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JR三江線並行道路を行く・第3章(2017年〔平成29年〕11月19日公開)
式敷駅から香淀駅へ
式敷駅(安芸高田市高宮町佐々部)の(南口)駅前広場を左折で出て県道4号甲田・作木線を南東に進む。この旅の始まりの三次市中心部に戻る格好になるのだが、次の香淀駅(三次市作木町門田〔もんで〕)への最短経路を選択するためである。150mほど進んだところにある安芸高田市高宮町佐々部/川毛踏切南交差点(信号機・交差点名標なし)で左折し、今度は国道433号線(国道434号線及び県道112号三次・江津線重用)で北上する。
ところで、下の写真は県道4号甲田・作木線を上り方向(甲田方面)に進んだ場合、安芸高田市高宮町佐々部/川毛踏切南交差点(信号機・交差点名標なし)の手前で見ることになる案内標識(左:遠景写真、右:拡大写真)を撮ったものであるが、国道433号線(国道434号線及び県道112号三次・江津線重用)香淀方面と県道112号三次・江津線粟屋方面の双方に行き先として「三次」と記されていることがうかがえる。この案内標識を設置したのは広島県西部建設事務所(広島市南区比治山本町)であるが、改良が進んでいる国道433号線(国道434号線及び県道112号三次・江津線重用)香淀方面はともかく、改良が進んでいない県道112号三次・江津線粟屋方面の行き先に「三次」と記すことはないのではないかと感じているところである。県道112号三次・江津線を通って三次市中心部に行って頂きたくないのなら船木または粟屋を行き先として記し、なおかつ最小幅員の数値を示したらどうかと思うのだがどうであろうか。
安芸高田市高宮町佐々部/川毛踏切南交差点(信号機・交差点名標なし)で左折して国道433号線(国道434号線及び県道112号三次・江津線重用)に入るとすぐ、三江線との平面交差となる川毛踏切(安芸高田市高宮町佐々部)を渡る。これが広島県側における三江線と県道112号三次・江津線の最後の交差箇所となる。ちなみに川毛という地名は安芸高田市高宮町佐々部の小字ではなく江の川の対岸の三次市作木町香淀の小字なのだが、なぜ対岸の小字を付けたのだろうか。そういえば安芸高田市高宮町船木/乙木橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)にあった標識の一つに「川毛」という地名が記されたものがあった(下の写真参照)が、それほどこの辺りでは著名な地名なのだろうか。
川毛踏切を過ぎると間もなく国道433号線(国道434号線及び県道112号三次・江津線重用)は江の川を式敷大橋(全長:151.3m)で渡る。三次市中心部より下流の江の川では初めての幅が広く(中央線はないが普通自動車同士のすれ違いには難渋しない)、重量制限がない橋である。この辺りの江の川は令制国、すなわち安芸国と備後国の境であり、郡、すなわち高田郡と双三郡(注1)の境でもあったことや両岸とも地形的な問題から人が多く住む集落が形成されなかったことから橋はあまり架けられず、架けられたとしても道幅が狭く、重量制限がかけられることの多い吊り橋が多かった。そんな中で1966年(昭和41年)に開通した式敷大橋(注2)は画期的なものであり、地域の期待を一身に背負うことになったのではないのだろうか。
式敷駅のプラットホームから撮影した式敷大橋
式敷大橋を渡り終えると再び三次市に入る。この旅の始まりのある町に帰ってきた格好になるのだが、これから通るのはいわゆる平成の大合併の前は双三郡作木村(1889〜2004(注3))だった地域である。しかし、式敷大橋を渡ったすぐ先にある丁字路、すなわち三次市作木町香淀/式敷大橋北詰交差点(信号機・交差点名標なし)で右折し、東に向きを変えて再び三次市中心部方面に進む。かつては三次市作木町香淀/式敷大橋北詰交差点(信号機・交差点名標なし)の先にある丁字路、すなわち三次市作木町香淀/川毛交差点(信号機・交差点名標なし)で突き当たり、そこを左折していたのだが、道路改良の結果このようになったのである。
三次市作木町香淀/式敷大橋北詰交差点(信号機・交差点名標なし)で右折し、500mほど東進するとまた丁字路、すなわち三次市作木町香淀/門田トンネル南口交差点(信号機・交差点名標なし)に突き当たる。そこで国道433号線(国道434号線重用)とはお別れし、三次市三次町/三次町交差点で別れた国道375号線と再会する。なお、県道112号三次・江津線はここで国道433号線(国道434号線重用)から国道375号線に重用相手を変える。
三次市作木町香淀/門田トンネル南口交差点(信号機・交差点名標なし)で左折して国道375号線(県道112号三次・江津線重用)に入ると間もなく2010年(平成22年)4月27日に開通した門田トンネル(全長:972m)に入る。門田トンネルが開通する前の国道375号線(県道112号三次・江津線重用)は大きく曲がって西→東→北と流れを変える江の川右岸に沿って通っていたのだが、門田トンネルの開通によりその屈曲部分が短絡されることになったのである。
門田トンネル南側坑口
門田トンネルを過ぎると間もなくエコミュージアム川根(安芸高田市高宮町川根)への案内標識が見えてくるのだが、その案内標識のある交差点、すなわち三次市作木町門田/門田トンネル北口交差点(信号機・交差点名標なし)で左折し、今は三次市道になった国道375号線(県道112号三次・江津線重用)旧道を西進する。国道375号線(県道112号三次・江津線重用)旧道に入るとすぐに右側に三江線が近付き、並行する格好になる。方向としては下り方向(江津→三次)になるので三次→江津で旅をしている私から見れば逆になるが、これも道路改良の結果で生じたことである。
やがて国道375号線(県道112号三次・江津線重用)旧道は中央線がなくなり、狭くなるが、その道を少し進むと右側に広場が見えてくる。そこが香淀駅の(南口)駅前広場となる。
香淀駅(こうよどえき)
香淀駅の待合小屋
香淀駅の駅名標
三江線活性化協議会が設置した看板。香淀駅の愛称は羅生門となっている。
香淀駅のデータ
項目 | 記事 |
---|---|
所在地 | 三次市作木町門田(もんで) |
駅名の由来 | 駅の近くにある三次市作木町の大字の名前。 |
開業年月日 | 1963年(昭和38年)6月30日 |
接続鉄道路線 | なし |
駅構内にあるもの | 待合小屋 |
プラットホームの形式 | 単式ホームで北側を使用している。 |
起点または終点からの距離 (営業キロ) |
起点(江津)から89.7km 終点(三次)から18.4km |
前後の駅からの距離 (営業キロ) |
(下り線)作木口駅から4.8km (上り線)式敷駅から3.6km |
JR三江線の列車の発車・到着時刻 (2017年〔平成29年〕3月4日現在) |
(下り列車) 421D…午前6時57分(浜原発三次行) 423D…午前8時43分(江津発三次行) 427D…午後3時38分(口羽発三次行) 429D…午後6時22分(江津発三次行) 433D…午後8時1分(浜原発三次行) (上り列車) 422D…午前6時15分(三次発浜田行) 424D…午前10時40分(三次発石見川本行) 428D…午後2時49分(三次発口羽行) 432D…午後5時40分(三次発浜原行) 436D…午後8時13分(三次発浜原行) |
付近にある主要施設 | なし |
付近にある名所・旧跡・自然 | 江の川 |
付近を通る国道路線 または県道路線 |
国道375号線 県道112号三次・江津線(国道375号線と重用) ※どちらも香淀駅の東方約500mのところを通っている。かつては駅前広場のすぐ南側を通っていたが門田トンネル開通に伴う旧道処分で三次市に移管され、三次市道になっている。 |
備考 | ・駅は三次市作木町門田にあるが、なぜか駅名は三次市作木町門田に隣接する三次市作木町の大字、すなわち香淀を採っている。 |
香淀駅は三次市作木町香淀ではなく三次市作木町門田にある。このことを知らない方が多いのだが、なぜ門田駅にならなかったのか。考えられる理由は次の通りである。
・香淀駅が開業した時既に門田駅は国鉄会津線(現:会津鉄道会津線)の駅として存在したから(この門田駅は「もんでんえき」と読み、現在も会津若松市門田町面川にある)。
・「門田」という字を見て「かどた」や「もんた」、「もんだ」、「もんでん」と読む方が多いから。
・「門田」を「もんで」と読むと考える人はほとんどいないから。
・「もんで」と聞くと特に男性に妙な想像を起こす人がいるから。
・三次市作木町香淀に住む方々が三次市作木町門田に設置される駅の名称は門田より面積が大きく、人口も多い香淀にして欲しいと強く要望したから。
何が真実かは分からないが、香淀と門田の関係が駅名決定の際に影響したと考えるのが妥当ではないのだろうか。余談だが広島県にはこういう駅は他にもいくつかある(注4)。
さて、香淀駅には木造のまだ新し目な待合小屋がある。玄関に駅名が掲げてあることと平面が六角形になっていることが特徴である。香淀駅を通過した時目を引きそうな建物なのだが、なぜこういう珍しい待合小屋が建てられたのだろうか。賛否両論はあろうが元々の香淀駅にはプラットホームに待合所があるだけだったと思われることを思うと駅の存在感を向上させるには一役買ったことであろう。
外側から撮影した香淀駅の待合所
その待合小屋の外側の壁にはこんな看板がある(下の写真)。
三次市作木地区がブッポウソウという鳥の生息地であることを記した看板である。看板に記されている通り絶滅が危惧されているのだが、広島県がその貴重な生息地であることは全く知らなかった。同時にこの辺りは自然豊かなところであることを感じさせたのだが、貴重な生物の存在を知らせる看板は三江線の廃止後どうなってしまうのだろうか。広島県にはこういう貴重な生物がいることを伝えていくためにも何とか残して頂きたいものだと思う。
待合小屋の中にはいろいろなポスターが貼られていたのだが、中には三江線に乗って三江線を存続させようという作木町自治連合会が作成したポスターがあった(下の写真。なお、肖像権擁護のため右側のポスターに載っている歌手やタレントの顔写真に加工を施している)。これも空しい結果に終わろうとしているわけであるが、沿線住民の感情を考えるべきなのか、それとも経営効率の向上を考えるべきなのか。その両立はできるのか。結論は恐らく永久に出ないことであろう。
香淀駅のプラットホームに出て待合小屋を見ると三江線の列車に乗っている人や三江線の列車を降りた人に見えるように駅名が掲げられていることに気付いた(下の写真)。やはり人の目を引く目的でこういう待合小屋が建てられたのだろうか。三江線の列車に乗る人も、香淀駅の南側を通る三次市道(国道375号線〔県道112号三次・江津線重用〕旧道)を通る人も少ないけれど、面白い駅だなと思った次第である。
香淀駅から作木口駅へ
香淀駅の(南口)駅前広場から来た道を引き返す。進行方向左側に並行していた三江線はやがて江の川を第三可愛川(えのかわ)橋梁で渡り、江の川左岸に移っていく(下の写真)。江の川の対岸は安芸高田市高宮町川根になるのだが、安芸高田市高宮町川根には駅は設置されていない。安芸高田市高宮町川根の中心地からは離れていることや利用の見込める集落が少ないことが理由と思われる。なお、この辺りの江の川左岸には安芸高田市道→邑南町道が通っていて、作木口駅(邑智郡邑南町上田)まで行けるのだが、香淀駅からだと香淀駅の西方にある香淀大橋(全長:204.2m)を渡っていくため作木口駅に行くには遠回りになることや車一台がやっとという狭い道であることからこの取材では通らなかった(注5)。
三次市作木町門田/門田トンネル北口交差点(信号機・交差点名標なし)で左折して国道375号線(県道112号三次・江津線重用)に復帰する。国道375号線(県道112号三次・江津線重用)は異常気象時通行規制区間(注6)に指定されてはいるが、交通量は少なく、信号はない(注7)快適な上下2車線の道である。ある市販の道路地図で「名ばかり国道の中国地方代表」などと揶揄(やゆ)されていた姿はもうそこにはない。
そんな国道375号線(県道112号三次・江津線重用)をしばらく走っていると、進行方向左側に江の川カヌー公園さくぎ(三次市作木町香淀。公式サイトはこちら)という建物が見えてくる。
江の川カヌー公園さくぎ管理棟
この江の川カヌー公園さくぎではカヌーや沢遊び、キャンプができる他、食堂や売店もあり、休憩もできる。三次市以北の国道375号線は休憩できるような施設はあまりないため国道375号線を通る方にとっては貴重な存在と言える。
更に江の川カヌー公園さくぎには三江線が通る江の川の対岸を眺められるところがある。取材した時は列車の通らない時間帯だったのでかなわなかったのだが、頃合いさえ見計らえば三江線を通る列車を見ることも撮ることも可能である。
江の川カヌー公園さくぎから北西方向を望む。三江線の橋梁が中央部に見える。
江の川カヌー公園さくぎを出て、国道375号線(県道112号三次・江津線)を更に北上する。やがて進行方向左側に赤いアーチ橋が見えてくる。それが作木口駅に通じる三国橋(全長:130m)である。橋の名前の由来は三国橋の南約1.3kmのところに石見国・備後国・安芸国が一点で接するところ(但し江の川の中にある)があることや三国橋の南西約1.8kmのところに三国山(標高:448.8m)があることのどちらかではないかと思われる。
南方から撮影した三国橋
三次市作木町下作木/三国橋北詰交差点(信号機・交差点名標なし)で左折して国道375号線(県道112号三次・江津線重用)から離れ、三国橋を渡る。邑智郡邑南町上田の東部にある青山・上ヶ畑両集落に住む方にとっては松江・広島・三次方面に出るには必要不可欠な橋なのだが、道は狭く、更に重量制限(9トン以上の車は通行禁止)がかけられている。地域の実情を考えてこういう橋にしたのだろうか。気になるところである。
南西方向から撮影した三国橋。道幅が狭いことと重量制限があることが見て取れる。
作木口駅は三国橋の先の突き当たり、すなわち邑智郡邑南町上田/三国橋南詰交差点(信号機・交差点名標なし)のすぐ先にある。もっとも、そこからの入口はない。作木口駅のプラットホームに入るには邑智郡邑南町上田/三国橋南詰交差点(信号機・交差点名標なし)を左折して十数m南東に進まなければならない。十数m南東に進んだところにある邑智郡邑南町上田/上ヶ畑踏切東交差点(信号機・交差点名標なし)の右側手前に作木口駅のプラットホームの入口がある。
作木口駅(さくぎぐちえき)
作木口駅のプラットホームにある待合所
作木口駅の駅名標
国鉄時代からあると思われる名所案内板。実は常清滝(三次市作木町下作木)の方角が間違っている(正しくは北東方向)。
三江線活性化協議会が設置した看板。作木口駅の愛称は胴の口となっている。
作木口駅のデータ
項目 | 記事 |
---|---|
所在地 | 邑智郡邑南町上田 |
駅名の由来 | 双三郡作木村の中心部、すなわち現在の三次市作木地区の中心部の入口に当たること。 |
開業年月日 | 1963年(昭和38年)6月30日 |
接続鉄道路線 | なし |
駅構内にあるもの | なし(プラットホームに待合所があるだけ) |
プラットホームの形式 | 単式ホームで西側を使用している。 |
起点または終点からの距離 (営業キロ) |
起点(江津)から84.9km 終点(三次)から23.2km |
前後の駅からの距離 (営業キロ) |
(下り線)江平駅から1.7km (上り線)香淀駅から4.8km |
JR三江線の列車の発車・到着時刻 (2017年〔平成29年〕3月4日現在) |
(下り列車) 421D…午前6時48分(浜原発三次行) 423D…午前8時34分(江津発三次行) 427D…午後3時29分(口羽発三次行) 429D…午後6時12分(江津発三次行) 433D…午後7時52分(浜原発三次行) (上り列車) 422D…午前6時24分(三次発浜田行) 424D…午前10時49分(三次発石見川本行) 428D…午後2時58分(三次発口羽行) 432D…午後5時49分(三次発浜原行) 436D…午後8時22分(三次発浜原行) |
付近にある主要施設 | なし |
付近にある名所・旧跡・自然 | 江の川 |
付近を通る国道路線 または県道路線 |
国道375号線(県道112号三次・江津線重用) ※国道375号線(県道112号三次・江津線重用)は江の川の対岸を通っており、作木口駅のそばにある三国橋(全長:130m)を渡っていくことになる。但し唐香橋には重量制限(9トン以上の車は通行禁止)があることや道幅が狭いことといった問題がある。 |
備考 | ・開業当初は現在より300mほど江津寄りに存在したが、当駅と三次市作木地区中心部を結ぶ三国橋の上流への架け替えにより1976年(昭和51年)11月6日に現在地に移転した。三江線にある駅では唯一の移転を経験した駅である。 |
作木口駅は三江線上り方向(三次→江津)で島根県最初の駅となる。しかし、名称は島根県側の地名(作木口駅設置時点、すなわち1963年〔昭和38年〕6月30日時点で考えられるのは大字の上田か小字の青山)ではなく対岸にある広島県側の地名(作木)が用いられた。なぜこうなったのか。私は三次市作木地区に住む方々の熱意がそこに表れているからではないかと感じている。
三次市作木地区、すなわちかつての双三郡作木村は広島県で市制町村制が施行された1889年(明治22年)4月1日に三次郡西部の14の村、すなわち伊賀和志・大津・大畠・大山・岡三渕・上作木・香淀・下作木・西野・光守・森山中・森山西・森山東・門田各村が統合して発足した村(当時の名称は三次郡作木村)で、2004年(平成16年)4月1日に三次市や甲奴郡甲奴町、双三郡の他の町村(吉舎〔きさ〕・三良坂〔みらさか〕・三和〔みわ〕各町と君田・布野両村)と統合して改めて発足した三次市に移行したために消滅するまでの115年間一切行政区域が変わらなかったという稀有(けう)な歴史を持っている(但し1898年〔明治31年〕10月1日に三谿〔みたに〕・三次両郡が統合して双三郡が発足した際に所属郡を三次郡から双三郡に変更している)。91.92平方キロメートル(2003年〔平成15年〕の全国都道府県市区町村別面積調による)という広大な行政区域だったことに加え、北側と東側は山、南側と西側は江の川でそれぞれ隔てられており、地理的に他の市町村との合併が難しかったことが理由として挙げられる。
しかし、それは高度経済成長期の中で難点として双三郡作木村政の課題となった。1954年(昭和29年)には江の川右岸に沿って延びる道が主要地方道大田・三次線(1954〜1976(注8))になったのだが、険しい地形と費用対効果の低さが原因で改良は進まなかった。その一方で熱望したのが鉄道であった。主要地方道大田・三次線が発足した1950年代中期は日本の道路は改良がほとんど進んでおらず、一方で鉄道は陸上輸送の王者として君臨していた。しかも三次市と江津市を江の川に沿って結ぶ鉄道路線の計画がある。これが実現すれば厳しい地理的条件は解消されるだろう。双三郡作木村の住民はそのように思っていた。
しかし、1955年(昭和30年)3月31日に国鉄三江南線三次〜式敷間が開業したところで工事は止まってしまった。ちょうどその頃江の川の下流に大規模なダム計画が持ち上がったからである。そのダムは都賀行ダムと言い、邑智郡美郷町都賀行及び長藤に高さ94m(89mとする資料もある)の堰堤を建設するというものだったのだが、堰堤を建設する場所の標高が70mほどなのでダム湖の範囲は何と三次盆地の近くまで及ぶことになる。無論多くの家が立ち退きを余儀なくされることになるし、地方自治体の中枢部もいくつか水没することになる(注9)。山陽地方だけでなく山陰地方の発展に寄与するという触れ込みだったのだが、いくら高度経済成長期の計画とはいえ不利益があまりにも大きすぎる計画であった。結局このダムの計画は立ち消えになり、三江南線の延伸工事は再開されたのである。甚大な犠牲を払うダム計画が白紙撤回され、待望の鉄道路線の建設が再開されることを双三郡作木村に住む方々が大喜びしたことは想像に難くない。
そして1963年(昭和38年)6月30日、双三郡作木村待望の鉄道路線、すなわち三江南線式敷〜作木口〜口羽間が開業したのである。双三郡作木村には香淀駅しか設置されなかったのだが、双三郡作木村では双三郡作木村の中心部から見て江の川の対岸にある邑智郡羽須美村上田字青山(地名は1963年〔昭和38年〕6月30日時点のもので記載)に設置された駅を双三郡作木村の玄関口と位置付け、作木口駅という名称にするように日本国有鉄道(国鉄。千代田区丸の内一丁目。1949〜1987)に要望した。その駅のある邑智郡羽須美村(1957〜2004)や駅周辺の住民の中には石見青山駅か石見上田駅(注10)で良いだろうとかなぜ対岸の村の名前を付けなければならないのかと感じていた方がいたことであろうが、結局は作木口駅として開業することになった。決め手となったのはその駅のある辺りの人口が少ないことやその駅をいつも利用する人の大多数が対岸の双三郡作木村に住んでいる人になるのが明らかだったこと、そして双三郡作木村の住民の熱い思いがあったことであろう。
ところで、双三郡作木村、すなわち現在の三次市作木地区には三江線の駅は結局二つしか設けられなかったのだが、地図を見て驚いたのは三次市作木地区の外にある駅でも最寄駅になる場合があるということである。どういうことかを示すと下表の通りになる。
県名 | 駅名 | 所在地 | 最寄駅として使える 三次市作木町の大字 |
備考 |
---|---|---|---|---|
広島県 | 伊賀和志 | 三次市作木町伊賀和志 | 伊賀和志 大津 |
|
島根県 | 口羽 | 邑智郡邑南町下口羽 | 大津 | 両国橋経由で行くことが可能。 |
江平 | 邑智郡邑南町上田 | 下作木 | 丹渡橋経由で行くことが可能(但し14トン以上の車は通行禁止)。 | |
作木口 | 邑智郡邑南町上田 | 下作木 | 三国橋経由で行くことが可能(但し9トン以上の車は通行禁止)。 | |
広島県 | 香淀 | 三次市作木町門田 | 香淀 門田 |
|
式敷 | 安芸高田市高宮町佐々部 | 香淀 門田 |
式敷大橋経由で行くことが可能。 | |
所木 | 安芸高田市高宮町船木 | 香淀 | 唐香橋経由で行くことが可能(但し2トン以上の車は通行禁止)。 |
※式敷〜所木間にある信木駅(安芸高田市高宮町佐々部)は近くに江の川を渡る橋がないため三次市作木町へのアクセスには使えない。
上表に記した七つの駅が三次市作木地区―いずれも江の川右岸にある地域だけであるが―へのアクセスに使えるようになったのは1978年(昭和53年)9月に丹渡橋(全長:114m)が開通した時であるが、鉄道が利用できるようになれば地理的困難は克服できるのではないかという双三郡作木村の思惑をそこに感じたくなる。
しかし、その思惑は当たらなかった。高度経済成長期に入ってから交通も生活も不便な双三郡作木村を離れる方が若年者を中心に増えたからである。下表は1950年(昭和25年)以降の双三郡作木村→三次市作木町の人口の変遷(いずれも国勢調査による)であるが、1950年(昭和25年)の6,633人を頂点として以後はずっと人口が減少し続けていることがうかがえよう。
年 | 総人口 (単位:人) |
増減数 (単位:人) |
増加率 (単位:%) |
備考 |
---|---|---|---|---|
1950年 (昭和25年) |
6,633 | 96 | 1.5 | 増減数と増加率は1947年(昭和22年)10月1日実施の国勢調査との比較。 |
1955年 (昭和30年) |
6,300 | -333 | -5.0 | |
1960年 (昭和35年) |
5,625 | -675 | -10.7 | |
1965年 (昭和40年) |
4,355 | -1,270 | -22.6 | |
1970年 (昭和45年) |
3,436 | -919 | -21.1 | |
1975年 (昭和50年) |
2,886 | -550 | -16.0 | |
1980年 (昭和55年) |
2,701 | -185 | -6.4 | |
1985年 (昭和60年) |
2,439 | -262 | -9.7 | |
1990年 (平成2年) |
2,226 | -213 | -8.7 | |
1995年 (平成7年) |
2,067 | -159 | -7.1 | |
2000年 (平成12年) |
2,014 | -53 | -2.6 | |
2005年 (平成17年) |
1,799 | -215 | -10.7 | |
2010年 (平成22年) |
1,593 | -206 | -11.5 | |
2015年 (平成27年) |
1,381 | -212 | -13.3 |
双三郡作木村の著しい人口減少のもう一つの要因として挙げられるのが自然環境の厳しさであった。中国山地の中にあるが故に冬は積雪が多いことや中国地方随一の大河である江の川の右岸に行政区域が展開されていること、平地が少なく、ほとんどが山地であることから豪雪災害や水害に見舞われることが多かった。その中で最も甚大な被害をもたらした災害は1972年(昭和47年)7月中旬の集中豪雨であった。浸水被害や土砂崩落が村内の各所で起き、双三郡作木村に通じる交通網はことごとく寸断された。作木口駅に通じる三国橋―1972年(昭和47年)時点では吊り橋で、自転車と歩行者しか通れなかったという―もその例に漏れず、橋桁は濁流に流されてしまった。
作木口駅に通じる三国橋が再建されたのは1972年(昭和47年)7月中旬の梅雨末期の集中豪雨による橋桁流出から2年半近くが経過した1974年(昭和49年)12月のことである。しかし、災害復興計画との絡みなのか、旧三国橋の470mほど上流に再建されたことで双三郡作木村中心部に住む人が作木口駅を利用するためには1km以上も余計にかかるようになった。そこで双三郡作木村では新三国橋のそばに作木口駅を移すよう日本国有鉄道に要望し、それは1976年(昭和51年)11月6日に実現した。この移転に関しても双三郡作木村の都合が優先されたため作木口駅周辺に住む方々の中には上ヶ畑駅(注11)とか石見上田駅(注10)に改称すべきだというような声が上がったことであろうが、それが通らなかったのはやはり初代作木口駅が設置された当時と同じ状況があったからであろう。なお、初代作木口駅は青山踏切(邑智郡邑南町上田)の少し南側にあったものと思われるが、そこに赴いて辺りを見回しても何の痕跡も見つからなかった。恐らく三江線上り方向(江津→三次)の進行方向左側に短いプラットホームを設置し、三江線のすぐ西側を通る邑南町道に出入口を設けていた他、三江線のすぐ東側を通る邑南町道から駅に通じる階段を設けていたのではないかと思うのだが、真相はどうだったのだろうか。
私が初代作木口駅があったと考えている辺りの写真。奥に見える赤いアーチ橋は三国橋で、その橋の右側に現在の作木口駅がある。
三江線のすぐ東側を通る邑南町道と三江線のすぐ西側を通る邑南町道を結ぶ狭い階段。これが初代作木口駅に通じる階段だったのだろうか。
作木口駅から江平駅へ
作木口駅から江平駅(邑智郡邑南町上田)への移動は江の川左岸を通る邑南町道を通るのが最短経路である。この旅で初めて国道路線や県道路線を通らない移動となる。江の川をずっと眺められる道なのだが、狭いところが多く、ガードレールのないところもある。また、青山踏切の先にあるガードには高さ制限(4.2m)がかけられている。この道を三江線廃止後代替バスが走るかどうかは分からないのだが、もし代替バスが設定されるのであれば道路の改良が課題になるのは避けられないであろう。
青山踏切の北にある高さ制限のあるガード遠景。そのガードは分かりにくいのだが坂を下った先にある。
作木口駅から江の川に沿って600mほど進むと三江線と平面交差する青山踏切があるのだが、そこには警報器も遮断器もない。その代わりにあるのはセンサー付スピーカーである。そこを誰かが通ると女性の声で踏切があることを注意する内容のアナウンスがスピーカーから流れるのである。何も知らずに通るといきなり「危ない!!」という女性の声が流れるので驚いてしまうが、注意を喚起するには良いのではないのだろうか。もしかしたら列車が来ないだろうと思って踏切を渡っていたら…ということもあるのだし…。
警報機も遮断機もない青山踏切
青山踏切のセンサー付スピーカー
高さ制限のあるガードをくぐり、三江線の東側に出てしばらく進むと前方に赤いトラス橋が見えてくる。それが国道375号線(県道112号三次・江津線重用)と邑智郡邑南町上田字江平を結ぶ丹渡橋(全長:114m)である。1976年(昭和51年)2月に架けられたこの橋は1972年(昭和47年)7月豪雨と同じ規模の水害が起きた時安全が保てないとして嵩(かさ)上げ工事を余儀なくされ、ようやく通れるようになったのは2年半も後の1978年(昭和53年)9月のことだったという話がある(注12)。邑智郡邑南町上田の東部にある江平集落に住む方にとっては松江・広島・三次方面に出るには必要不可欠な橋なのだが、重量制限(14トン以上の車は通行禁止)がかけられている。地域の実情を考えてこういう橋にしたのだろうか。気になるところである。
西側から撮影した丹渡橋
江平駅は江平第一踏切(邑智郡邑南町上田)のすぐ北側にあり、江平第一踏切のそばからもプラットホームに入れそうな空間があるが、金網が張られているのでそこからの進入は推奨しない(もしそこから進入し、何らかのお咎めを受けたとしても私は一切責任を負わないのでそのつもりで)。江平第一踏切を渡り、右に折れて少し北上すると江平駅のプラットホームに上がる階段が見える。そこから江平駅のプラットホームに進入することになる。
江平駅のプラットホームの南端にある金網
江平駅の正式な入口。分かりにくいのだが白いガードパイプの手前に階段がある。
江平駅(ごうびらえき)
江平駅のプラットホームにある待合所
江平駅の駅名標の裏にある「江平駅」と書かれた手書きの看板
江平駅の駅名標
三江線活性化協議会が設置した看板。江平駅の愛称は五龍王となっている。
江平駅のデータ
項目 | 記事 |
---|---|
所在地 | 邑智郡邑南町上田 |
駅名の由来 | 駅がある集落の名前。 |
開業年月日 | 1963年(昭和38年)6月30日 |
接続鉄道路線 | なし |
駅構内にあるもの | なし(プラットホームに待合所があるだけ) |
プラットホームの形式 | 単式ホームで東側を使用している。 |
起点または終点からの距離 (営業キロ) |
起点(江津)から83.2km 終点(三次)から24.9km |
前後の駅からの距離 (営業キロ) |
(下り線)口羽駅から3.5km (上り線)作木口駅から1.7km |
JR三江線の列車の発車・到着時刻 (2017年〔平成29年〕3月4日現在) |
(下り列車) 421D…午前6時44分(浜原発三次行) 423D…午前8時30分(江津発三次行) 427D…午後3時25分(口羽発三次行) 429D…午後6時8分(江津発三次行) 433D…午後7時48分(浜原発三次行) (上り列車) 422D…午前6時28分(三次発浜田行) 424D…午前10時53分(三次発石見川本行) 428D…午後3時2分(三次発口羽行) 432D…午後5時53分(三次発浜原行) 436D…午後8時26分(三次発浜原行) |
付近にある主要施設 | なし |
付近にある名所・旧跡・自然 | 江の川 |
付近を通る国道路線 または県道路線 |
国道375号線(県道112号三次・江津線重用) ※国道375号線(県道112号三次・江津線重用)は江の川の対岸を通っており、作木口駅のそばにある丹渡橋(全長:114m)を渡っていくことになる。但し丹渡橋には重量制限(14トン以上の車は通行禁止)があることや道幅があまり広くないことといった問題がある。 |
備考 | ・三江南線第二期開業区間で唯一小字を採って命名された駅である。 |
江平駅は作木口駅とは1.7kmしか離れていない。作木口駅が三国橋付け替えに伴って1976年(昭和51年)11月6日に移転する前はもっと短く、1.4kmしかなかった。それでもなぜ駅が設置されたのか。考えられる理由は次の通りである。
・日本国有鉄道がいかなる手段を用いてでも利用者を獲得しようという考えを持っていたこと。
・三江南線三次〜式敷間開業時に一部の沿線にある集落に駅を設置しなかったことが大きな問題になったこと。
つまり、ある程度の人口のある集落があるところに駅を置けばまだ山間部では道路改良もモータリゼーションも進展していなかったから利用してもらえて増収に繋がるという考えがあったのであろう。更に気動車やレールバスの導入を推進していたことも大きかった。だから次の駅までそんなに離れていないところに駅を設置するのはさほど難しい問題ではなかったのだろう。これが時代が進み、鉄道路線の建設を日本鉄道建設公団(横浜市中区本町六丁目。1964〜2003)が担うようになると集客目的と推察し得る露骨な迂回敷設が多数見られるようになる(三江線にもそういうところがあるのだが、それは該当箇所のある第4章と第5章で紹介することにしたい)。
それはさておき、江平駅のある江平集落は交通が不便な集落の一つであった。そういうところだから三江南線開業と同時に集落の中に駅が設置されることが決まった時多くの方が喜んだことであろう。江平集落が属する自治体、すなわち邑智郡羽須美村の中心地・下口羽だけでなく遠い土地へも楽に行けるようになったからである。更に1978年(昭和53年)9月には江の川の対岸に通じる丹渡橋も開通し、対岸の広島県(三次市作木地区)からの利用も見込めるようになった。
しかし、過疎化が進み、道路整備が進み、鉄道利用も少なくなった今日、目にするものは寂しい姿だけである。それを挙げると次の通りになる。
・プラットホームの江津方のうちの列車が止まらない部分は金網を設置して立ち入れないようにする措置が施されていたこと(下の写真)。
・秋の花がきれいに咲いている一方で雑草が伸び放題になっていたこと(下の写真)。
・江平駅の手書きの駅名看板(プラットホームと邑南町道の間にある電信柱に邑南町道のほうに向けて示されている)は字もかすれ、苔(?)で汚れていたこと(下の写真)。
「島根県統計書」(島根県企画振興部統計課刊)によるとここ数年の江平駅の一日の平均乗車人員は0〜1人だという(注13)。駅のある江平集落だけでなく、江の川の対岸の三次市作木町下作木からの利用も皆無に近くなっている現状がうかがえる。人口減少や道路整備の進展、鉄道会社の合理化など要因はいくつもあるのだろうが、寂しい感情を抱かずにはいられなかった。
江平駅から口羽駅へ
江平駅から口羽駅(邑智郡邑南町下口羽)へは江の川左岸を通る邑南町道を通れば良いのだが、あいにく取材当日は通行止めになっており、通ることができなかった。この道については動画投稿サイト「YouTube」に投稿されている走行動画や「Googleマップ」で閲覧できる「Googleストリートビュー」で様子を見たのだが、作木口〜江平間の邑南町道と同じく狭隘箇所もある道であった。なお、この道は毎週木曜日に一往復だけ走る路線バスの経路になっている。青山・上ヶ畑・江平各集落と羽須美地区の中心部を結ぶ路線バスなのだが(時刻表はこちらを参照のこと)、青山・上ヶ畑・江平各集落と羽須美地区中心部を往来するのに三江線が利用しにくいダイヤになっていることが設定される契機になった路線バスとも言える。
ということで丹渡橋を渡り、国道375号線(県道112号三次・江津線重用)経由で口羽駅を目指すことにする。江平駅から国道375号線(県道112号三次・江津線重用)に出るまでの経路は江平駅→江平第一踏切→邑智郡邑南町上田/丹渡橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)→丹渡橋→三次市作木町下作木/丹渡橋東詰交差点(信号機・交差点名標なし)となる。
三次市作木町下作木/丹渡橋東詰交差点(信号機・交差点名標なし)を左折して国道375号線(県道112号三次・江津線重用)に入る。この辺りの国道375号線(県道112号三次・江津線重用)も改良は終わっており、快適に走れる。式トンネル(全長:664m)をくぐってしばらく進むと進行方向左側に赤い二連アーチの橋が見えてくる。それがこれから渡る両国橋(全長:150m)である。
北側から撮影した両国橋
両国橋近景
三次市作木町大津/両国橋東詰交差点(信号機・交差点名標なし)で左折して県道4号甲田・作木線(県道7号浜田・作木線及び県道112号三次・江津線重用)に入るとすぐ両国橋を渡る。これまで渡ってきた広島県と島根県に跨る江の川の橋、すなわち三国橋と丹渡橋には境界標識はなかったのだが、この両国橋にはきちんと境界標識がある。そこが町道と県道の違いなのだろうか。
ところでこの両国橋という名称は石見国と備後国に跨って架けられたことに由来するのだが、現在の橋になるまでは苦難の連続であった。現在の橋より270mほど上流に木橋で架けられた初代(1952年〔昭和27年〕5月完成)はわずか1ヶ月半後の集中豪雨で流失してしまい(完成49日後に流されたので49日橋と揶揄した人もいたという)、初代と同じところに架けられた二代目(1954年〔昭和29年〕11月完成)は三次市作木地区に甚大な被害をもたらしたあの1972年(昭和47年)7月の集中豪雨で流失してしまった。現在の橋は1974年(昭和49年)9月に架けられたものである。三代目の橋は架けられてからもう43年が経過しているのだが、各地で甚大な被害をもたらす集中豪雨が発生している昨今、これからも無事であって欲しいと願わずにはいられない。周辺の道路改良が進み、三次市と邑智郡西部、更にその先にある江津市・浜田市を結ぶ幹線道路の一翼を担うようになった今日では尚更である。
県道4号甲田・作木線(県道7号浜田・作木線及び県道112号三次・江津線重用)は両国橋を渡り終えると今回通れなかった江の川左岸を通る邑南町道と合流し、南西方向に進む。中央線はないが、普通自動車同士のすれ違いには難渋しない道である。やがて江の川の支流である出羽(いずわ)川を口羽大橋(全長:48.4m)で渡ると邑智郡邑南町下口羽/口羽大橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)に差しかかる。そこで右折して県道294号邑南・美郷線に入るのだが、実はこの交差点の片隅に注目すべきものがある。JR三江線の全線開業を記念して建立された石碑である(下の写真)。
同じような石碑は浜原駅(邑智郡美郷町浜原)にもあるのだが、浜原駅のものは駅舎のすぐそばにあるのに対し、口羽駅のものは駅からいくらか離れたところにある。別に口羽駅の待合小屋のそばに設置しても不都合はないように感じるのだが、いかなる意図があって口羽駅からいくらか離れたところに設置したのだろうか。
更に石碑の横には蒸気機関車のものと思われる車輪が置いてある(下の写真)のだがどこにもその由来を記した看板は見当たらないのである。口羽駅付近の三江線を定期列車または貨物列車を牽引(けんいん)する蒸気機関車が走っていたという話はないから三江線ゆかりの蒸気機関車のものではないのは明らかなのだが、いかなる理由でどの機関車から採ったものを設置したのだろうか。三江線廃止後の去就もさることながらこれらの謎も気になるところである。
邑智郡邑南町下口羽/口羽大橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)で右折して県道294号邑南・美郷線に入るとすぐに丁字路、すなわち邑智郡邑南町下口羽/口羽駅入口交差点(信号機・交差点名標なし)に差しかかる。そこで左折して緩やかな坂道を下るとその奥に口羽駅の(東口)駅前広場と待合小屋はある。
口羽駅(くちばえき)
口羽駅の待合小屋
口羽駅の駅名標
国鉄時代からあると思われる名所案内板
三江線活性化協議会が設置した看板。口羽駅の愛称は神降し(かみおろし)となっている。
口羽駅のデータ
項目 | 記事 |
---|---|
所在地 | 邑智郡邑南町下口羽 |
駅名の由来 | 駅がある地域の名前。 ※駅がある辺りは1957年(昭和32年)2月10日まで邑智郡口羽村(行政区域は現在の邑智郡邑南町上田・上口羽・下口羽。1889〜1957)であった。そのことから駅名が採られた可能性が高い。 |
開業年月日 | 1955年(昭和30年)3月31日 |
接続鉄道路線 | なし |
駅構内にあるもの | 待合小屋 |
プラットホームの形式 | 島式ホームで両側を使用している。 |
起点または終点からの距離 (営業キロ) |
起点(江津)から79.7km 終点(三次)から28.4km |
前後の駅からの距離 (営業キロ) |
(下り線)伊賀和志駅から1.5km (上り線)江平駅から3.5km |
JR三江線の発車時刻 (2017年〔平成29年〕3月4日現在) |
(下り列車) 421D…午前6時37分(浜原発三次行) 423D…午前8時23分(江津発三次行) 427D…午後3時17分(当駅始発。三次行) 429D…午後6時1分(江津発三次行) 433D…午後7時41分(浜原発三次行) (上り列車) 422D…午前7時3分(三次発浜田行) 424D…午前11時0分(三次発石見川本行) 428D…午後3時9分(三次始発。当駅止まり) 432D…午後6時0分(三次発浜原行) 436D…午後8時33分(三次発浜原行) |
付近にある主要施設 | 口羽郵便局 邑南町役場羽須美支所 邑南町立口羽小学校 川本警察署羽須美駐在所 |
付近にある名所・旧跡・自然 | 出羽(いずわ)川 三江線全線開通記念碑 |
付近を通る国道路線 または県道路線 |
県道294号邑南・美郷線 ※口羽駅の北東約100mのところを通っている。 県道7号浜田・作木線 県道112号三次・江津線(県道7号浜田・作木線と重用) ※県道7号浜田・作木線(県道112号三次・江津線重用)は口羽駅構内のすぐ南側を口羽陸橋(全長:99.5m)で越えている。 県道4号甲田・作木線 ※口羽駅の東北東約100mのところにある邑智郡邑南町下口羽/口羽大橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)で南南東から北東に向きを変えて終点の三次市作木町大津/両国橋東詰交差点(信号機・交差点名標なし)に向かっている。なお、邑智郡邑南町下口羽/口羽大橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)から終点の三次市作木町大津/両国橋東詰交差点(信号機・交差点名標なし)までは県道7号浜田・作木線や県道112号三次・江津線と重用している。 |
備考 | ・旧三江南線第二期開業区間(式敷〜口羽間)の終点。三江線が全線開通するまで12年2ヶ月間三江南線の終点でもあった。 ・開業時点で中国地方に二つしかない自治体としての村にある終着駅であった。もう一つの自治体としての村にある終着駅であった一畑電気鉄道立久恵線出雲須佐駅(簸川郡佐田村反辺〔所在地表記は当時のものを記載〕。1932〜1964(注14))が廃止されてから三江線浜原〜口羽間が開業するまでは唯一の存在になった。 ・全線開業後も1978年(昭和53年)3月29日まではこの駅で運転系統が分断され、江津〜三次間を通して走る列車は存在しなかった(信号関係の工事が完成していなかったことと、三次方面の線路と江津方面の線路が繋がっていなかったことが原因)。ようやく1978年(昭和53年)3月30日から全線を通して走る列車が設定されたのだが、その40周年の翌日、すなわち2018年(平成30年)3月31日が三江線の運転最終日になる予定である。 ・邑智郡羽須美村(1957〜2004)改め邑智郡邑南町羽須美地区の代表駅であるが、邑智郡邑南町羽須美地区の中心部は口羽駅の南西にある。口羽駅とは山と出羽(いずわ)川で隔てられており、山を迂回しないと往来できなかったが、根布大橋(全長:57m)と宮尾山トンネル(全長:113m)、口羽陸橋で構成される県道7号浜田・作木線(県道112号三次・江津線重用)下口羽バイパスが2008年(平成20年)10月21日に開通したことで邑智郡邑南町下口羽/口羽大橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)と邑智郡邑南町羽須美地区中心部が短絡された。 ・口羽駅のすぐ南側にある口羽陸橋は三江線と県道112号三次・江津線(但し県道7号浜田・作木線と重用している)が交差する邑智郡邑南町唯一の場所である。 ・列車交換可能駅で、一日に二度列車交換がある(421Dと422D、429Dと432D)。但しどちらの交換も一方の列車を長時間停車させる方法をとっている(422D…28分、429D…16分)。 |
鉄道、すなわち三江南線が邑智郡羽須美村の中心部・下口羽にようやく通じたのは1963年(昭和38年)6月30日のことであった。当時中国地方には地方自治体としての村が58もあったのだが、鉄道路線が通る村は珍しく(58村中17村。うち駅があるのは14村)、なおかつ終着駅を持つ村も珍しかったこと(58村中2村)が下表からうかがえる。
県名 | 郡名 | 村名 | 存続期間 | 通過鉄道路線 | 村内の駅 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
鳥取県 (4村) |
岩美 | 福部 | 1928〜2004 | 国鉄山陰本線 | 福部駅(栗谷) | 現:鳥取市。 |
西伯 | 日吉津 | 1889〜 | ― | ― | ||
東伯 | 泊 | 1889〜2004 | 国鉄山陰本線 | 泊駅(園) | 現:東伯郡湯梨浜町。 | |
八頭 | 佐治 | 1910〜2004 | ― | ― | 現:鳥取市 | |
島根県 (19村) |
海士 | 海士 | 1904〜1968 | ― | ― | 現:隠岐郡海士町。 |
飯石 | 吉田 | 1889〜2004 | ― | ― | 現:雲南市。 | |
邑智 | 大和 | 1957〜2004 | ― | ― | 現:邑智郡美郷町。 | |
羽須美 | 1957〜2004 | 国鉄三江南線 | 作木口駅(上田) 江平駅(上田) 口羽駅(下口羽) |
現:邑智郡邑南町。 口羽駅は三江南線の終着駅である。 |
||
穏地 | 五箇 | 1904〜2004 | ― | ― | 現:隠岐郡隠岐の島町。 | |
都万 | 1904〜2004 | ― | ― | 現:隠岐郡隠岐の島町。 | ||
鹿足 | 柿木 | 1889〜2005 | ― | ― | 現:鹿足郡吉賀町。 | |
周吉 | 布施 | 1904〜2004 | ― | ― | 現:隠岐郡隠岐の島町。 | |
知夫 | 知夫 | 1904〜 | ― | ― | 現:隠岐郡知夫村。 | |
那賀 | 金城 | 1956〜1969 | ― | ― | 現:浜田市。 | |
弥栄 | 1956〜2005 | ― | ― | 現:浜田市。 | ||
能義 | 布部 | 1889〜1967 | ― | ― | 現:安来市。 | |
簸川 | 湖陵 | 1951〜1969 | 国鉄山陰本線 | 江南駅(三部) | 現:出雲市。 | |
佐田 | 1956〜1969 | 一畑電気鉄道 立久恵線 |
出雲須佐駅(反辺) | 現:出雲市。 出雲須佐駅は一畑電気鉄道立久恵線の終着駅である。 |
||
多伎 | 1956〜1969 | 国鉄山陰本線 | 小田駅(多岐) 田儀駅(口田儀) |
現:出雲市。 | ||
斐川 | 1955〜1965 | 国鉄山陰本線 | 荘原駅(学頭) 直江駅(上直江) |
現:出雲市。 | ||
八束 | 島根 | 1956〜1969 | ― | ― | 現:松江市。 | |
八雲 | 1951〜2005 | ― | ― | 現:松江市。 | ||
八束 | 1929〜1970 | ― | ― | 現:松江市。 | ||
岡山県 (16村) |
英田 | 西粟倉 | 1889〜 | ― | ― | |
東粟倉 | 1889〜2005 | ― | ― | 現:美作(みまさか)市。 | ||
児島 | 興除 | 1905〜1971 | 国鉄宇野線 | 妹尾駅(東畦) | 現:岡山市南区。 | |
藤田 | 1912〜1975 | ― | ― | 現:岡山市南区。 | ||
都窪 | 清音 | 1889〜2005 | 国鉄伯備線 | 清音駅(上中島) | 現:総社市。 | |
庄 | 1889〜1971 | 国鉄山陽本線 | ― | 現:倉敷市。 | ||
福田 | 1902〜1971 | 国鉄宇野線 | ― | 現:岡山市南区。 | ||
山手 | 1889〜2005 | ― | ― | 現:総社市。 | ||
苫田 | 阿波 | 1889〜2005 | ― | ― | 現:津山市。 | |
上斎原 | 1889〜2005 | ― | ― | 現:苫田郡鏡野町。 | ||
富 | 1889〜2005 | ― | ― | 現:苫田郡鏡野町。 | ||
真庭 | 川上 | 1902〜2005 | ― | ― | 現:真庭市。 | |
新庄 | 1889〜 | ― | ― | |||
中和 | 1889〜2005 | ― | ― | 現:真庭市。 | ||
美甘 | 1889〜2005 | ― | ― | 現:真庭市。 | ||
八束 | 1902〜2005 | ― | ― | 現:真庭市。 | ||
広島県 (10村) |
安芸 | 熊野跡 | 1889〜1974 | ― | ― | 現:広島市安芸区。 |
芦品 | 協和 | 1955〜1975 | ― | ― | 現:府中市。 | |
佐伯 | 吉和 | 1889〜2003 | ― | ― | 現:廿日市(はつかいち)市。 | |
神石 | 豊松 | 1897〜2004 | ― | ― | 現:神石郡神石高原町。 | |
豊田 | 豊浜 | 1889〜1969 | ― | ― | 現:呉市。 | |
東野 | 1889〜1964 | ― | ― | 現:豊田郡大崎上島町。 | ||
双三 | 君田 | 1889〜2004 | ― | ― | 現:三次市。 | |
作木 | 1889〜2004 | 国鉄三江南線 | 香淀駅(香淀) | 現:三次市。 | ||
布野 | 1889〜2004 | ― | ― | 現:三次市。 | ||
山県 | 筒賀 | 1889〜2004 | 国鉄可部線 | 筒賀駅(中筒賀) | 現:山県郡安芸太田町。 この筒賀駅は1969年(昭和44年)7月1日に田之尻駅(中筒賀。1969〜2003)に改称している(注15)。 |
|
山口県 (9村) |
阿武 | 旭 | 1955〜2005 | ― | ― | 現:萩市。 |
川上 | 1889〜2005 | ― | ― | 現:萩市。 | ||
福栄 | 1955〜2005 | ― | ― | 現:萩市。 | ||
むつみ | 1955〜2005 | ― | ― | 現:萩市。 | ||
大津 | 日置 | 1889〜1978 | 国鉄山陰本線 | 黄波戸駅(日置上) 長門古市駅(日置上) |
現:長門市。 | |
玖珂 | 大畠 | 1955〜1971 | 国鉄山陽本線 | 大畠駅(神代) | 現:柳井市。 | |
本郷 | 1889〜2006 | ― | ― | 現:岩国市。 | ||
和木 | 1899〜1973 | 国鉄山陽本線 | ― | 現:玖珂郡和木町。 | ||
熊毛 | 大和 | 1943〜1971 | 国鉄山陽本線 | 岩田駅(岩田) | 現:光市。 |
邑智郡羽須美村―もっとも発足したのは1957年(昭和32年)2月11日のこと(注16)なのだが―にとって鉄道は長い間待ち焦がれた存在であった。鉄道ができれば便利になるし地域振興の起爆剤になるのに第二次世界大戦や都賀行ダム建設問題といった社会情勢に振り回され、なかなか建設が進まなかったからである。だからようやく口羽駅まで開業した時は多くの村民が開業を喜んだことであろう。しかし、羽須美村民は鉄道開通を手放しで喜べない局面に次々と当たることになる。それは次に挙げる通りである。
・口羽駅には改札や切符売り場がある駅舎は建てられず、待合小屋しか建てられなかったこと。三江南線式敷〜口羽間とほぼ同じ時期に開業した、日本国有鉄道が運営する鉄道路線の終着駅で改札や切符売り場がある駅舎を建てたところはいくつもある(注17)のに、なぜ口羽駅は改札や切符売り場がある駅舎を建てることを見送ったのだろうか。
・邑智郡羽須美村の人口が過疎化により減少したこと(下表参照。データはいずれも国勢調査による)。背景には高度経済成長の中で多くの雇用がある地域へ若年層を中心に転居する人が多かったことや反対に多くの雇用が見込める産業を育成し得なかったこと、中国山地の中にあってなおかつ中国地方随一の大河・江の川の流域にあるため自然環境が厳しかったことがある。
年 | 総人口 (単位:人) |
増減数 (単位:人) |
増加率 (単位:%) |
備考 |
---|---|---|---|---|
1960年 (昭和35年) |
5,560 | -672 | -10.8 | 増減数と増加率は1955年(昭和30年)10月1日実施の国勢調査との比較。 |
1965年 (昭和40年) |
4,528 | -1,032 | -18.6 | |
1970年 (昭和45年) |
3,690 | -838 | -18.5 | |
1975年 (昭和50年) |
3,159 | -531 | -14.4 | |
1980年 (昭和55年) |
2,907 | -252 | -8.0 | |
1985年 (昭和60年) |
2,823 | -84 | -2.9 | |
1990年 (平成2年) |
2,565 | -268 | -9.1 | |
1995年 (平成7年) |
2,304 | -261 | -10.2 | |
2000年 (平成12年) |
2,078 | -226 | -9.8 | |
2005年 (平成17年) |
1,879 | -199 | -9.6 | |
2010年 (平成22年) |
1,620 | -259 | -13.8 | |
2015年 (平成27年) |
1,440 | -180 | -11.1 |
・開業から間もない時期に早くも三江南線の存廃問題が浮上したこと。日本国有鉄道が1968年(昭和43年)9月に使命を終えた(注18)として廃止対象とした路線(いわゆる赤字83線)を公表したのだが、その中に三江南線も含まれていたのである(注19)。確かに三江南線は沿線に大きな町はないし、過疎化も進展していたので廃止対象路線に挙げられることは致し方ないことではあったのだが、一方で三江南線と三江北線を繋ぐ浜原〜口羽間の建設が始まっていたことを考えると廃止などとんでもない!! という雰囲気があったことは想像に難くない。結局この赤字83線の取り組みは数年で中止に追い込まれたことで三江南線は存続し、三江線は全線開業に至れたわけであるが…。
・三江南線→三江線は自然環境の厳しい中を通っているため災害に見舞われやすかったこと。1972年(昭和47年)7月中旬の集中豪雨を始めとして長期間不通になったことは何度も起きている。今回西日本旅客鉄道(JR西日本。大阪市北区芝田二丁目)が廃止することにした理由の一つは災害に遭いやすいこととその度に復旧させても費用に見合った利用がなく、かえって損をし続けるという悪循環を止めたかったことであるが、このように書くと西日本旅客鉄道が三江線の振興策を全く考えなかった理由が何となく分かるような気がする(観光で振興を図っても災害で長期間不通になれば元も子もないし…)。
・浜原〜口羽間が開業したことで三江線が全線開通を果たした時には既に有用な存在になり得る状況にはなかったこと。江津市と三次市を結ぶには江の川に沿っているため遠回りになっているし、岡山・倉敷・福山方面と江津・浜田方面を結ぶ優等列車を設定したとしても既に山陽新幹線が中国地方を貫通した後であり、広島経由で行く方法、すなわち広島駅(広島市南区松原町)で山陽新幹線の列車から山陰地方西部に行く路線バスに乗り換える方法にはかなうはずもなかった(注20)。そのせいか全線開通時には口羽駅で線路が分断されており、伊賀和志駅(三次市作木町伊賀和志)以遠と江平駅以遠を移動する場合は口羽駅で乗り換えなければならなかった。無論、1978年(昭和53年)3月30日に江津方の線路と三次方の線路が繋がり、江津〜三次間を乗り換えなしで直通できるようになっても状況は変わらなかった。
・道路整備が進展したこと。特に邑智郡羽須美村にとって大きかったのは県道62号庄原・作木線便坂トンネル(全長:1,402m)が開通したこと(1996年〔平成8年〕11月12日)と、国道375号線作木・大和道路が開通したこと(2006年〔平成18年〕5月30日)であった。松江市や出雲市、大田市、広島市、三次市といった周辺の主要都市との往来が楽になった半面、これらの都市へのストロー効果(ストロー現象とも称する)が生じたり三江線の利用者が減少し、存廃問題が浮上したりするなど邑智郡羽須美村にとって不利益な面も起きている。
・いわゆる平成の大合併で邑智郡羽須美村は邑智郡石見・瑞穂両町との統合に参加したこと。邑智郡羽須美村と邑智郡石見・瑞穂両町を結ぶ県道7号浜田・作木線(県道112号三次・江津線重用)は狭隘箇所が少なくなかったし、合併によって中枢機能を喪失することで過疎化に拍車をかける恐れがあったのだが、それでも合併に傾かせたものは何だったのだろうか。
鉄道が計画され、実際に鉄道が通るまでの間も社会情勢に振り回され、鉄道が通ってからも社会情勢に振り回され、結局鉄道のない地域に逆戻りすることになってしまったわけであるが、そういう状況を見てきた羽須美村民の方々はどのようにこのことを考えているのだろうか。「先見の明がなさすぎる」とか「それ見たことか。こんなところに鉄道を通すのはどうかと思っていたんだがあの時はみんなから白眼視されることを恐れて何も言えなかった。危惧していたことが本当のことになった」と考える人もいるだろうし、反対に「国も鉄道会社も無責任だ」とか「もう少し観光振興を図ることはできなかったのか。JR木次(きすき)線だって同じ立場なのに観光振興を図っていることを思うと三江線も同じようにすべきだったのではないか。これじゃ気に入らない人に苦役を与えて追い出そうとする会社(注21)と一緒だ」とか「交通弱者に冷たい社会を作ってどうするのか」と考える人もいるだろう。どちらの声が多いのかは分からないが、何だかな…と思うのは私だけだろうか。
それはさておき、口羽駅のプラットホームは待合小屋の横から入る(下の写真で見れば待合小屋の右側にプラットホームの入口が見える)。待合小屋の正面の扉を出て左に曲がり、建物に沿って進まなければならないし、待合小屋には列車が来ることを知らせるものは何もないので少々面食らう。
口羽駅のプラットホームは島式であり、プラットホームを利用するには下り線の線路を渡らなければならない。きちんと線路を横断するところには警報機が設けられている(下の写真)。
下り線の線路を渡り、右折すると口羽駅のプラットホームである。向かって左側が上り線(江津方面)用、向かって右側が下り線用(三次方面)となっている。ただ、利用者が少ないことを見越して作られたのか、プラットホームの幅は狭い感じがした(下の写真)。改札や切符売り場のある駅舎を建てなかったことと考え合わせると安く仕上げようという考えが日本国有鉄道にはあったのでは…と勘繰りたくなる。
三江線の列車はこの口羽駅で一日に2回列車交換を行うのだが、2回の列車交換とも一方の列車を長時間停車させる方法をとっている。それは次の通りである。
・421Dと422D…421Dは2分しか停車しない(午前6時35分着→午前6時37分発)が、422Dは28分も停車する(午前6時35分着→午前7時3分発)。
・429Dと432D…432Dはすぐに発車する(午後6時着→午後6時発)が、429Dは16分も停車する(午後5時45分着→午後6時1分発)。
なぜこのようなことをしているのかというと、三江線は列車本数の削減により列車交換ができる駅が石見川本・浜原・石見都賀・口羽・式敷の5箇所だけになったため、時間調整の必要が生じたからである(もっとも石見都賀駅〔邑智郡美郷町都賀本郷〕については現在列車交換の設定はない)。利用が減った地方の鉄道路線の現実がそこには垣間見えるのだが、このことをどのようにとらえるかは利用者次第となろう(早く進んでくれと思う方もいる一方でのんびりゆっくり楽しみたいという方もいるだろうし…)。
口羽駅のプラットホームに立って辺りを見回すと駅前にある倉庫と思しき建物に下の写真の通りの横断幕があるのを見つけた。
三江線を応援しようという意図で作成・掲示された横断幕であるが、今まで見てきた横断幕やポスターと同様にこれも空しい結果に終わろうとしている。もっとも、こういうことをしたところで利用が増えたのかどうかは定かではないし、中には「何をやっても無駄」などと冷淡な考えを持っていた方もいたことであろうが…。
また、口羽駅構内のすぐ南側にはまだ新しい陸橋がある(下の写真)。
この陸橋は口羽陸橋(全長:99.5m)と言い、県道7号浜田・作木線(県道112号三次・江津線重用)が通っている。県道112号三次・江津線にとっては起点の三次市三次町/三次町交差点から数えて7箇所目の三江線との交差箇所であり、島根県に入って最初の交差箇所でもある。更にもう一つ、最も新しい三江線との交差箇所でもある。完成したのは2008年(平成20年)10月21日のことであるが、口羽陸橋の下を通る三江線が廃止されようとは恐らく多くの方が当時考えていなかったことであろう。
口羽駅を離れて、口羽陸橋―その先の宮尾山トンネル(全長:113m)と根布大橋(全長:57m)を含めて本サイトでは下口羽バイパスと称するものとする―の終点となる邑智郡邑南町下口羽/口羽大橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)に立ち、南西方向を眺める。南西方向に延びる下口羽バイパスは宮尾山トンネルに向かって上り坂になっており、ずっと向こうまで見通せないのだが直線的に作られたバイパスであることが分かる。更に口羽陸橋のたもとにある案内標識には浜田76km、出羽24kmと記されており、未改良箇所は残っているけれど邑智郡邑南町下口羽/口羽大橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)から向こうに延びていく県道7号浜田・作木線が路線発足から半世紀を経てようやく三次市と邑智郡西部、更にその先の江津市・浜田市を結ぶ幹線道路として成長しつつあることを感じさせている。そのことが三江線の廃止の一因になったことは否めないところなのだが…。
口羽陸橋と宮尾山トンネル
この口羽駅をもって三江南線だった区間の旅は終わりとなり、次章からは中国地方で最後に開業した国鉄路線となる区間の旅となる。
注釈コーナー
注1:双三郡は1898年(明治31年)10月1日に三次郡と三谿郡が統合して発足した郡である。1898年(明治31年)9月30日以前は高田郡と三次郡の境であった。
注2:「作木村誌」(1990年〔平成2年〕双三郡作木村編)によると式敷大橋は1953年(昭和28年)に吊り橋形式の農道橋として架けられたのが最初であるという。その橋は1965年(昭和40年)7月の集中豪雨で流失している。それをトラス橋として再建したのが現在の式敷大橋である。
※「作木村誌」では現在の式敷大橋も1972年(昭和47年)7月中旬の集中豪雨で一部が流失し、1974年(昭和49年)12月に再建したと書かれている。
注3:本文でも触れている通り双三郡作木村は発足当時は三次郡に属していたが1898年(明治31年)10月1日に三次郡と三谿郡が統合して双三郡が発足した時に双三郡に所属郡を変更している。
注4:JR山陽本線白市駅(東広島市高屋町小谷。白市は東広島市高屋町の大字の一つだが東広島市高屋町小谷の北隣にある)やJR山陽本線向洋(むかいなだ)駅(安芸郡府中町青崎南。向洋は広島市南区の地域名〔現在は町名としても用いられている〕で、向洋駅から南に少し離れたところにある)が挙げられる。
注5:但し2016年(平成28年)10月2日にその道は通っている。
注6:三次市日下(ひげ)町〜三次市作木町下作木間が指定されている。
注7:国道375号線は国道54号線(国道184号線重用)から分かれる三次市三次町/日山橋東詰交差点を過ぎると三次市作木町下作木/港交差点まで信号のある交差点または横断歩道がない。ちなみに三次市作木町下作木/港交差点が国道375号線の広島県側最後の信号機のある交差点または横断歩道となる。
注8:ここでは広島県側の存続期間を記している(島根県側の存続期間は1955〜1977年〔昭和30〜52年〕)。
注9:広島県側は双三郡作木村だけだが、島根県側は邑智郡大和(だいわ)村(1957〜2004)や邑智郡羽須美村の中心部がダム湖の底に沈むことになっていた。
注10:青山・上田とも全国各地に存在するため混同回避で令制国名を付けたものである。
注11:上ヶ畑は邑智郡邑南町上田の小字の一つで、現在作木口駅がある場所である。
注12:「作木村誌」による。
注13:2011〜2015年度(平成23〜27年度)について見ると江平駅の一日の平均乗車人数は2011年度(平成23年度)と2012年度(平成24年度)、2015年度(平成27年度)はそれぞれ1人、2013年度(平成25年度)と2014年度(平成26年度)はそれぞれ0人となっている。
注14:ここでは出雲須佐駅が営業していた期間を記している。一畑電気鉄道立久恵線は梅雨末期の集中豪雨により被災した1964年(昭和39年)7月19日から運休し、復旧されないまま1965年(昭和40年)2月18日に廃止されているので実質的には1964年(昭和39年)7月19日で廃止されたという見方も成り立つ。
注15:筒賀駅が田之尻駅に改称した理由は1969年(昭和44年)7月27日に開業した可部線加計〜三段峡間に改めて筒賀駅(山県郡安芸太田町中筒賀。1969〜2003)を設置することになったことである。二代目筒賀駅は筒賀村役場(現:安芸太田町役場筒賀支所〔山県郡安芸太田町中筒賀〕)の最寄駅であり、そちらを筒賀駅としたほうがふさわしいという考えがあったのであろう。
※初代筒賀駅が田之尻駅に改称する1ヶ月ほど前に初代筒賀駅を起終点とする県道路線が二つ発足している。県道241号筒賀停車場線(1969〜2009)と県道303号上筒賀・筒賀停車場線(1969〜2009)である(どちらも1969年〔昭和44年〕5月30日広島県告示第428号により認定)。本来なら県道241号筒賀停車場線は県道241号田之尻停車場線に、県道303号上筒賀・筒賀停車場線は県道303号上筒賀・田之尻停車場線にそれぞれ改称されるべきだったのだが、なぜか改称されないまま2009年(平成21年)2月5日広島県告示第119号で廃止されるまで存続した。
在りし日の県道241号筒賀停車場線の県道標識。後ろにかすかに田之尻駅が見える。(2003年〔平成15年〕4月1日撮影)
在りし日の県道303号上筒賀・筒賀停車場線の県道標識(2003年〔平成15年〕4月1日撮影)
注16:邑智郡羽須美村が発足する前は邑智郡阿須那村(行政区域は現在の邑智郡邑南町阿須那・今井・宇都井・木須田・戸河内・雪田。1889〜1957)と邑智郡口羽村(行政区域は現在の邑智郡邑南町上田・上口羽・下口羽。1889〜1957)に分かれていた。
注17:北海道にあった国鉄白糠線上茶路駅(白糠郡白糠町上茶路基線。1964〜1983)や国鉄富内線日高町駅(沙流郡日高町新町。1964〜1986)、国鉄美幸線仁宇布駅(中川郡美深町仁宇布。1964〜1985)、石川県にあったJR能登線改めのと鉄道能登線蛸島駅(珠洲市蛸島町。1964〜2005)、山口県にあったJR岩日線改め錦川鉄道錦川清流線錦町駅(岩国市錦町広瀬)などが挙げられる。このうち白糠線と富内線、美幸線、岩日線は延伸計画があり、上茶路駅や日高町駅、仁宇布駅、錦町駅は口羽駅と同じ立場にあった。
※上に挙げた延伸計画のある駅の中で口羽駅と同じく終着駅から途中駅になったのは上茶路駅だけである。1972年(昭和47年)9月8日に上茶路〜北進間が開業したためであるが、これでも全線開通とは行かなかった。というのも、白糠線はJR根室本線白糠駅(白糠郡白糠町東一条南一丁目)とJR池北線改め北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線足寄(あしょろ)駅(足寄郡足寄町北一条一丁目。1910〜2006)を結ぶべく計画された鉄道路線であり、北進駅(白糠郡白糠町上茶路東一線。1972〜1983)への延伸はその一段階でしかなかったからである。結局北進〜足寄間の建設は利用が見込めないとして一部で行われただけで中止になり、更に白糠線自体も1983年(昭和58年)10月23日に廃止されている。
注18:その根拠としたものは次の通りである。
・営業キロが100km以下であること。
・鉄道網全体から見た機能が低いこと。
・沿線人口が少ないこと。
・定期乗車券を利用する客の片道輸送量が3,000人以内であること。
・貨物の一日の発着量が600t以内であること。
・輸送量の伸びが競合する輸送機関のそれを下回っていること。
・旅客・貨物とも輸送量が減少していること。
注19:中国地方で対象になった路線は下表の通りである。
通過県 | 路線名称 | 対象区間 | 延長 (単位:km) |
備考 |
---|---|---|---|---|
鳥取県 | 倉吉線 | 全区間 (上井〜山守間) |
20.0 | 上井(あげい)駅は現在のJR山陰本線倉吉駅(1972年〔昭和47年〕2月14日改称)。 1985年(昭和60年)4月1日廃止。 |
若桜線 | 全区間 (郡家〜若桜間) |
19.2 | 1987年(昭和62年)10月14日西日本旅客鉄道(JR西日本。大阪市北区芝田二丁目)から経営分離。 現在は若桜(わかさ)鉄道若桜線として営業中。 |
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島根県 | 三江北線 | 全区間 (石見江津〜浜原間) |
50.1 | 石見江津駅は現在のJR山陰本線江津駅(1970年〔昭和45年〕6月1日改称)。 現在も西日本旅客鉄道の運営する路線として営業中。但し路線名称は三江線になっている。 2018年(平成30年)4月1日廃止予定。 |
大社線 | 全区間 (出雲市〜大社間) |
7.5 | 1990年(平成2年)4月1日廃止。 | |
島根県・ 広島県 |
三江南線 | 全区間 (三次〜口羽間) |
28.4 | 現在も西日本旅客鉄道の運営する路線として営業中。但し路線名称は三江線になっている。 2018年(平成30年)4月1日廃止予定。 |
広島県 | 宇品線 | 全区間 (広島〜上大河間) |
2.4 | 利用者減少と国道2号線新広島バイパス建設に伴い1966年(昭和41年)12月20日上大河(かみおおこう)〜宇品間の旅客営業廃止(この時をもって存続区間のダイヤが市販の時刻表に載らなくなる)。広島〜上大河間の旅客営業も1972年(昭和47年)4月1日廃止。その後貨物線として存続するがそれも1986年(昭和61年)10月1日廃止。旅客営業を行っていた頃には営業係数(100円を稼ぐのにどのくらいの費用がかかるかを示した数値。100以下なら黒字、100以上なら赤字となる)が日本国有鉄道が経営する鉄道路線で最悪になったこともある。 |
可部線 | 可部〜加計間 | 32.0 | 2003年(平成15年)12月1日廃止(同時に延伸区間の加計〜三段峡間も廃止)。 可部駅(広島市安佐北区可部二丁目)から1.6kmの区間は2017年(平成29年)3月4日に復活しているが、その間にあった河戸(こうど)駅(広島市安佐北区亀山二丁目。1956〜2003)は復活しなかったため復活というよりは新規開業路線と考えたほうが良いと言える。 |
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山口県 | 岩日線 | 全区間 (森ヶ原信号場〜錦町間) |
30.8 | 森ヶ原信号場はJR岩徳線との分岐点にある信号場(旅客上の分岐駅とされているJR岩徳線川西駅〔岩国市川西二丁目〕から1.9kmのところにある)。 河山〜錦町間は1963年(昭和38年)10月1日に開業した、中国地方では1968年(昭和43年)時点で最も歴史の浅い開業区間であった。 1987年(昭和62年)7月25日西日本旅客鉄道から経営分離。 現在は錦川鉄道錦川清流線として営業中。 |
いわゆる赤字83線の取り組みの中で中国地方で廃止されたのは営業係数が日本国有鉄道が経営する鉄道路線で最悪になったこともある宇品線だけであったが、2018年(平成30年)4月1日に予定されている三江線(1968年〔昭和43年〕時点ではまだ全線開業しておらず、開業していた区間は三江南線と三江北線に分かれていた)の廃止をもって結局全路線が廃止または日本国有鉄道→西日本旅客鉄道からの経営分離という形で日本国有鉄道→西日本旅客鉄道の手から離れることになった。
注20:一方で三江線全線開通当時、特急「やくも」号には1往復だけ岡山〜益田間を走る列車があった(1982年〔昭和57年〕7月1日廃止)。岡山〜益田間は6時間もかかったのでなぜ設定したのか疑問に思う方もいたことであろうが、恐らく山陰地方中部(米子・松江・出雲)と山陰地方西部(大田・江津・浜田・益田)を結ぶ列車としての役割も担うことになったことがあったのではないかと思われる。山陰地方中部にある程度の人口があったからこそ大は小を兼ねる長距離列車が設定できたのであり、本文で書いたような岡山〜浜田間を倉敷・福山・府中・三次・江津経由で結ぶ列車はどのように考えても実現は不可能だったと言えるのではないのだろうか。なお、岡山〜浜田間を倉敷・福山・府中・三次・江津経由で結ぶ列車の構想については今は亡き鉄道作家・宮脇俊三(1926〜2003)の「最長片道切符の旅」(1979年〔昭和54年〕新潮社〔新宿区矢来町〕刊)でも出てきているので興味のある方はその本をご覧頂きたい(もっともその本を読んだことがあるのでこういうことが書けるのだが…)。
注21:例としては次に挙げるものがある。
・辞めさせたい社員を追い出し部屋と称するところに押し込める。
・辞めさせたい社員にはろくな仕事を与えない。
・辞めさせたい社員を仕事がほとんどないか能力以上の激務になることが明らかな部署に異動させる。
・根拠も示さずに「協調性やコミュニケーション能力に欠ける」という理由を付けて解雇通告を出す。