くれさいじょうせん 呉市 賀茂郡西条町
河内・甲山線 こうちこうざんせん 豊田郡河内町 世羅郡甲山町
西条・豊栄線 さいじょうとよさかせん 賀茂郡西条町 豊田郡豊栄町
庄原・新見線 しょうばらにいみせん 比婆郡庄原町 (岡山県境)
竹原・吉田線 たけはらよしだせん 賀茂郡竹原町 高田郡吉田町
浜田・八重・可部線 はまだやえかべせん (島根県境) 安佐郡可部町
広瀬・廿日市線 ひろせはつかいちせん (山口県境) 佐伯郡廿日市町
福山・井原線 ふくやまいばらせん 福山市 (岡山県境)
福山・庄原線 ふくやましょうばらせん 福山市 比婆郡庄原町
福山・東城線 ふくやまとうじょうせん 福山市 比婆郡東城町
福山・鞆線 ふくやまともせん 福山市 沼隈郡鞆町
益田・加計線 ますだかけせん (島根県境) 山県郡加計町
三原・東城線 みはらとうじょうせん 三原市 比婆郡東城町
八重・温泉津線 やえゆのつせん 山県郡八重町 (島根県境)

 広島県の主要地方道路線指定の方針は原則としてある町とある町を結ぶ広域路線だけを選ぶというものであった。確かに上表を見ると他の都道府県ではよく見られる「○○停車場線」とか「××港線」とか「△△空港線」といった施設の名称が入った路線は厳島公園線を除いて存在しないし、短距離路線(1km未満の路線を指す)も全くない。そのため広島県より面積の小さい岡山県(33路線)や山口県(28路線)より指定路線数は少なくなったのだが、方針上の結果なので致し方ないことだったと言えよう。
 さて、広島県が主要地方道に指定した23路線の名称で使われている地名は下表の通りであるが、その中で最も多く使われている地名が福山と加計の四つであった。福山、すなわち福山市と、加計、すなわち山県郡加計町(1898〜2004)は交通の要衝であることや地域の中心地であることなどで共通しているのだが、福山と加計で大きく異なるのは福山市を終点とする路線は全く存在しないということであった。市と(地方自治体としての)町の違いをうかがわせているが、二級国道路線設定では軽んじられた福山市に対する配慮も垣間見えるところである。

※下表の所属自治体名は1954年(昭和29年)1月20日時点のものを記している。

県名 地名 読み方 所属自治体名 使用数 備考
島根県 出雲 いずも 出雲市 2
大田 おおだ 大田市 1
浜田 はまだ 浜田市 1
益田 ますだ 益田市 1
温泉津 ゆのつ 邇摩郡温泉津町 1
岡山県 井原 いばら 井原市 1
新見 にいみ 阿哲郡新見町 1
広島県 厳島 いつくしま 佐伯郡宮島町 1
因島 いんのしま 因島市 1
大竹 おおたけ 佐伯郡大竹町 1
尾道 おのみち 尾道市 1
加計 かけ 山県郡加計町 4
可部 かべ 安佐郡可部町 1
倉橋島 くらはしじま 安芸郡音戸町/
安芸郡倉橋町
1 終点は安芸郡倉橋町中心部にあった。
くれ 呉市 2
甲山 こうざん 世羅郡甲山町 1
河内 こうち 豊田郡河内町 1
西条 さいじょう 賀茂郡西条町 2
西城 さいじょう 比婆郡西城町 1
庄原 しょうばら 比婆郡庄原町 2
竹原 たけはら 賀茂郡竹原町 1
東城 とうじょう 比婆郡東城町 2
とも 沼隈郡鞆町 1
豊栄 とよさか 豊田郡豊栄町 1
廿日市 はつかいち 佐伯郡廿日市町 2
福山 ふくやま 福山市 4
三原 みはら 三原市 1
三次 みよし 双三郡三次町 2
八重 やえ 山県郡八重町 3
吉田 よしだ 高田郡吉田町 1
山口県 広瀬 ひろせ 玖珂郡広瀬町 1

 広島県で初めての主要地方道路線の路線認定が実施されたのは1954年(昭和29年)9月17日のことである(注13)。建設省により主要地方道路線指定告示がなされてからの約8ヶ月間に広島県では大竹市・庄原市・府中市・松永市・三次市が発足しており(注14)、広島県の市の数は11になっていた。1954年(昭和29年)9月17日時点の広島県内の市の主要地方道路線の通過状況を示すと下表の通りになる。

出雲・西城線と厳島公園線、加計・廿日市線、加計・八重線、河内・甲山線、西条・豊栄線、竹原・吉田線、浜田・八重・可部線、広瀬・廿日市線、益田・加計線、八重・温泉津線は町村しか通過していないことから、出雲・三次線はこの時路線認定が見送られたことからそれぞれ下表には記載していない。

市名 通過路線名 通過路線数 備考
広島市 (なし) 0
因島市 尾道・因島線 1
大竹市 大竹・加計線 1
尾道市 尾道・因島線 1
呉市 呉・倉橋島線
呉・西条線
2
庄原市 庄原・新見線
福山・庄原線
2
福山市 福山・井原線
福山・庄原線
福山・東城線
福山・鞆線
4 福山・庄原線(1954〜1982)と福山・東城線(1954〜1965)は市内に単独区間は存在しない(福山・庄原線の事実上の起点は深安郡御幸村森脇〔もりわけ〕に、福山・東城線の事実上の起点は深安郡千田村千田にそれぞれ存在した)。
府中市 福山・庄原線 1
松永市 (なし) 0
三原市 三原・東城線 1
三次市 大田・三次線 1

 福山・庄原線と福山・東城線が福山市内に単独区間を有しないという問題はあったのだが、広島市や松永市(1954〜1966)のように通過路線が皆無というところがある中で福山市を通る主要地方道路線が広島県の市では最多となる4路線も設定されたということに広島県の福山市に対する期待の大きさがうかがえる。そのことは指定された4路線が有している目的からも明らかである(下表参照)。

路線名称 目的
福山・井原線 ・福山市と主要地方道の十字路たる存在になっていた井原市(注15)を結ぶこと。
・井原市中心部で接続する主要地方道路線(井原・高梁線〔1954〜1971〕と倉敷・井原線〔1954〜1993〕)と連携して広域幹線道路として機能すること。
・途中にある人口集積地(神辺)における幹線道路となること。
福山・庄原線 ・福山市と中国山地の中にある人口集積地を結ぶこと。
・途中にある人口集積地(新市・府中・上下など)における幹線道路となること。
福山・東城線 ・福山市と中国山地の中にある人口集積地を結ぶこと。
・途中にある人口集積地(油木など)における幹線道路となること。
・路線から外れたところにある小畠や豊松などの人口集積地への幹線道路となること。
福山・鞆線 ・福山市と沼隈半島南東部の景勝地・鞆の浦を結ぶこと。
・途中にある人口集積地(水呑〔みのみ〕)における幹線道路となること。
・1954年(昭和29年)3月1日に廃止された鞆鉄道の代替路線になること。
・鞆の浦は港町でもあり、四国方面への航路開設も期待できたため四国方面に通じる幹線道路となること。

 この後福山市を起点とする主要地方道路線は一部区間か全区間かを問わず4路線中3路線が国道路線に発展的解消を遂げて福山市の発展の一翼を担うことになり、福山市は広島県南東部最大の都市に成長していくわけであるが、このように考えると広島県には先見の明があったことがよく分かる。

県知事が扁額に揮毫(きごう)したトンネル

 一級国道→二級国道→主要地方道と路線指定こそ行われたが、道路整備はこれからという状況であった。1956年(昭和31年)にアメリカ合衆国の調査団が建設省に提出したいわゆる「ワトキンス・レポート(注16)」の冒頭で「日本の道路事情は非常に悪い」と記された事実はそれを物語っていた。
 そういう時期でも道路整備は行われていたわけであるが、現在の福山市域における1950年代中期の代表的な事例が福山市山野町山野にある七曲隧道である。七曲隧道が開通したのは1956年(昭和31年)4月14日のことである(注17)。この七曲隧道の特色は何と扁額を開通当時の広島県知事・大原博夫(1894〜1966。知事在任期間:1951〜1962)が揮毫したことであった。

七曲隧道加茂側坑口の扁額

七曲隧道山野側坑口の扁額

 福山市中心部から20km以上も離れ、なおかつ山の中の交通量も多くないであろうトンネルなのになぜ開通当時の県知事が扁額に揮毫したのか。それは現在の福山市山野町に相当する区域に存在した深安郡山野村(1889〜1955(注18))の地理的事情に理由があった。深安郡山野村は倉敷市で瀬戸内海に注ぐ高梁川支流の小田川の上流域にあった一方で他の深安郡に属する自治体とは高い山で隔てられていた。こうなると岡山県(井原市や後月〔しつき〕郡芳井町〔1924〜2005〕)との関係が深くなるのは当然の帰結であり、昭和の大合併では後月郡芳井町と合併したほうが良いという声も上がったという。
 無論深安郡山野村が広島県を離脱し、岡山県に入るというようなことが容認できるわけはない。更に深安郡山野村は産業は農業や林業しかなく、財政規模も小さかったためにいくら地形的に他の深安郡に属する自治体と隔てられているとしても独立を貫くことは不可能なことであった。そこで必要となるのが深安郡山野村の住民を懐柔させる方法である。それが深安郡加茂村(1889〜1955(注18))と深安郡山野村の境にある七曲峠にトンネルを掘ることであった(注19)。トンネルの開通は深安郡加茂・広瀬・山野各村統合による深安郡加茂町発足(1955年〔昭和30年〕3月31日)の約1年後になったのだが、トンネルに掲げられた扁額からは住民の熱い思いと広島県の期待の高さが感じ取れる。
 その後七曲隧道は一般県道の時代を経て1965年(昭和40年)に主要地方道に昇格し、福山市山野町と福山市中心部を結ぶ道として、福山市最北部の観光名所・山野峡へのアクセス道路として多くの車が行き交ったが、道路規格が低いことや災害の危険性が高かったこと(注20)、特に加茂側は谷の上を通っており、転落の危険性があったことなどから新たなトンネルの建設が企図された。そのトンネル、すなわち新七曲トンネルが開通したのは1998年(平成10年)6月30日のことであったが、何と新七曲トンネル開通当時の広島県知事は七曲隧道の扁額に揮毫した大原博夫の孫に当たる藤田雄山(1949〜2015。知事在任期間:1993〜2009)であった。
 残念ながら災害の危険性があることや交通量が皆無に等しいこと、施設の老朽化が著しくなったこと、不法投棄や死体遺棄などの触法行為の現場になる恐れがあることなどから七曲隧道は2011年(平成23年)11月1日から閉鎖されてしまい、今では通ることはできなくなっている。山野側坑口の扁額だけは何とか近くまで行って見ることはできる(但し怖いくらい静かな場所であることと唯一のアクセス道路となる県道103号七曲・井原線には狭隘箇所があること、ヘビやサル、イノシシなどの野生動物が出てくる恐れがあることには注意して頂きたい)のだが、七曲隧道開通当時にあった住民の熱い思いと広島県の期待の高さはこのまま忘れ去られてしまうのであろうか(しかもそばには石碑も看板もないし…)。福山市山野町は過疎化が進展して人口が大幅に減少し、2015年(平成27年)8月には町内の小学校・中学校を統合する案(注21)が福山市によって公表されているが、時代の流れだから致し方ないという思いの一方で何とかならないのかなという気もする。

一般県道路線の発足

 現行道路法の施行後一級国道・二級国道・主要地方道と路線指定が行われてきて次に刷新すべきところとなったのは一般都道府県道であった。現行道路法の施行後に認定された路線もいくらかあったのだが、大半は旧道路法時代に認定されたものであった。そのまま現行道路法の一般都道府県道に移行させても良かったのだが、次に挙げるような不都合が起きていた。
・複数の都道府県に跨る路線について名称が不統一だったこと(ある県では○○・××線となっているものが別の県では××・○○線になっているなど)。
・いわゆる昭和の大合併で消滅し、町丁名として使用されなくなった自治体の名称を路線名称に用いていたものが多かったこと。
・ある時期から使われなくなり、どこにあったやら判然としなくなった小字を路線名称に用いていたものが多かったこと。
・あるところまでいくつもの路線が重用する格好になっていたものが多かったこと。
 しかし、一般都道府県道の刷新、すなわち現行道路法による一般都道府県道路線の一括認定と旧道路法時代に認定されたものがほとんどを占めるそれまでの一般都道府県道路線の一括廃止は1950年代末期まで行われなかった。1950年代後半に入ってもいわゆる昭和の大合併は各地で行われ、市区郡町村の枠組みが確定しなかったからである。ようやく中国地方で一般都道府県道の刷新が行われたのは1958年(昭和33年)のことである。この年の4月30日にまず鳥取県(注22)で、6月13日には島根県で、10月1日には山口県(注23)でそれぞれ実施されたのである。更に1960年(昭和35年)に入ると3月18日に岡山県で、そして10月10日に広島県でそれぞれ実施され、中国地方各県の現行道路法に基づく道路体系は確立を見たわけである。
 さて、広島県における一般県道の刷新、すなわち現行道路法による一般県道路線の一括認定と旧道路法時代に認定されたものがほとんどを占めるそれまでの一般県道路線の一括廃止は1960年(昭和35年)10月10日広島県告示第682号によって実施されたわけである(注24)が、当時の福山市域を通る路線は下表の通りである。

※下表の起点欄・終点欄の町丁名は1960年(昭和35年)10月10日時点のものを記している。

路線
番号
路線名称 読み方 起点 終点 備考
25 松永・新市線 まつながしんいちせん 赤坂町赤坂
(松永市境)
赤坂町赤坂
(芦品郡駅家町境)
52 下御領・新市線 しもごりょうしんいちせん 御幸町上岩成
(深安郡神辺町境)
御幸町上岩成
(芦品郡駅家町境)
53 鞆・松永線 ともまつながせん 鞆町鞆 鞆町後地
(沼隈郡沼隈町境)
56 福山停車場線 ふくやまていしゃじょうせん 新馬場町 新馬場町
57 備後赤坂停車場線 びんごあかさかていしゃじょうせん 赤坂町赤坂 赤坂町赤坂
84 横尾停車場線 よこおていしゃじょうせん 横尾町 横尾町
242 御幸・松永線 みゆきまつながせん 御幸町森脇 赤坂町赤坂
(松永市境)
243 神辺・引野線 かんなべひきのせん 千田町千田
(深安郡神辺町境)
引野町
244 津之下・引野線 つのしたひきのせん 引野町
(深安郡深安町境)
引野町
246 坪生・福山線 つぼうふくやません 蔵王町
(深安郡深安町境)
奈良津町
248 下山南・福山線 しもさんなふくやません 熊野町
(沼隈郡沼隈町境)
水呑町
249 熊野・瀬戸線 くまのせとせん 熊野町 瀬戸町山北
250 熊野・松永線 くまのまつながせん 熊野町 熊野町
(沼隈郡沼隈町境)
298 中野・御幸線 なかのみゆきせん 御幸町中津原
(深安郡神辺町境)
御幸町中津原

 上表に示した通り福山市関係では14路線が認定されたわけであるが、1960年(昭和35年)時点の福山市の面積は136.36平方キロメートルだったから路線数は少ないほうではなかったと言える。
 一般県道路線の刷新により広島県における現行道路法に基づく道路体系が確立したわけであるが、ならば当時広島県にあった市の国道路線・主要地方道路線・一般県道路線の通過状況と人口、面積はどうだったのか。それを示したのが下表である。

※面積と人口は1960年(昭和35年)10月1日時点のものを記している(人口は1960年〔昭和35年〕10月1日実施の国勢調査に基づいている)。

※面積の単位は平方キロメートル。

※人口の単位は人。

※県道路線の名称は50音順で並べている。

市名 面積 人口 通過路線 備考
一級国道 二級国道 主要地方道 一般県道
広島市 84.52 431,336 2号
(1路線)
182号広島・松江線
183号広島・米子線
186号広島・浜田線
(3路線)
(なし) 上大河停車場線
上深川・広島線
伴・広島線
中島・広島線
中山・尾長線
原田・草津線
東海田・広島線
広島港線
府中・祇園線
翠町・青崎線
南観音・観音線
(11路線)
二級国道183号広島・米子線と二級国道186号広島・浜田線は市内に単独区間は存在しない。
因島市 38.79 41,502 (なし) (なし) 尾道・因島線
(1路線)
生口島循環線
重井・三庄・土生線
徳永・西浦線
中庄・重井線
(4路線)
大竹市 77.35 34,546 2号
(1路線)
(なし) 大竹・加計線
(1路線)
大竹・佐伯線
大竹停車場線
大竹・美和線
乙瀬・小方線
玖波停車場線
栗谷・大野線
柱野・大竹線
(7路線)
尾道市 102.69 91,003 2号
(1路線)
184号松江・尾道線
(1路線)
尾道・因島線
(1路線)
草深・古市・松永線
栗原・西御所線
下川辺・尾道線
府中・松永線
三成・松永線
美之郷・三成線
(6路線)
呉市 143.81 210,032 31号
(1路線)
185号呉・三原線
(1路線)
呉・倉橋島線
呉・西条線
(2路線)
安芸阿賀停車場線
兼沢・郷原線
呉停車場線
警固屋・広停車場線
郷原・天応線
瀬野・呉線
長浜・広線
仁方停車場線
平谷・呉線
焼山・吉浦線
(10路線)
庄原市 245.27 30,663 (なし) 183号広島・米子線
(1路線)
庄原・新見線
福山・庄原線
(2路線)
上湯川・庄原線
木屋原・庄原線
実留・春田線
実留・山内線
庄原停車場線
庄原・三良坂線
高停車場線
中領家・庄原線
永田・庄原線
七塚・三良坂線
山内停車場線
(11路線)
竹原市 116.83 36,424 2号
(1路線)
185号呉・三原線
(1路線)
竹原・吉田線
(1路線)
大乗停車場線
上三永・新庄線
茅市・忠海線
竹原港線
南方・竹原線
吉名停車場線
(6路線)
福山市 136.36 140,603 2号
(1路線)
(なし) 福山・井原線
福山・庄原線
福山・東城線
福山・鞆線
(4路線)
神辺・引野線
熊野・瀬戸線
熊野・松永線
下御領・新市線
下山南・福山線
津之下・引野線
坪生・福山線
鞆・松永線
中野・御幸線
備後赤坂停車場線
福山停車場線
松永・新市線
御幸・松永線
横尾停車場線
(14路線)
府中市 76.19 40,691 (なし) (なし) 福山・庄原線
(1路線)
市・府中線
落合・世羅線
河佐停車場線
小畠・府中線
篠根・貝原線
下川辺・尾道線
新市停車場線
新山・府中線
二森・府中線
府中停車場線
府中・松永線
(11路線)
松永市 50.25 34,718 2号
(1路線)
(なし) (なし) 草深・古市・松永線
熊野・松永線
鞆・松永線
府中・松永線
松永・新市線
三成・松永線
御幸・松永線
(7路線)
三原市 202.55 80,395 2号
(1路線)
185号呉・三原線
(1路線)
三原・東城線
(1路線)
安芸幸崎停車場線
糸崎港線
宇津戸・八幡線
大草・三原線
茅市・忠海線
小泉・本郷線
甲原・新倉線
佐木島線
須波停車場線
高坂・西宮線
本郷・御調線
美之郷・三成線
三原停車場線
(13路線)
三次市 250.64 42,163 (なし) 182号広島・松江線
183号広島・米子線
184号松江・尾道線
(3路線)
出雲・三次線
大田・三次線
(2路線)
青河・江田川之内線
有原・豊栄線
糸井・塩町線
金屋・三次線
上板木・志和地停車場線
神杉停車場線
塩町停車場線
下志和地・下小原線
志和地停車場線
新市・三次線
羽出庭・三良坂線
三次・江津線
三次・世羅西線
三次・高宮線
三次停車場線
三次・仁多線
若屋・秋町線
和知・塩町線
(18路線)
主要地方道出雲・三次線と一般県道三次・江津線は市内に単独区間は存在しない。

 上表から一般県道路線については福山市は三次市の18路線に次ぐ14路線が認定されたことになり、路線数は多かったことがうかがえる。記すまでもないが広島県南東部にある市(他には因島市・尾道市・府中市・松永市・三原市がある)では最も多くの路線が認定されている。
 ところで、上表をご覧になって気付いた方もいたかもしれないのだが、1960年(昭和35年)10月1日時点で福山市は既に広島市・呉市に次ぐ人口を有する都市になっていた。1956年(昭和31年)9月30日に周辺の2郡2町8村(注25)を一挙に編入したことを契機に人口は10万人を突破し、広島県南東部最大の都市に成長したのであるが、中枢性に関しては疑問符が付く状況にあった。依然として広島県南東部の中心都市は尾道市だとされていた(注26)し、尾道市や三原市と違って国道路線が一つしかない。平地が広く、交通の要衝にはなっているが都市を大きく発展させる原動力(産業)がない。更なる発展には何が必要なのかが1960年代の福山市の課題になったことは想像に難くない。

待望の二級国道路線発足

 広島県南東部最大の都市なのに中枢性が脆弱な福山市が広島県南東部の中心都市として確固たる地位を築き始めたのは1960年代に入ってからである。その契機となった出来事が1961年(昭和36年)秋に福山市と深安郡深安町(1955〜1961)の境(注27)の辺りの海を埋め立てて日本鋼管(現:JFEスチール〔東京都千代田区内幸町二丁目〕)の大規模な製鉄所を建設することが決まったことであった。翌1962年(昭和37年)1月1日には福山市は深安郡深安町を編入し、市域は岡山県(笠岡市)と境を接するようになった。
 こういう状況も後押ししたのか、1962年(昭和37年)5月1日政令第184号で翌1963年(昭和38年)4月1日に新見市と福山市を結ぶ二級国道182号新見・福山線が発足することになったのである。1953年(昭和28年)5月18日政令第96号で悔しい思いをしてから9年。やっと待望の二つ目の国道路線が実現したのである。
 この二級国道182号新見・福山線は中国山地の中にある都市と瀬戸内海沿岸地域を結ぶ初の国道路線
(注28)でもあるわけだが、なぜこのような形になったのか。考えられる理由としては次のようなことが挙げられる。
・山陰地方中央部の都市(考えられるのは倉吉市・米子市・松江市・出雲市・安来市)と福山市を結ぶ路線は考えられないわけではなかったのだが、
沿線に大きな町がないことや他の陰陽連絡国道路線との兼ね合いがあったことなどから実現が難しかったこと。
・新見市からJR姫新線に沿って東進し、津山市に至る路線も考えられないわけではなかったのだが、この場合も一級国道2号線や二級国道179号岡山・鳥取線改め一級国道53号線などとの兼ね合いが生じる恐れがあったこと。
・二級国道182号新見・福山線の起点がある新見市は二級国道180号岡山・松江線が通っており、新見市以北については二級国道180号岡山・松江線を使えば一応陰陽連絡国道路線として有用になること。
・新見市は市制施行したのは第二次世界大戦後のことであるし、人口も3万7,437人(1960年〔昭和35年〕10月1日実施の国勢調査による)とそんなに多くはないが、岡山県北西部の中心都市であり、複数の鉄道路線(JR伯備線とJR姫新線、JR芸備線(注29))が集まる交通の要衝にもなっていたこと。
 路線自体は中国山地の中にある町と瀬戸内海沿岸を結ぶものではあったが、その北方にある山陰地方中央部を見据えた路線として位置付けられていたことがうかがえる。
 では発足当時の二級国道182号新見・福山線はどんな道だったのか。発足から半世紀以上経った今日、その一端を垣間見られる場所が福山市にはある。福山市加茂町下加茂の加茂川(芦田川の支流)の右岸を通る道(福山市道)である。二級国道182号新見・福山線改め国道182号線の主流がその東方に建設されたバイパスに移ってから40年以上の歳月が流れているのだが、何と今でも福山市と深安郡加茂町(1955〜1975)の境界標識やかなり錆びているが「182」と書かれているのが読める国道標識(標識の正式名称は国道番号)が残されているのである(注30)

福山市加茂町下加茂の国道182号線旧道に残る国道標識

福山市加茂町下加茂と福山市御幸町上岩成の境に残る深安郡加茂町の境界標識

福山市加茂町下加茂と福山市御幸町上岩成の境に残る福山市の境界標識

 これらの物件が今も残る道は現在でも路線バスが通っているのだが、中央線がひかれている箇所はほとんどなく、大型車同士のすれ違いには難渋する道であった。現在の全線が上下2車線以上に改良された国道182号線しか知らない人がこの道を通ると昔の国道182号線はこんな道だったのかと驚くことであろうが、今から半世紀前の国道路線にはこういう道が多数あったのである。
 無論沿線自治体は早期の改良を各方面に要望していくことになったわけであるが、その改良は前途多難と言っても良かった。平地からわずか10km程度で500m近くも標高を上げることでもうかがえるように地形が厳しいことや沿線人口が少ないこと、整備を急ぐ理由が当時はなかったこと、費用対効果が低かったことなどがその主たる要因であった。福山市待望の二つ目の国道路線が有用な存在になるにはまだかなりの歳月が必要であった。

主要地方道路線が通らないまま消えた市

 アジア地区初の夏季オリンピック大会となった東京オリンピック(1964年〔昭和39年〕)が終わって間もなく、日本の道路行政は一つの転換点を迎えた。二度目の主要地方道路線指定が行われたこと(1964年〔昭和39年〕12月28日建設省告示第3,620号による)と一級国道と二級国道を統合して一般国道を発足させたこと(1965年〔昭和40年〕3月29日政令第58号に基づいて1965年〔昭和40年〕4月1日実施)であった。この二つの異動により広島県を通る一般国道は9路線、主要地方道は29路線となった。1965年(昭和40年)4月1日時点の広島県内各市の国道路線と主要地方道路線の通過状況を示すと下表の通りになる。

※県道路線の名称は50音順で並べている。

市名 通過路線 備考
一般国道 主要地方道
広島市 2号
54号
183号
186号
261号
(5路線)
広島・向原線
(1路線)
国道183号線と国道186号線、国道261号線は市内に単独区間は存在しない。
因島市 (なし) 尾道・因島線
(1路線)
大竹市 2号
(1路線)
大竹・加計線
(1路線)
尾道市 2号
184号
(2路線)
尾道・因島線
(1路線)
呉市 31号
185号
(2路線)
呉・倉橋島線
呉・西条線
(2路線)
庄原市 183号
(1路線)
庄原・東城線
福山・庄原線
(2路線)
竹原市 2号
185号
(2路線)
竹原・吉田線
(1路線)
福山市 2号
182号
(2路線)
福山・井原線
福山・庄原線
福山・鞆線
(3路線)
府中市 (なし) 福山・庄原線
(1路線)
松永市 2号
(1路線)
(なし)
三原市 2号
185号
(2路線)
三原・東城線
(1路線)
三次市 54号
183号
184号
(3路線)
出雲・三次線
大田・三次線
三次・安来線
(3路線)
主要地方道出雲・三次線は市内に単独区間は存在しない。

 第二次主要地方道路線指定によりようやく広島市に主要地方道路線が通るようになったことが上表からうかがえるが、反対にその第二次主要地方道路線指定でも主要地方道路線が通らずじまいになった市があった。それが福山市と尾道市の間にあった松永市である。松永市は現在の福山市今津町・金江町・神村(かむら)町・高西町・東村町・藤江町・本郷町・松永町・南今津町・南松永町・宮前町・柳津(やないづ)町に相当する区域に存在した市なのだが、市販の道路地図を見ていてなぜ尾道市の一部になっている浦崎町や高須町、西藤町、原田町、百島町は尾道市中心部より松永市中心部のほうが近いのに松永市の一部にならなかったのかと思う方は必ずいることであろう。そのようになった原因は尾道市の中枢性の高さと松永市の財政規模の小ささであった。
 松永市は1954年(昭和29年)3月31日に沼隈郡松永町及び神(か)・金江・東・藤江・本郷・柳津各村が統合して発足した市であるが、主力産業と言えば塩田を用いての製塩と下駄を中心とした木工産業、盛んに栽培されている藺草(いぐさ)を用いての畳表の製造ぐらいしかなかった。いわゆる昭和の大合併の際に複数の町村が統合して発足した市は財政事情を潤沢にさせるような産業がないところが多く、すぐに財政難に陥るところも出たほどであるが、松永市もその例に漏れなかった。そういう状況に陥ることは松永市発足前から目に見えていたことなのだが、そのことが松永市の周辺にあった自治体、すなわち沼隈郡浦崎・高須・西・百島各村や御調(みつぎ)郡原田村を尾道市編入に傾かせる結果になった。但し沼隈郡高須・西両村の一部地域ではやはり松永市に編入して欲しいという声が高まり、住民投票の結果1955年(昭和30年)7月15日に松永市に編入されている(注31)
 そんな松永市を通る主要地方道路線が全く指定されなかったのはやはり尾道市と福山市に挟まれていることやすぐそばに尾道市という強大な都市があることに起因する中枢性の低さが大きかったように思われる。松永市と他の市町村を結ぶ県道路線はいくつもあったのだが、やはり松永市の中枢性の低さを考えると主要地方道に昇格させるだけの意味はないと判断されたのであろう。同じく第一次主要地方道指定で主要地方道路線が全く通らないことになった広島市と比べるとそのことはよく分かるのだが、なお悪いことに1960年代に入ると松永市の主力産業であった塩田を用いての製塩が国策により取りやめになったことで財政事情は困窮を極めるようになった。
 そこで松永市は(結果的には消滅することにはなるのだが)どこかの市と合併して抱えていた課題(注32)を解消させることを考えるようになった。無論合併相手は尾道市か福山市のどちらかということになるわけであるが、紆余曲折の末福山市との合併を選択した。「尾道市のほうが近いし尾道市とも関係が深い(注33)のになぜ福山市との合併を選んだのか」と思う方がいると思うのだが、選択に影響したことの一つはやはり福山市東部に日本鋼管の大規模な製鉄所が進出し、福山市が急激な成長を遂げていたことであった。何度も記す通り既に福山市は広島県南東部最大の都市になっていたわけであるが、躍進を遂げていた福山市の一部になれば遅れていた都市整備も進むだろうという思惑があったのは想像に難くない。こうして1966年(昭和41年)5月1日、松永市は福山市と統合し、わずか12年1ヶ月、日数に直せば4,414日の市政を閉じることになった。記すまでもないが松永市は赤間関市(1889〜1902。現在の下関市の前身)を抜いて中国地方最短命の市になっている(注34)

 なお、松永市改め福山市松永地区を通る主要地方道路線が発足したのは福山・松永両市統合による福山市再発足から10年経った1976年(昭和51年)のことである。1976年(昭和51年)4月1日建設省告示第694号でともに一般県道だった鞆・松永線と府中・松永線がそのまま主要地方道に昇格することになったのである。更に1982年(昭和57年)4月1日建設省告示第935号で一般県道三成・松永線(1960〜1982)が主要地方道福山・尾道線に再編されることになり、現在福山市松永地区を通る主要地方道路線は県道47号鞆・松永線と県道48号府中・松永線、県道54号福山・尾道線の三つになっている。

二つの陰陽連絡国道路線

 日本鋼管の大規模な製鉄所の操業開始や松永市との統合による再発足で20万都市の仲間入りを果たした福山市であるが、一般国道発足後初めての国道再編となる1969年(昭和44年)12月4日政令第280号により1970年(昭和45年)4月1日から山陽地方(岡山県・広島県・山口県)の県庁所在地ではない都市としては初めて二つの山陰地方に通じる国道路線を有することになった。倉吉市と福山市を岡山県を経由して結ぶ国道313号線と、福山市と島根県大原郡木次(きすき)町(1891〜1955/1957〜2004(注35))を結ぶ国道314号線がそれである。倉吉市も島根県大原郡木次町も日本海に面していないのだが、どちらも日本海まではそんなに離れていないところにあるので陰陽連絡国道路線と考えても良いと言えよう。これにより福山市を通る国道路線は四つとなった(但し国道314号線については福山市内では全区間国道182号線と重用しているため単独区間は存在しない)。
 しかし、二級国道182号新見・福山線改め国道182号線の場合と同じく、国道313号線・国道314号線とも未改良箇所が多数ある中での発足であった。特に国道314号線は比婆郡東城町・比婆郡西城町境付近に通行不能区間を抱えた上での発足であった(注36)。記すまでもなくこれらの国道路線の整備を求める声は高かったのだが有用な存在になるにはかなりの年数がかかることになった。
 いずれにせよ福山市が二つの陰陽連絡国道路線を有するようになったことは1967年(昭和42年)6月1日に中国運輸局広島運輸支局福山自動車検査登録事務所(福山市南今津町)が開設され、因島市・尾道市・竹原市・福山市・府中市・三原市・芦品郡・甲奴郡・神石郡・世羅郡・豊田郡・沼隈郡・比婆郡・深安郡・御調郡を対象区域として福山ナンバーが設定されたことと併せて地方においてモータリゼーションが著しく進展したことを示す象徴的な出来事になったと言えよう。

広域合併のその裏で

 広島県南東部最大の都市として、広島県南東部の中心都市として著しい発展を続けていた福山市は1972年(昭和47年)、周辺の七つの自治体、すなわち芦品郡芦田・駅家・新市各町と沼隈郡内海(うつみ)・沼隈両町、深安郡加茂・神辺両町に対して合併の申し入れを行った。それまで沼隈郡や深安郡―もっともかつて深津郡だった区域だけであるが―に属していた地域だけを次々と市域に収めてきた福山市であるが、このことは芦品郡や深安郡のうちのかつて安那郡だった区域にも影響力が及ぶようになったことを如実に示すことでもあった。
 この時の合併の申し入れを受けて福山市編入に傾いたのは芦品郡芦田・駅家両町と深安郡加茂町だけだったのだが、これにより福山市は南北に長い市域を有するようになり、標高500mを超す地域を市域に収めるようになった。その中で出てきたのが通行不能箇所を持つ県道路線を抱えるようになったことであった。その路線とは福山市駅家町新山と府中市高木町を結ぶ県道398号新山・府中線であった。県道398号新山・府中線は芦品郡駅家町・芦品郡新市町境付近、すなわち現在の福山市駅家町助元〜福山市新市町下安井間で途切れており、全線を自動車で走り通すことは不可能な状況にあった。県道398号新山・府中線の場合は昔からある道を県道にしたものの社会情勢の変化などにより廃れ、費用対効果が見込めないために整備も積極的に行われずじまいになっている(注37)のだが、理由がどうであれ日本の道路の問題点の一つを福山市は抱え込むことになったのである。
 更に1970年代中期に福山市が編入した芦品郡芦田・駅家両町と深安郡加茂町には未改良の国道路線や県道路線が多数存在した。代表的なところでは神石郡に通じる国道182号線(国道314号線重用)や福山市最北端にある景勝地・山野峡に通じる県道21号加茂・油木線、芦品郡芦田町(1955〜1974)改め福山市芦田町を東西に貫く県道396号柞磨(たるま)・駅家線が挙げられるのだが、これらの路線の早期整備を広島県に求めていくことも福山市政の課題になった。広域合併は確かに利点も多いかもしれないのだが、抱える新たな課題も少なくないことを浮き彫りにしたと言えよう。

発展の中で変わっていった道路

 福山市は周辺自治体との合併や日本鋼管の大規模な製鉄所の操業開始などで大きく発展してきたわけであるが、その中で姿を大きく変えた道路も少なくなかった。ここではそんな道路をいくつか紹介することにしたい。

(たどれなくなった旧道を持つ県道路線)

 深安郡深安町津之下(現:福山市大門町一丁目/大門町津之下交差点)福山市引野町(現:福山市引野町五丁目/梶島山交差点)を海岸沿いに結んでいた県道244号津之下・引野線(1960〜1965)は日本鋼管の大規模な製鉄所の進出が運命を変えた路線であった。県道244号津之下・引野線は大型車の通行が困難な道だったためその外側に広い道(鋼管道路)を建設し、そちらに移行することになった(注38)のだが、その際旧道の一部分が日本鋼管の敷地になったためそこで旧道はたどれなくなってしまった。航空写真によるとこの旧道は現在日本鋼管改めJFEスチールの構内道路として活用されているようなのだが、たとえ一般市民が構内に入れる機会があったとしてもこの旧道を全てたどることは難しい(注39)
 一方、深安郡深安町坪生(現:福山市坪生町四丁目/坪生町交差点)深安郡深安町津之下(現:福山市大門町津之下/大門町津之下交差点)を結んでいた県道380号坪生・大門線(1960〜1994)は日本鋼管の大規模な製鉄所の進出に加えて福山市が東部の丘陵地帯で進めた大規模な宅地開発が運命を変えた路線であった。深安郡深安町坪生地区改め福山市坪生町と、深安郡深安町大津野地区改め福山市大門町をほぼまっすぐに結ぶ路線だったのだが、いかんせん山の中の道であり、費用対効果が見込めないこともあって整備は進まなかった。そんな県道380号坪生・大門線にとって福音になったのは福山市が東部の丘陵地帯で進めた大規模な宅地開発であった。これにより県道380号坪生・大門線は東陽台や青葉台、伊勢丘といった大規模団地の中を貫く幹線道路になったのだが、反対に従来の道の一部分は大谷台・幕山台の造成の際削られてしまい、現在福山市大谷台や福山市幕山台になったところではどこを通っていたのかが判然としなくなっている。

(区画整理事業で大幅に経路が変わった県道路線)

 深安郡深安町坪生(現:福山市坪生町六丁目/坪生町北交差点(注40)福山市奈良津町三丁目/福山北消防署前交差点を結ぶ県道379号坪生・福山線は発足当時深安山地や蔵王山地(注41)の南麓に沿って延びる路線であった。山裾に沿って延びる道であるため道はくねくねしており、更に大型車の通行や普通自動車同士のすれ違いも難しい箇所も少なくなかった。
 そんな県道379号坪生・福山線が面目を一新したのは福山市が春日町・蔵王町・東深津町・引野町に跨る地域で実施した大規模な区画整理事業であった。これにより福山市春日町から福山市蔵王町にかけての県道379号坪生・福山線は平野の中をまっすぐに貫く道になり、沿線には多くの店舗が建ち並ぶようになった。国道2号線や国道182号線(国道314号線重用)とともに春日町・蔵王町・東深津町・引野町に跨る地域、いわゆる東部地区の市街地化に大きく寄与した路線になったと言っても間違いではない。

(国道路線に発展的解消を遂げた県道路線)

 深安郡神辺町川南(現:福山市神辺町川南/長畑交差点〔信号機・交差点名標なし〕)福山市引野町(現:福山市引野町五丁目/梶島山交差点)を結んでいた県道243号神辺・引野線(1960〜1972)は深安山地と蔵王山地の間を通る路線であり、急な勾配を有しない路線でもあった。もし整備されれば福山市北部と福山市東部を直接結ぶ有用な道路になるわけであるが、一般県道であるが故に整備は進まなかった。
 そんな中、福山市御幸町森脇以北で狭隘箇所を多く残していた国道182号線の改良が本格化することになるのだが、経路として白羽の矢が立ったのが県道243号神辺・引野線の通る深安山地と蔵王山地の間であった。福山市御幸町森脇以北に狭隘箇所があるのであれば福山市御幸町森脇以北でバイパスを建設すれば良いのではないかと思う方がいると思うのだが、福山市中心部への交通集中を招くことや上下2車線化されていても規格の低い箇所や重量制限のある箇所があること、福山市北部―当時はまだ千田町・御幸町・横尾町を除いては福山市に編入されていなかったのだが―の発展のためには多くの雇用が見込める場所―記すまでもなく日本鋼管の大規模な製鉄所であるが―に通じる道路が必要だったこと、国道182号線は広島県が管理する道路だが整備や維持のための費用は国が補助するため広島県にとってみれば渡りに船になったことが理由として挙げられる。こうして県道243号神辺・引野線は国道182号線(1970年〔昭和45年〕4月1日以降は国道314号線重用)のバイパスに区域のかなりの部分が取り込まれることになり、1972年(昭和47年)3月21日広島県告示第235号により廃止された。既存の県道路線に並行して国道路線のバイパスを建設し、国道路線のバイパスが開通した後県道路線を廃止する例はいくらか存在するが、福山市ではそこだけである。

(わずか11年半で消え去った跨線橋)

 国道182号線(国道314号線重用)がJR山陽本線を跨ぐところに作られた跨線橋は新福山陸橋と呼称しているが、それなら福山陸橋もあったはずだと思う方はいるのではないのだろうか。その福山陸橋は確かに過去に存在した。福山陸橋があったのは国道313号線の福山市旭町/三吉町南1丁目交差点福山市若松町/合同庁舎(東)交差点間で、JR山陽本線を跨いでいた。
 福山市図書館公式サイトで閲覧できる「広報ふくやま」の過去発行分を見ると、この福山陸橋は1957年(昭和32年)12月に着工され、1961年(昭和36年)4月13日に渡り初めが行われたという。それまでJR山陽本線以北の地域とJR山陽本線以南の地域はいくつも設置されていた踏切を通るしか往来する術(すべ)がなかったのだが、JR山陽本線を通る列車が増えたこと(注42)から踏切での渋滞が頻発するようになっていた。そこでJR山陽本線以北の地域とJR山陽本線以南の地域を円滑に往来できるようにするために企図されたのがこの福山陸橋であった。
 JR山陽本線以北の地域とJR山陽本線以南の地域を結ぶ踏切はいくつもあったのになぜ福山市旭町/三吉町南1丁目交差点福山市若松町/合同庁舎(東)交差点間に陸橋が建設されたのか。実は福山陸橋は主要地方道福山・井原線(1954〜1971。主要地方道福山・庄原線及び主要地方道福山・東城線重用)に属していたのだが、その主要地方道福山・井原線(主要地方道福山・庄原線及び主要地方道福山・東城線重用)は福山市中心部でJR山陽本線と交差する唯一の県道路線だったからである(前にも記した通り当時の福山市域には一級国道2号線以外国道路線は通っていない)。更に整備や維持の費用について国から補助のある主要地方道に指定されていたことや福山陸橋が通る主要地方道福山・井原線(主要地方道福山・庄原線及び主要地方道福山・東城線重用)は一級国道2号線や主要地方道福山・鞆線と接続することも大きかった。つまり、福山市中心部の東に偏ることにはなるが陸橋を建設するには最適なところだったということになる。
 ところで、私は前に「その福山陸橋は確かに過去に存在した」と書いたのだが、記すまでもなく福山陸橋は現存しない。ではなぜ福山陸橋はなくなってしまったのか。実はJR山陽新幹線の建設とそれに連動してのJR山陽本線の高架化が理由であった。並行して在来線の高架と新幹線の高架を通すほどの土地がなかったことで生み出された世界初の二重高架(2階をJR山陽本線が、3階をJR山陽新幹線がそれぞれ通るようになっている)はその時できたわけであるが、鉄道路線が高架になるのなら陸橋は高架建設の邪魔になるし用済みになる。こうして1972年(昭和47年)9月30日をもって福山陸橋はわずか11年半でその役目を終え、解体されたのである。
 福山陸橋がなくなってから40年以上の歳月が流れ、その存在自体知る人は少なくなっているが、福山市旭町/三吉町南1丁目交差点の北西角に現在も「陸橋ビル」なる建物があり、その辺りにかつて陸橋が存在したことを今に伝えている。

(広島県から福山市に移管された駅前通り)

 JR山陽本線が通る中国地方の市町は29ある(下表参照)。

県名 通過自治体名 備考
岡山県 備前市・和気郡和気町・赤磐市・岡山市・倉敷市・浅口市・浅口郡里庄町・笠岡市(6市2町) 岡山市の行政区で通過しているのは東区・中区・北区。いずれの区にも駅がある。
広島県 福山市・尾道市・三原市・東広島市・広島市・安芸郡海田町・安芸郡府中町・廿日市市・大竹市
(7市2町)
広島市の行政区で通過しているのは安芸区・南区・東区・中区・西区・佐伯区。東区には現在駅がない。
山口県 玖珂郡和木町・岩国市・柳井市・熊毛郡田布施町・光市・下松市・周南市・防府市・山口市・
宇部市・山陽小野田市・下関市(10市2町)

 現在は全ての市町にJR山陽本線の駅があるのだが、JR山陽本線の駅の駅前広場を起終点とする県道路線がない市町が五つ存在する。それは浅口郡里庄町(岡山県)と尾道市・福山市(以上広島県)、柳井市・玖珂郡和木町(以上山口県)である(下表参照)。

県名 所在
市区郡町村名
駅名 読み方 駅前広場を起終点と
する県道路線
備考
岡山県 備前市 三石 みついし (なし)
吉永 よしなが 県道261号穂浪・吉永停車場線
県道404号都留岐・吉永停車場線
和気郡和気町 和気 わけ 県道181号和気停車場線
赤磐市 熊山 くまやま 県道180号熊山停車場線
岡山市東区 万富 まんとみ 県道179号万富停車場・弓削線
県道254号可真上・万富停車場線
瀬戸 せと 県道178号瀬戸停車場線
上道 じょうとう (なし)
岡山市中区 東岡山 ひがしおかやま 県道383号九蟠・東岡山停車場線
県道384号今在家・東岡山停車場線
高島 たかしま (なし)
西川原 にしがわら (なし) 駅名標や車内放送は「西川原・就実」となっている(注43)
岡山市北区 岡山 おかやま 県道42号岡山停車場線
北長瀬 きたながせ (なし)
庭瀬 にわせ (なし) かつては県道95号庭瀬停車場線(一般県道。路線名称は「岡山県公報」に記載されているものを記している(注44))があったが1973年(昭和48年)1月30日岡山県告示第89号により廃止され、岡山市に移管された(理由不明)。
倉敷市 中庄 なかしょう 県道186号中庄停車場線
倉敷 くらしき (なし) かつては県道43号倉敷停車場線があったが倉敷駅南口再開発事業に当たって倉敷市に移管させる必要が生じたため1979年(昭和54年)6月5日岡山県告示第493号により廃止された。
西阿知 にしあち 県道190号西阿知停車場線
県道277号中島・西阿知停車場線
新倉敷 しんくらしき 県道41号新倉敷停車場線
浅口市 金光 こんこう (なし)
鴨方 かもがた 県道194号鴨方停車場線
浅口郡里庄町 里庄 さとしょう (なし)
笠岡市 笠岡 かさおか 県道44号笠岡停車場線
広島県 福山市 大門 だいもん (なし)
東福山 ひがしふくやま (なし)
福山 ふくやま (なし) (詳細は後述)
備後赤坂 びんごあかさか (なし) (詳細は後述)
松永 まつなが (なし) (詳細は後述)
尾道市 東尾道 ひがしおのみち (なし)
尾道 おのみち (なし)
三原市 糸崎 いとざき (なし)
三原 みはら (なし) かつては県道59号三原停車場線(一般県道)があったが1965年(昭和40年)3月31日広島県告示第260号により廃止された(理由不明(注45))。
本郷 ほんごう 県道193号本郷停車場線
東広島市 河内 こうち 県道468号河内停車場線
入野 にゅうの (なし)
白市 しらいち (なし)
西高屋 にしたかや 県道194号西高屋停車場線
西条 さいじょう 県道195号西条停車場線
八本松 はちほんまつ (なし)
広島市安芸区 瀬野 せの (なし)
中野東 なかのひがし (なし)
安芸中野 あきなかの 県道196号安芸中野停車場線
安芸郡海田町 海田市 かいたいち 県道197号海田市停車場線
安芸郡府中町 向洋 むかいなだ 県道198号向洋停車場線
広島市南区 天神川 てんじんがわ (なし)
広島 ひろしま (なし)
広島市中区 新白島 しんはくしま (なし)
広島市西区 横川 よこがわ (なし)
西広島 にしひろしま (なし)
新井口 しんいのくち (なし)
広島市佐伯区 五日市 いつかいち 県道199号五日市停車場線
廿日市市 廿日市 はつかいち 県道200号廿日市停車場線
宮内串戸 みやうちくしど (なし)
阿品 あじな (なし)
宮島口 みやじまぐち (なし)
前空 まえぞら (なし)
大野浦 おおのうら (なし)
大竹市 玖波 くば 県道201号玖波停車場線
大竹 おおたけ 県道202号大竹停車場線
山口県 玖珂郡和木町 和木 わき (なし)
岩国市 岩国 いわくに 県道50号岩国停車場線
南岩国 みなみいわくに 県道113号南岩国停車場・磯崎線
藤生 ふじゅう 県道112号藤生停車場・錦帯橋線
県道136号上久原・藤生停車場線
通津 つづ 県道141号祖生・通津停車場線
由宇 ゆう (なし)
神代 こうじろ (なし)
柳井市 大畠 おおばたけ (なし)
柳井港 やないみなと (なし)
柳井 やない (なし) かつては県道154号柳井停車場線があったが終点で接続していた県道7号柳井・周東線の経路変更により実質的に柳井駅北口駅前広場だけの路線になったため1994年(平成6年)3月29日山口県告示第259号により廃止され、柳井市に移管された。
熊毛郡田布施町 田布施 たぶせ 県道163号別府・田布施停車場線
光市 岩田 いわた 県道161号岩田停車場線
島田 しまた (なし) かつては県道147号島田停車場線があったが山口県の県道路線整理政策により1995年(平成7年)3月31日山口県告示第262号により廃止され、光市に移管された。
ひかり (なし)
下松市 下松 くだまつ 県道51号下松停車場線
周南市 櫛ヶ浜 くしがはま 県道170号粭島・櫛ヶ浜停車場線
徳山 とくやま 県道53号徳山停車場線
新南陽 しんなんよう 県道178号新南陽停車場線
福川 ふくがわ (なし) かつては県道192号串・福川停車場線があったが県道路線再編により1973年(昭和48年)3月31日山口県告示第274号の5により廃止された(注46)
戸田 へた (なし) かつては県道180号鹿野・戸田停車場線があったが県道路線再編により1973年(昭和48年)3月31日山口県告示第274号の5により廃止された(注46)
防府市 富海 とのみ 県道189号富海停車場線
防府 ほうふ 県道54号防府停車場線
県道185号防府停車場・向島線
県道186号防府停車場・大薮線
大道 だいどう 県道187号高井・大道停車場線
山口市 四辻 よつつじ 県道208号四辻停車場線
新山口 しんやまぐち 県道214号新山口停車場・長谷線
県道353号新山口停車場・上郷線
嘉川 かがわ (なし) かつては県道209号嘉川停車場線があったが山口県の県道路線整理政策により1995年(平成7年)3月31日山口県告示第262号により廃止され、山口市に移管された。
本由良 ほんゆら (なし)
宇部市 厚東 ことう (なし) かつては県道221号厚東停車場線があったが山口県の県道路線整理政策により1995年(平成7年)3月31日山口県告示第262号により廃止され、宇部市に移管された。
宇部 うべ 県道215号宇部停車場線
山陽小野田市 小野田 おのだ 県道222号小野田停車場線
厚狭 あさ 県道227号厚狭停車場・郡線
県道228号厚狭停車場線
埴生 はぶ 県道229号埴生停車場線
下関市 小月 おづき 県道253号小月停車場線
長府 ちょうふ 県道254号長府停車場線
新下関 しんしものせき 県道255号田倉・新下関停車場線
県道259号新下関停車場・稗田線
県道255号田倉・新下関停車場線は2016年(平成28年)5月24日山口県告示第157号により認定された、中国地方のJR山陽本線の駅の駅前広場を起終点とする最新の県道路線。
幡生 はたぶ (なし) かつては県道249号幡生停車場・椋野線があったが県道路線再編により1998年(平成10年)4月28日山口県告示第344号により廃止された(注47)
下関 しものせき 県道323号下関停車場線

 上表からJR山陽本線の駅の駅前広場を起終点とする県道路線がない市町は元々駅の駅前広場を起終点とする県道路線が設定されなかったところ(浅口郡里庄町・尾道市・玖珂郡和木町)と駅の駅前広場を起終点とする県道路線はあったが何らかの事情により全て廃止されたところ(福山市・柳井市)に分かれるわけであるが、実は福山市はそういう市町の中で最も多くのJR山陽本線が通る駅(その数は5駅)を有するところでもある。五つも駅があるのになぜ駅の駅前広場を起終点とする県道路線が一つもないのか、疑問に思う方もいるかもしれないのだが、そのようになったのは福山市の都市計画が背景にある。ではなぜ県道190号福山停車場線と県道191号備後赤坂停車場線、県道192号松永停車場線は廃止されて福山市に移管されたのか、その理由をそれぞれについて記していくことにしたい。
 まず、県道190号福山停車場線であるが、福山市が県道190号福山停車場線の地下に駅南口地下駐車場や地下道を整備することが理由であった。福山駅(福山市三之丸町)が山陽新幹線の停車駅となることが決まったことで表玄関となる福山駅南口の整備が課題になったのだが、広島県が管理する道の地下に福山市が運営する駐車場を建設するとなると福山市に移管する以外方法はない。よって県道190号福山停車場線は1974年(昭和49年)2月19日広島県告示第136号により廃止され、福山市に移管されたのである。山陽新幹線岡山〜福山〜博多間開業(1975年〔昭和50年〕3月10日)の約1年前の話であり、この結果広島県内の山陽新幹線の停車駅(開業当時は福山・三原・広島だけ(注48))の駅前広場を起終点とする県道路線はなくなったため何とももったいないとか理解に苦しむという声が出たのだが、福山市が県道路線となっていた駅前通りを引き取ってその整備に乗り出したということはそれだけ財政規模が大きくなったということの証であった。
 次に、県道192号松永停車場線であるが、福山市がJR山陽本線松永駅(福山市松永町)の北口駅前広場と国道2号線松永道路今津インターチェンジ(福山市今津町)を結ぶ都市計画道路駅前・府中線を整備することが理由であった。都市計画道路駅前・府中線は整備されると並行して通る県道48号府中・松永線の渋滞解消や福山市松永地区北部及び尾道市原田地区と松永駅の直結、松永駅北口一体の活性化などの効果が期待される路線なのだが、整備に当たってあることが問題になった。それは国道2号線松永・尾道旧道、すなわち福山市今津町/松永駅入口交差点を境に南側は広島県が、北側は福山市がそれぞれ管理することになるということであった。となると選択肢は県道192号松永停車場線を延長するか全てを福山市に移管させるかしかないわけであるが、県道192号松永停車場線を延長することや新たな県道路線を認定することは近くを県道48号府中・松永線が通っている以上できない話であった。もうそうなると残された選択肢は県道192号松永停車場線を廃止して福山市に移管させることしかないわけであるが、そのやり方が実に興味をひかれるものであった。まずは下表をご覧頂きたい。

新旧別 区間 敷地幅員
(単位:m)
延長
(単位:m)
備考
福山市松永町字長和島岡335番地の9地先松永停車場〜
福山市今津町字宮下10番地の7地先一般国道2号交点
16.00〜30.00 203.00
福山市松永町字長和島岡335番地の9地先松永停車場〜
福山市今津町字宮下3番地の71地先
30.00 5.00 路線短縮。
不用物件延長188.00m。

 上表は2005年(平成17年)3月24日広島県告示第408号を基に作成したものであるが、起点から5mの部分を残して後は全て県道の区域から外したという告示である。区域除外延長(198.00m)と不用物件延長(188.00m)が合致しないのが気になるところ(終点の福山市今津町/松永駅入口交差点で接続する国道2号線松永・尾道旧道の区域である可能性もあるがどうだろうか)であるが、この告示により何と福山市内に単独区間・供用区間を持つものとしては日本で最も短い都道府県道路線(注49)が出現したのである。まあ「広島県報」を閲覧する人はそんなにいないだろう(注50)し、県道192号松永停車場線は路線識別手段は全く設置されたことのない路線だったのでこの事実を知っている方は皆無に近いと思うのだが、2005年(平成17年)3月24日時点ではまだ広島県議会定例会に県道192号松永停車場線廃止議案は出ていなかったので恐らく何らかの事情があって路線廃止までに一段階置くこと、すなわちごく一部を残して区域から外し、外した区域はとりあえず福山市に移管させることになったのだろう。実は当時私は広島県にいかなる意図があるのか電子メールで尋ねたことがあるのだが、廃止して福山市に移管する旨の回答があり、2005年(平成17年)3月24日時点ではまだ広島県議会定例会に県道192号松永停車場線廃止議案は提出されていなかったが既に広島県としては福山市の要請により県道192号松永停車場線を廃止して福山市に移管させることを決めていたことがうかがえる。結局県道192号松永停車場線廃止議案は2005年(平成17年)6月定例会で提出→可決され、県道192号松永停車場線は2005年(平成17年)8月8日広島県告示第933号により廃止されている。県道192号松永停車場線が単独区間・供用区間を持つものとしては日本で最も短い都道府県道路線だった期間はわずか4ヶ月半、日数に換算すれば138日間であった。
 最後に、県道191号備後赤坂停車場線であるが、福山市がJR山陽本線備後赤坂駅(福山市赤坂町赤坂)の北口駅前広場と県道54号福山・尾道線を結ぶ駅前通りを整備することが理由であった。備後赤坂駅の駅前通りは狭い上に終点の福山市赤坂町赤坂/赤坂駅前交差点に向かって勾配が急になっており、交差点のかなり手前に停止線をひかなければならない状況にあった。備後赤坂駅周辺は福山駅周辺や松永駅周辺と違って都市化は進展していないため別にそういうことをしなくても良いのでは…と思う方が多いかもしれないのだが、2000年代に入り次に挙げる事情が生じ、備後赤坂駅周辺を整備する必要が生じたのである。
・備後赤坂駅の南西にある福山市立福山高等学校(福山市赤坂町赤坂。1969〜2004)が中高一貫校に移行し、福山市立福山中学校・高等学校(福山市赤坂町赤坂)に改称したこと。
・備後赤坂駅の南東に国道2号線福山道路と国道2号線赤坂バイパス、福山西環状線の結節点となる瀬戸ジャンクション(仮称。福山市瀬戸町山北〔さぼく〕)が建設されることが決まったこと。
 この二つの事情は何を意味するのか。備後赤坂駅の乗降客が増え、備後赤坂駅周辺が福山市西部の交通の要衝となるということである。しかし、駅前通りは狭く、乗降客や送迎者の安全が確保できない。広島県が整備に乗り出せば良いのだろうが交通量が少なく、距離も短く、費用対効果が見込めないものを優先するはずはない。そうなると残された選択肢は県道191号備後赤坂停車場線を廃止して福山市に移管させることしかない。こうして県道191号備後赤坂停車場線は2010年(平成22年)2月8日広島県告示第88号により廃止され、福山市に移管された。こうして福山市内のJR山陽本線の駅を起終点とする県道路線は全て廃止され、福山市に移管されたのである。
 今年で県道190号福山停車場線廃止から42年、県道192号松永停車場線廃止から11年、県道191号備後赤坂停車場線廃止から6年がそれぞれ経過したのだが、ではそれぞれのその後はどうなったのか。それは下表の通りである。

路線名称 その後
県道190号福山停車場線 ・駅南口地下駐車場と地下道は1980年(昭和55年)春完成した。
・地下道完成と引き換えに県道190号福山停車場線の起点の上にあった歩道橋は撤去された。
・その後福山市元町や福山市東桜町で実施された再開発事業の際に地下道は改築されている。
県道191号備後赤坂停車場線 ・備後赤坂駅北口駅前広場と県道54号福山・尾道線を結ぶ駅前通りの拡幅は2015年(平成27年)春完成した。
・県道191号備後赤坂停車場線の敷地は埋められ、その上には駅前通りの歩道ができている(但し一部路面が露出している箇所がある)。
・備後赤坂駅の改築などの他の整備事業は全く動き出していない。
県道192号松永停車場線 ・県道192号松永停車場線だった道には何の変化もない。
福山市今津町/松永駅入口交差点以北で未整備箇所が残る都市計画道路駅前・府中線は整備しようという様子はあるが用地買収が難航しているのか工事は進んでいない。現在のところ松永駅北口駅前広場から延びる駅前通りはニチエーさんらいず店(福山市今津町三丁目)の駐車場の入口で終わりになっている(但しニチエーさんらいず店の駐車場を通ってニチエーさんらいず店の西側を通って国道2号線松永道路今津インターチェンジの南方に出る福山市道〔狭いが路線バスが通っている〕に出ることは可能。無論ニチエーさんらいず店やそのそばにある店舗などに用がない場合の通り抜けは推奨しないが…)。

 県道190号福山停車場線と県道191号備後赤坂停車場線は既存の道の整備であるのに対し県道192号松永停車場線は終点の先にある計画中の道の整備であり、その点で状況が大きく分かれることになったわけであるが、実は県道190号福山停車場線と県道191号備後赤坂停車場線、県道192号松永停車場線には共通する事柄がある。いずれも終点は国道2号線との交点になっている(注51)のだが、駅前通り自体はそこで終わりにならず、更に先へと続いているということである。県道路線の終点より先の道路の管理者はいずれも福山市になるわけである(注52)が、国道2号線を境に管理者が分かれていたことが福山市の都市計画の推進に当たって不都合となり、福山市が福山市への移管を求めたことは考えられないだろうか。いずれにせよ、JR山陽本線の駅を起終点とする県道路線が全て福山市に移管されたということは(前に書いたことの繰り返しにはなるのだが)福山市の都市規模や財政規模がそれだけ大きくなり、整備を自ら行えるようになったということの証と考えても誤りではない。

高速交通時代の到来とその中で生じた微妙な問題

 福山市が属する広島県に高速道路が通るようになったのは中国自動車道北房インターチェンジ(真庭市五名)〜三次インターチェンジ(三次市西酒屋町)間が開通した1978年(昭和53年)10月28日のことである。中国自動車道は山陰地方・山陽地方のほぼ中間の中国山地を東西に貫く格好で建設されたため山陰地方や山陽地方の主要な都市からの使い勝手は決して良くなかったのだが、山陰地方や山陽地方の主要な都市から中国自動車道のインターチェンジまで出て中国自動車道を利用する車は少なくなく、中国自動車道のインターチェンジと山陰地方や山陽地方の主要な都市を結ぶ国道路線の整備に拍車がかかることになった。
 一方で瀬戸内海に沿って山陽地方の主要な都市を結ぶ山陽自動車道の計画もあり、山陽地方の主要な都市ではその整備を望む声が高かったのだが、中国自動車道の整備が優先されたことや人口の多い地域を通るために経路設定が難航したこと、建設予定地で反対運動が起きたことなどからなかなか整備は進まなかった。中国自動車道が全線開通した1983年(昭和58年)3月24日時点の開通区間は龍野西インターチェンジ・サービスエリア(注53)(たつの市揖西〔いっさい〕町土師〔はぜ〕)〜備前インターチェンジ(備前市八木山)間に過ぎなかったこと(注54)からもそれはうかがえる。それでも福山市内では大体の経路が決まっていたことから通過予定地で1970年代に実施した区画整理や団地造成の際には山陽自動車道の用地を確保して実施し、山陽自動車道の建設開始に備えていた。
 やっと福山市内で山陽自動車道の建設が始まったのは1983〜1984年(昭和58〜59年)頃のことである。まずは福山東インターチェンジ(福山市蔵王町五丁目)以東について工事が始まり、順次西に向かって展開していった。そして1988年(昭和63年)3月1日、早島インターチェンジ(岡山県都窪郡早島町早島)〜倉敷ジャンクション(倉敷市生坂)〜福山東インターチェンジ間(注55)が開通し、福山市にもようやく高速道路が通るようになったのである。この40日後の1988年(昭和63年)4月10日には本州・四国連絡橋児島・坂出ルートが開通し、早島インターチェンジで接続する本州・四国連絡橋児島・坂出ルートの高速道路部分、すなわち瀬戸中央自動車道を通って香川県にも自動車で直接行けるようになった。ただ、山陽自動車道の倉敷ジャンクション以東及び福山東インターチェンジ以西、瀬戸中央自動車道・高松自動車道坂出支線坂出インターチェンジ(坂出市川津町)以南の高速道路は当時まだ整備されておらず、坂出インターチェンジ〜倉敷ジャンクション〜福山東インターチェンジ間の高速道路は他の高速道路網とは繋がらない、孤立した状態が当面の間続くことになった。また、有料道路であることや国道2号線と並行しているにもかかわらず国道2号線と接続しているのは早島インターチェンジと玉島インターチェンジ(倉敷市玉島長尾)だけであること(注56)、福山東インターチェンジと国道2号線との往来には交通量が多く、渋滞が頻発している国道182号線(国道314号線重用)を通らざるを得なかったことなどから国道2号線のバイパスとしての利用もそう多くはなかったものと思われる。この状況は1991年(平成3年)3月20日に国道2号線松永道路と接続する福山西インターチェンジまで開通しても変わりはなかった。
 やっと岡山県南西部・広島県南東部・香川県中部(+香川県西部・愛媛県東部・高知県中部)が高速道路網の孤立状態から抜け出し、その地域を通る高速道路が有用な幹線道路になったのは1993年(平成5年)の秋から暮れにかけてであった。1993年(平成5年)10月26日に山陽自動車道福山西インターチェンジ〜河内インターチェンジ(東広島市河内町入野)間が、1993年(平成5年)12月16日に備前インターチェンジ〜岡山インターチェンジ(岡山市北区富原)間がそれぞれ開通し、高速道路網に組み込まれたのである。

 さて、これまで触れてきた通り福山市も高速道路網の中に組み込まれていったわけであるが、それは同時に微妙な問題をいくつも生み出す結果をもたらした。それを挙げると次の通りになる。
・山陽自動車道のインターチェンジの位置の問題。福山市内のインターチェンジは福山市中心部・東部に近いところと福山市松永地区中心部に近いところに設置することになったのだが、その間の距離は16.9kmと山陽自動車道では徳山東インターチェンジ(周南市久米)〜徳山西インターチェンジ(周南市戸田)間(18.0km)に次いで長い。中間部にサービスエリアを設置することにしていたことからインターチェンジ設置は考えなかったのだろうが、中間部にインターチェンジを設ければ広島方面との往来が便利になるのに…と思った方は少なくないはずである(それで現在福山サービスエリア〔福山市津之郷町津之郷〕にETC搭載車両専用のインターチェンジを設置することになったわけであるが…)。
・山陽自動車道のインターチェンジの名称の問題。福山市中心部・東部に近いところのインターチェンジの仮称は福山東、福山市松永地区中心部に近いところのインターチェンジの仮称は福山西とされ、結局それが正式名称になった。しかし、福山市東部にある福山東インターチェンジはともかく、福山西インターチェンジについては松永インターチェンジでも良かったのではないか。前にも触れた通り紆余曲折の末に松永地区は福山市の一部になったことや中国地方の他の主要都市(注57)では地域名のインターチェンジが存在することを考えると異論が挙がっても良いように思うのだが…。
1987年(昭和62年)に第四次全国総合開発計画で制定された国土交通大臣指定に基づく高規格幹線道路(一般国道の自動車専用道路)の一つである尾道・福山自動車道の路線名称の問題。尾道・福山自動車道は山陽自動車道と本州・四国連絡橋尾道・今治ルート(西瀬戸自動車道。愛称:瀬戸内しまなみ海道)を結ぶ目的で制定された路線であるが、路線の流れ(注58)を考えれば福山・尾道自動車道としたほうが良いように感じる。現に本州・四国連絡橋尾道・今治ルートと松山自動車道を結ぶ目的で制定された路線は今治・小松自動車道となっており、流れに沿っているのだが、尾道市側が「本州・四国連絡橋尾道・今治ルートの起点はあくまでも尾道市である。福山市に持っていかれるのは容認できない」などと強硬に主張したためにこのようになったのだろうか。
福山西インターチェンジは尾道・福山自動車道との接続点であるにもかかわらず福山西ジャンクションという名称を付けられない問題。福山西インターチェンジのランプウェイは短距離だが上下4車線になっている箇所もあり、尾道・福山自動車道の一部と見なしても良いと思っているのだが、国土交通省中国地方整備局福山河川国道事務所(福山市三吉町四丁目)の公式サイト日本道路交通情報センター(JARTIC。東京都千代田区飯田橋一丁目)のサイトを見ると福山西インターチェンジはあくまでも福山西インターチェンジであり、福山西ジャンクションは福山西インターチェンジのランプウェイと国道2号線松永道路の接続点の名称であるとしている。前に「福山西インターチェンジは松永インターチェンジでも良かったのではないか」という主張をしていてこのようなことを書くのもどうかとは思うのだが、山陽自動車道福山西インターチェンジは福山西ジャンクションに、福山西インターチェンジのランプウェイと国道2号線松永道路の接続点は今津ジャンクションにそれぞれしたほうが良いと思うのは私だけであろうか。
 これらの微妙な問題の背景にあるのは広島県南東部の中心都市の座を巡る尾道市と福山市の確執や福山市が1950年代以降展開していった広域合併政策である。福山市より早く市制施行し、長らく広島県南東部の中心都市の座にあった尾道市への配慮も必要であるし、反対にバラバラになりがちな市民の意識の一体化も進めなければならない。これらの問題を見てもいかに福山市が難しい立場に置かれているかがよく分かる。

今後の課題〜結びに代えて〜

 福山市に住んでいて感じることは(異論は出るかもしれないのだが)自動車で各地に行くのに便利だということである。位置的には中国地方の中心にあるというわけではないのだが、やはり高速道路の整備が進んだことが大きい。今後国道9号線のバイパスとして整備が進められている山陰自動車道や、本州・四国連絡橋尾道・今治ルートと松山自動車道を繋ぐ今治・小松自動車道の整備が進めば更に利便性は向上することであろう。
 一方で福山市の道路を取り巻く課題も少なくない。
主なものとしては次のようなものがある(福山市内を通る高速道路2路線・国道5路線・主要地方道10路線・一般県道39路線それぞれの路線の課題は当該ページにて触れている)。
・渋滞する箇所が多いこと。
・高速道路が使いにくいこと。
・福山市中心部と市内の主要拠点や隣接する市町を結ぶ道の選択肢が少ないこと。
・福山市の主要拠点同士を往来するために通る道に未改良箇所があること。
・案内標識が不十分なこと。
・老朽化や退色により見づらくなった標識が放置されているところがあること。
・整備のメドが立っていない幹線道路が多いこと。
・環状道路がないこと。
・道路整備に関して他の市町との利害が一致しているとは言い難い面があること。
・道路整備が国や地方自治体の財政事情に左右されることが多いこと。
・道路整備が過疎化や人口流出、ストロー効果(ストロー現象)を助長している面があること。
・防犯対策や事故対策を理由として通行規制をかけているところがあること。
・道路の整備などに対して十分な説明や周知がなされておらず、いかなる意図を持って行うのか理解に苦しむことがよくあること。
・橋梁やトンネルなど構造物の老朽化が進展していること。
・交通弱者に配慮した道路構造になっていないところが多いこと。
 これらの課題を解決していくにはかなりの時間と費用と労力、そして利害を有する人々の理解が必要になろう。既に人口減少を見据えた市政(注59)への転換に踏み切っている福山市にとってはかなり重い課題になることだろうが、どのように取り組んでいくのか、これからも注目していきたいところである。

※福山市の道路に関する出来事や路線数などのデータはこちらで示しております。併せてご覧下さい。

知識編

(注釈コーナー)

注1:1889〜1916年(明治22年〜大正5年)に市制施行した中国地方にある市は下表の通りである。

※赤太字で記載しているところは県庁所在地。

県名 市名 読み方 発足年月日 市制施行順位 備考
所属県基準
中国地方基準
鳥取県 鳥取市 とっとり 1889年
(明治22年)
10月1日
市制町村制施行と同時に発足。
島根県 松江市 まつえ 1889年
(明治22年)
4月1日
市制町村制施行と同時に発足。
岡山県 岡山市 おかやま 1889年
(明治22年)
6月1日
市制町村制施行と同時に発足。
広島県 広島市 ひろしま 1889年
(明治22年)
4月1日
市制町村制施行と同時に発足。
尾道市 おのみち 1898年
(明治31年)
4月1日
呉市 くれ 1902年
(明治35年)
10月1日
福山市 ふくやま 1916年
(大正5年)
7月1日
山口県 赤間関市 あかまがせき 1889年
(明治22年)
4月1日
市制町村制施行と同時に発足。1902年(明治35年)6月1日下関市に改称したため消滅したが下関市としては赤間関市が発足した日を下関市が発足した日としており、市制施行からの年数も1889年(明治22年)4月1日を起点としている。
下関市 しものせき 1902年
(明治35年)
6月1日
赤間関市が改称して発足。本サイトでは下関市は1902年(明治35年)6月1日に発足したとしており、市制施行からの年数も1902年(明治35年)6月1日を起点としている。

広島県以外の各県は市が一つしかなかったことや山口県は県庁所在地がまだ市制施行していなかったことが注目されるところであろう(県庁所在地は吉敷〔よしき〕郡山口町〔1889〜1929〕。吉敷郡山口町がようやく市制施行して山口市が発足したのは1929年〔昭和4年〕4月10日のことである)。

注2:山陽自動車道福山西インターチェンジのランプウェイと国道2号線松永道路の接続点の名称は一応福山西ジャンクションとなっており、国土交通省中国地方整備局福山河川国道事務所の公式サイト日本道路交通情報センターのサイトなどでその名称を目にすることができるのだが、本サイトではあえて今津ジャンクションという名称を用いている。その理由は次の通りである。
・尾道・福山自動車道は本州・四国連絡橋尾道・今治ルート(西瀬戸自動車道。愛称:瀬戸内しまなみ海道)と山陽自動車道を連絡する目的で企図された高速道路であり、その終点となる山陽自動車道福山西インターチェンジは本来なら山陽自動車道福山西ジャンクションという名称になるのが筋だったから。
・わずかな距離を隔てて福山西インターチェンジと福山西ジャンクションという紛らわしい名称の施設が存在すると道路利用者が混乱する恐れがあるから。
・地域名から松永ジャンクションでも良かったのだが、いくら福山市松永地区の中心部を構成する地域になっているとしても今津町と松永町には昔から対抗意識があり、今津町の住民がそのことを受け入れない可能性があるから。
・山陽自動車道福山西インターチェンジのランプウェイと国道2号線松永道路の接続点の近くには福山市立今津小学校(福山市今津町。1981年〔昭和56年〕福山市今津町六丁目から移転)があるから。
・山陽自動車道福山西インターチェンジのランプウェイと国道2号線松永道路の接続点には一切接続点の名称を記した標識はなく、いかなる解釈でも成り立つ状況にあるから。
・山陽自動車道玉島インターチェンジ(倉敷市玉島長尾)と国道2号線玉島バイパスの接続点にはきちんと船穂(ふなお)ジャンクション(倉敷市船穂町船穂)という名称が付けられ、標識でも明示されているのでそれにならう必要があると感じたから。

注3:中国地方の市町村と広島県の市町の一般県道の路線数の順位(上位5位まで掲載)は下表の通りである。

種類 市町村名 路線数 備考
中国地方の
市町村
岡山市 69
鳥取市 58
福山市 39
山口市 39
広島市 38
広島県の
市町
福山市 39
広島市 38
庄原市 34
三次市 30
東広島市 26

注4:中国地方の市町村と広島県の市町の県道路線の総数の順位(上位5位まで掲載)は下表の通りである。

種類 市町村名 路線数 備考
中国地方の
市町村
岡山市 92 内訳は主要地方道23路線・一般県道69路線。
鳥取市 73 内訳は主要地方道15路線・一般県道58路線。
広島市 54 内訳は主要地方道16路線・一般県道38路線。
山口市 52 内訳は主要地方道13路線・一般県道39路線。
福山市 49 内訳は主要地方道10路線・一般県道39路線。
広島県の
市町
広島市 54 内訳は主要地方道16路線・一般県道38路線。
福山市 49 内訳は主要地方道10路線・一般県道39路線。
庄原市 45 内訳は主要地方道11路線・一般県道34路線。
三次市 45 内訳は主要地方道15路線・一般県道30路線。
東広島市 39 内訳は主要地方道13路線・一般県道26路線。

注5:「2015年(平成27年)全国都道府県市区町村別面積調」によると福山市(518.14平方キロメートル)より面積の大きい中国地方の市町村は下表の通りとなる。

※面積の単位は平方キロメートル。

県名 市町村名 面積 備考
鳥取県 鳥取市 765.31
島根県 松江市 572.99
出雲市 624.36
雲南市 553.18
浜田市 690.66
益田市 733.19
岡山県 岡山市 789.96 玉野市に跨る児島湖の面積は児島湖内における境界が確定していないため含めていない。
高梁市 546.99
新見市 793.29
真庭市 828.53
広島県 広島市 906.53
安芸高田市 537.75 三次市との境界が未確定の箇所があるため面積は参考値を記している。
庄原市 1,246.49 中国地方の市町村では最大の面積を有している。
東広島市 635.16
三次市 778.14 安芸高田市との境界が未確定の箇所があるため面積は参考値を記している。
山県郡北広島町 646.20
山口県 山口市 1,023.23
岩国市 873.72
下関市 715.89
周南市 656.29
萩市 698.31

上表から20市1町が福山市の面積を上回っていることがうかがえる。中国地方で平成の大合併が始まる前に出された「2002年(平成14年)全国都道府県市区町村別面積調」によると福山市の面積は広島市(742.02平方キロメートル)・岡山市(513.29平方キロメートル。但し玉野市及び児島郡灘崎町〔1949〜2005〕に跨る児島湖の面積は児島湖内における境界が確定していないため含めていない)に次ぐ364.51平方キロメートルだったから平成の大合併の影響で第3位から第22位まで順位を下げたということになる。

注6:1960年(昭和35年)10月10日広島県告示第682号により福山市内のJR山陽本線の駅の駅前広場を起点とする県道路線は3路線発足したが、本文でも触れている通り1974年(昭和49年)2月19日広島県告示第136号により県道190号福山停車場線が、2005年(平成17年)8月8日広島県告示第933号により県道192号松永停車場線が、2010年(平成22年)2月8日広島県告示第88号により県道191号備後赤坂停車場線がそれぞれ廃止され、福山市に移管されている。

注7:一級国道31号線改め国道31号線は現在は広島市も通っているが、広島市を通るようになったのは1975年(昭和50年)3月20日に沿線にあった安芸郡矢野町(1917〜1975)が広島市に編入された時からである。

注8:第二次世界大戦前に市制施行した広島県の市の市制施行の時期は次の通りである。
・広島市…1889年(明治22年)4月1日
・尾道市…1898年(明治31年)4月1日
・呉市…1902年(明治35年)10月1日
・福山市…1916年(大正5年)7月1日
・三原市…1936年(昭和11年)11月15日

注9:1953年(昭和28年)5月18日時点で島根県には松江市・出雲市・浜田市・益田市と四つ市があったのだが、いずれの市にも一級国道路線(一級国道9号線)は通っていた一方で二級国道路線は出雲市だけ通らない設定になっていた(下表参照)。

市名 通過
一級国道路線名
通過
二級国道路線名
備考
松江市 9号 180号岡山・松江線
182号広島・松江線
二級国道180号岡山・松江線と二級国道182号広島・松江線はいずれも一級国道9号線と重用しているため単独区間は存在しない。
出雲市 9号 (なし)
浜田市 9号 186号広島・浜田線
益田市 9号 187号岩国・益田線
191号下関・益田線
二級国道187号岩国・益田線は一級国道9号線と重用しているため単独区間は存在しない。

注10:神戸市と徳島市を結ぶ一級国道28号線と、岡山市と高松市を結ぶ一級国道30号線を指す。

注11:二級国道184号松江・尾道線は松江市と広島県南東部を結ぶ路線として、二級国道185号呉・三原線は呉市と一級国道2号線岡山・神戸・大阪方面を結ぶ路線としてそれぞれ有用とされ、設定されたものと思われる。今では他の経路もとれるようになったためこれらの路線をずっと通ることはなくなったのだが、福山市を基準とした場合、三次・松江方面との往来には二級国道184号松江・尾道線改め国道184号線を、呉方面との往来には二級国道185号呉・三原線改め国道185号線をそれぞれ通ることが多かった。

注12:横浜市・名古屋市・京都市・大阪市・神戸市を指す。この5市は1956年(昭和31年)9月1日に改めて設定された政令指定都市に移行している(だから主要地方道路線が初めて指定された1954年〔昭和29年〕1月20日時点では政令指定都市はまだ存在しなかった)。

注13:この時は23路線中21路線の認定告示(路線名称変更を含む)が実施されている。この時認定告示の対象にならなかったのは旧道路法時代に認定されたものがそのまま移行した加計・廿日市線と広島県内に一切単独区間を有しなかった出雲・三次線である(加計・廿日市線は1920年〔大正9年〕4月1日広島県告示第152号により、出雲・三次線は1956年〔昭和31年〕7月31日広島県告示第383号によりそれぞれ認定)。

注14:庄原市と府中市、松永市、三次市は1954年(昭和29年)3月31日に、大竹市は1954年(昭和29年)9月1日にいずれも複数の町村の統合により発足した。

注15:井原市の中心部に倉敷方面からの倉敷・井原線、笠岡方面からの笠岡・井原線、福山方面からの福山・井原線、高梁(たかはし)方面からの井原・高梁線の4路線が集まっていたことを指す。ある十字路で4路線が接続していたということはなかったのだが、ある町から四方向に主要地方道路線が延びるという状況は珍しいのではないのだろうか。
※なぜ井原市中心部から四方向に主要地方道路線が延びるという状況が生じたのか、はっきりしたことは分からないのだが、岡山県では児島市(1948〜1967)とともに国道路線が通らない市になった井原市に対する配慮ではないかと考えている。井原市は岡山県南西部の内陸部の交通の要衝になり得るところであり、故に井原市から各方向に延びる主要地方道路線を設定したのではないのだろうか。

注16:正式名称は「日本国政府建設省に対する名古屋・神戸高速道路調査報告書」である。

注17:「やまの―福山市山野町の民俗―」(1990年〔平成2年〕福山市文化財協会刊)による。
※この「やまの―福山市山野町の民俗―」には私の友人で「下関市立大学学園祭情報局〜中国地方最古参の市立四年制大学の学園祭のきのう・きょう・あす〜」というサイトを運営している中島孝祐(なかしま・こうすけ)さんの中学校3年生時代の国語担当教諭(男性)が執筆者として関わっているそうである。中島さんはこの男性教諭は何度か広島県を放送区域とする民間テレビ放送局の夕方の情報番組に出ていたのを見たことがあるというのだが、ある日の広島ホームテレビ(HOME、広島市中区白島北町)の「HOME Jステーション」にこの男性教諭が出た時「美術の先生だった」という紹介があったのを見て「えー、国語の先生だったのに…」と思ったそうである。

注18:深安郡加茂・山野両村が発足した当時(1889年〔明治22年〕4月1日)の加茂・山野両村の所属郡は安那郡だったが、1898年(明治31年)10月1日に深津・安那両郡が統合して深安郡が発足した時に所属郡がどちらも深安郡に変わった。

注19:厳密には七曲隧道は全部分が福山市山野町山野に属しており、福山市加茂町北山には全くかかっていない。

注20:七曲隧道付近の県道21号加茂・油木線はかつて異常気象時通行規制区間に指定されていた。

注21:福山市立山野小学校(福山市山野町山野)を福山市立加茂小学校(福山市加茂町中野)に、福山市立山野中学校(福山市山野町山野)を福山市立加茂中学校(福山市加茂町下加茂)にそれぞれ統合する案。福山市立加茂小学校には福山市立広瀬小学校(福山市加茂町北山)を、福山市立加茂中学校には福山市立広瀬中学校(福山市加茂町北山)をそれぞれ統合する案も示されており、結局は旧深安郡加茂町域の小学校・中学校をそれぞれ一つにするという案が示されたことになる。なお、2002年(平成14年)から休校状態にある福山市立山野北小学校(福山市山野町山野)については言及はないが、学校統合を実施した際に正式に廃校になるものと思われる。

福山市立山野小学校の校門

福山市立山野中学校の校門と体育館

現在は福山市民病院附属田原診療所として使われている福山市立山野北小学校

注22:鳥取県における旧道路法時代に認定されたものがほとんどを占めるそれまでの一般都道府県道路線の一括廃止は1958年(昭和33年)9月12日に実施されている。現行道路法による一般都道府県道路線の一括認定と旧道路法時代に認定されたものがほとんどを占めるそれまでの一般都道府県道路線の一括廃止は同時に行われることが多かったのだが、鳥取県の場合島根県に跨る県道路線の島根県側での路線認定が近かったこともあり、4ヶ月半ほどずらしたものと思われる。

注23:旧道路法時代に認定されたものがほとんどを占めるそれまでの一般都道府県道路線の一括廃止は現行道路法施行後に認定された都道府県道路線も含まれる場合が多かったが、山口県では現行道路法施行から一般県道刷新までの時期に認定された県道路線がこの荒波をくぐり抜けて現在も存続している。1954年(昭和29年)7月30日山口県告示第512号により認定された県道155号東浦・西浦線(平郡島〔柳井市〕を通る路線)と県道246号長府・前田線、県道300号宇津・本村線(見島〔萩市〕を通る路線)がそれである。無論この3路線は中国地方最古参の一般県道路線でもある。

注24:1960年(昭和35年)10月10日広島県告示第682号には廃止されることになった、旧道路法時代に認定されたものがほとんどを占めるそれまでの一般県道路線の一覧表は掲載されておらず、「道路法第10条第1項の規定に基づき、道路法第56条の規定により建設大臣の指定した主要な県道路線(=主要地方道路線)以外の県道旧路線を廃止する」(原文を分かりやすく改変して引用している)という一文で片付けている。いくら県庁所在地である広島市の中心部が原子爆弾で焼け野原になったとしても県道路線の認定に関する資料がきちんと残っているのは広島県の発行している資料からも明らかであり、なぜ省いたのかはっきりしたことは分からない。

注25:この時福山市が編入した自治体は次の通りである。
・沼隈郡…鞆町・水呑町・赤坂村・熊野村・瀬戸村・津之郷村
・深安郡…市村・千田村・引野村・御幸村

注26:そのことを象徴した事柄がテレビ放送の広島県南東部の拠点中継局が尾道市中心部の対岸にある向島の最高峰・高見山(標高:283.3m)に置かれたことであった(そのことはこちらでも触れている)。

注27:現在の地名で記せば福山市引野町と福山市大門町津之下の境となる。
※このようなことを書いたのは深安郡深安町が現在のどの辺りにあったのか知らない方が多くなっているからである。深安郡深安町は福山市編入後一旦全域が福山市大門町になったのだが、旧深津郡域だけで構成されている自治体なのに郡名を町名にしたために旧安那郡域に住む方々から反感を買ったことや大津野・春日・坪生各村が地理的に一体というわけではなかったのに合併して発足したことが背景にあったものと思われる(そのこともあってか大門町は1965年〔昭和40年〕1月1日に宇山・浦上・能島・吉田が春日町に、坪生が坪生町に、大門・津之下・野々浜が大門町にそれぞれ再編されている)。

注28:反対に中国山地と日本海沿岸地域を結ぶ国道路線は既に存在していた。二級国道181号津山・米子線がそれである。

注29:JR芸備線は新見駅(新見市西方)ではなく備中神代(びっちゅうこうじろ)駅(新見市西方)でJR伯備線から分岐するのだが、全ての列車が新見〜備中神代間を通るため新見駅が事実上の起点となっている。なお、新見〜備中神代間にある布原駅(新見市西方)はJR芸備線に乗り入れる列車だけが停車することで知られている。

注30:10年ほど前まではこの他にも国道だったことを示す物件はまだあったのだが、残念ながら現存しない。

現存しない物件の一つである、判読不能になった国道標識(福山市御幸町上岩成にて2007年〔平成19年〕3月17日撮影)

注31:この時松永市に編入された地域が高西町となり、本郷川左岸地域(沼隈郡西村→尾道市西藤町だった地域)が真田(さなだ)、本郷川右岸地域(沼隈郡高須村→尾道市高須町だった地域)が川尻という大字になった。但し福山市の一部になった後に実施された住居表示に伴う高西町一〜四丁目発足や区画整理に伴う南今津町発足により1955年(昭和30年)7月14日以前の松永市と尾道市の境界がどこにあったかは判然としなくなっている。

注32:その一つがJR山陽本線松永駅(福山市松永町)の南方に広がる塩田や広島県立松永高等学校(福山市神村町。1962年〔昭和37年〕までは松永駅のすぐ南側〔現在の福山市松永町四丁目〕にあった)の跡地を開発することであった。

注33:松永地区にある官公庁または企業の中には尾道市を管轄区域としているものがいくつかある。例えば福山西警察署(福山市神村町)は尾道市浦崎町を、松永郵便局(福山市松永町四丁目)は尾道市浦崎町・高須町・西藤町をそれぞれ管轄区域としている。また、1985年(昭和60年)11月23日までは松永地区の市外局番は尾道区域に属していることを示す08485であった。

注34:現在中国地方で最も発足からの日数が短い市は浅口市である(2006年〔平成18年〕3月21日市制施行。今年7月1日現在の市制施行からの日数は3,756日)。なお、浅口市は2018年(平成30年)4月21日に松永市の存続日数を超える予定である。

注35:島根県大原郡木次町の存在期間が中断しているのは1955年(昭和30年)3月3日〜1957年(昭和32年)5月2日の2年2ヶ月間だけ島根県大原郡雲南木次町という名称になっていたからである。

注36:比婆郡東城町・比婆郡西城町境付近に存在した国道314号線の通行不能区間の前身は実は県道路線ではない。下表は国道314号線の前身となる国道路線と県道路線の一覧(地名は国道314号線発足前日の1970年〔昭和45年〕3月31日時点のものを記載。なお、国道314号線発足に伴う県道路線再編は1972年〔昭和47年〕3月に実施されている)なのだが、比婆郡東城町小奴可〜比婆郡西城町小鳥原(ひととばら)間だけないことがうかがえる。

前身路線名 起点 終点 備考
国道182号線 福山市入船町一丁目 比婆郡東城町川西 重用区間。そのため福山市・深安郡加茂町・芦品郡駅家町・神石郡三和町・神石郡油木町に単独区間は存在しない。
一般県道東城・西城線 比婆郡東城町川西 比婆郡東城町森
一般県道小鳥原・神石線 比婆郡東城町森 比婆郡東城町小奴可
比婆郡東城町小奴可 比婆郡西城町小鳥原 該当路線なし。東城町道や西城町道だったものと思われる。
国道183号線 比婆郡西城町小鳥原 比婆郡西城町熊野 重用区間。
主要地方道出雲・西城線 比婆郡西城町熊野 大原郡木次町里方

実は一般県道小鳥原・神石線(1960〜1972)は起点(比婆郡西城町小鳥原)で主要地方道出雲・西城線に通じる一般県道油木・小鳥原線(1960〜1972)と接続するのでそちらを国道314号線にすれば通行不能箇所の発生は回避できたのだが、あえて比婆郡東城町小奴可〜比婆郡西城町小鳥原間で自動車の通れない箇所がある町道を国道314号線に移行させたのはJR芸備線・木次線備後落合駅(庄原市西城町八鳥)があったからではないかと考えている。1970年(昭和45年)時点ではまだ芸備線・木次線とも広島市と中国山地や山陰地方にある町を結ぶ急行列車が何本も設定されており、備後落合駅は交通の要衝たる存在だったため無視できなかったのだろう。
なお、国道314号線に存在した通行不能区間は県道444号油木・小奴可線→県道235号道後山停車場線→西城町道で迂回することができた。これらの道を国道314号線に編入しても良かったのだろうが、結局は新規に道を作るということから見送られたのであろう。

県道444号油木・小奴可線と県道235号道後山停車場線の分岐点にある案内標識

注37:更に最近では県道398号新山・府中線の通行不能区間の近くに迂回路ができており、そのことも通行不能が解消されない一因となっている。

注38:この広い道は福山市引野町ではなく福山市東深津町で国道2号線に合流するようになったため県道244号津之下・引野線は1965年(昭和40年)3月31日広島県告示第265号で県道244号津之下・東深津線(1965〜1971)に改称されている。
※この県道244号津之下・東深津線は現在は福山市大門町一丁目/大門駅(南)交差点(起点)福山市大門町五丁目/大門町5丁目(西)交差点間は福山市道に、福山市大門町五丁目/大門町5丁目(西)交差点福山市引野町/山陽海運福山支店前交差点(信号機・交差点名標なし)間は県道3号井原・福山港線に、福山市引野町/山陽海運福山支店前交差点(信号機・交差点名標なし)福山市手城町四丁目/明神町交差点間は県道244号福山港線にそれぞれ再編されている。

注39:一般市民がJFEスチールの構内に入れるほぼ唯一の機会としては毎年5月第二日曜日(母の日)に開催される「JFE西日本フェスタinふくやま」がある。但し県道244号津之下・引野線だった道で通れるのは会場の出入口付近だけである。というのも、JFEスチールの構内道路となった県道244号津之下・引野線だった道はその大半が「JFE西日本フェスタinふくやま」の会場の裏手を通っており、通常一般市民が通るようなところではないからである。

注40:ここでは県道379号坪生・福山線の発足当時の起点の現在の場所を記している。現在は県道3号井原・福山港線と接続する福山市坪生町/天満池東交差点(信号機・交差点名標なし)が起点になっている。

注41:深安山地とはかつての深津郡と安那郡の境だった辺りにある山地を指す。最高峰は権現山(標高:231.0m)である。
また、蔵王山地は蔵王山を中心とし、結果として福山市中心部と福山市北部の境をなす山地を指す。最高峰は蔵王山(標高:225.3m)である。

注42:福山陸橋開通の約半年後の1961年(昭和36年)10月1日にはJR山陽本線倉敷〜福山〜三原間の電化が完成している。

注43:市販の道路地図や時刻表では「西川原駅」なのに駅名標や車内放送では「西川原・就実駅」となっているのは開業する前に名称を西川原駅にするか就実大前駅にするかでもめたからである。

注44:岡山県における県道標識(正式名称は都道府県道番号)導入に伴う路線番号再編は1972年(昭和47年)11月1日に実施したのではないかと私は考えている。1972年(昭和47年)11月24日岡山県告示第1,192号で初めて現在の県道番号体系に基づく路線番号を付けた県道路線を認定していることやその県道路線(県道102号下御領・井原線)は広島県に跨っているが広島県発行の資料では1972年(昭和47年)11月1日に県道標識(正式名称は都道府県道番号)導入に伴う路線番号再編を実施したことが記されていることがそのように考える根拠である。となると、県道95号庭瀬停車場線の廃止告示では庭瀬停車場線の路線番号は一般県道用の3桁の番号が記されたはずなのだがなぜかそうなっておらず、1965年(昭和40年)3月31日に発足した路線番号体系で付けられた路線番号が記されている。

注45:県道59号三原停車場線の廃止の理由としては次に挙げるようなことが考えられる。
・終点で接続していた二級国道185号呉・三原線の経路変更(背景には三原駅〔三原市館町一丁目〕の裏側を通っていた一級国道2号線の経路変更がある)。
・三原市の都市計画の都合。
そのことはこちらでも触れているのだが、実はもう一つ考えられる理由がある。それは県道25号三原・東城線の経路変更である。今は亡き道路地図出版会社・ワラヂヤ出版(大阪市西区新町三丁目。2002年〔平成14年〕破産し廃業)が出版していた「コンパニオン道路地図帖 九州編」の1974年(昭和49年)版を最近あるところで入手したのだが、それに掲載されている三原市中心部の詳細図では県道25号三原・東城線を示す黄色の線が明らかに県道59号三原停車場線だった道を取り込んでいるように記されているのである。無論県道25号三原・東城線も一級国道2号線から分岐する道だったので一級国道2号線の経路変更に伴って起点も変更しなければならないわけであるが、当時はまだ三原市港町二丁目/東城分かれ交差点(臥竜橋東詰交差点とも称する)から北に延びる道は整備されていなかったために県道59号三原停車場線を取り込んで延伸せざるを得ず、それに伴い県道25号三原・東城線と完全に重用する格好になる県道59号三原停車場線は廃止せざるを得なくなったというのが真相ではないのだろうか。ただ、なぜ二級国道185号呉・三原線だった道(帝人通り)を県道25号三原・東城線に編入しなかったのかとかなぜ広島方面から見れば遠回りな経路を設定したのかとかワラヂヤ出版の地図の記載内容は正しかったのかどうかという疑問が残ることにはなるのだが…。

注46:1973年(昭和48年)3月31日山口県告示第274号の5では県道180号鹿野・戸田停車場線は県道180号鹿野・夜市線に、県道192号串・福川停車場線は県道192号串・戸田線にそれぞれ改称すると記されている。県道180号鹿野・戸田停車場線と県道192号串・福川停車場線は周南市米光〜周南市馬神間で重用しており、重用区間より南の部分を入れ替える格好になったわけであるが、このような再編を行った理由ははっきりしない。ただ、次に挙げる課題があったことだけは明らかである。
・県道180号鹿野・戸田停車場線の終点のある戸田駅(周南市戸田)の駅前広場も、県道192号串・福川停車場線の終点のある福川駅(周南市社地町)の駅前広場も国道2号線に面しており、県道180号鹿野・戸田停車場線については周南市戸田/周南市戸田交差点が、県道192号串・福川停車場線は周南市夜市/夜市交差点がそれぞれ事実上の終点になっていたこと(なお、福川駅の駅前広場のすぐそばの国道2号線は現在は県道347号下松・新南陽線になっている)。
・県道180号鹿野・戸田停車場線は周南市鹿野地区と戸田駅を結ぶ路線であるが、
最短経路ではなかったこと(最短経路は県道192号串・福川停車場線経由であった)。

注47:県道249号幡生停車場・椋野線はその大部分が国道191号線下関北バイパスと中国自動車道・関門橋下関インターチェンジ(下関市椋野上町)や関門国道トンネルを結ぶ県道258号武久・椋野線に移行したため廃止された。

注48:その後1988年(昭和63年)3月13日に新尾道駅(尾道市栗原町)と東広島駅(東広島市三永一丁目)が開業しているが、この二つの駅についても駅前広場を起終点とする県道路線は認定されていない。
※ちなみに新幹線が通っているかこれから通る予定がある都道府県(1都1道2府26県)のうち新幹線停車駅を起終点とする都道府県道路線が存在しないのは大阪府と広島県だけである。

注49:「単独区間・供用区間を持つものとしては」という断り書きを入れたのは他の国道路線または都道府県道路線と重用しているとか全く供用されていないとか全く区域決定に至っていないといった理由で実延長が0mという路線が多数存在するからである(中国地方にある実延長0m路線は下表の通り)。現在日本で最も短い都道府県道路線として認識されているものとしては上田市にある長野県道162号上田停車場線(実延長:7m。長野県道77号長野・上田線との重用区間を含めた総延長は126m)と呉市にある広島県道204号安登(あと)停車場線(実延長及び総延長:10m)があるが、こういう状況があることを考えるとどれが本当なのか決めるのは難しい状況があることは理解して頂きたいことである。

県名 路線名称 発足年 実延長が0mになっている理由
鳥取県 県道290号八橋・宮木線 1995年
(平成7年)
全線にわたって区域が決定していないため(改めて建設するのか既存の琴浦町道を区域に編入するのかは不明)。
県道307号覚寺・青葉線 1995年
(平成7年)
全線にわたって区域が決定しておらず、なおかつ未開通のため。
県道327号鳥取空港・賀露線 2016年
(平成28年)
全線にわたって区域が決定しておらず、なおかつ未開通のため。
岡山県 県道209号勝間田停車場線 1960年
(昭和35年)
全線にわたって県道67号勝央・勝北線と重用しているため。
広島県 県道302号橋山・下山線 1996年
(平成8年)
全線にわたって区域が決定していないため(既存の北広島町道を編入する可能性が高い)。
県道474号温品・二葉の里線 2000年
(平成12年)
全線にわたって区域が決定しておらず、なおかつ未開通のため(住民の強硬な建設反対運動が起きている広島高速5号線の受け皿道路である)。
山口県 県道125号蜂ヶ峯公園線 2016年
(平成28年)
全線にわたって区域が決定しておらず、なおかつ未開通のため。
県道205号山口停車場線 1958年
(昭和33年)
全線にわたって県道194号山口・秋穂(あいお)線と重用しているため。

注50:「広島県報」は広島県公式サイトでは2006年(平成18年)1月分からの閲覧が、国立国会図書館インターネット資料収集保存事業のサイトでは2003年(平成15年)11月分からの閲覧がそれぞれ可能になっている。また、広島県庁(広島市中区基町)の行政情報コーナー(南館1階)や広島県立図書館・広島県立文書館(広島市中区千田町三丁目)、福山市中央図書館(福山市霞町一丁目)などでも紙媒体時代のもの(2007年〔平成19年〕3月末で終刊)を閲覧することができる。

注51:県道190号福山停車場線と県道192号松永停車場線については終点で接続する道路は現在も国道2号線のままなのだが、県道191号備後赤坂停車場線については終点で接続する道路は県道54号福山・尾道線になっている。
※県道191号備後赤坂停車場線が終点で接続する道路が国道2号線ではないのは国道2号線赤坂バイパス開通に伴う旧道処分による。

注52:福山駅南口駅前広場から延びる道は福山市光南町三丁目/野上町2丁目(東)交差点〜福山市沖野上町四丁目/沖野上町4丁目(西)交差点間だけは広島県が管理している(県道22号福山・鞆線の区域になっているため)。もっとも、その区間を広島県が管理するようになったのは1980年(昭和55年)のことである。

注53:龍野西インターチェンジ・サービスエリアは1982年(昭和57年)3月30日に供用を開始した時点では竜野西インターチェンジという名称であった(サービスエリアはその時点では開業は見送られた)。その後1990年(平成2年)7月31日に山陽姫路西インターチェンジ(姫路市石倉)〜竜野西インターチェンジ間が開通した際に併設の竜野西サービスエリアが営業を開始し、2003年(平成15年)3月29日に現在の名称に変更された。

注54:龍野西インターチェンジ・サービスエリア〜備前インターチェンジ間が開通したのは1982年(昭和57年)3月30日のことである。

注55:厳密には本線(倉敷ジャンクション〜福山東インターチェンジ間)と早島支線(倉敷ジャンクション〜早島インターチェンジ間)に分かれている。

注56:山陽自動車道玉島インターチェンジは厳密には県道54号倉敷・美袋(みなぎ)線を介して国道2号線と接続している。

注57:正式名称決定前から同じ市域に属していたという条件で例を挙げると津山市の院庄(いんのしょう)や倉敷市の児島・玉島・水島、呉市の阿賀・郷原・天応(てんのう)、東広島市の西条・志和、下関市の小月などがある。

注58:本州・四国連絡橋尾道・今治ルートは愛媛県側では今尾ルートと呼称する場合がある。本州中心の路線名称に付け方が気に入らないことや四国側の期待が高いことが背景にあるものと思われる。

注59:整備のメドが立たない都市計画道路の見直しや小学校・中学校の統廃合、住居表示整備の休止などが挙げられる。