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JR三江線並行道路を行く・第4章(2017年〔平成29年〕12月31日公開)

第3章から

口羽駅から伊賀和志駅へ

 口羽駅(邑智郡邑南町下口羽)から伊賀和志駅(三次市作木町伊賀和志)に行くには三次市作木町大津/両国橋東詰交差点(信号機・交差点名標なし)まで来た道を戻らなければならない。すなわち邑南町道→県道294号邑南・美郷線→県道4号甲田・作木線(県道7号浜田・作木線及び県道112号三次・江津線重用)をたどって三次市作木町大津/両国橋東詰交差点(信号機・交差点名標なし)まで戻ることになるわけである。江の川上流から見て両国橋(全長:150m)の次にある、自動車が通れる橋は宇都井大橋(全長:174m)までないし、宇都井大橋まで行くということは伊賀和志駅を飛ばして先に宇都井駅(邑智郡邑南町宇都井)に行く格好になる(無論口羽駅から伊賀和志駅へ行くのに遠回りになる)。もっとも、取材した日は口羽駅付近から宇都井駅付近に通じる県道294号邑南・美郷線は落石のため通行止めになっており、三次市作木地区を経由するか県道7号浜田・作木線→県道292号宇都井・阿須那線を経由するかしないと宇都井駅へは行けなかったのだが…。

県道294号邑南・美郷線の県道標識と通行止めを告知する看板(撮影場所:邑智郡邑南町下口羽)

 三次市作木町大津/両国橋東詰交差点(信号機・交差点名標なし)に戻る道の状況については前章、すなわち第3章の「江平駅から口羽駅へ」で触れたのでここでは割愛するが、邑智郡邑南町下口羽/口羽大橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)から三次市作木町大津/両国橋東詰交差点(信号機・交差点名標なし)まで通る県道4号甲田・作木線(県道7号浜田・作木線及び県道112号三次・江津線重用)は標識で示されていないのでほとんど知られていないのだが三つの県道路線が重用する道でもある。元々は県道112号三次・江津線だけだったのが1960年代中期(注1)に県道7号浜田・作木線が、1994年(平成6年)に県道4号甲田・作木線がそれぞれ通るようになり、現在のような3路線重用区間になったのである。

県道4号甲田・作木線の存在しか示されていない邑智郡邑南町下口羽/口羽大橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)にある案内標識

 両国橋を渡った先にある丁字路、すなわち三次市作木町大津/両国橋東詰交差点(信号機・交差点名標なし)で左折し、国道375号線に入る。三次市作木町大津/両国橋東詰交差点(信号機・交差点名標なし)以南と変わらない、上下2車線の快走路である。
 ところで、この辺りの国道375号線を通っている時に注目して頂きたいものがある。それは三次市作木町大津/両国橋東詰交差点(信号機・交差点名標なし)の手前に設置されている案内標識(下の写真。下の写真は上り線〔三次市中心部方面〕用である)であるが、あることに気付かないであろうか。

 案内標識に記される邑南・口羽方面への道の路線番号は県道4号甲田・作木線の「4」になるはずなのだが、なぜか県道7号浜田・作木線の「7」になっている点である。まあこれでも間違いではないのだが、実はこれが広島県における県道7号浜田・作木線の存在を示す唯一の物件になっているのである。前にも記したように県道7号浜田・作木線は県道4号甲田・作木線と邑智郡邑南町下口羽/口羽大橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)三次市作木町大津/両国橋東詰交差点(終点。信号機・交差点名標なし)間で重用することになったため広島県内に単独区間を一切持たない路線になったのだが、それから二十数年経った今も路線番号は修正がなされないままでいるのである。それをどのようにとるかは人それぞれであるが、私としてはこのままでも良いのではないかと思っているところである。できることなら県道7号浜田・作木線だけでなく県道4号甲田・作木線と県道112号三次・江津線の存在も示して頂きたいものであるが、それは無理と言うものなのだろうか。
 さて、三次市作木町大津/両国橋東詰交差点(信号機・交差点名標なし)から再び国道375号線を走ることになったのだが、500mほど進んだところにある三次市作木町大津/井手平西交差点(信号機・交差点名標なし)で国道375号線とはお別れし、江の川右岸に沿って延びる三次市道(国道375号線旧道)を通ることになる。国道375号線の旧道と言えばすれ違いが困難な狭い道を思い浮かべる方が多いかもしれないのだが、三次市作木町大津/井手平西交差点(信号機・交差点名標なし)からの三次市道(国道375号線旧道)は中央線こそないが普通自動車同士のすれ違いなら難渋しない道である。三次市作木町大津/井手平西交差点(信号機・交差点名標なし)で別れた国道375号線は高規格な道になっているのになぜ旧道も普通自動車同士のすれ違いなら難渋しない道に整備するのか疑問に思う方もいるかもしれないのだが、どうやら浸水対策で嵩(かさ)上げ工事をしたようである。

 さて、三次市作木町大津/井手平西交差点(信号機・交差点名標なし)から1kmほど進んだところ、すなわち三次市作木町伊賀和志/上原東交差点(信号機・交差点名標なし)で道は二手に分かれる。右に分かれる道は山裾を通る狭い道であり、左に分かれる道は江の川右岸土手に沿って延びる上下2車線の道である。どちらも国道375号線の旧道(右の道→左の道と変遷)なのだが、伊賀和志駅に行くには右の道に入ったほうが近い。
 ところで、この三次市作木町伊賀和志/上原東交差点(信号機・交差点名標なし)からは江の川を渡る三江線の第四江川橋梁が見えるのだが、その大きさには驚かされる。江の川に加えて江の川右岸土手、更に三次市作木町伊賀和志/上原東交差点(信号機・交差点名標なし)から江の川右岸に延びる上下2車線の道を跨いでいるのである(下の写真)。しかも橋梁の形式は上り方向(三次→江津)では初めてのトラス橋である。この橋梁で三江線は上り方向に進んだ場合島根県から広島県に戻ることになる。

 

 また、この辺りには面白い物件が一つある。三次市作木町伊賀和志/上原東交差点(信号機・交差点名標なし)から江の川右岸に延びる上下2車線の道に入ってしばらく走ると進行方向右側に屋根に色違いの瓦で「○○○(カタカナ三文字。恐らく姓名)」と書いた平屋建ての民家があるのである。この民家の住人の私的領域や感情に配慮して写真は掲載しないが、この辺りを通る時はちょっと気にしておいて頂きたい。
 それはさておき、三次市作木町伊賀和志/上原東交差点(信号機・交差点名標なし)
右折し、山裾の狭い道に入る。道の両側には民家が点在しており、昔からの道であることを感じさせる。三江線の下をくぐり、更に進むと三次市作木町伊賀和志/上原西交差点(信号機・交差点名標なし)で左側から来た道に鋭角に刺さる格好で合流する。その道をしばらく進むと三江線の高架橋が前方に見えてくるのだが、その手前にある丁字路、すなわち三次市作木町伊賀和志/天神橋東詰交差点(信号機・交差点名標なし)で左折する。三次市作木町伊賀和志/天神橋東詰交差点(信号機・交差点名標なし)から200mほど進むと伊賀和志駅のプラットホームが右前方に見えてくる。

伊賀和志駅(いかわしえき)

伊賀和志駅のプラットホームと待合所

伊賀和志駅の駅名標

三江線活性化協議会が設置した看板。伊賀和志駅の愛称は鈴合せとなっている。

伊賀和志駅のデータ

項目 記事
所在地 三次市作木町伊賀和志
駅名の由来 駅がある大字の名前。
開業年月日 1975年(昭和50年)8月31日
接続鉄道路線 なし
駅構内にあるもの なし(プラットホームに待合所があるだけ)
プラットホームの形式 単式ホームで北側を使用している。
起点または終点からの距離
(営業キロ)
起点(江津)から78.2km
終点(三次)から29.9km
前後の駅からの距離
(営業キロ)
(下り線)宇都井駅から3.4km
(上り線)口羽駅から1.5km
JR三江線の列車の発車・到着時刻
(2017年〔平成29年〕3月4日現在)
(下り列車)
421D…午前6時32分(浜原発三次行)
423D…午前8時20分(江津発三次行)
429D…午後5時43分(江津発三次行)
433D…午後7時38分(浜原発三次行)
(上り列車)
422D…午前7時8分(三次発浜田行)
424D…午前11時3分(三次発石見川本行)
432D…午後6時3分(三次発浜原行)
436D…午後8時36分(三次発浜原行)
付近にある主要施設 伊賀和志集会所
さくぎ郷土芸能伝承館
付近にある名所・旧跡・自然 江の川
天神川
ブッポウソウ観察小屋
伊賀和志天満宮
蓮光寺
付近を通る国道路線
または県道路線
国道375号線
※伊賀和志駅の北東約700mのところを通っている。かつては駅のすぐ南側を通っていたが伊賀和志バイパス開通に伴う旧道処分で三次市に移管され、三次市道になっている。
備考 ・広島県にある鉄道駅で唯一隣接する駅がどちらも他県に属している駅である。つまり、列車で行こうとした場合、他県を通らないと行けない広島県唯一の駅ということになる。

 1963年(昭和38年)6月30日の国鉄三江南線式敷〜口羽間開業をもって三江線の未開業区間は浜原〜口羽間だけとなった。国鉄三江北線の終点・浜原駅(邑智郡美郷町浜原)は江の川の右岸に、三江南線の終点・口羽駅は江の川の左岸にそれぞれ設置されている。更に浜原駅・口羽駅とも島根県にある。ということはずっと島根県を通り、江の川は一度だけ渡るという経路で未開業区間の敷設を進めることは十分可能であった。
 しかし、地図をご覧頂ければうかがえるように三江線の未開業区間、言い換えれば最終開業区間となった浜原〜口羽間は三度江の川を渡り、なおかつ広島県を経由している。なぜこういう経路になったのか。考えられる理由は次の通りである。
・通過が予想される地域の住民などが是非この地に鉄道を通して駅を作ってくれと日本鉄道建設公団(横浜市中区本町六丁目。1964〜2003)に再三陳情したこと。
・日本鉄道建設公団が通過が予想される地域の住民などの陳情を受け入れ、計画線策定に反映させたこと。
・経営悪化が表面化しつつあった日本国有鉄道(国鉄。千代田区丸の内一丁目。1949〜1987)が日本鉄道建設公団に対して「まっすぐ作るよりは○○地区を通してそこに駅を置くほうが良い。ある程度の利用が見込め、増収になる」などと入れ知恵したこと。
 私が日本鉄道建設公団が計画した鉄道路線のいくつかを調べたところ、地形的に建設が容易なところを通らず、遠回りにはなるがある程度の人口のある集落を経由するように計画線を引いている例がいくつもあった
(注2)。その路線と接続する国鉄路線は開業時から利用が低迷し、存廃問題が浮上したものが少なくなかったのだが、そこで思い浮かんだのがこの迂回策は集客目的で企図したことではないかということであった。つまり、少しでも利用されれば開業させた意味があるし廃止も回避できるし日本国有鉄道の増収にも繋がるという考えである。日本鉄道建設公団が発足した頃はモータリゼーションが進展していた時期であり、過疎化が始まっていた時期でもあったから計画された鉄道路線の大多数が開業させても利用が低迷することは目に見えていたのだが、だからと言って計画を放棄することは地域住民の感情を害することになるし、鉄道建設を実現させた有力政治家の顔に泥を塗ることやその政治家の支持を失わせることにもなる。そうでもしないと示しがつかないという考えがあったのだろう。
 しかし、案の定この策のほとんどは日の目を見なかった。日の目を見たのは三江線の浜原〜潮間と石見都賀〜口羽間、JR可部線の上殿〜土居間(注3)ぐらいのものであった。しかも可部線上殿〜土居間は2003年(平成15年)12月1日に廃止され、現在それが明確に見える三江線浜原〜潮間及び石見都賀〜口羽間も来年4月1日の廃止が決まった。結局小手先の努力も水泡に帰してしまったのである。まあ日の目を見なかったものももし開業に至れたとしても可部線や三江線と同じ結果になる可能性が高かったのだが、このように考えると過疎化とモータリゼーションが進展してきた1960年代以降は特に将来性や需要、費用対効果を見極めた上で鉄道を建設して欲しかったという気がする。
 前置きが長くなってしまったのだが、三江線の最終開通区間で上り方向(三次→江津)の最初の駅となる伊賀和志駅はこの迂回策で鉄道路線が通ることになったところに置かれた駅である。伊賀和志駅がある三次市作木町伊賀和志はあまり知られていないことなのだが三次市最西端の地であり、旧備後国最西端の地でもある(注4)。三江線が開通する前は江の川右岸に沿って延びる県道8号大田・三次線(1954〜1976(注5))→国道375号線が大田市や広島市、三次市への唯一の交通路だったのだが、狭隘箇所が多い上に大雨で江の川が増水した時には通れなくなることがあり、交通不便な土地であった。だから三江線が通ることになったことや駅が設置されることが決まったこと、そして紆余曲折を経て開業に至ったことを多くの地域住民が喜んだことは想像に難くない。
 そのことを私が感じ取ったのは伊賀和志駅の真向かいに集会所(伊賀和志集会所)があることである。三江線開通前の三次市作木町伊賀和志地区の中心地がどこにあったのかは知らないのだが、そこに集会所を設置したことは駅を地域の中心として、そして地域の象徴として考えていることの表れと言えよう。

伊賀和志駅から見た伊賀和志集会所(写真上部中央の建物)。取材した日はちょうど伊賀和志天満宮(三次市作木町伊賀和志)の秋祭りが行われていた。

 さて、伊賀和志駅は山裾に作られた駅である。プラットホームへは途中で直角に折れる階段を上っていくことになる。高台にあるプラットホームからは広々とした田園地帯や江の川の土手、そして江の川の向こうにある島根県(邑智郡邑南町)の山々などを眺めることができる。
 更にプラットホームに立ち、下り方面(三次方面)・上り方面(江津方面)を見るとどちらも線路がまっすぐ延び、すぐにトンネルに入る様子がうかがえる。日本鉄道建設公団が建設した、高規格な線路の姿がそこにはある。これで列車が多数通っていれば、高速で駆け抜ける特急列車が設定されていれば何も言うことはないのだが…。

 

伊賀和志駅のプラットホームから撮影した三江線の線路(左:三次方面/右:江津方面)

 そんな伊賀和志駅で目を引いた看板はブッポウソウが見える駅であることを記したものであった(下の写真)。第3章で取り上げた香淀駅(三次市作木町門田〔もんで〕)の待合小屋の壁にも三次市作木地区がブッポウソウという鳥の生息地であることを記した看板があったが、こういう看板があるのを見るといかに三次市作木地区が自然豊かな土地であるかがうかがえる。

 それにしても気になったのは「伊賀和志」という地名である。「伊賀和志」という地名は人名のようにも見える(注6)のだが、なぜこういう地名になったのだろうか。謎と興味は尽きない。

伊賀和志駅から宇都井駅へ

 伊賀和志駅からは三江線に並行する三次市道、すなわちかつては国道375号線だった道を北西に進む。しばらく進むと三次市作木町伊賀和志/下原北交差点(信号機・交差点名標なし)で左側から江の川右岸に沿って延びてきた三次市道(これも国道375号線だった道)と合流する。二つの三次市道、すなわち国道375号線旧道(伊賀和志駅のすぐそばを通る道→江の川右岸に沿っている道と変遷)が合流したところから江の川右岸に沿う道は高度を下げ、江の川との高低差を縮める。ということは大雨で増水した時道が冠水する恐れが高いところとなるわけであるが、そこにはきちんと江の川が増水した時には通行止めになることを予告する看板も置かれている。
 やがて江の川右岸に沿う道は幅も狭まり、すれ違いも難しくなる。どういうわけかアスファルトではなくコンクリートで舗装されている箇所すらある。かつてはこの道が国道375号線だったわけであるが、三次市と大田市を往来するにしてもほとんどの方が避けていたことやある市販の道路地図で「名ばかり国道の中国地方代表」などと揶揄(やゆ)されていたことがよく分かる。そんな道を2kmほど走ると三次市作木町伊賀和志の最西端の集落・柳原に入る。その手前で三次市道は上下2車線になる。この辺りの三次市道、すなわち国道375号線旧道は十数年前に通った時はまだ狭かったように覚えているのだが、やはりここも防災対策の嵩上げの一環として改良されたのだろうか。
 柳原集落を過ぎると三次市道は三江線の第三江川橋梁と交差する。上り方向に進んだ場合最後の広島・島根県境に架かるこの橋梁はトラス橋なのだが、列車が通るのは実はトラスの上である。本来なら列車が通るところとなる下部はかつては一般人が通れるようになっていたのだという(注7)。1991年(平成3年)に下流に宇都井大橋が架かると通れなくなったのだが、近隣に橋がないという致し方ない状況があったとはいえ川面からいくらかの高さがあるところ(しかも歩道の幅は狭い)を渡らざるを得ないという状況はどういうものだったのだろうか。上下二段とも交通路となっている橋、いわゆる二階橋は中国地方にもいくつかある(注8)が、中国山地の中にこういう橋があったことは今まで知らなかったし驚きであった。

宇都井大橋から撮影した第三江川橋梁

 第三江川橋梁の下をくぐると間もなく広島・島根県境を越える。この旅における最後の県境越えとなり、これから終着点の江津駅(江津市江津町)までは島根県をずっと進むことになる。ざっと見積もっても江津駅までの距離は80km近く。まだまだ先は長い。

島根県側から撮影した広島県と三次市の境界標識と第三江川橋梁

 ところで、私は2003年(平成15年)11月16日にこの地を訪れ、写真を撮ったことがある(下の写真)。

 上の写真から2003年(平成15年)秋には既にこの辺りの嵩上げ工事が行われていたことと当時の国道375号線は江の川右岸から少し離れた山裾を通っていたことがうかがえる。この時はいわゆる平成の大合併で見られなくなるであろう国道標識や県道標識、境界標識を撮りに三次市内を回っていただけであり、特に周囲の状況は気にしていなかったのだが、今見返すと本当に貴重なものを撮ったんだなと思うところである。
 広島・島根県境を越えると国道375号線だった道は三次市道から美郷町道上野(かみの)・伊賀和志線に変わる。広島・島根県境を過ぎて200mほどのところで美郷町道上野・伊賀和志線は丁字路、すなわち邑智郡美郷町上野/宇都井大橋東詰交差点(信号機・交差点名標なし)に差しかかる。丁字路の傍らには「←宇都井」という案内標識があり、宇都井駅のある邑智郡邑南町宇都井へは三次方面から来た場合左折して宇都井大橋を渡れば良いことが分かる。

 宇都井大橋を渡るとすぐにある丁字路、すなわち邑智郡邑南町宇都井/宇都井大橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)を右折し、県道294号邑南・美郷線に入る。道幅は全般的に狭く、普通自動車のすれ違いが難しい箇所すらある。そんな道を250mほど走ると邑智郡邑南町宇都井/下郷交差点(信号機・交差点名標なし)という丁字路に突き当たる。そこで左折し、今度は県道292号宇都井・阿須那線に入る。県道292号宇都井・阿須那線に入って100mほど進んだところの進行方向左側に宇都井駅の入口はある。

宇都井駅(うづいえき)

邑智郡邑南町宇都井/下郷交差点(信号機・交差点名標なし)の近くから撮影した宇都井駅全景

宇都井駅の階段塔とその入口

宇都井駅の駅名標

 

三江線活性化協議会が設置した看板。宇都井駅の愛称は塵倫となっている。

宇都井駅のデータ

項目 記事
所在地 邑智郡邑南町宇都井
駅名の由来 駅のある大字の名前。
開業年月日 1975年(昭和50年)8月31日
接続鉄道路線 なし
駅構内にあるもの なし(プラットホームに待合所があるだけ)
プラットホームの形式 単式ホームで南側を使用している。
起点または終点からの距離
(営業キロ)
起点(江津)から74.8km
終点(三次)から33.3km
前後の駅からの距離
(営業キロ)
(下り線)石見都賀駅から6.4km
(上り線)伊賀和志駅から3.4km
JR三江線の列車の発車・到着時刻
(2017年〔平成29年〕3月4日現在)
(下り列車)
421D…午前6時27分(浜原発三次行)
423D…午前8時14分(江津発三次行)
429D…午後5時37分(江津発三次行)
433D…午後7時32分(浜原発三次行)
(上り列車)
422D…午前7時12分(三次発浜田行)
424D…午前11時9分(三次発石見川本行)
432D…午後6時9分(三次発浜原行)
436D…午後8時41分(三次発浜原行)
付近にある主要施設 なし
付近にある名所・旧跡・自然 宇都井谷川
江の川
服部の桜
付近を通る国道路線
または県道路線
県道292号宇都井・阿須那線
県道294号邑南・美郷線
※県道294号邑南・美郷線は当駅の100mほど北方を通っている。
備考 ・全国的にも珍しい高い高架橋の上に設置された駅として知られる。
・2010年(平成22年)から毎年11月下旬に駅とその前後の高架橋をイルミネーションで飾る企画が実施されている(2017年〔平成29年〕も11月25〜26日に開催された。三江線が廃止された後もこの企画が行われるかどうかは不明)。

 伊賀和志駅のある三次市作木町伊賀和志もそうだが、宇都井駅のある邑智郡邑南町宇都井も交通不便な土地であった。三江線浜原〜口羽間が開業した当時宇都井地区を通る県道路線としては県道111号都賀・高宮線(1972〜1994)と県道292号宇都井・阿須那線があったがいずれも改良は進んでいなかったし、江の川右岸を通る国道375号線に出るにも江の川には橋がなかったために県道111号都賀・高宮線を何kmも走らなければならなかった。だから江の川に沿って鉄道路線が敷設されることが決まった時は「是非この地区を通して欲しい」とか「通すだけでなく駅も設けて欲しい」という声がいくつも上がったことは想像に難くない。
 しかし、邑智郡邑南町宇都井付近の三江線は江の川の増水による災害に遭いにくいようにしたためか高い高架橋で建設されることになった。記すまでもなく駅を置くことにしたところだけ高架を低くすることはできない。その結果高い高架橋の上に設置されることになったのが宇都井駅であった。三江線浜原〜口羽間の建設が行われていた頃既に三江線沿線地域の高齢化や過疎化は進んでいたのだから地域住民が利用しやすいようにすること(エレヴェーターなどの昇降機を設置すること)が考えられても良かったのだが、日本国有鉄道側が利用が見込めないところにそういうものは設置できないと考えたのかそういうことは一切顧みられることはなく、利用者は116段もある階段を通るしか方法はなくなったのである。まあ最近開業した鉄道の駅でも高齢者や障害者が利用しにくいところはいくつもある(注9)のだが、このように考えるとこれで良いのかなと考えたくなってしまう。
 それはさておき、宇都井駅は高い高架橋の上にプラットホームと待合所があることやそこに行くには116段もある階段を通らなければならないことで有名になった駅である。早速階段を上ってプラットホームに行くことにする。
 宇都井駅のプラットホームへの階段は10段ごとに踊り場があり、最後、すなわち11箇所目の踊り場を過ぎたところから待合所までは6段となっている(つまり10段×11+6段=116段で構成されているということ)。だから階段塔の入口からの段数を数えることはたやすい。しかも入口と踊り場には残りの段数を記したものが掲示されている。それを示したのが下の表となる。

段数/
残り段数
残り段数を記した
掲示物の写真
備考
0/116 ここだけは地元の小学生が書いたものではないものが掲げられている。
10/106 ここからは地元の小学生が作成したものになっている。
残り段数を記した掲示物の右下にある写真は藤掛城跡(邑智郡邑南町木須田)。
20/96 残り段数を記した掲示物の右下にある写真は賀茂神社(邑智郡邑南町阿須那)。
30/86 残り段数を記した掲示物の右下にある写真は野伏原古墳(邑智郡邑南町雪田)。
40/76 残り段数を記した掲示物の右下にある写真は長源寺(邑智郡邑南町布施)のしだれ桜。
※邑智郡邑南町布施はいわゆる平成の大合併以前は邑智郡瑞穂町(1957〜2004)だった地域にある。
50/66 残り段数を記した掲示物の右下にある写真は軍原の腹切岩(邑智郡邑南町阿須那)。
60/56 (なし) なぜかここだけはない。理由は不明。
70/46 残り段数を記した掲示物の右下にある写真は邑南町立阿須那小学校(邑智郡邑南町阿須那)。
80/36 残り段数を記した掲示物の右下にある写真は邑智郡邑南町戸河内で見られるヒキガエルの卵。
90/26 残り段数を記した掲示物の右下にある写真は邑智郡邑南町雪田で活動している神楽団。
100/16 残り段数を記した掲示物の右下にある写真は邑南町立羽須美中学校(邑智郡邑南町阿須那)。
110/6 残り段数を記した掲示物の右下にある写真は西蓮寺(邑智郡邑南町阿須那)の山門。

 116段もある階段を上るのは大変だが、地元の小学生が作った、残り段数を記した掲示物には地域の史跡や名物などの写真も載せられている。こういうものがあると階段を上るのも苦にならなくなる(そうではないと思う方もいるかもしれないが…)。
 そして階段を上り切り、待合所に着く。待合所の壁にも地元の小学生が作った掲示物がある(下の写真)。宇都井駅は今は亡き邑智郡羽須美村(1957〜2004)の前身の一つである邑智郡阿須那村(1889〜1957)だった地域で構成される邑智郡邑南町阿須那地区(邑智郡邑南町のうちの阿須那・今井・宇都井・木須田・戸河内・雪田)にある唯一の鉄道駅なのだが、宇都井駅を地域の象徴としてとらえていることが感じ取れる。

 

 待合所の引き戸を開けてプラットホームに出る。高い高架橋の上にプラットホームがあるので眺望は良い。

宇都井駅プラットホームから南方を望む

宇都井駅プラットホームから北方を望む

 宇都井駅のプラットホームから線路を見る。どちらもすぐにトンネルに入っているのが見える。改めて宇都井駅が山と山との狭い谷間にあることと日本鉄道建設公団が建設した線路が高規格であることを認識させられる。

 

宇都井駅のプラットホームから撮影した三江線の線路(左:三次方面/右:江津方面)

 この宇都井駅周辺では2010年(平成22年)から毎年11月下旬に駅とその前後の高架橋をイルミネーションで飾る企画が実施されており、階段塔の入口にも開催することを知らせるポスターが貼られていた(下の写真)。(本ページを公開した時点では既に終わっているのだが)今年、すなわち2017年(平成29年)は宇都井駅を列車が通る最後の年になることからこの企画は今年で最後になる可能性が高いのだが、三江線廃止後は階段塔や待合所、プラットホームへの立ち入りはできなくなるものの駅周辺の高架橋は当分残される可能性が高いこと(取り壊すにはかなりの費用がかかるだろうし…)を考えると何らかの活用策が考えられても良いのでは…という気がする。ただ、鉄道廃止後の地域の衰退も気になるところなのだが…。

宇都井駅から石見都賀駅へ

 宇都井駅から石見都賀駅(邑智郡美郷町都賀本郷)に行くにはまず来た道を邑智郡邑南町宇都井/下郷交差点(信号機・交差点名標なし)まで戻り、そこで直進して江の川左岸に沿って延びる県道294号邑南・美郷線を通ることになる。この県道294号邑南・美郷線はほとんどが江の川左岸に沿っているのだが、川のすぐ近くまで山が迫っているところを通っているところが多く、改良は進んでいないし、異常気象時通行規制区間に指定されているところもある。ちなみに「口羽駅から伊賀和志駅へ」で触れた、落石による通行止め箇所は異常気象時通行規制区間の中にある。

邑智郡美郷町都賀西付近の県道294号邑南・美郷線

 それなら邑智郡邑南町宇都井/下郷交差点(信号機・交差点名標なし)で右折して県道294号邑南・美郷線を邑智郡邑南町宇都井/宇都井大橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)まで進み、そこで左折して宇都井大橋を渡り、邑智郡美郷町上野/宇都井大橋東詰交差点(信号機・交差点名標なし)で左折して江の川右岸に沿って延びる美郷町道上野・伊賀和志線(国道375号線旧道)を北上したらどうかと思った方もいるかもしれないのだが、江の川左岸に沿って延びる県道294号邑南・美郷線と地形や道路状況は同じである。いずれにせよ邑智郡邑南町羽須美地区と邑智郡美郷町との往来は困難が多く伴い、故にあまり盛んではなかったことがうかがわれる。

邑智郡美郷町上野付近の美郷町道上野・伊賀和志線(国道375号線旧道)

 ところで、江の川右岸に沿って延びる美郷町道上野・伊賀和志線(国道375号線旧道)には各所にこんな標識がある(下の写真)。

 「美郷町上野」と書かれた補助標識だけが残された、何とも奇妙なものであるが、実はこれがこの道がかつて国道375号線だったことを示す物件の一つなのである。かつては補助標識の上に「375」と書かれた国道標識(標識の正式名称は国道番号)が取り付けられていたが作木・大和道路開通(2006年〔平成18年〕5月30日)に伴う旧道処分の際国道標識が取り払われて今見る姿になったようである。この道を通る人は少ないが、これからも当分の間江の川右岸に沿って延びる狭い道が国道だったことを示す物件として残り続け、通る人にこの道は昔国道だったことを伝え続けることであろう。

 それはさておき、宇都井〜石見都賀間で三江線もこの旅もかなりの距離を占める邑智郡美郷町に入ることになる。邑智郡美郷町内における三江線の延長は全体の3分の1を超える約36.4kmであること(竹〜石見都賀間の営業キロ30.8km+地図サイト「MapionBB」のキョリ測を用いて測った邑智郡川本町・邑智郡美郷町境〜竹駅〔邑智郡美郷町乙原〈おんばら〉〕間の距離0.8km+地図サイト「MapionBB」のキョリ測を用いて測った石見都賀駅〜邑智郡美郷町・邑智郡邑南町境間の距離4.8kmの合計。正確な距離は分からないが恐らくこれに近い数値が出ることであろう)や邑智郡美郷町が三江線が通る市町村(島根県…江津市・邑智郡川本町・邑智郡美郷町・邑智郡邑南町、広島県…三次市・安芸高田市)の中で最も多くの駅を擁していること(下表参照)からもそのことはうかがえる。

県名 市区郡町村名 行政区域内に
設置されている駅
備考
島根県 江津市 江津駅
江津本町駅
千金駅
川平駅
川戸駅
田津駅
石見川越駅
鹿賀駅
(以上8駅)
位置関係は江津駅(起点)→江津本町駅→千金駅→川平駅→川戸駅→田津駅→石見川越駅→鹿賀駅→(邑智郡川本町)となっている。
邑智郡川本町 因原駅
石見川本駅
木路原駅
(以上3駅)
位置関係は(江津市)→因原駅→石見川本駅→木路原駅→(邑智郡美郷町)となっている。
邑智郡美郷町 竹駅
乙原駅
石見簗瀬駅
明塚駅
粕淵駅
浜原駅
沢谷駅
潮駅
石見松原駅
石見都賀駅
(以上10駅)
位置関係は(邑智郡川本町)→竹駅→乙原駅→石見簗瀬駅→明塚駅→粕淵駅→浜原駅→沢谷駅→潮駅→石見松原駅→石見都賀駅→(邑智郡邑南町)となっている。
邑智郡邑南町 宇都井駅
口羽駅
江平駅
作木口駅
(以上4駅)
位置関係は(邑智郡美郷町)→宇都井駅→(広島県〔三次市〕)→口羽駅→江平駅→作木口駅→(広島県〔三次市〕)となっている。
広島県 三次市 伊賀和志駅
香淀駅
長谷駅
粟屋駅
尾関山駅
三次駅
(以上6駅)
位置関係は(島根県〔邑智郡邑南町〕)→伊賀和志駅→(島根県〔邑智郡邑南町〕)→香淀駅→(安芸高田市)→長谷駅→粟屋駅→尾関山駅→三次駅(終点)となっている。
安芸高田市 式敷駅
信木駅
所木駅
船佐駅
(以上4駅)
位置関係は(三次市)→式敷駅→信木駅→所木駅→船佐駅→(三次市)となっている。

 三江線の全行程のうちの3分の1を占める邑智郡美郷町の始まりは三江線は第二角谷トンネルの中、三江線並行道路となる県道294号邑南・美郷線は江の川左岸に沿って延びる狭い道である。邑智郡美郷町に入ってしばらくの間は県道294号邑南・美郷線は進行方向右側は江の川、進行方向左側は山という、地形が厳しいところを通り抜けていく。人家は見当たらない。やがて西方の山々をトンネルで通過していた三江線が第二江川橋梁で県道294号邑南・美郷線と江の川を跨いで江の川右岸に移っていく。

第二江川橋梁(江の川右岸の橋梁のすぐ北側からから撮影したもの)

 三江線をくぐった県道294号邑南・美郷線は間もなく江の川とともにほぼ直角に折れて向きを南南東から東北東に変える。東北東に進むところでは江の川の向こうに三江線の高架橋を眺められるところもある。この辺りの江の川は流れが緩やかなので川面に映る列車を撮ることも可能である。

県道294号邑南・美郷線から見た三江線の高架橋

 やがて県道294号邑南・美郷線は開けた場所に出る。人家も見られるようになり、いわゆる平成の大合併で消滅した邑智郡大和村(1957〜2004)の中心部が近くなってきたことを感じさせる。進行方向右前方には二つの赤いアーチが連なる都賀大橋(全長:175.0m)が見えてくる。その都賀大橋のたもと、すなわち邑智郡美郷町都賀西/都賀大橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)が県道294号邑南・美郷線の終点となる。
 邑智郡美郷町都賀西/都賀大橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)で右折して県道55号邑南・飯南線に入り、都賀大橋を渡る。都賀大橋を渡り終えるとすぐに丁字路、すなわち邑智郡美郷町都賀本郷/都賀大橋東詰交差点(信号機・交差点名標なし)に突き当たる。ここで邑智郡邑南町宇都井/下郷交差点(信号機・交差点名標なし)で別れた江の川右岸ルート(宇都井大橋を渡り、江の川右岸に沿って北上する経路)と合流する。江の川右岸ルートも県道294号邑南・美郷線や邑南町道、美郷町道上野・伊賀和志線の部分については改良が進んでいないが、邑智郡美郷町上野/作木・大和道路北口交差点(信号機・交差点名標なし)から通る国道375号線は改良が終わっており、快適に走れるようになっている。改良率から考えれば江の川右岸ルートのほうに分があると言えるのだが、いずれにせよ宇都井駅から石見都賀駅への移動は狭隘箇所をずっと通ることを覚悟しなければならない。
 さて、邑智郡美郷町都賀本郷/都賀大橋東詰交差点(信号機・交差点名標なし)からは国道375号線(県道55号邑南・飯南線重用)を通る。快適な上下2車線の道なのだが、200mほど走ると押しボタン式信号機がある(下の写真。消えているように見えるがきちんと黄色の灯火が点滅している)。実はこの信号機、すなわち邑智郡美郷町都賀本郷/桐場組西交差点(交差点名標なし)が国道375号線を下り方向(呉・東広島・三次→大田)に走った場合、島根県で最初の信号機になるのだが、石見都賀駅へはこの邑智郡美郷町都賀本郷/桐場組西交差点(交差点名標なし)から右に分かれる道に入ることになる。恐らく邑智郡美郷町都賀本郷/桐場組西交差点(交差点名標なし)から右に分かれる道は県道8号大田・三次線(1955〜1977)→国道375号線の旧道だったものと思われる。

 集落の中の狭い道を600mほど進むと右側に「山陰中央新報」と記された縦長の看板が見えてくる。その先にある十字路、すなわち邑智郡美郷町都賀本郷/町組西交差点(信号機・交差点名標なし)で右折し、緩やかな坂を数十m上ると三江線のガードの手前に石見都賀駅(西口)駅前広場の入口がある。そこで左折すると石見都賀駅の(西口)駅前広場に着く。

石見都賀駅(いわみつがえき)

石見都賀駅の入口。プラットホームへは途中で直角に折れる地下道を通ることになる。

石見都賀駅の駅名標

三江線活性化協議会が設置した看板。石見都賀駅の愛称は髪掛けの松となっている。

石見都賀駅のデータ

項目 記事
所在地 邑智郡美郷町都賀本郷
駅名の由来 駅がある地域の名前。
※駅がある辺りは1957年(昭和32年)3月9日まで邑智郡都賀村(行政区域は現在の邑智郡美郷町上野・都賀西・都賀本郷。1889〜1957)であった。そのことから駅名が採られた可能性が高い。また、令制国名である石見を付けたのは開業当時既に千葉県に都賀駅があったこと
(注10)から混同を回避したかったことが考えられる。
開業年月日 1975年(昭和50年)8月31日
接続鉄道路線 なし
駅構内にあるもの 待合小屋が駅入口の近くにある。
プラットホームの形式 島式ホームで両側を使用している。
起点または終点からの距離
(営業キロ)
起点(江津)から68.4km
終点(三次)から39.7km
前後の駅からの距離
(営業キロ)
(下り線)石見松原駅から5.6km
(上り線)宇都井駅から6.4km
JR三江線の列車の発車・到着時刻
(2017年〔平成29年〕3月4日現在)
(下り列車)
421D…午前6時20分(浜原発三次行)
423D…午前8時7分(江津発三次行)
429D…午後5時30分(江津発三次行)
433D…午後7時25分(浜原発三次行)
(上り列車)
422D…午前7時19分(三次発浜田行)
424D…午前11時16分(三次発石見川本行)
432D…午後6時16分(三次発浜原行)
436D…午後8時49分(三次発浜原行)
付近にある主要施設 本郷自治集会所
美郷町役場大和事務所・都賀公民館
都賀郵便局
美郷町国民健康保険大和診療所
養護老人ホームまほろば大和
付近にある名所・旧跡・自然 江の川
付近を通る国道路線
または県道路線
国道375号線(県道55号邑南・飯南線重用)
備考 ・上り方向(三次→江津)で初めての令制国名を付けた駅である。開業当時既に千葉県に都賀駅があったこと(注10)から令制国名である「石見」を付けたものと思われる。
・三江線最終開業区間で唯一の列車交換可能駅であるが列車交換施設が使われたことはない。
・三江線で唯一プラットホームに行くための地下道がある駅である。
・今は亡き邑智郡大和村(1957〜2004)の代表駅でもあった。

 今は亡き邑智郡大和村は1957年(昭和32年)3月10日に邑智郡都賀村(現在の邑智郡美郷町上野・都賀西・都賀本郷に相当する区域にあった村。1889〜1957)と邑智郡都賀行村(現在の邑智郡美郷町潮村・都賀行・長藤に相当する区域にあった村。1889〜1957)、邑智郡布施村(1889〜1957)のうちの比敷・宮内・村之郷(注11)が統合して発足した自治体である。発足当時村内には江の川右岸に沿って延びる県道8号大田・三次線があったのだが、当時はまだ改良は進んでおらず、三次・江津双方から江の川に沿って延びてくる鉄道の実現は悲願となっていた。
 しかし、三江線の建設は社会情勢に振り回されたことや日本各地で鉄道路線の建設が推進されたことから遅々として進まず、ようやく邑智郡大和村に鉄道が通ったのは1975年(昭和50年)8月31日のことであった。悲願の鉄道開通を邑智郡大和村の住民は大いに喜んだことだろうが、現実はあまりにも厳しいものがあった。それを記すと次の通りになる。
・邑智郡大和村の人口が大きく減ったこと。邑智郡大和村が発足する前の1955年(昭和30年)10月1日実施の国勢調査によると5,700人だったが、三江線全線開業後の1975年(昭和50年)10月1日実施の国勢調査によると2,598人となっており、20年で半分以下にまで減っている。自然災害に何度も見舞われたことや交通が不便だったこと、大都会や工業地帯などの雇用が多くあるところに移住する人が少なくなかったことなどがその主たる理由である。
・三江線全線開業の5ヶ月前の1975年(昭和50年)4月1日に村内随一の幹線道路である県道8号大田・三次線が国道375号線に移行したこと。主要地方道から国道に移行したからすぐに整備が進むというわけではなかったのだが、全線開業しても有用な路線になるかどうか不透明な三江線よりも島根県が管理するが整備・維持の費用に国からの補助が出る国道375号線の整備に期待を寄せる住民が少なくなかったことは想像に難くない。
・日本国有鉄道の経営状況が悪化していたこと。その一因は自動車が普及し、道路や空港の整備が進んでいた1970年代に入っても費用対効果の見込めないところに日本鉄道建設公団が建設した路線を次々と開業させたことにある。中には日本鉄道建設公団が建設した路線の引き取りを渋ったところもあった(注12)のだが、時流を読まず、地域住民や有力政治家の声を退けず、適切な選択を行わなかったことは日本国有鉄道の更なる経営悪化を招く結果になった。
 そういう事情もあってか石見都賀駅は交換施設とプラットホームに通じる地下道を持つにもかかわらず、邑智郡大和村の代表駅であるにもかかわらず駅舎は建てられず、プラットホームに通じる地下道の入口の近くに小さな待合小屋が設けられるにとどまった(下の写真)。無論待合小屋の中には列車の到着を知らせるものがないしプラットホームに通じる地下道の入口までいくらか距離があるからから少々面食らう。

 途中で直角に折れ曲がる暗い地下道を通ってプラットホームに出る。プラットホームは島式で、地下道出口の向かって右側が上り線(江津方面)の乗り場、地下道出口の向かって左側が下り線(三次方面)の乗り場になっている。三江線最終開業区間では唯一列車の交換ができるようになっているのだが、開業から今日に至るまでずっと定期列車がここで行き違いすることはなかったらしい。ならば交換施設を撤去してしまえば良かっただろうとかこうなるのなら最初から交換施設を設けるべきではなかったのではないかというような強硬的なことを言う方もいるかもしれないのだが、浜原〜石見都賀〜口羽間は日本鉄道建設公団が建設した高規格な路線であるし日本鉄道建設公団も利用が低迷することや列車本数が少なくなることを想定して三江線を建設していたわけではない。故にそういうことはできなかったのだろう(注13)

石見都賀駅のプラットホーム。右側が上り線の乗り場、左側が下り線の乗り場になっている。

 ところで、石見都賀駅は三江線の上り方向(三次→江津)で初めての令制国名を付けた駅である。三次駅(三次市十日市南一丁目)からここまでの開業時期は1950年代中期から1970年代中期にかけてだったので一つぐらいは「備後○○」とか「安芸××」とか「石見△△」(注14)という名称の駅があっても不思議ではないのだが、偶然にも混同回避を必要とするものがなかったので設定されなかったのだろう(注15)

石見都賀駅から石見松原駅へ

 石見都賀駅の(西口)駅前広場を右折して出て電話ボックスが南西角にある十字路、すなわち邑智郡美郷町都賀本郷/町組西交差点(信号機・交差点名標なし)を直進する。邑智郡美郷町都賀本郷/町組西交差点(信号機・交差点名標なし)を過ぎると道は江の川右岸土手への上りに差しかかり、高度を稼ぐためか何度かの屈曲を入れて突き当たり、すなわち邑智郡美郷町都賀本郷/大畠石油店前交差点(信号機・交差点名標なし)に到着する。そこで右折して国道375号線(県道55号邑南・飯南線重用)を大田方面に向かう。なお、邑智郡美郷町都賀本郷/大畠石油店前交差点(信号機・交差点名標なし)の脇には美郷町大和事務所への案内看板があるが、もし狭い道はなるべく通りたくないとか石見都賀駅への道が分かりにくいというのであればその看板を目印にすると良い。

石見都賀駅のプラットホームから撮影した邑智郡美郷町都賀本郷/町組西交差点(信号機・交差点名標なし)

石見都賀駅の入口の目印となる美郷町大和事務所の案内看板(写真は三次方面用)

 さて、邑智郡美郷町都賀本郷/大畠石油店前交差点(信号機・交差点名標なし)からの国道375号線(県道55号邑南・飯南線重用)は江の川右岸に沿った快走路である。恐らく邑智郡美郷町都賀本郷/町組西交差点(信号機・交差点名標なし)で交差した美郷町道がかつての国道375号線だったのだろうが集落の中の狭い道である上に拡幅は困難だったために江の川右岸に沿ってバイパスを建設したのであろう。
 国道375号線は江の川支流の塩谷川を新都橋(全長:47.2m)で渡った先にある邑智郡美郷町長藤/大和駐在所前交差点(信号機・交差点名標なし)で飯石郡飯南町赤来地区に通じる県道55号邑南・飯南線と別れると単独区間に戻る。進行方向左側には川本警察署大和駐在所(邑智郡美郷町長藤)に続いて美郷町立大和中学校(邑智郡美郷町長藤)の敷地が広がる。まだ邑智郡美郷町大和地区の中心部が続いていることを感じさせる。
 美郷町立大和中学校の敷地が尽き、しばらく進むと進行方向左側に道の駅グリーンロード大和(邑智郡美郷町長藤)が見えてくる。三次市以北の国道375号線では江の川カヌー公園さくぎ(三次市作木町香淀)や川の駅常清(三次市作木町下作木)とともに数少ない休憩できる施設である。

道の駅グリーンロード大和の看板

 

道の駅グリーンロード大和の建物

 道の駅グリーンロード大和で一息ついて更に北上を続ける。江の川右岸に沿って延びる国道375号線は改良が終わっており、交通量が少ないこともあって快走できる。進行方向左側にはずっと江の川が寄り添っているのだが、この邑智郡美郷町大和地区を通っていて気付くことの一つは江の川に架かる橋が多いことである。この旅で最初に江の川を渡った祝橋から江の川河口直前にある江川橋までの江の川には38の橋(道路橋30橋・鉄道用橋梁8橋)があるのだが、このうち邑智郡美郷町大和地区には何と八つ(鉄道用橋梁1・道路橋7)もある(下表参照)。

(祝橋〜江川橋間にある江の川の橋梁一覧)

※全長は調べられなかったものがあるので記載していない。

※ダムの堰堤や計画中または建設中の橋は掲載していない。

※邑智郡美郷町大和地区に関係する橋については赤太字で記している。

県名 橋梁名 路線名称 架橋地点 備考
右岸側 左岸側
広島県
(8橋)
祝橋 県道112号三次・江津線 三次市三次町 三次市粟屋町
第一可愛川橋梁 JR三江線 三次市三次町 三次市粟屋町
尾関大橋 国道54号線
国道184号線
三次市三次町 三次市粟屋町
唐香橋 安芸高田市道/
三次市道
三次市作木町香淀 安芸高田市高宮町船木
式敷大橋 国道433号線
国道434号線
県道112号三次・江津線
三次市作木町香淀 安芸高田市高宮町佐々部
第二可愛川橋梁 JR三江線 三次市作木町香淀 安芸高田市高宮町佐々部
香淀大橋 安芸高田市道/
三次市道
三次市作木町門田 安芸高田市高宮町川根
第三可愛川橋梁 JR三江線 三次市作木町門田 安芸高田市高宮町川根
島根県/
広島県
(5橋)
三国橋 邑南町道/
三次市道
三次市作木町下作木 邑智郡邑南町上田
丹渡橋 邑南町道/
三次市道
三次市作木町下作木 邑智郡邑南町上田
両国橋 県道4号甲田・作木線
県道7号浜田・作木線
県道112号三次・江津線
三次市作木町大津 邑智郡邑南町下口羽
第四江川橋梁 JR三江線 三次市作木町伊賀和志 邑智郡邑南町下口羽
第三江川橋梁 JR三江線 三次市作木町伊賀和志 邑智郡邑南町宇都井
島根県
(25橋)
宇都井大橋 邑南町道/
美郷町道
邑智郡美郷町上野 邑智郡邑南町宇都井
第二江川橋梁 JR三江線 邑智郡美郷町上野 邑智郡美郷町都賀西
都賀大橋 県道55号邑南・飯南線 邑智郡美郷町都賀本郷 邑智郡美郷町都賀西
大浦橋 美郷町道 邑智郡美郷町長藤 邑智郡美郷町都賀行
大和大橋 美郷町道 邑智郡美郷町長藤 邑智郡美郷町都賀行
高梨大橋 美郷町道 邑智郡美郷町長藤 邑智郡美郷町都賀行
都賀行大橋 県道296号川本・美郷線 邑智郡美郷町長藤 邑智郡美郷町都賀行
信喜橋 美郷町道 邑智郡美郷町潮村 邑智郡美郷町信喜
浜原大橋 美郷町道 邑智郡美郷町浜原 邑智郡美郷町滝原
あけぼの大橋 美郷町道 邑智郡美郷町久保 邑智郡美郷町野井
第一江川橋梁 JR三江線 邑智郡美郷町粕渕 邑智郡美郷町野井
吾郷大橋 県道40号川本・波多線 邑智郡美郷町吾郷 邑智郡美郷町簗瀬
栗原橋 美郷町道 邑智郡美郷町吾郷 邑智郡美郷町簗瀬
みなと橋 美郷町道 邑智郡美郷町港 邑智郡美郷町乙原
川本東大橋 県道31号仁摩・邑南線 邑智郡川本町久座仁 邑智郡川本町川本
川本大橋 県道40号川本・波多線
県道291号別府・川本線
邑智郡川本町谷戸 邑智郡川本町川本
川下橋 国道261号線 邑智郡川本町川下 邑智郡川本町因原
鹿賀大橋 江津市道/
川本町道
邑智郡川本町川下 江津市桜江町鹿賀
川越大橋 江津市道 江津市桜江町大貫 江津市桜江町田津
大貫橋 江津市道 江津市桜江町大貫 江津市桜江町田津
桜江大橋 県道41号桜江・金城線 江津市桜江町谷住郷 江津市桜江町川戸
松川橋 県道221号川平停車場線 江津市松川町長良 江津市川平町南川上
新江川橋 国道9号線江津道路/
江津市道
江津市渡津町 江津市江津町 二階橋で上を国道9号線江津道路が、下を江津市道がそれぞれ通っている。
郷川橋梁 JR山陰本線 江津市渡津町 江津市江津町
江川橋 国道9号線
国道186号線
江津市渡津町 江津市江津町

 邑智郡美郷町大和地区に関係する八つの橋のうち最も新しい大和大橋(全長:133m)を除く七つの橋を大和七橋と称している(注16)のだが、注目すべきはその種類の豊富さである。七つの橋は桁橋(宇都井大橋)とトラス橋(第二江川橋梁)、アーチ橋(都賀大橋・大浦橋・都賀行大橋)、斜張橋(高梨大橋)、吊り橋(信喜〔しき〕橋)に分けられるのだが、海ならともかく河川で短い距離の間にいくつもの種類の橋が見られるところは恐らく他にはないであろう(もしあったら申し訳ないことを書いたことになるのだが…)。
 ではなぜ邑智郡美郷町大和地区の江の川には七つもの道路橋が架けられることになったのか。私は邑智郡大和村発足前に存在した邑智郡都賀村も邑智郡都賀行村も江の川の両岸に行政区域が展開されていたからではないかと考えている。無論邑智郡都賀村と邑智郡都賀行村、邑智郡布施村のうちの比敷・宮内・村之郷(注11)が統合して発足した邑智郡大和村も江の川の両岸に行政区域が展開されることになるわけであるが、村としての一体感を醸成するためにいくつもの道路橋が企図されたのではないのだろうか。そういえば邑智郡都賀村と邑智郡都賀行村、邑智郡布施村のうちの比敷・宮内・村之郷(注11)が統合して発足した自治体の名称は邑智郡大和村であったが、この自治体名に思いが凝縮されていると思うのは私だけであろうか。

 それはさておき、江の川と三江線に沿って延びる快走路となった国道375号線であるが、石見松原駅(邑智郡美郷町長藤)の近くに短いながらも未改良のまま残されている箇所がある(下の写真)。なぜここだけ未改良のままなのか詳しいことは分からないのだが、邑智郡美郷町中心部と邑智郡美郷町大和地区を結ぶ唯一の幹線道路であることを考えると早期の改良が望まれるところである。

 短い未改良箇所を過ぎると間もなく進行方向右側に石見松原駅への案内標識が見えてくる(下の写真)。

 国道375号線を三次方面から進んできた場合はこの案内標識の手前にある丁字路、すなわち邑智郡美郷町長藤/石見松原駅入口交差点(信号機・交差点名標なし)で右折することになるわけであるが、右折後の道はいきなり山の中に入るためにこの先に駅があるのだろうかと不安になってくる。やがて三江線の下をくぐるとすぐにどう考えても左折せざるを得ないところ(直進後の道はけもの道のようで自動車は通れなさそうだった)があり、そこを左に折れると広い石見松原駅の(東口)駅前広場に到着する。

石見松原駅(いわみまつばらえき)

石見松原駅の待合所

石見松原駅の駅名標

三江線活性化協議会が設置した看板。石見松原駅の愛称は戻り橋となっている。

石見松原駅のデータ

項目 記事
所在地 邑智郡美郷町長藤
駅名の由来 駅がある集落の名前。
開業年月日 1975年(昭和50年)8月31日
接続鉄道路線 なし
駅構内にあるもの なし(プラットホームに待合所があるだけ)
プラットホームの形式 単式ホームで西側を使用している。
起点または終点からの距離
(営業キロ)
起点(江津)から62.8km
終点(三次)から45.3km
前後の駅からの距離
(営業キロ)
(下り線)潮駅から3.2km
(上り線)石見都賀駅から5.6km
JR三江線の発車時刻
(2017年〔平成29年〕3月4日現在)
(下り列車)
421D…午前6時13分(浜原発三次行)
423D…午前8時0分(江津発三次行)
429D…午後5時23分(江津発三次行)
433D…午後7時18分(浜原発三次行)
(上り列車)
422D…午前7時26分(三次発浜田行)
424D…午前11時23分(三次発石見川本行)
432D…午後6時23分(三次発浜原行)
436D…午後8時55分(三次発浜原行)
付近にある主要施設 なし
付近にある名所・旧跡・自然 江の川
付近を通る国道路線
または県道路線
国道375号線
備考 ・三江線最終開業区間で唯一小字が駅名に採用された駅である。
令制国名である石見を付けたのは開業当時既に東京都と長崎県に松原駅があったことから混同を回避したかったことが考えられる。

 石見松原駅は邑智郡美郷町長藤にある唯一の鉄道駅である。しかし駅名には駅がある場所の小字が採用された。なぜそうなったのか。私は邑智郡美郷町長藤の範囲が広大なことに理由があるのではないかと考えている。三江線も国道375号線も邑智郡美郷町長藤の通過距離はざっと見積もっても8km近くもあるわけであるが、途中には江の川の近くまで山が迫り、人家のないところもあることを考えると邑智郡美郷町長藤にある唯一の鉄道駅であっても長藤駅という名称にするのはどうかという意見があったことは想像に難くない。
 石見松原駅の近くには江の川の対岸、すなわち邑智郡美郷町都賀行に渡れる都賀行大橋(全長:125m)があることから石見松原駅は邑智郡美郷町長藤だけでなく邑智郡美郷町都賀行に住む方の利用を当て込んで設置されたことが考えられるのだが、難点はやはり国道375号線及び江の川の反対側にプラットホームを設けたことであろう。実は石見松原駅の(東口)駅前広場の北側から国道375号線に出られる道(この道を通ると都賀行大橋への近道にはなるのだが自動車は通れない)があるのだが、どの道を通るにしても灯りのあまりない道を通らなければ石見松原駅は利用できないということになる。現在は日照時間が短い冬になると石見松原駅に停車する列車のうち8本中5本までが暗い時間帯に停車する列車となるのだが、安心して利用できるようにするためにも線路の西側にプラットホームを置き、国道375号線とは階段か坂で結ぶということは考えられなかったのだろうか。

石見松原駅から見た都賀行大橋と国道375号線。線路のすぐ近くを国道375号線が通っていることがよく分かる。

 それはさておき、石見松原駅のプラットホームに立ち、下り方面(三次方面)・上り方面(江津方面)を見るとどちらも線路がまっすぐ延び、すぐにトンネルに入る様子がうかがえる。ここにも日本鉄道建設公団が建設した、高規格な線路の姿がある。これで列車が多数通っていれば、高速で駆け抜ける特急列車が設定されていれば何も言うことはないのだが…。

 

石見松原駅のプラットホームから撮影した三江線の線路(左:三次方面/右:江津方面)

 それにしても石見松原駅がある辺りの小字である松原という地名の由来はどういうものなのであろうか。石見松原駅のプラットホームに立って江の川を見ると江の川までの距離がいくらかあることがうかがえるのだが、そこに昔は松林があってこの辺りを行く人に親しまれていたのだろうか(下の写真)。駅の置かれた状況はどうかと思うものが多いが、そういう想像をするのもまた一興である。

 次章ではようやく中間点に達し、更にかつて三江北線だった区間に入っていくことになる。

第5章に続く

注釈コーナー

注1:「1960年代中期」と書いたのは県道7号浜田・作木線が認定された年が島根県と広島県で異なるからである。広島県で県道7号浜田・作木線が認定されたのは1965年(昭和40年)3月31日のことであった(1965年〔昭和40年〕3月31日広島県告示第259号による)のだが、島根県で県道7号浜田・作木線が認定されたのはそれから1年近く経った1966年(昭和41年)3月29日のことであった(1966年〔昭和41年〕3月29日島根県告示第423号による)。

注2:中国地方における事例は下表の通りである。

※路線名称は建設路線名を記している。

路線名称 概要 備考
南勝線 国鉄倉吉線山守駅(倉吉市関金町堀。1958〜1985)とJR姫新線中国勝山駅(真庭市勝山)を結ぶ目的で計画された路線。真庭市勝山地区からほぼまっすぐに北上する国道313号線に並行して計画されていたが、真庭市湯原地区からは国道313号線を外れて米子自動車道→県道322号中福田・湯原線→県道324号東茅部・下福田線と並行して真庭市八束地区に出る経路が選択された。真庭市湯原地区からも引き続き国道313号線に並行させたほうが建設距離が短くなるのだが、ある程度の人口のある集落があまりないことや岡山県を代表する観光地の一つである蒜山(ひるぜん)高原を経由させたかったこと、国道313号線と完全に並行させた場合、国道313号線から外れたところにある山守駅までの経路選定が難しくなることなどが前記経路になった理由と思われる。 起工式こそ開催されたが本格的に着手されることはなく、日本国有鉄道の経営再建の過程で計画は白紙撤回された(よって遺構はない)。また、山守駅で接続することになっていた倉吉線も1985年(昭和60年)4月1日に廃止されている。
なお、南勝線という名称は東伯郡南谷村(1889〜1953)と真庭郡勝山町(1896〜2005)を結ぶことから付けられたものである。東伯郡南谷村には倉吉線関金駅(倉吉市関金町大鳥居。1941〜1985)が、真庭郡勝山町には中国勝山駅がそれぞれあったことから関金駅と中国勝山駅を結ぶ路線として東伯郡南谷村が消滅する前までに企図され、関金〜山守間だけは1958年(昭和33年)12月20日に開業したことで日の目を見たと私は解釈している(現に1958年〔昭和33年〕4月25日鳥取県告示第177号で「南勝線」という単語が見られる)。
本郷線
今福線
中国地方最大の都市・広島市と島根県西部の港湾都市・浜田市を結ぶ目的で計画された陰陽連絡鉄道路線の一部を構成する路線で、1954年(昭和29年)までに横川〜加計(かけ)間が開業していた。JR可部線加計駅(山県郡安芸太田町加計。1954〜2003)とJR山陰本線浜田駅(浜田市浅井町)を結ぶ鉄道路線を考えた場合、国道186号線に並行して敷設したほうが建設距離が短くなるのだが、加計〜浜田間の経路は迂回に迂回を重ねるというものになった。その状況を記すと次の通りになる。
・加計〜浜田間の最短経路上にはない山県郡安芸太田町筒賀地区や山県郡安芸太田町戸河内地区の中心部を通っている。
・可部線上殿〜土居間は地形的にはまっすぐに敷設しても何の問題もないところだったのだが、山県郡安芸太田町筒賀地区中心部に近いところを経由するようになっている。
・国道186号線の沿線にはない浜田市旭地区や浜田市金城地区の中心部を通っている。
このような迂回に迂回を重ねる経路になった背景にはある程度の人口のある集落を通したかったことやそのことを強く望む地方自治体が多かったこと、広島県を代表する観光地の一つである三段峡の近くを通したかったことなどが考えられる。
広島県側は1969年(昭和44年)7月27日に加計〜三段峡間が開業した。加計〜三段峡間の建設路線名称は本郷線(本郷とは山県郡安芸太田町戸河内地区の中心部の地名)だったが、可部線に編入された。しかし、沿線の過疎化が進展したことや道路整備が進んだことなどにより利用は低迷し、2003年(平成15年)12月1日に可部〜三段峡間は廃止された(但し2017年〔平成29年〕3月4日に可部駅〔広島市安佐北区可部二丁目〕から1.6kmの部分は復活を果たしているが、廃止前の駅―途中には河戸〔こうど〕駅〔広島市安佐北区亀山二丁目。1956〜2003〕しかなかったのだが―を一切継承していないので新規開業路線と見なしたほうが良いものと思われる)。
三段峡〜浜田間の建設は一部で行われたが、日本国有鉄道の経営再建の過程で計画は白紙撤回された。現在でも沿線にはいくつか遺構が残っている。
なお、今福線という名称は浜田市金城地区の中心部の地名から付けられたものである。昭和時代初頭にそこからJR山陰本線下府(しもこう)駅(浜田市下府町)まで鉄道が建設されたのだが、第二次世界大戦の影響で開業に至らなかった。この路線を活用していれば話は変わっていたのかもしれないが、平成時代初頭に早くも広島市と浜田市を結ぶ高速道路が開通したことや沿線の過疎化が進展していたこと、広島市と山陰地方を結ぶ優等列車を通すには線路規格が低いことなどを考えると三江線と同じ運命をたどった可能性が高い。
三江線 広島県北部の中心都市・三次市と島根県西部の工業都市・江津市を結ぶ鉄道路線のうち最後まで未開業で残った浜原〜口羽間の建設路線名。本文で記した通り浜原駅は江の川右岸に、口羽駅は江の川左岸にそれぞれあることや浜原駅・口羽駅とも島根県にあることから江の川は一度渡るだけ、島根県内だけを通るという条件で建設することは不可能ではなかったのだが、2箇所で迂回敷設が見られる。それは次の通りである。
・浜原〜潮間。江の川や国道375号線に沿って敷設することは不可能ではなかったのだが、東方に迂回して敷設している。迂回区間内には沢谷駅(邑智郡美郷町石原)がある。
・石見都賀〜口羽間。江の川を一度だけ渡るという経路で敷設することは不可能ではなかったのだが、ある程度の人口のある宇都井や伊賀和志の集落を経由する関係上江の川を三度渡る経路になっている。しかも途中で島根・広島県境を二度越える格好になっている。
このような経路になった背景にはある程度の人口のある集落を通したかったことが考えられる。
浜原〜口羽間は1975年(昭和50年)8月31日に開業した。その際三次〜口羽間の三江南線、江津〜浜原間の三江北線を統合し、江津〜三次間の三江線が発足した。なお、江津〜浜原間の鉄道路線の名称は三江南線が開業するまでは三江線だった。
しかし、全線開通時点で沿線の過疎化が進展していたことや陰陽連絡鉄道としては有用な存在になり得なかったことから利用は低迷した。並行する道路の整備が進んでいないことを理由に日本国有鉄道の経営再建の過程での廃止は免れたが、道路整備が進んだことや災害に遭い、長期間不通になることが度々あったこと、施設が老朽化したこと、そして観光振興で活性化を図ろうとしても難しい面が多々あったことなどから西日本旅客鉄道(JR西日本。大阪市北区芝田二丁目)は遂に2018年(平成30年)4月1日をもって廃止することを決めた。三江線の廃止により日本国有鉄道が1968年(昭和43年)に使命を終えたとして廃止対象に挙げた中国地方の国鉄路線は全て日本国有鉄道→西日本旅客鉄道の手から離れることになる(この件については第3章の注18・注19で触れているので併せてご覧頂きたい)。
岩日北線 錦川鉄道錦川清流線錦町駅(岩国市錦町広瀬)とJR山口線日原駅(鹿足〔かのあし〕郡津和野町枕瀬)を結ぶ目的で計画された路線。錦町〜日原間を最短経路で結ぶ場合、国道187号線に並行して敷設したほうが良いわけであるが、錦町駅からは国道434号線に並行して岩国市錦町須川まで進み、そこから西に向きを変えて島根県鹿足郡吉賀町六日市地区中心部に向かう経路が採用された。このような経路になった背景にはある程度の人口のある集落を通したかったことや錦町駅付近の標高が100mほどなのに対して鹿足郡吉賀町六日市地区中心部の標高は300mほどになっており、最短距離で敷設した場合かなりの急勾配になる可能性があったことが考えられる。 錦町駅から鹿足郡吉賀町六日市地区中心部まではほぼ完成したが、開業に至らず、またJR岩日線を継承した錦川鉄道も延伸開業には消極的だったため放置されることになった。しかし、一部分については観光目的で活用されている。
鹿足郡吉賀町六日市地区中心部から日原駅にかけての区間は長大トンネルをいくつも掘る一方で駅は七日市(なぬかいち)・柿木(かきのき)の二つしか置かないことにしていたという。鹿足郡吉賀町六日市地区中心部以南は長大トンネルはあるけれど大きく迂回して駅はいくつか置く予定だったのに対し、鹿足郡吉賀町六日市地区中心部以北は長大トンネルをいくつも掘って短絡させる一方で駅は必要最小限しか置かないというチグハグぶりが気になるが、道路整備が進んだことや過疎化が進展したこと、広島市と島根県西部の中心都市・益田市を最短経路で結んでいないことなどを考えればもし開業に至れたとしても陰陽連絡鉄道路線としては有用たり得なかったのではないのだろうか。
なお、錦町駅の「錦町」は「にしきちょう」と読むが、地名としての錦町は「にしきまち」と読む。かつては地名としての錦町も「にしきちょう」と読んでいたのだが、2006年(平成18年)3月20日に岩国市と、和木町以外の玖珂郡に属する町村(玖珂・周東・錦・美川・美和・由宇各町及び本郷村)が統合して改めて岩国市が発足した際に「にしきまち」と読むように変更している。

注3:JR可部線上殿〜土居間で迂回敷設が実施された理由は注2でも記したが山県郡筒賀村(1889〜2004)の中心部に近いところを通すためである。

注4:旧備後国の最東端・最南端・最北端は次の通りである。
・最東端…福山市走島町
・最南端…尾道市因島三庄町
・最北端…庄原市高野町和南原

注5:ここでは広島県側の存続期間を記している。なお、県道8号大田・三次線の島根県側の存続期間は本文でも記している通り1955〜1977年(昭和30〜52年)である。

注6:接頭語(新・東・西・南・北など)や接尾語(町・東・西・南・北など)などがない状態の、人名(フルネーム)のように見える地名で有名なものとしては舞鶴市にある「岡田由里」「河辺由里」「高野由里」がある。また、出雲市内の国道9号線出雲バイパスには「中野美保」という人名のように見える交差点がある(但し出雲市の町名には「中野美保北」「中野美保南」はあるが「中野美保」そのものはない)。

出雲市にある中野美保交差点の交差点名標

注7:私がそのことを知った契機は2017年(平成29年)9月28日放送のBSジャパン「空から日本を見てみよう+(プラス)」である。「空から日本を見てみよう+」では2017年(平成29年)9月21日放送分と2017年(平成29年)9月28日放送分で三江線沿線を取り上げており、2017年(平成29年)9月28日放送分はその後編に当たる(記すまでもないが下り方向〔江津→三次〕に進んで沿線上空から見えた珍しいものを紹介している)。

注8:中国地方にある著名な二階橋の事例は次の通りである。
・新江川橋(全長:378.3m。上段:国道9号線江津道路/下段:江津市道)
・下津井瀬戸大橋(全長:1,400m。上段:瀬戸中央自動車道/下段:JR本四備讃線〔愛称:瀬戸大橋線〕)
・因島大橋(全長:1,270m。上段:西瀬戸自動車道〔愛称:瀬戸内しまなみ海道〕/下段:県道466号向島・因島・瀬戸田自転車道線)

注9:例えば井原鉄道井原線湯野駅(福山市神辺町湯野)は1999年(平成11年)1月11日に開業したのだが、列車を利用するには42段ある階段を通らなければならない。しかも無人駅であるため介助が必要な方は他の人が同伴しないと列車を利用できない。

湯野駅のプラットホームに至る階段

注10:千葉県の都賀駅、すなわちJR総武本線・千葉都市モノレール2号線都賀駅(千葉市若葉区都賀三丁目)が開業したのは1965年(昭和40年)9月30日のことである。
※都賀駅は仮乗降場として開業したが1968年(昭和43年)3月28日に正式な駅となった。また、千葉都市モノレール2号線が乗り入れるようになったのは1988年(昭和63年)3月28日のことである。

注11:邑智郡布施村は比敷・布施・宮内・村之郷・八色石の五つの大字で構成される自治体だった。邑智郡大和村の一部にならなかった部分、すなわち邑智郡布施村布施・八色石は1957年(昭和32年)3月10日に邑智郡出羽村(1889〜1957)に編入されている。これにより邑智郡布施村は消滅した。
※邑智郡出羽村は邑智郡布施村布施・八色石編入の約5ヶ月後の1957年(昭和32年)8月1日に改称した上で町制施行し、邑智郡瑞穂町(1957〜2004)に移行している。邑智郡瑞穂町は2004年(平成16年)10月1日に邑智郡石見町(1955〜2004)や邑智郡羽須美村と統合して邑智郡邑南町に移行しており、現在布施と八色石は邑智郡邑南町の大字として存続している。

注12:北海道にあった国鉄白糠線のうちの上茶路〜北進間が挙げられる。上茶路〜北進間は1970年(昭和45年)までに完成していたのだが、上茶路駅(白糠郡白糠町上茶路基線。1964〜1983)の近くにあった炭鉱が閉山したことや人口希薄地帯であり、利用が見込めなかったことから日本国有鉄道は開業を見送った。しかし、1972年(昭和47年)に北海道を地盤とする佐々木秀世衆議院議員(1909〜1986)が運輸大臣に就任したことを契機に開業に至っている。
※その後白糠線は日本国有鉄道の経営再建の一環として廃止対象となり、1983年(昭和58年)10月23日に全線(白糠〜上茶路〜北進間)が廃止されている。政治家の力で何とか開業に漕ぎ着けた上茶路〜北進間は11年少々しか営業しなかったということになる。

注13:日本鉄道建設公団発足以前に建設された鉄道路線については列車交換を取りやめた後分岐器やレールを撤去する例は多数見られる。三江線でも三江北線だった区間で交換施設を撤去した駅がいくつも見られる(この件は該当する駅が出てくる第5章第6章第7章第8章で触れることにしている)。

 

列車交換を取りやめた後分岐器を撤去した例(写真はJR芸備線高駅〔庄原市高町〕)。
右側の線路が踏切の手前で断ち切られているのが見える。

注14:三江線は島根県では石見国だったところしか通らないが、広島県では備後国だったところと安芸国だったところを通っている。備後国だったところを通っているのは伊賀和志駅と香淀駅、尾関山駅(三次市三次町)、三次駅の四つ、安芸国だったところを通っているのは式敷駅(安芸高田市高宮町佐々部)と信木駅(安芸高田市高宮町佐々部)、所木駅(安芸高田市高宮町船木)、船佐駅(安芸高田市高宮町船木)、長谷駅(三次市粟屋町)、粟屋駅(三次市粟屋町)の六つである。三江線沿線では備後国と安芸国は江の川を境界にしていたので江の川右岸にある駅(伊賀和志・香淀・尾関山・三次)は備後国に、江の川左岸にある駅(式敷・信木・所木・船佐・長谷・粟屋)は安芸国にそれぞれ属していると考えても良い。

注15:長谷駅は第1章で触れた通り異音同字の駅が神奈川県と兵庫県にある(ちなみに神奈川県と兵庫県にある「長谷駅」はどちらも「はせえき」と読む)ので安芸長谷駅という名称にしても良かったわけであるが、それが実現しなかったのは第1章で触れた通り仮乗降場として開業した経緯があったからではないかと思われる。

注16:恐らく大和七橋という呼称が生まれたのは平成時代初頭、言い換えれば1990年代ではないかと考えられる。七番目の橋となる宇都井大橋が完成したのが1991年(平成3年)、大和七橋に含まれない大和大橋が完成したのが2002年(平成14年)なのでその間に付けられたのだろう。