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JR三江線並行道路を行く・第5章(2018年〔平成30年〕2月21日公開)

第4章から

石見松原駅から潮駅へ

 石見松原駅(邑智郡美郷町長藤)の(東口)駅前広場を右折して出て坂道を下る。その突き当たりにある丁字路、すなわち邑智郡美郷町長藤/石見松原駅入口交差点(信号機・交差点名標なし)で右折して国道375号線に復帰する。相変わらずの快走路である。
 間もなく通過する邑智郡美郷町長藤/都賀行大橋東詰交差点(信号機・交差点名標なし)で国道375号線は県道296号川本・美郷線を分岐する。石見松原駅のプラットホームからも見える都賀行大橋(全長:125m)で江の川を渡って西方に延びていく道である。

石見松原駅のプラットホームから撮影した都賀行大橋

 県道296号川本・美郷線は邑智郡美郷町大和地区と邑智郡川本町を最短経路で結んでいる道ではあるのだが、邑智郡川本町への最短経路だと思って通ろうとすると痛い目に遭う。というのも、狭隘箇所が多い上に積雪期には通行止め規制が敷かれるからである。しかも邑智郡美郷町長藤/都賀行大橋東詰交差点(信号機・交差点名標なし)の手前の国道375号線にある案内標識にはそんなことは一切書いていないし、県道296号川本・美郷線に入って700mも進んだところになってようやく道幅が狭いので大型車は通れない旨の標識を目にすることになるから面倒である(ただ県道296号川本・美郷線の行き先が川本ではなく都賀行になっていることで邑智郡川本町に行くには有用な道ではないと感じ取る方がいるかもしれないが…)。この県道296号川本・美郷線は1995年(平成7年)4月4日島根県告示第341号により県道296号川本・大和線として発足し、2006年(平成18年)3月31日島根県告示第371号に基づいて2006年(平成18年)4月1日に現在の名称に変更されたのだが、恐らくは邑智郡大和村(1957〜2004)が邑智郡の中心地・川本町に最短で行ける大和村道や川本町道を県道にして整備して欲しいと島根県に陳情し続け、実現したものであろう。しかし、島根県の財政事情が厳しいことや費用対効果が見込めないこと、そして平成の大合併では邑智郡の中心地であるはずの川本町を中心とした合併は行われなかったばかりか川本町は島根県の本土部分にある自治体で唯一平成の大合併を経験することなく終わったことから発足してから20年以上経った今も整備されないままでいるのだろう。もっとも、邑智郡大和村改め邑智郡美郷町大和地区には邑智郡川本町より中枢性が高く、平地が広く、人口も多い大田市や三次市に至る国道375号線が通っているから国道375号線の整備を望む声が多勢を占めることであろうが…。
 それはさておき、邑智郡美郷町長藤/都賀行大橋東詰交差点(信号機・交差点名標なし)を過ぎても国道375号線は快適な道が続く。進行方向右側には三江線、進行方向左側には江の川が寄り添っている。この位置関係はしばらく続くが、江の川の流れとともに進行方向を北から北東に変えていくらか進んだところで三江線が国道375号線の上を越えて江の川と国道375号線の間に入ってくる。つまり、そこからは三江線が江の川のそばを通るようになるのである。こういうところは三江線最終開業区間(浜原〜口羽間)では2箇所(注1)しかないのだが、ここの江の川並走区間は2km以上と長く、本当に貴重な区間だと言える(但し木々に遮られる箇所があり、全区間で江の川を眺められるわけではない)。
 やがて江の川・三江線・国道375号線は進行方向を北東から北に変えるのだが、その辺りから進行方向左斜め前方に島根県を代表する山の一つである三瓶(さんべ)山(標高:1,125.8m)が見えるようになる。三江線は江の川に沿って敷設されているので江の川の眺望が注目されがちであるが、三瓶山が眺められることはあまり注目されていない感じがある。そのようになったのは三瓶山が属するのは三江線の通過市町村ではない大田市と飯石(いいし)郡飯南町であることや山頂が属する大田市にとっては三瓶山は象徴的存在であること(注2)、これまで幹線鉄道(JR山陰本線)や幹線道路(国道9号線・国道54号線・山陰自動車道・松江自動車道)から三瓶山に通じる道路の整備が優先され、国道375号線または三江線沿線から三瓶山に通じる道路の整備が遅れたこと(注3)、三江線の列車本数が少なく、三瓶山に行くためには有用ではなかったこと、そして山間部を通っている上に利用が少ないのでいくら著名な山でも気にする方が少なかったことが考えられる。
 進行方向右側に潮温泉唯一の宿である大和荘(邑智郡美郷町長藤。日帰り入浴もできる)を見て、潮谷川を名称不明の小さな橋で渡ると江の川支流の塩谷川を新都橋(全長:47.2m)で渡ってから8km近くにわたってずっと続いてきた邑智郡美郷町長藤に別れを告げ、邑智郡美郷町潮村に入る。邑智郡美郷町潮村に入ると進行方向左側の三江線との間に桜の木がいくつも植えられているのを目にする。いつ、いかなる理由で桜の木が植えられたのかは分からないのだが、春になると満開の桜が咲き誇り、この辺りを通る人々の目を楽しませる。三江線の列車に乗っている人にとっても、国道375号線を通る人にとっても注目の場所であるが、恐らく三江線の列車から満開の桜並木を見ることはもうかなわないであろう。今年3月31日が最終運行日になることが決まったからである。

邑智郡美郷町潮村の国道375号線沿いの桜並木。右側に見えるのは潮駅(邑智郡美郷町潮村)のプラットホーム。

 桜並木をしばらく進むと左側に潮駅のプラットホームが見えてくる。やがて今度は右側に「みさとカレッジ」「バカンスハウス」と書かれた看板が見えてくる(下の写真)。その看板の真向かいが潮駅の入口や待合所のあるところとなる。

潮駅(うしおえき)

潮駅の待合所

潮駅の駅名標

三江線活性化協議会が設置した看板。潮駅の愛称は潮払いとなっている。

潮駅のデータ

項目 記事
所在地 邑智郡美郷町潮村
駅名の由来 駅がある大字の名前の一部分。
開業年月日 1975年(昭和50年)8月31日
接続鉄道路線 なし
駅構内にあるもの なし(プラットホームに待合所があるだけ)
プラットホームの形式 単式ホームで西側を利用している。
起点または終点からの距離
(営業キロ)
起点(江津)から59.6km
終点(三次)から48.5km
前後の駅からの距離
(営業キロ)
(下り線)沢谷駅から5.8km
(上り線)石見松原駅から3.2km
JR三江線の列車の発車・到着時刻
(2017年〔平成29年〕3月4日現在)
(下り列車)
421D…午前6時7分(浜原発三次行)
423D…午前7時55分(江津発三次行)
429D…午後5時18分(江津発三次行)
433D…午後7時13分(浜原発三次行)
(上り列車)
422D…午前7時31分(三次発浜田行)
424D…午前11時28分(三次発石見川本行)
432D…午後6時28分(三次発浜原行)
436D…午後9時1分(三次発浜原行)
付近にある主要施設 ハートランド双葉園(高齢者介護施設)
美郷町デイサービスセンター
潮会館
中国電力潮水力発電所
付近にある名所・旧跡・自然 江の川
潮温泉
遊・湯ランド潮村(潮交流館・みさとカレッジ・バカンスハウス)
潮谷親水公園
付近を通る国道路線
または県道路線
国道375号線
備考 ・三江線にある駅の中で二つしかない漢字一文字の地名を付けた駅である(もう一つは竹駅〔邑智郡美郷町乙原〈おんばら〉〕)。
・三江線にある駅の中で唯一近くに温泉がある駅である。

 潮駅の所在地は邑智郡美郷町潮村である。島根県の本土部分(注4)、すなわち旧出雲国と旧石見国に相当する地域で市制町村制が実施された1889年(明治22年)4月1日に邑智郡潮村は邑智郡都賀行・長藤両村と統合して邑智郡都賀行村(1889〜1957)の一部になったのだが、それから今に至るまで―途中で所属自治体を邑智郡大和村→邑智郡美郷町と変えているが―大字名は潮村を貫いている。素直に大字名を潮とすれば良いのに…と思う方もいるかもしれないのだが、恐らく大字名を潮とすると地名だと思ってもらえないのではないかという思惑があってそうしたのではないのだろうか(注5)。その一方で邑智郡美郷町潮村にある施設などの名称における地名はそのほとんどが「潮」であり、「潮村」が入るものは遊・湯ランド潮村しかない。「村」という字に対する地域の方々の複雑な心境が垣間見える(注6)
 それにしても山の中なのになぜ「潮」という地名が付いたのだろうか。潮駅の近くにある潮温泉の泉質(塩化物泉)に由来する(注7)と書かれたサイトをいくつか目にしたが、私はある人が江の川の流れを見て海峡の流れの速さを想起したことに由来するのでは…と考えている。そういえば松原(注8)といい、潮といい、浜原といい、海を連想させる地名がこの辺りの三江線の駅名には見られるのだが、遠い海―といっても30kmほどで日本海にたどり着けるのだが―に思いをはせる人が多くいたのだろうか。
 それはさておき、潮駅は国道375号線に並行する形で設置されているのだが、国道375号線からプラットホームに上がるには三次方面から来た場合も大田方面から来た場合も国道375号線のすぐ西側に設けられた道に入り、坂を少し上らなければならない。その坂を上り切ったところにある平場の左側にプラットホームへの階段がある。別に坂を設けなくても良いように感じられるのだが、もし坂を設けなかったとしたら駅前広場の用地が確保できなくなるためこのようにしたものと思われる。なお、三次方面からこの坂に入って大田方面に抜けることも、反対に大田方面からこの坂に入って三次方面に抜けることも可能ではあるが、そんなに広い道ではないので自動車での乗り入れはできれば避けたほうが良い。

潮駅付近の国道375号線。写真左側に三次方面から潮駅のプラットホーム入口に通じる坂とプラットホームへの階段が見える。

潮駅のプラットホーム入口に通じる大田方面からの坂

潮駅のプラットホームに通じる階段

 階段を上って潮駅のプラットホームに立つ。そこからは江の川の流れや三瓶山を見ることができる。

潮駅から南方を望む

潮駅から北方を望む。中央上方の山が三瓶山。

 三江線は江の川に沿って敷設されたことはこれまで何度も記してきたことであるが、その江の川のすぐそばにあり、なおかつ江の川の流れを眺められる駅は実は少ない。35駅中信木駅(安芸高田市高宮町佐々部)と潮駅、江津本町駅(江津市江津町)のわずか3駅しかないのである。その中でも潮駅は島根県を代表する川である江の川と島根県を代表する山である三瓶山を見ることのできる唯一の駅である。しかも駅のそばには桜並木があるし、駅の近くには宿が一つあるだけだが温泉もある。もっと注目されても良い駅ではなかったのだろうか。私はそのように思っている。

潮駅から沢谷駅へ

 潮駅から更に国道375号線を北上する。何度も記してきたことであるが、改良は終わっており、快走路となっている。江の川と三江線との位置関係も潮駅以南と同じである。
 潮駅前からしばらく進むと右側に発電所が見えてくる。中国電力潮水力発電所(邑智郡美郷町潮村)である。この中国電力潮水力発電所は神戸(かんど)川をせき止めて作られた来島(きじま)ダム(飯石郡飯南町下来島)のダム湖である来島湖で採った水を導水管で潮水力発電所の近くまで運び、278.1mもある落差を利用して発電するというものである。この潮水力発電所が完成したのは1956年(昭和31年)のことであるが、建設の背景には高度経済成長の中で電力需要が増え、既存の発電所だけでは賄い切れなくなったことがあったのだろう。
 潮水力発電所を過ぎると石見都賀駅(邑智郡美郷町都賀本郷)の南方から続いてきた江の川と国道375号線、三江線の並行関係は終止符を打つことになる。というのも江の川と国道375号線の間を通っていた三江線が国道375号線を跨ぎ、山の中に消えていくからである。地図で見ると国道375号線に沿って敷設すれば浜原〜潮間の最短経路になることが分かるのだが、なぜ江の川や国道375号線から離れて山の中に入っていくのか。ある程度の人口のある集落を経由するためである。こういうことがあることは既に第4章で触れているのだが、第4章で触れた石見都賀〜口羽間(注9)と異なるのは浜原〜潮間は遠回りな経路をとって敷設されているということである。
 今記した通り浜原〜潮間の最短経路は現在の国道375号線に沿うものである。しかし、もしその経路で敷設した場合、恐らく途中には駅は設置されなかった可能性が高い。その理由は次の通りである。
・途中には浜原駅(邑智郡美郷町浜原)から直線距離で1kmほどしか離れていない邑智郡美郷町上川戸しか集落がないから。
・邑智郡美郷町上川戸は大田市中心部と邑智郡美郷町最東端の集落・酒谷を結ぶ路線バス(現在は石見交通〔益田市幸町〕が一日4往復運行している)が通っており、そこにはバス停留所があるから。
・現実に建設された三江線も邑智郡美郷町上川戸には駅を置いていないから。
 もし三江線が陰陽連絡の幹線鉄道という役割を担って建設されたのであれば恐らく浜原〜潮間は国道375号線に並行して建設されたことであろう。しかし、三次市と江津市を結ぶ路線としては江の川に沿って敷設しているので遠回りになる。岡山・倉敷・福山各市と江津・浜田両市を結ぶ陰陽連絡鉄道と位置付けても結び付きは弱く、広島経由で往来すれば良いので需要は見込めない。広島市と江津・浜田両市を結ぶ陰陽連絡鉄道と位置付けても遠回りになるので有用にはならないし加計〜三段峡〜浜田間に計画されていた鉄道路線(建設路線名称は本郷線〔加計〜三段峡間〕及び今福線〔三段峡〜浜田間〕(注10))との兼ね合いがあるのでそういう位置付けをとることは難しい。最早陰陽連絡幹線鉄道の役割は担えないのは火を見るより明らかである。そこで三江線が建設されたことを有意義なものにするために残された道は人口がある程度ある集落に駅を置いて利用を少しでも増やすことしかない。そこで邑智郡美郷町潮村で江の川や国道375号線から離れ、三江線最長のトンネルである登矢丸(とやがまる)トンネル(全長:2,802m)を通って山の向こうの集落に出るような経路にしたのではないのだろうか。しかし、この策も結局は空しいものとなってしまったのだが…。
 それはさておき、三江線が北東に去っていった後も江の川と国道375号線の並行関係は続く。やがて大和七橋で最も北にあって赤色に塗られた吊り橋が目を引く信喜(しき)橋(全長:137m)の下をくぐる。「信喜橋の下をくぐる」と書いたことでもうかがえるように国道375号線から直接信喜橋に入ることはできず、信喜橋を渡るには立体交差地点の150mほど南方にある邑智郡美郷町潮村/信喜橋東口交差点(信号機・交差点名標なし)で山側に分岐する取り付け道路を介しないといけない。なぜこのような格好になったのか。実は信喜橋のある辺りの江の川は浜原ダム(邑智郡美郷町滝原・上川戸)によって堰(せ)き止められているために水位が高く、国道375号線と同じ高さのところに橋を架けると水面すれすれのところを通るようになってしまうからである。信喜橋は邑智郡美郷町信喜に住む方々の利便性向上を目的に建設された橋であることを思うと増水して通れないという事態はあってはならないことであり、それ故取り付け道路で高度を確保して増水時でも通れるようにしたのであろう(注11)。なお、信喜橋周辺の江の川は島根県で開催された第37回国民体育大会(愛称:くにびき国体。1982年〔昭和57年〕)でカヌー競技の会場になったところであり、当時の皇太子殿下、すなわち現在の天皇陛下が信喜橋から競技をご覧になられたという話があるという(注12)
 信喜橋の下をくぐると間もなく、今度は国道375号線が江の川から離れていくことになる。かつては引き続き江の川に沿う経路をとっていたのだが、狭隘箇所や市街地通過箇所を回避する目的で企図された国道375号線邑智バイパスが平成時代に入ってから順次開通したことにより国道375号線は江の川から少し離れた山の中を通るようになったのである。この後国道375号線は邑智郡美郷町粕渕で南西方向に流れを変える江の川と袂(たもと)を分かって北西方向に進み、終点のある大田市に至るためこれが江の川とのお別れの場となる。
 ここでこのページをご覧になっている方の中に浜原ダムがあるのだから浜原ダム建設の際国道375号線は整備されていたのではないかと思う方がいるかもしれない。しかし、その浜原ダムの完成時期は三江線(注13)も国道375号線も、そして国道375号線の前身である県道8号大田・三次線(1955〜1977(注14)。路線名称は廃止当時のものを記載)もまだ存在しない1953年(昭和28年)のことである。「日本の道路事情は非常に悪い」という一文が冒頭に書かれたことで知られるいわゆる「ワトキンス・レポート(注15)」がアメリカ合衆国の調査団によってまとめられ、建設省に提出したのはこの3年後の1956年(昭和31年)のことだし都会から遠く離れた山の中だからどんな道路が建設されるかは最早記すまでもないであろう(注16)。故に浜原ダム付近の県道8号大田・三次線→国道375号線はすれ違いが難しく、なおかつ災害の危険性が高い難所となっていたのである。そこで企図されたのが国道375号線邑智バイパスというわけである。
 国道375号線邑智バイパスはその建設に際して紆余曲折(うよきょくせつ)があったと推察される面がいくつも見られる道路である。それを挙げると次の通りになる。
・1992年(平成4年)頃開通したと思われる第一期区間(邑智郡美郷町潮村/邑智バイパス南口交差点〔信号機・交差点名標なし〕邑智郡美郷町上川戸/丸郡橋西詰交差点〔交差点名標なし〕間)の標高差はわずか6mほど(起点の邑智郡美郷町潮村/邑智バイパス南口交差点〔信号機・交差点名標なし〕の標高は約71m、終点の邑智郡美郷町上川戸/丸郡橋西詰交差点〔交差点名標なし〕の標高は約65m)であり、一本の長いトンネル(全長は1,500m程度)を掘れば済むように思えるのだが、起点の邑智郡美郷町潮村/邑智バイパス南口交差点(信号機・交差点名標なし)で江の川沿いに延びる旧道から分かれた国道375号線邑智バイパスは高度を上げて山の中に入り、摘坂トンネル(全長:645m)を抜けた先にある最高地点(標高約140m)まで上り続けていること。なぜ山越え道を選んだのか。
・第一期区間にある構造物の完成時期にずれがあること。第一期区間の終点に近いところにある丸郡橋(全長:39.3m)は1982年(昭和57年)に、そのすぐ東側にある三日谷トンネル(全長:200.2m)は1985年(昭和60年)にそれぞれ完成しており、その様子だと1980年代後半には開通していても良かったはずなのだが、なぜかもう一つの構造物である摘坂トンネルの完成時期は1991年(平成3年)になっている。なぜ摘坂トンネルだけ1990年代、言い換えれば平成時代に完成時期がずれ込んだのか。
 この二つの事実から私は国道375号線邑智バイパス第一期区間は何らかの事情で計画変更を余儀なくされ、それ故に開通時期が1992年(平成4年)頃にずれ込んだのではないかと考えた。私は島根県西部から山口県北部にかけての地域に甚大な被害をもたらした山陰大水害(1983年〔昭和58年〕7月23日)が影響したのではないかと考えたのだが、果たして真相はどうなのだろうか。
 邑智バイパスに入って摘坂トンネルと三日谷トンネル、丸郡橋を通過すると邑智郡美郷町上川戸/丸郡橋西詰交差点(交差点名標なし)に差しかかる。国道375号線下り方向(呉・東広島・三次→大田)では島根県内二つ目の信号機であり、国道375号線下り方向(呉・東広島・三次→大田)では島根県内では初めての通常運用(深夜・早朝を除く(注17))の信号機でもある。ここで長らくお付き合いしてきた国道375号線と別れ、右折して県道166号美郷・飯南線に入る。この旅の終着点の江津市に背を向けるだけでなく始発点の三次市に戻る格好になってしまうのだが、次の沢谷駅(邑智郡美郷町石原)がこの県道166号美郷・飯南線のそばにあるのだから致し方ない。
 ということで入った県道166号美郷・飯南線であるが、起点の邑智郡美郷町上川戸/丸郡橋西詰交差点(交差点名標なし)から早速上下2車線の快適な道である。1958年(昭和33年)6月13日島根県告示第525号で県道26号邑智・赤来線として認定されてから60年近くずっと一般県道のままでいる(注18)のだが、この快適な道は終点(注19)飯石郡飯南町下赤名/東上交差点(信号機・交差点名標なし)まで十数kmにわたって続いているのである。なぜこのようになったのか。1970年代以降国道54号線と大田市・邑智郡美郷町を結ぶ幹線道路として島根県が積極的に整備しているからである。途中には広島市までの距離を記した案内標識(下の写真)もあり、県道166号美郷・飯南線が広域幹線道路として位置付けられていることを感じさせている。

 県道166号美郷・飯南線の序盤は三江線と並行している。もっとも、三江線は県道166号美郷・飯南線の北側の山の中腹を通っているため気付きにくい。初めて並行していることを認識するのは起点の邑智郡美郷町上川戸/丸郡橋西詰交差点(交差点名標なし)から1.5kmほど進んだところで三江線の高架の下をくぐる時である。これが三江線と県道166号美郷・飯南線の唯一の交差箇所なのだが、この後三江線は二度江の川支流の沢谷川を渡るのに対し、県道166号美郷・飯南線は沢谷川に沿って東進を続ける。だからしばらくの間は三江線と県道166号美郷・飯南線は少し離れたところを通ることになる。
 再び県道166号美郷・飯南線と三江線が並行するようになり、しばらく進むと右側にプラットホームと待合所が見えてくる。それが沢谷駅である。

沢谷駅(さわだにえき)

沢谷駅の待合所

沢谷駅の駅名標

三江線活性化協議会が設置した看板。沢谷駅の愛称は猿丸太夫(さるまるだゆう)となっている。

沢谷駅のデータ

項目 記事
所在地 邑智郡美郷町石原
駅名の由来 駅がある地域の名前。
※駅がある辺りは1955年(昭和30年)1月31日まで邑智郡沢谷村(行政区域は現在の邑智郡美郷町石原・片山・熊見・九日市・酒谷・千原。1889〜1955)であった。そのことから駅名が採られた可能性が高い。
開業年月日 1975年(昭和50年)8月31日
接続鉄道路線 なし
駅構内にあるもの なし(プラットホームに待合所があるだけ)
プラットホームの形式 単式ホームで南側を利用している。
起点または終点からの距離
(営業キロ)
起点(江津)から53.8km
終点(三次)から54.3km
前後の駅からの距離
(営業キロ)
(下り線)浜原駅から3.7km
(上り線)潮駅から5.8km
JR三江線の列車の発車・到着時刻
(2017年〔平成29年〕3月4日現在)
(下り列車)
421D…午前6時1分(浜原発三次行)
423D…午前7時48分(江津発三次行)
429D…午後5時11分(江津発三次行)
433D…午後7時6分(浜原発三次行)
(上り列車)
422D…午前7時37分(三次発浜田行)
424D…午前11時34分(三次発石見川本行)
432D…午後6時34分(三次発浜原行)
436D…午後9時7分(三次発浜原行)
付近にある主要施設 千原簡易郵便局
付近にある名所・旧跡・自然 沢谷川
石見銀山街道
西蓮寺(春には枝垂れ桜が見られる寺院)
法光寺
付近を通る国道路線
または県道路線
県道166号美郷・飯南線
備考 ・三江線の起点である江津駅(江津市江津町)からも、三江線の終点である三次駅(三次市十日市南一丁目)からも18番目の駅である。
・駅の数では三江線の中間点になるが、距離における三江線の中間点(54.05km)は沢谷駅の少し三次寄りにある。

 沢谷駅がある邑智郡美郷町沢谷地区、すなわちかつての邑智郡沢谷村(1889〜1955)だった地域は邑智郡最東端の地域(注20)であり、旧石見国最東端の地(注21)でもある。江戸時代には石見銀山(大田市大森町)で産出された銀を笠岡や尾道といった瀬戸内海沿岸の港まで運ぶために整備された石見銀山街道(注22)が村内を貫き、銀を輸送する人々のための宿場が九日市に置かれていたという。沢谷駅のすぐ北側を通る県道166号美郷・飯南線は石見銀山街道の後身的存在といったところになるのだろう(注23)が、当時の経路・当時の道幅というわけではないのだろうが、沢谷駅の北側を銀を運ぶための大行列が通っていたのだろう。
 しかし、江戸幕府の崩壊とともに石見銀山街道は石見銀山で産出された銀を笠岡や尾道といった瀬戸内海沿岸の港まで運ぶという機能を失い、邑智郡美郷町沢谷地区は幹線筋から外れた、静かな山間の村となった。まだ農業や林業が主力産業だった時代ならそれでも良かったのだが、第二次世界大戦後の高度経済成長の中で若年者を中心に職を求めて都会や工業地帯に出る人が増え、過疎化が進んだ。加えていわゆる昭和の大合併の中で邑智郡沢谷村は邑智郡粕淵町及び吾郷・君谷・浜原各村と統合して邑智郡邑智町(1955〜2004)の一部になったため邑智郡美郷町沢谷地区は独立した自治体から邑智郡邑智町の一地域に格下げされてしまった。
 そういう地域を活性化するにはどうすれば良いのか。目を付けたのは西方の邑智郡美郷町浜原まで延びていた線路、すなわち三江線であった。三次市と江津市を結ぶ目的で大正時代末期から建設が進められてきた三江線は江津側は1937年(昭和12年)までに江津〜浜原間が開業しており、第二次世界大戦の影響で工事が進んでいなかった三次側も邑智郡邑智町発足時点では間もなく三次〜式敷間が開業することになっていた(注24)。残るは浜原〜式敷間。この絶好の機会を逃せば邑智郡美郷町沢谷地区に鉄道が通ることはもうないであろう。そこで邑智郡美郷町沢谷地区の住民は三江線を邑智郡美郷町沢谷地区に通すよう日本国有鉄道(国鉄。千代田区丸の内一丁目。1949〜1987)などに再三請願した。その結果邑智郡美郷町沢谷地区に鉄道を通し、駅を設置することが決まったのである。地域の熱い思いもあったが、日本国有鉄道や日本鉄道建設公団(横浜市中区本町六丁目。1964〜2003)の計画を断念させたくないという思いで企図した露骨な集客策も実現の背景にあったことは何度も書いてきたことである。
 しかし、浜原〜式敷間の建設は順調には行かなかった。江の川への大規模ダム建設問題
(注25)や三江南線・三江北線の赤字83線(注26)指定、そして1972年(昭和47年)7月中旬の梅雨末期の集中豪雨による三江北線明塚〜粕淵間の長期間不通…。当時県道166号美郷・飯南線に沿って延びる高架橋や築堤を見て「本当にここに列車が通る日は来るのだろうか」と思う人も少なくなかったことであろう。ようやく三江線が全線開通し、邑智郡美郷町沢谷地区に駅が設置されたのは1975年(昭和50年)の夏の終わりのことであった。悲願の鉄道開通を多くの方々は喜んだことであろうが、程なくして三江線や沢谷駅は微妙な立場に置かれることになる。その要因を挙げると次の通りになる。
・三江線は陰陽連絡鉄道として有用な存在になり得なかったこと。三次市と江津市を結ぶ路線としては江の川に沿って敷設されているために遠回りになっていることや岡山・倉敷・福山各市と江津・浜田両市を結ぶ陰陽連絡鉄道と位置付けても結び付きは弱い上に広島経由で往来すれば良いこと、広島市と江津・浜田両市を結ぶ陰陽連絡鉄道と位置付けても遠回りになること、人口が少ないために利用が少なく、結果列車の本数も少なかったこと、そして1978年(昭和53年)春まで口羽駅(邑智郡邑南町下口羽)で乗り換えを余儀なくされていたこと(注27)がその理由である。
・国道54号線の一次改築(注28)完成(1971年〔昭和46年〕)や中国自動車道北房インターチェンジ(真庭市五名)〜三次インターチェンジ(三次市西酒屋町)間開通(1978年〔昭和53年〕)を契機に大田市や邑智郡邑智町が国道54号線や三次インターチェンジに通じる県道166号美郷・飯南線の改良を強く望むようになり、結果整備が積極的に推進されたこと。もし県道166号美郷・飯南線の改良が完成すれば邑智郡美郷町沢谷地区から三次市中心部や三次インターチェンジまでは1時間足らずで行けることになり、三江線は利用されなくなる恐れをはらんでいた。
・国道375号線の改良の進展により大田市との結び付きが強まったこと。国道375号線は現在も未改良箇所を残しているが、21世紀に入ってからの改良の進展(注29)は邑智郡美郷町沢谷地区から見て最も近い都市である大田市との心理的かつ時間的な距離を短縮させた。一方で三江線の列車で乗り換えなしで行ける邑智郡川本町や江津市との結び付きは弱まり、三江線の利用減少の一因となった。
・邑智郡美郷町沢谷地区の過疎化は止まらなかったこと。そのため2004年(平成16年)春には地区内唯一の学校であった邑智町立沢谷小学校(邑智郡美郷町九日市)が美郷町立邑智小学校(邑智郡美郷町粕渕)に統合されたために廃校になってしまった(注30)
 かくして沢谷駅の利用者は少なくなり、「島根県統計書」(島根県企画振興部統計課刊)によるとここ数年の沢谷駅の一日の平均乗車人員は1〜3人だという(注31)。確かに県道166号美郷・飯南線を上り方向(飯南→美郷)に走っていると進行方向左側に沢谷駅があるのが見えるのだが、いつも人気(ひとけ)がなく、県道166号美郷・飯南線の交通量の少なさと相まって寂しい感じを抱いたものである。
 さて、前置きが長くなってしまったが、そんな状況でも沢谷駅は注目すべき事柄がいくつもある駅である。それを挙げると次の通りである。
・三江線の起点の江津駅(江津市江津町)からも、三江線の終点の三次駅(三次市十日市南一丁目)からも18番目の駅であること。駅の数で言えば三江線の中間にある駅ということになる。
・三江線の中間点に最も近い駅であること。三江線の中間点(邑智郡美郷町石原。距離は54.05km)は沢谷駅から三次方面に約250m進んだところにある。このことからもうかがえるように沢谷駅は三江線の中間点の少し江津寄りにある。

江津駅からの距離が記された沢谷駅の待合所のそばにある物件。何に使われているのかは分からない。

・潮駅と立地が似ていること。どちらも幹線道路のすぐそばに駅がある。

 

三江線と県道166号美郷・飯南線が並走している風景(左:東方/右:西方)

・潮駅と構造が似ていること。幹線道路からは脇道に入って坂を少し上らないとプラットホームに上がるための階段に行けないことやプラットホームに上がるための階段のそばに便所があること、築堤の上に片面使用のプラットホームと待合所があることが共通している。

県道166号美郷・飯南線から沢谷駅のプラットホームに上がるために設けられた坂道。
この坂道は東側しか設置されておらず、自動車での通り抜けはできない(自動車はプラットホーム入口の前で行き止まり)。

沢谷駅のプラットホームに通じる階段

 地図で見ると沢谷駅は邑智郡美郷町沢谷地区の西の外れに設置されている。邑智郡美郷町沢谷地区の中心部までの直線距離は2.6kmほどである。熱烈な誘致運動を展開したのであれば地区の中心に近い場所、具体的に記せば邑智郡美郷町熊見に駅を設置したほうが良かったのでは…と思うのだが、それが実現しなかった理由は何なのだろうか。似た例は今は亡きJR可部線筒賀駅(通称:二代目筒賀駅(注32)。山県郡安芸太田町中筒賀。1969〜2003)でも見られた(注33)のだが、「そんなことをしても結果は同じ。考えるだけ無駄」などと冷淡なことを言われても気になる。
 もう一つ気になったのが、沢谷駅前にあった大きな観光地図「沢谷ぶらりMAP」である(下の写真)。

 この看板は県道166号美郷・飯南線を通る方からは見えるのだが、三江線の列車に乗っている方や沢谷駅に降り立った方からは見えないようになっている。設置されたのは2015年(平成27年)3月29日のことである(注34)が、当時はまだ三江線廃止問題が浮上していなかったとはいえ、なぜ三江線の列車に乗っている方や沢谷駅に降り立った方には見えないようにしたのだろうか。まあ邑智郡美郷町沢谷地区は車で訪ねたほうが便利だし楽しいという考えがあったのかもしれないが、現実に目覚めれば熱意も冷めて現実的な考えしか持たなくなるのだろうかと思えてならなかった。

沢谷駅から浜原駅へ

 沢谷駅の前から県道166号美郷・飯南線を今度は西に向かって走る。状況は「潮駅から沢谷駅へ」で記したものと同じなのであえて繰り返さない。
 沢谷駅の前から2.5kmほどで邑智郡美郷町上川戸/丸郡橋西詰交差点(交差点名標なし)に戻る。今度はこの邑智郡美郷町上川戸/丸郡橋西詰交差点(交差点名標なし)を直進し、県道166号邑智・赤来線(1958〜2006)や国道375号線だった時期もある美郷町道上川戸・粕渕線に入る。県道166号美郷・飯南線と美郷町道はともに沢谷川右岸に沿って延びているので国道375号線邑智バイパスが開通する前から存在した道だと思う方がいるかもしれないのだが、実は違う。元々県道166号邑智・赤来線として一続きの道であったこの道は邑智郡美郷町上川戸/丸郡橋西詰交差点(交差点名標なし)付近で沢谷川から離れて山裾に沿って延び、三江線の高架の手前で曲がって県道166号邑智・赤来線の当初の起点であった邑智郡美郷町上川戸/上川戸橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)に進んでいたのである。
 その状況に変化が生じたのは1992年(平成4年)頃の国道375号線邑智バイパス第一期区間開通の時であった。山裾に沿って曲がっていた道はまっすぐに延びる国道375号線に飯南方面から来た県道166号邑智・赤来線が突き当たるという丁字路に改造されたのである。しかし、それは暫定的なものであった。というのも国道375号線邑智バイパスは邑智郡美郷町粕渕/邑智小学校前交差点(交差点名標なし)まで延伸されることになったからである。国道375号線邑智バイパス延伸部分は邑智郡美郷町上川戸/丸郡橋西詰交差点(交差点名標なし)から大田方面に向かって150mほどのところまで県道166号邑智・赤来線だった道を使い、その後は三江線の高架をくぐって浜原トンネル(全長:824.0m)に入ることになったのだが、既存の道と新たに建設する道の境目に丁字路を設置した場合、下表に挙げるような問題が浮上したのである。

方向 問題点
国道375号線邑智バイパス三次方面→
国道375号線現道浜原駅方面
(特になし)
国道375号線邑智バイパス大田方面→
国道375号線現道浜原駅方面
・三江線の高架の先に分岐点を設置するため右折車線が作れない。
・右折車線を作るために三江線の高架を作り直すことを西日本旅客鉄道(JR西日本。大阪市北区芝田二丁目)が認めない可能性がある。
・右折車線を作るために三江線の高架を作り直さざるを得なくなったことを契機に西日本旅客鉄道が三江線の廃止を提案してくる恐れがある。
国道375号線現道浜原駅方面→
国道375号線邑智バイパス大田方面
(特になし)
国道375号線現道浜原駅方面→
国道375号線邑智バイパス三次方面
・三江線の高架の橋脚があるために国道375号線邑智バイパス大田方面から来た車の確認がしづらい。
・交通量が少ないためにかなりの速度を出す車が少なくなく、交通事故が起きる可能性がある。

 そこで県道166号邑智・赤来線だった道を沢谷川沿いに付け替えることにしたわけである。その過程で邑智郡美郷町上川戸/丸郡橋西詰交差点(交差点名標なし)は丁字路から十字路に改造され、信号機が設置されたのである。これにより美郷町道上川戸・粕渕線浜原駅方面と県道166号美郷・飯南線飯南方面を往来する車と国道375号線邑智バイパス三次方面と国道375号線大田方面を往来する車は一つの道路に合流することなく走れるようになったのである。なお、県道166号邑智・赤来線だった道のうちの一部(ここからここまでの100m足らずの部分)はこれらの工事の完成をもって封鎖措置がとられており、現在は自動車での通り抜けはできなくなっている
 さて、国道375号線との交点、すなわち邑智郡美郷町上川戸/丸郡橋西詰交差点(交差点名標なし)を過ぎた美郷町道上川戸・粕渕線(県道166号邑智・赤来線→国道375号線旧道)は沢谷川右岸に沿って南西方向に進んでいく。そして500mほどでかつての県道8号大田・三次線→国道375号線と県道166号邑智・赤来線の分岐点であり、県道166号邑智・赤来線の起点でもあった邑智郡美郷町上川戸/上川戸橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)に到着する。この邑智郡美郷町上川戸/上川戸橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)の交差点の形状は丁字路なのだが、なぜか県道8号大田・三次線→国道375号線大田方面と県道166号邑智・赤来線飯南方面が直進となり、そこに県道8号大田・三次線→国道375号線三次方面からの道が突き当たる格好になっている。確かに邑智郡美郷町上川戸/上川戸橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)から三次市三次町/日山橋東詰交差点までの県道8号大田・三次線→国道375号線はある市販の道路地図で「名ばかり国道の中国地方代表」などと揶揄されるほど道路状況が芳しくなかったことや県道8号大田・三次線→国道375号線大田方面と県道166号邑智・赤来線飯南方面は石見銀山街道を踏襲した道であること、そして大田市や邑智郡美郷町と三次市を往来する場合、県道166号邑智・赤来線改め県道166号美郷・飯南線を経由したほうが道路状況が良いし距離が短いことがあってそうなったのだろうと思うのだが、この状況を見ると何だかな…と思ってしまうのは私だけだろうか。
 邑智郡美郷町上川戸/上川戸橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)を過ぎると間もなく美郷町道上川戸・粕渕線(国道375号線旧道)は江の川に沿うようになるのだが、その辺りで県道166号美郷・飯南線から続いてきた上下2車線の道は終わりとなり、山と川に挟まれたところを通るようになる。落石や土砂崩れの危険性の高いところであり、なぜ国道375号線邑智バイパスが邑智郡美郷町粕渕/邑智小学校前交差点(交差点名標なし)まで延伸されることになったのかとかなぜ国道375号線邑智バイパスは邑智郡美郷町の中心部を構成する粕渕・浜原の東方の山裾を通すことにしたのかをそこからうかがい知ることができる。
 山と川の間の曲がりくねった狭い道は数百m程度で終わりになり、美郷町道上川戸・粕渕線(国道375号線旧道)はやがて江の川から離れて浜原の町中に入る。道幅は上下2車線幅(注35)である。浜原の町中に入って200mほど走ると進行方向右側に三江線が近付き、並走するようになる。やがて美郷町道上川戸・粕渕線(国道375号線旧道)と三江線の間に民家が入り、並走区間は百数十m程度で終わってしまうのだが、三江線最終開業区間で数少ない踏切(注36)の一つである土居踏切(邑智郡美郷町浜原)や浜原駅の跨線橋が見えるので注目の地点と言えよう。

南方から撮影した浜原駅の跨線橋。手前の道は美郷町道(国道375号線旧道)である。

 三江線との間に民家が入ると美郷町道上川戸・粕渕線(国道375号線旧道)は間もなく傍らに「カヌーの里」と書かれた小さな縦長長方形の看板が置かれている交差点、すなわち邑智郡美郷町浜原/浜原駅西口交差点(信号機・交差点名標なし)に差しかかる(下の写真。なお下の写真は北方から撮影したものである)。その邑智郡美郷町浜原/浜原駅西口交差点(信号機・交差点名標なし)の東側にあるのが浜原駅とその(西口)駅前広場である。

浜原駅(はまはらえき)

浜原駅の駅舎

浜原駅の駅名標

三江線活性化協議会が設置した看板。浜原駅の愛称は大蛇(おろち)となっている。

浜原駅のデータ

項目 記事
所在地 邑智郡美郷町浜原
駅名の由来 駅がある(自治体としての)村の名前。
駅がある大字の名前。
開業年月日 1937年(昭和12年)10月20日
接続鉄道路線 なし
駅構内にあるもの 駅舎
プラットホームの形式 相対式ホーム。
駅舎側(西側)にあるのが1番ホームで、駅舎の反対側(東側)にあり、跨線橋を渡って行くことになるのが2番ホームとなる。
下り列車・上り列車ともどちらのプラットホームを使うのかは列車により異なっている。
起点または終点からの距離
(営業キロ)
起点(江津)から50.1km
終点(三次)から58.0km
前後の駅からの距離
(営業キロ)
(下り線)粕淵駅から2.0km
(上り線)沢谷駅から3.7km
JR三江線の列車の発車・到着時刻
(2017年〔平成29年〕3月4日現在)
(下り列車)
421D…午前5時56分(当駅始発。三次行)
423D…午前7時43分(江津発三次行)
425D…午後2時41分(浜田始発。当駅止まり)
429D…午後5時6分(江津発三次行)
431D…午後6時28分(江津始発。当駅止まり)
433D…午後7時1分(当駅始発。三次行)
435D…午後8時57分(江津始発。当駅止まり)
(上り列車)
420D…午前6時20分(当駅始発。浜田行)
422D…午前7時43分(三次発浜田行)
424D…午前11時39分(三次発石見川本行)
430D…午後5時8分(当駅始発。江津行)
432D…午後6時39分(三次発。当駅止まり)
434D…午後7時3分(当駅始発。江津行)
436D…午後9時11分(三次発。当駅止まり)
付近にある主要施設 浜原郵便局
浜原隣保館
付近にある名所・旧跡・自然 江の川
石見銀山街道
三江線全線開通記念碑
妙用寺(島根県天然記念物に指定されている大きな桜の木がある寺院)
桂根八幡宮
付近を通る国道路線
または県道路線
国道375号線
※浜原駅の北東約400mのところを通っている。かつては駅のすぐ西側を通っていたが邑智バイパス開通に伴う旧道処分で邑智郡美郷町に移管され、美郷町道上川戸・粕渕線になっている。
備考 ・初代三江線第五期開業区間(石見簗瀬〜浜原間)の終点。三江線が全線開通するまで37年10ヶ月間初代三江線(1937〜1955)→三江北線(1955〜1975)の終点でもあった。
・列車交換可能駅だが現在列車の行き違いは一日に一度しか行われていない(423Dと422D)。
・三江線の途中駅で唯一夜間滞泊が行われている駅である。
・三江線の途中駅で最も多く列車の発着する駅である(一日14本。内訳は始発5本〔下り2本・上り3本〕・終着5本〔下り3本・上り2本〕・直通4本〔下り・上りとも2本ずつ〕)。

 浜原駅は三江線上り方向(三次→江津)では尾関山駅(三次市三次町)以来の駅舎のある駅である。三江線の終点でありこの旅の起点である三次駅からここまでにあった駅舎のある駅はわずか三つ(三次・尾関山・浜原)だけということになる。駅舎が建てられても良さそうなところ(注37)や駅舎があったのでは…と思うところ(注38)はいくつもあったのだが、こういう状況になった背景にあるのは沿線人口が少ないことや元々費用対効果が低いのに建設が推進されたこと、モータリゼーションの進展や過疎化により1960年代以降日本国有鉄道の経営状態が悪化したこと、そして維持費用がかさむために解体撤去せざるを得なくなったことではないのだろうか。

 

尾関山駅(左)と三次駅(右)の駅舎。この二つの駅を除いて三次駅〜浜原駅間の三江線には本格的な駅舎は全くなかった。

 さて、江津駅から江の川に沿って延びてきた初代三江線が浜原駅に到達したのは1937年(昭和12年)秋のことである。この浜原駅で初代三江線の建設は一段落したことから浜原駅の敷地は広くとられ、小さいながらも立派な駅舎が建てられたのである。浜原以南の三江線が開通し、浜原駅が終着駅でなくなるまでそれから40年近い歳月がかかったのだが、広い敷地と立派な駅舎が拠点的な駅だったことを今に伝えている。

2番ホームから北方を望む。いくつも線路が敷かれていることが分かる。

(西口)駅前広場から北方を望む。現在駐車場になっているところもかつては駅の敷地だったのだろうか。

 また、浜原駅の特徴として三江線上り方向(三次→江津)では三次駅以来の跨線橋があることが挙げられる。恐らく三江線全線開通後に作られたものと思われるのだが、起点の江津駅と終点の三次駅を除いて跨線橋が残っているのは石見川本駅(邑智郡川本町川本)とこの浜原駅だけである。浜原駅が三江線における重要な駅とされていることを感じさせている(もっとも、現在浜原駅で列車の交換が行われるのは一日に一度だけなのだが…)。

浜原駅跨線橋の駅舎側入口

北方(2番ホーム)から撮影した浜原駅の駅舎と跨線橋

 浜原駅のある邑智郡美郷町浜原地区はいわゆる昭和の大合併までは地方自治体としての村(当時の名称は邑智郡浜原村〔1889〜1955〕)であり、町制施行したことはないばかりか昭和の大合併で発足した邑智郡邑智町、そして平成の大合併で発足した邑智郡美郷町の中心部になったこともない(邑智郡邑智町→邑智郡美郷町の中心部は一貫して粕渕)。それでいてなぜ初代三江線→三江北線の終着駅が置かれ、三江線全線開業後も拠点駅と位置付けられたのか。そしてなぜ駅の敷地は広いのか。恐らく次に挙げるようなことがあったからではないかと思われる。
・江津駅からの三江線の建設は地形的に険しいことから浜原駅までで一旦打ち切ることにしたから。
・粕淵駅(邑智郡美郷町粕渕)は江の川から300mほど離れたところにある上に15mほどの高低差があるが、浜原駅は江の川から200mも離れていない上に高低差もあまりないから。
 つまり、浜原駅を鉄道輸送と舟運の中継地として位置付けようとしていたのではないかと考えたいのである。初代三江線の建設が進められていた時期はちょうど舟運が廃れようとしていた時期でもあるのでこの考えは正しくないのかもしれないのだが、恐らく何らかの拠点にしようとしていたことは事実であろう。
 しかし、邑智郡美郷町浜原地区は鉄道開通を契機に発展するどころかその後も時代の荒波に揉まれ続けることになる。その数々を挙げると次の通りになる。
・昭和の大合併では邑智郡美郷町浜原地区、すなわち当時の邑智郡浜原村は邑智郡粕淵町(1947〜1955)などとの統合を選択したこと。その結果発足した邑智郡邑智町の中心部は前にも記した通り粕渕となり、邑智郡美郷町浜原地区は邑智郡邑智町の一地区になり下がってしまった。
・邑智郡美郷町浜原地区を貫く幹線道路である県道8号大田・三次線→国道375号線が浜原駅の東方の山裾に建設されたバイパス(国道375号線邑智バイパス)に移ったこと。これにより浜原駅の西方を通る道は交通量が激減してしまった(もっとも、元々交通量はそんなに多くはなかったのだが…)。
・浜原駅のすぐ北にあった邑智町立浜原小学校(邑智郡美郷町浜原)が2004年(平成16年)春に廃校になったこと。邑智郡美郷町浜原地区に住む児童は美郷町立邑智小学校に通うことになったのだが、今でも邑智町立浜原小学校の建物は残っているものの地域の象徴がなくなることはかなりの寂しさをもって受け止められたのではないのだろうか。
 そして今年4月1日、邑智郡美郷町浜原地区を貫いていた三江線が廃止されることになった。80年間地域とともにあったものがなくなることはどのように受け止めているのだろうか。そこが気になる。

 浜原駅は今は駅員が配置されていない無人駅となっているのだが、駅務室だったところは現在浜原地域おこし協力隊の事務局が入居している(浜原地域おこし協力隊のブログはこちら。なお、ブログの題名の「greentea」は邑智郡美郷町浜原地区が茶の産地であることにちなんでいる)。浜原駅以西の三江線は第二次世界大戦前に建設されたこともあり、駅舎がある駅も少なくないのだが、そういうところでは無人化された駅の駅務室を利用する例がいくつも見られるようになる。無人化された駅の駅舎はどのように活用するかが問題になることが多いのだが、地域のために利用するのは感心できることだし、三江線廃止後も活用し続けて頂きたいものだと思っている。

浜原駅の改札の脇の駅舎外壁にある古びた駅名看板。
その脇の駅務室だったところの窓ガラスにこの写真では判読しづらいのだが「浜原地域おこし協力隊事務所」と書かれた貼り紙が見える。

  

浜原地域おこし協力隊事務所の窓ガラスに貼られていた邑智郡美郷町及びその周辺地域の行事(本ページ公開時点では全て開催済)のポスターの数々
※肖像権擁護のため一部の写真に加工を施している。

 浜原駅の駅舎を出て(西口)駅前広場から駅舎を見る。駅舎入口の向かって左側には三江線の全線開通を記念する石碑が建てられている(下の写真。なお肖像権擁護のため加工を施している)。

 この石碑の揮毫(きごう)者は三江線全線開通当時衆議院島根県全県区選出の代議士だった細田吉蔵(1912〜2007。衆議院島根県第一区(注39)選出の細田博之代議士の父親)である(石碑に書かれている「わかさの会」はいかなる組織なのかは不明)。そういえば口羽駅から少し離れたところにある口羽側の全線開通記念碑の揮毫者は三江線全線開通当時衆議院島根県全県区選出の代議士だった大橋武夫(1904〜1981)だったのだが、地域の有力政治家(注40)が全線開通記念碑に揮毫したのは三江線は自分の尽力があったから全線開通に至れたことを示すためだったのでは…と思うのは私だけだろうか。もっとも、細田吉蔵にしても大橋武夫にしても三江線の通る江津市や邑智郡の出身ではなかった(注41)のだが…。

浜原側の全線開通記念碑の揮毫者名拡大部分。「衆議院議員/細田吉蔵書」と記されている。

 

口羽側にある三江線全線開通記念碑と揮毫者名の拡大写真。
「元運輸大臣/勲一等/大橋武夫書」と記されている。

 南勝線や今福線(広浜線)、岩日北線といった陰陽連絡鉄道計画が次々と挫折していく中で三江線だけが何とか全線開通に至れたのは着手時期が早かったことや両側から建設が進められていたこと、長大トンネルを掘ったところはあるが江の川があることで生じた中国山地の切れ目を通せたことなどいろいろ挙げられることであろうが、やはり政治家の力が大きかったこともあるのではないのだろうか。何としてでも地域を発展させたいし地域住民の支持を得たい。高度経済成長の中で若年者を中心として人口流出が著しくなり、主力産業だった農業・漁業・林業に代わって地域を発展させ、人口流出を食い止める産業がなかなか育たなかった島根県を地盤とする政治家の切実な思いが感じられる。しかし、その思いは必ずしも結実しなかったことは三江線の消長を考えればよくうかがえることである。全線開通記念碑に揮毫した方々は既に逝去されているのだが、草葉の陰でこの状況をどのように感じているのだろうか。

 浜原駅(西口)駅前広場は邑智郡美郷町浜原/浜原駅西口交差点(信号機・交差点名標なし)に接している。三江線においてこういう駅前広場は珍しく、この旅の進む方向(三次→江津)で言えば三次駅以来である。浜原駅(西口)駅前広場から見て右方向は美郷町道上川戸・粕渕線(国道375号線旧道)を通って邑智郡美郷町の中心部がある粕渕に、直進方向は美郷町道吾郷・浜原線を通り、江の川に架かる浜原大橋(全長:153.8m)を渡って邑智郡美郷町浜原地区西部となる亀村・滝原に、左方向は美郷町道上川戸・粕渕線(国道375号線旧道)を通って国道375号線と県道166号美郷・飯南線の分岐点がある上川戸にそれぞれ行けるようになっている。浜原駅はまさに交通の要衝にある駅だったということになるわけである。しかし、その地の利が生かされる時は遂に来なかったというのが残念なところである。

浜原駅から粕淵駅へ

 浜原駅の(西口)駅前広場を出て邑智郡美郷町浜原/浜原駅西口交差点(信号機・交差点名標なし)を右折して美郷町道上川戸・粕渕線(国道375号線旧道)を大田方面に進む。浜原駅の(西口)駅前広場に接する辺りで中央線こそないが一時的に広くなった美郷町道上川戸・粕渕線(国道375号線旧道)であるが、浜原駅の(西口)駅前広場を過ぎると上下2車線幅(注35)に戻る(下の写真)。やがて右に「く」の字に曲がる辺りで江の川右岸土手と並行するようになる(下の写真ではその土手は中央部に見えている)。

 江の川右岸土手と並行するのはわずかな区間だけで、美郷町道上川戸・粕渕線(国道375号線旧道)は再び道の両側に右側に民家を見ながら進むことになる。その辺りには浜原隣保館や浜原郵便局もあり、邑智郡美郷町浜原地区の中心部がまだ続いていることを感じさせる。道の両側に建ち並んでいた民家が途切れる辺りで再び江の川右岸土手と並行するようになると間もなく江の川右岸土手への上り坂になる。坂を上り終えた先にある浜原跨線橋(全長:9.4m)で三江線を跨ぐと丁字路に差しかかる。その丁字路、すなわち邑智郡美郷町浜原/渋谷橋東詰交差点(信号機・交差点名標なし)は美郷町道上川戸・粕渕線(国道375号線旧道)に山側に延びる上下2車線の美郷町道が突き当たる格好になっているのだが、実はこの上下2車線の美郷町道は国道375号線邑智バイパス第二期区間(邑智郡美郷町上川戸/丸郡橋西詰交差点〔交差点名標なし〕邑智郡美郷町浜原/久保橋南交差点〔信号機・交差点名標なし〕間)の終点と国道375号線現道(現在の美郷町道上川戸・粕渕線)を繋ぐために作られたものである。国道375号線邑智バイパス第二期区間が開通したのは1999年(平成11年)頃のことだったのだが、国道375号線邑智バイパス第二期区間の開通により邑智郡美郷町浜原地区の中心部やその南方にある災害の危険が高い箇所を回避できるようになったのである。無論それでも国道375号線邑智バイパスは全線開通とはならなかった。この旅でこれから進むところにも難所が残されており、それを完全に回避することが建設の目的だったからである。
 邑智郡美郷町浜原/渋谷橋東詰交差点(信号機・交差点名標なし)を過ぎると美郷町道上川戸・粕渕線(国道375号線旧道)は江の川支流の渋谷川を屈曲が入っていることが印象的な渋谷橋(全長:13.6m)で渡る。この渋谷川は邑智郡美郷町浜原と邑智郡美郷町久保の境となっており、同時に邑智郡美郷町浜原地区と邑智郡美郷町粕淵地区の境ともなっている。記すまでもないのだが昭和の大合併まではここが邑智郡浜原村と邑智郡粕淵町の境だったのである。
 国道375号線邑智バイパスの久保橋(全長:145.8m)とナガ・ツキ(注42)美郷工場(邑智郡美郷町久保)を右側に見ながら進むと間もなく道は再び山と川に挟まれたところを通るようになる。私は前に「この旅でこれから進むところにも難所が残されており…」と書いたのだが、その難所の一つがそこだったのである。この難所の長さも数百m程度なのだが、国道375号線が三次市と邑智郡美郷町・大田市を結ぶ幹線道路として有用な存在になるためには大胆なバイパスを作る以外に方法はなかったのだろう。
 山と川に挟まれた難所を過ぎると美郷町道上川戸・粕渕線(国道375号線旧道)には中央線が入るようになるが、その中央線の色は橙色、すなわち追い越し禁止を示すものである。交通量は少ないのに追い越し禁止規制をかけているのは上下2車線の道ながら屈曲が多いし、見通しが悪い切り通しがあるからであろう。更にその辺りの制限速度は時速30km。広域幹線道路として有用ではないことがうかがえる。
 上下2車線の道になって間もなく道は右に曲がり、切り通しの中を進んでいく。切り通しの上には橋が架かっている。この切り通しの両側の山にはかつて美郷町立邑智中学校があった。山の両側に敷地を造成した関係上、敷地を繋ぐための橋が切り通しに架けられたようである(注43)。美郷町立邑智中学校は2010年(平成22年)に邑智郡美郷町粕渕の島根県立邑智高等学校跡地に移転し、今その跡地は美郷町防災公園となっている。
 美郷町防災公園の切り通しを過ぎると美郷町道上川戸・粕渕線(国道375号線旧道)は屈曲しながら下っていく。途中で三江線を粕渕橋(全長:7.6m)で跨ぎ(注44)、江の川支流の早水川を早水橋(全長:30.0m)で渡る。その坂を下り切ったところの左側に粕淵駅とその(北口)駅前広場がある。

粕淵駅(かすぶちえき)

粕淵駅の駅舎。美郷町商工会館に併設されているが駅施設は建物の端になっている。

 

粕淵駅の駅舎入口。よく見ると庇に掲げられている駅名が「粕駅」になっている。

粕淵駅の駅名標

三江線活性化協議会が設置した看板。粕淵駅の愛称は神武となっている。

粕淵駅のデータ

項目 記事
所在地 邑智郡美郷町粕渕
駅名の由来 駅がある(自治体としての)村の名前。
駅がある大字の名前。
開業年月日 1937年(昭和12年)10月20日
接続鉄道路線 なし
駅構内にあるもの 駅舎(美郷町商工会館との合築だが駅の施設は建物の端に置かれている)
プラットホームの形式 単式ホームで南側を利用している。
昔は島式ホームだったが、列車本数減少に伴う交換施設廃止により北側の線路は撤去された。
起点または終点からの距離
(営業キロ)
起点(江津)から48.1km
終点(三次)から60.0km
前後の駅からの距離
(営業キロ)
(下り線)明塚駅から3.1km
(上り線)浜原駅から2.0km
JR三江線の列車の発車・到着時刻
(2017年〔平成29年〕3月4日現在)
(下り列車)
423D…午前7時38分(江津発三次行)
425D…午後2時37分(浜田発浜原行)
429D…午後5時0分(江津発三次行)
431D…午後6時24分(江津発浜原行)
435D…午後8時54分(江津発浜原行)
(上り列車)
420D…午前6時24分(浜原発浜田行)
422D…午前7時47分(三次発浜田行)
424D…午前11時44分(三次発石見川本行)
430D…午後5時12分(浜原発江津行)
434D…午後7時8分(浜原発江津行)
付近にある主要施設 美郷町商工会館
美郷町防災公園
粕淵郵便局
美郷町役場
美郷町立邑智小学校
美郷町立邑智中学校
川本警察署粕渕駐在所
付近にある名所・旧跡・自然 早水川
江の川
石見銀山街道
亀遊亭(江戸時代後期の庄屋屋敷を利用した旅館)
カヌーの里おおち
ゴールデンユートピアおおち
浄土寺
付近を通る国道路線
または県道路線
国道375号線
※粕淵駅の北約400mのところを通っている。かつては粕淵駅のすぐ北側を通っていたが邑智バイパス開通に伴う旧道処分で邑智郡美郷町に移管され、美郷町道上川戸・粕渕線になっている。
県道40号川本・波多線
※粕淵駅の北約400mのところを通っている(つまり国道375号線と重用している)。かつては粕淵駅の北約200mのところを通っていたが粕渕・三瓶バイパス開通に伴う旧道処分で邑智郡美郷町に移管され、美郷町道になっている。
備考 ・三江線で最も北にある駅である。
・邑智郡粕淵村(1889〜1947)→邑智郡粕淵町(1947〜1955)→邑智郡邑智町(1955〜2004)→邑智郡美郷町(2004〜)の代表駅ではあるがこの駅始発または終着の列車はなく、交換施設も撤去されている。また、交換施設があった当時、島式のプラットホームへは下り線に設置された構内踏切を渡らなければ行けないようになっていた。
・駅名は「粕
」だが所在地表記は「粕」である。但し「粕渕駅」という駅名表記や「粕淵」という地名表記も見られる。
・三江線にある駅では唯一の合築駅である。

 粕淵駅はその開業から廃止までの80年あまり、属してきた自治体の代表駅であり続けた。開業した時は邑智郡粕淵村(1889〜1947)で、その後邑智郡粕淵町(1947〜1955)→邑智郡邑智町(1955〜2004)→邑智郡美郷町(2004〜)と変遷した。それにもかかわらず駅の規模はそんなに大きくはない。「浜原駅(はまはらえき)」で触れたように拠点駅とするには難があったからである。
 それでも早い時期に開業したこともあり、駅舎や交換施設を持つ駅だったのだが、その後の情勢の変化により無人駅になり、交換施設も撤去された。これで駅舎も撤去すれば単なる停留所になってしまう。更に粕淵駅は邑智郡邑智町の中枢部(町役場や学校があるところ)からは500mほど離れたところにあることや粕淵駅のすぐ北側を通る国道375号線が近い将来浜原・粕渕の東側の山裾を通る邑智バイパスに移行することになっていたことから鉄道駅の存在が薄れる恐れをはらんでいた。そこで商工会館を併設した駅に作り替えることになったようである。三江線の途中駅では最も新しい駅舎ということになるのだが、見たところ商工会館の片隅に駅施設をくっつけただけの印象が否めなかった。三江線を通る列車の本数が少なくなり、利用者も少なくなっていることを考えれば妥当なことなのだろうが…。
 無論現在の粕淵駅の駅舎は鉄筋コンクリート造であるわけであるが、待合室の中は木がふんだんに使われていた。昔の駅舎内部を再現しようとしたのであろうか。何か懐かしくて温かみのある待合室であった(下の写真)。

 また、待合室には三江線を題材にした写真コンテスト(上の写真でもその一部が見える。但し行われたのは2009年度〔平成21年度〕のことである)の入賞作品が展示されていた。前にも記した通り粕淵駅は邑智郡邑智町の中枢部からいくらか離れたところにあり、ともすればその存在は希薄になる恐れをはらんでいるのだが、こういうところに地域の粕淵駅の存在感を高め、三江線の利用促進に繋げようという思いを感じたものである。
 さて、駅舎を出てプラットホームに向かう。無人駅である上にワンマン運転になってからの新築であるために改札はない。それは粕淵駅と前後して待合小屋を新築した香淀駅(三次市作木町門田〔もんで〕)や式敷駅(安芸高田市高宮町佐々部)と同じである。
 世が世なら改札が置かれていたかもしれなかったところにある扉を開けて外に出る。ところが、プラットホームはその先にはない。プラットホームへの通路は扉のすぐ先で右に折れていて、しばらく歩かなければならないのである(下の写真)。なぜこのようになったのであろうか。

 しばらく通路を歩くとプラットホームに着く。よく見るとかつては両側とも使われていたことが分かる(下の写真)。かつては南側(下の写真の左側)が上り方向(三次→江津)用、北側(下の写真の右側)が下り方向(江津→三次)用として使われていたのであろう。

 線路が撤去された側(北側)のプラットホームから下を覗き込む。敷地は削られているが、今も線路が敷かれていた当時使われていた砂利(バラスト)が残されていた(下の写真)。

 実は粕淵駅はもしかしたら鉄道路線の分岐駅になっていたかもしれなかった。というのも、鉄道敷設法別表第95号に次のような路線が記載されていたのである。
「島根県滝原附近ヨリ大森ヲ経テ石見大田二至ル鉄道」
 現在の地名に直せば邑智郡美郷町滝原付近から大田市大森町を経て大田市中心部に至る路線ということになる。三江線と山陰本線を結ぶ鉄道路線ということになるのだろうが、邑智郡美郷町滝原に鉄道が通っていないことや粕淵駅が三江線で最も北にある駅であること、言い換えれば大田市中心部に最も近い駅であることを考えれば粕淵駅がこの鉄道路線の分岐駅になった可能性が高い。
 この鉄道路線―邑智郡美郷町滝原を通る見込みがなくなっても大滝線と称していたのだが―は日本国有鉄道の経営状況が悪くなり、利用低迷必至の路線の開業を渋るようになった(注45)1970年代初頭になっても建設への動きがあったことが中国新聞朝刊島根版などで報じられているのだが、記すまでもなく結局は実現しなかった。もし実現していれば広島市と山陰地方中央部を結ぶ特急列車が設定されていただろうし、三江線のうちの少なくとも粕淵〜三次間は存続できていただろうが島根県西部にある都市はいずれも発足したのは昭和時代に入ってからであり、しかも10万人以上の都市は存在しないこと(注46)、高度経済成長期以降若年者を中心とした人口流出に悩まされたこと、温度差はあるが広島市との繋がりが深いことなどからどの都市も陰陽連絡鉄道路線を欲したこと(注47)が実現を遠のかせたのであろう。

 それはさておき、粕淵駅のプラットホームには待合所があるのだが、その壁にはこんな看板が掲げられている(下の写真)。

 邑智郡美郷町に来たことを歓迎する看板(影でよく見えない部分があることと一部が切れていることはご容赦願いたい)なのだが、なかなか面白い。邑智郡美郷町を象徴する山と川(川は無論江の川)、カヌーを操っているイノシシ、「こっち、きちゃんさい!」と方言で書かれた宣伝文句(?)、いろいろな色を使って書かれた歓迎文句、そして邑智郡美郷町の自然と特産品(イノシシ(注48))をモティーフとして作られたキャラクター(名前はみさ坊という)…。この看板が設置されたのは三江線の廃止問題が浮上する少し前のようであるが、こういう看板を見て心が和まされた人も多いのではないのだろうか。
 ところで、粕淵駅は粕渕駅とも記されることがある(駅舎の入口の庇に見られる)のでどちらが正しいのかと思う方がいるかもしれない。実は「淵」が正式な字で、「渕」は略字なのである(確かに「渕」という字は「淵」より画数が少なくて済むし…(注49))。だから「粕淵駅」「邑智郡美郷町粕淵」と表記するのが正式になるのだが、こういうことは(島根県でのことではないのだが)県道路線の名称でも見られており(注50)、(どうでも良いことなのかもしれないのだが)どうなんだろうと悩ませている。

 粕淵駅で三江線は進行方向を北から南西に変える。長かった邑智郡美郷町区間の旅もいよいよ終盤に差しかかるわけであるが、同時に三江線が直面してきた自然の厳しさも感じることになる。それを次章では紹介したい。

第6章に続く

注釈コーナー

注1:もう一箇所は邑智郡美郷町長藤(石見松原〜石見都賀間)にある。但しその延長は400m程度しかない。

注2:そのことは山陰自動車道(国道9号線朝山・大田道路及び大田・静間道路)の大田市久手町刺鹿(さつか)に設置されるインターチェンジの名称が大田中央・三瓶山インターチェンジとなったことでもうかがえる(今年3月18日国道9号線朝山・大田道路の全区間、すなわち大田朝山インターチェンジ〔大田市朝山町朝倉〕〜大田中央・三瓶山インターチェンジ間が供用開始予定)。三瓶山山頂は大田中央・三瓶山インターチェンジの南東約13kmのところにあるのだが、大田市の象徴たる存在である三瓶山の最寄インターチェンジであることを示すためにそういう名称にしたのであろう。なお、大田中央・三瓶山インターチェンジから三瓶山へは国道9号線→県道30号三瓶山公園線を経由して行くことになるが、県道30号三瓶山公園線は大田市中心部において案内が不十分であることや中央線がない箇所があることなどが課題として残されており、その解消が今後求められていくことになるものと思われる。
※そのせいか大田市中心部から三瓶山に行く場合、少々遠回りにはなるのだが国道375号線→県道288号瓜坂・川合線を経由する方も少なくない。

注3:三江線における三瓶山の最寄駅は粕淵駅であるが、粕淵駅から三瓶山に行く際に通る県道40号川本・波多線の整備が完了したのは2010年(平成22年)8月8日のことである。

注4:島根県のうちの旧隠岐(おき)国(現在の隠岐郡に相当する地域)における市制町村制の実施は本土部分(旧出雲国・旧石見国に相当する地域)より15年も遅い1904年(明治37年)4月1日に実施されている。

注5:同じような例は実は私が住んでいる福山市にもある。いわゆる昭和の大合併まで存在した沼隈郡神(か)村(1889〜1954)と沼隈郡東村(1889〜1954)がそれである。沼隈郡神・東両村は1954年(昭和29年)3月31日に沼隈郡松永町及び金江・藤江・本郷・柳津各村と統合して松永市(1954〜1966)の一部になったのだが、沼隈郡神村だった地域は松永市神町ではなく松永市神村町に、沼隈郡東村だった地域は松永市東町ではなく松永市東村町にそれぞれ変更されている。「神町」や「東町」にしてしまうと地名としてどうかという問題が生じることからそのようにしたのであろう。松永市は1966年(昭和41年)5月1日に福山市と統合して改めて発足した福山市の一部になったが、改めて発足した福山市にそれらの町名は継承されており、現在も神村町と東村町は福山市の町名として存在する。
※ちなみに沼隈郡東村の西隣には沼隈郡西村(1889〜1955)も存在した(東村にしても西村にしてもいかなる由来があったのかは不明)。沼隈郡西村は1955年(昭和30年)2月1日に尾道市に編入されるのだが、その際尾道市西村町ではなく尾道市西藤町に変更されている。尾道市西町にならなかったのは沼隈郡神・東両村と同じ事情によるものであろうが、なぜ尾道市西村町にならなかったのかは分からない。

注6:同じような例は私が住んでいる福山市にある私立四年制大学・福山大学(福山市東村町)の所在地表記でも見られる。福山大学の正式な所在地表記は福山市東村町三蔵985番地の1なのだが、福山大学は印象向上が目的なのか福山市学園町1番地三蔵という所在地表記を使っている(無論福山市の町名に「学園町」なるものは存在しない)。なお、福山大学には専用郵便番号(729-0292)があり、「729-0292 福山大学…」と宛先を書けば郵便物は届くようになっている。
※余談だが福山大学の学園祭の名称は大学の所在地の小字を採って三蔵祭となっている。毎年10月下旬の週末に2日間開催され、広島エフエム放送(HFM、広島市南区皆実町一丁目)が公開録音を行うことでも知られている。

注7:例えば三次市中心部の東方にある塩町は塩水の湧いている池があることが地名の由来になったとされている(諸説あり)。だから潮温泉の泉質が地名の由来になったことは十分考えられる。

注8:著名な「松原」はその多くが海の近くにあることから考えたことである。例えば日本三大松原は三保の松原(静岡市清水区)と気比(けひ)の松原(敦賀〔つるが〕市)、虹の松原(唐津市)であるが、いずれも海のそばにある。

注9:第4章では「地図をご覧頂ければうかがえるように三江線の未開業区間、言い換えれば最終開業区間となった浜原〜口羽間は三度江の川を渡り、なおかつ広島県を経由している」と書いており、浜原〜口羽間全体のことだと思った方かもしれないが、狭域的に見れば「三度江の川を渡り、なおかつ広島県を経由している」区間は本章で記している通り石見都賀〜口羽間となる。

注10:このうち本郷線だけは1969年(昭和44年)7月27日に開業したが、本郷線だった部分はその時可部線に編入されている。なお、本郷線だった部分は可部線のうちの可部〜加計間と一緒に2003年(平成15年)12月1日に廃止されている。

注11:信喜橋の江の川左岸側も江の川左岸を通る美郷町道とは立体交差になっており、江の川左岸を通る美郷町道へは取り付け道路で接続するようになっている。この江の川左岸側の取り付け道路は美郷町道との立体交差の北約150mのところで美郷町道と合流している。

注12:第37回国民体育大会は島根県で開催された初めての国民体育大会であるが、それに合わせて整備されたものも少なくない。一例を挙げると次のようになる。
・松江市中心部の東側を貫いているくにびき通り。現在は国道431号線や県道21号松江・島根線になっている。
・JR伯備線全線及びJR山陰本線伯耆大山(ほうきだいせん)〜西出雲間の電化。これに伴いキハ181系気動車を使っていた特急「やくも」号は全て381系電車に置き換えられ、全列車が岡山〜出雲市間を走る列車となった(第3章の注20でも触れているが1往復だけ設定されていた岡山〜益田間の列車はこの時廃止されている)。

特急「やくも」号。現在381系電車を用いている唯一の定期特急列車である。
2017年(平成29年)5月には2022年度(平成34年度)をメドに新型車両を導入するという報道がなされており、今後が注目される。

・江津中央公園(江津市嘉久志町)。

江津中央公園に来たことを歓迎するアーチがある国道9号線と江津中央公園を結ぶ道路。
現在は国道9号線と山陰自動車道(国道9号線江津道路)江津インターチェンジ(江津市嘉久志町)を結ぶ県道330号江津インター線になっている。

注13:ここでは現在の形の三江線は1953年(昭和28年)当時存在しなかったと書いている。というのも、1953年(昭和28年)当時、江津〜浜原間の国鉄路線の名称は三江線になっていたからである。もしかしたら「1953年(昭和28年)当時も三江線は存在したはずだ。何を間違ったことを書いているのか」という指摘が来るかもしれないので注釈でそのことを書いた次第である。
※江津〜浜原間の三江線、すなわち初代三江線は1955年(昭和30年)3月31日に三江南線三次〜式敷間が開業した際に三江北線(1955〜1975)に改称している。

注14:ここでは島根県側の存続期間を記している(広島県側の存続期間は1954〜1976年〔昭和29〜51年〕)。

注15:正式名称は「日本国政府建設省に対する名古屋・神戸高速道路調査報告書」である。

注16:福山市周辺でそれが垣間見える事例としては1960年(昭和35年)に完成した三川ダム(世羅郡世羅町伊尾)がある。三川ダムのダム湖である神農湖の西岸を通る道(世羅町道)は狭く、大型車の通行は困難になっている。また、神農湖東岸を通る道は林道であり、関係者以外の通行は禁止されている。
※ちなみに神農湖の湖底に沈んだ集落は大妻女子大学(千代田区三番町)の創始者である大妻コタカ(女性。1884〜1970)の出身地である。大妻コタカの生家は神農湖の西岸に移築されており、そばには胸像も建立されている。

注17:深夜・早朝は点滅運用になっている。

注18:県道166号美郷・飯南線は時期により路線番号や路線名称が異なっている。その変遷は下表の通りである。

時期 路線名称 備考
1958年(昭和33年)6月13日〜
1966年(昭和41年)3月29日
県道26号邑智・赤来線
1966年(昭和41年)3月29日〜
1972年(昭和47年)8月1日
県道22号邑智・赤来線 国道路線・主要地方道路線再編に伴う路線番号再編により路線番号変更。
1972年(昭和47年)8月1日〜
2006年(平成18年)4月1日
県道166号邑智・赤来線 県道標識(正式名称は都道府県道番号)導入に伴う路線番号再編により路線番号変更。
2006年(平成18年)4月1日〜 県道166号美郷・飯南線 2006年(平成18年)3月31日島根県告示第363号により改称。

注19:県道166号美郷・飯南線の正式な終点は飯石郡飯南町下赤名/東上交差点(信号機・交差点名標なし)なのだが、事実上の終点はその300mほど西方にある飯石郡飯南町下赤名/千束北交差点(信号機・交差点名標なし)である。飯石郡飯南町下赤名/千束北交差点(信号機・交差点名標なし)飯石郡飯南町下赤名/東上交差点(信号機・交差点名標なし)間は県道55号邑南・飯南線と重用しているためである。

注20:市制町村制施行時の邑智郡の最東端・最西端・最南端・最北端と市制町村制施行後の所属自治体の変遷は次の通りである。
・最東端…邑智郡美郷町酒谷(邑智郡沢谷村〔1889〜1955〕→邑智郡邑智町〔1955〜2004〕→邑智郡美郷町〔2004〜〕)
・最西端…江津市桜江町長谷(邑智郡長谷村〔1889〜1954〕→邑智郡桜江村〔1954〜1955〕→邑智郡桜江町〔1956〜2004〕→江津市〔2004〜〕)
・最南端…邑智郡邑南町市木(邑智郡市木村〔1889〜1958〕→邑智郡瑞穂町〔1958〜2004〕→邑智郡邑南町〔2004〜〕)
・最北端…邑智郡美郷町別府(邑智郡君谷村〔1889〜1955〕→邑智郡邑智町〔1955〜2004〕→邑智郡美郷町〔2004〜〕)
ちなみに邑智郡最東端は旧石見国最東端でもある。

注21:旧石見国の最東端・最西端・最南端・最北端と市制町村制施行後の所属自治体の変遷は次の通りである。
・最東端…邑智郡美郷町酒谷(邑智郡沢谷村〔1889〜1955〕→邑智郡邑智町〔1955〜2004〕→邑智郡美郷町〔2004〜〕)
・最西端…鹿足郡津和野町吹野(鹿足郡木部村〔1889〜1955〕→鹿足郡津和野町〔1955〜〕)
・最南端…鹿足郡吉賀町柿木村椛谷(鹿足郡柿木村〔1889〜2005〕→鹿足郡吉賀町〔2005〜〕)
・最北端…大田市朝山町仙山(安濃郡朝山村〔1889〜1954〕→大田市〔1954〜〕)
ちなみに旧石見国最南端(鹿足郡吉賀町柿木村椛谷〔かばたに〕)は島根県最南端、旧石見国最西端(鹿足郡津和野町吹野)は島根県最西端でもある。

注22:石見銀山街道が笠岡または尾道に至る街道となったのは石見銀山から見て笠岡や尾道は大消費地の京(現:京都市)や大坂(現:大阪市)のほぼ中間点にあることと好条件の港町がその間にはなかったことが大きいように思われる。

注23:石見銀山街道の主な後身的道路としては下表に挙げるものがある。

※下表に挙げた路線は石見銀山街道を前身としていることや石見銀山街道を踏襲した経路はとっていないが近接したところを並行していることを条件に記している。また、前記に該当する路線で、単独区間のないもの(すなわち該当区間は他の国道路線または県道路線と重用しているもの)は記していない。

経路名 県名 後身的存在の道路 備考
共通部分 島根県 国道54号線
国道375号線
県道31号仁摩・邑南線
県道40号川本・波多線
県道55号邑南・飯南線
県道166号美郷・飯南線
県道186号美郷・大森線
広島県 尾道自動車道
国道54号線
国道183号線
国道184号線
国道375号線
県道27号吉舎・油木線
県道223号吉舎停車場線
県道224号三良坂停車場線
県道225号塩町停車場線
県道229号神杉停車場線
県道437号大津・横谷線
笠岡ルート 広島県 国道432号線
国道486号線
県道24号府中・上下線
県道26号新市・七曲・西城線
県道27号吉舎・油木線
県道76号神辺・大門線
県道102号下御領・井原線
県道181号下御領・新市線
県道388号木野山・府中線
県道398号新山・府中線
県道420号木頃・井永線
岡山県 国道2号線
県道3号井原・福山港線
県道289号東大戸・金浦線
尾道ルート 広島県 尾道自動車道
国道184号線
国道432号線
県道25号三原・東城線
県道51号甲山・甲奴・上市線
県道363号栗原・長江線
県道383号篠根・高尾線
県道427号宇賀・矢野線

現在では島根県西部と岡山県南西部・広島県南東部の繋がりは強いとは言えなくなっているが、2015年(平成27年)に全線開通した中国横断自動車道尾道・松江線のうちの中国自動車道以南の部分、すなわち尾道自動車道は石見銀山街道尾道ルートに並行しており、目的などは違うが石見銀山街道尾道ルートの後身的存在とも言えるようになっている。また、府中市では芦田川及びその支流の阿字川沿いの道の整備により廃れてしまった石見銀山街道笠岡ルートに沿って府中市協和・上下地区と府中市中心部を短絡する県道路線の計画が浮上しており、開通すれば府中市協和・上下地区と府中市中心部を結ぶ現代の石見銀山街道笠岡ルートが誕生することになる(但し広島県の財政事情が厳しいことや費用対効果が見込めないことなどからいつ実現するかは不明)。
※府中市協和・上下地区は現在の府中市阿字町・木野山町・上下町・斗升町・行縢(むかばき)町を指す。府中市編入前は芦品郡協和村(1955〜1975。府中市阿字町・木野山町・斗升町・行縢町に相当する地域)と甲奴郡上下町(1897〜2004。現在の府中市上下町に相当する地域)だった。

宇津戸第一トンネル南側坑口の上から撮影した尾道自動車道

南側から撮影した県道388号木野山・府中線の府中側車道端点(府中市荒谷町)。
警戒標識のすぐ後ろで左方へ延びていくのがあるのが石見銀山街道だった道。現在は歩くことも困難なほど草木が繁茂している。
なお、右方に延びていく道は県道417号小畠・荒谷線である。

 

県道388号木野山・府中線の府中側車道端点の傍らにある「伝説の地 茗荷丸(みょうがのまる)」の石碑と説明板。
素戔嗚尊(すさのおのみこと)にまつわる伝承で、石見銀山街道が古くから利用されていたことを今に伝えている。

注24:邑智郡粕淵町及び吾郷・君谷・沢谷・浜原各村が統合して邑智郡邑智町が発足したのは1955年(昭和30年)2月1日のことであり、三江南線三次〜式敷間が開業したのはその約2ヶ月後の1955年(昭和30年)3月31日のことである。

注25:この件は第3章の「作木口駅(さくぎぐちえき)」で触れているので併せてご覧頂きたい。

注26:この件は第3章の注18・注19で触れているので併せてご覧頂きたい。

注27:この件は第3章の「口羽駅(くちばえき)」の「口羽駅のデータ」で触れているので併せてご覧頂きたい。

注28:全線の改良、すなわち上下2車線化を指す。

注29:大きな出来事としては邑智バイパス(邑智郡美郷町潮村〜邑智郡美郷町粕渕間)の全線開通(2003年〔平成15年〕8月8日)と湯抱バイパス(邑智郡美郷町湯抱〜邑智郡美郷町別府間)の全線開通(2015年〔平成27年〕3月20日)が挙げられる。

注30:現在邑智町立沢谷小学校の跡地には沢谷公民館や沢谷交流センター、川本警察署沢谷駐在所が建っている。
※邑智郡邑智町立沢谷小学校のすぐ南側を県道166号美郷・飯南線が通っているのだが、かつてはそこに黄色点滅方式の押しボタン式信号機が設置されていた。県道166号美郷・飯南線を通る車に対する注意喚起や邑智町立沢谷小学校に通う児童に対する交通安全教育を目的として設置されたものと思われる。起点の邑智郡美郷町上川戸/丸郡橋西詰交差点(交差点名標なし)を除けば県道166号美郷・飯南線唯一の信号機であり、邑智郡邑智町立沢谷小学校がなくなってからも何年かは運用されていたが、現在は撤去されている。

注31:2011〜2015年度(平成23〜27年度)について見ると沢谷駅の一日の平均乗車人数は2011年度(平成23年度)と2013年度(平成25年度)はそれぞれ2人、2012年度(平成24年度)は3人、2014年度(平成26年度)と2015年度(平成27年度)はそれぞれ1人となっている。

注32:初代筒賀駅は1956年(昭和31年)12月20日に現在の山県郡安芸太田町中筒賀に設置された(実際はその約1ヶ月前に設置された仮乗降場の駅への昇格)が、可部線加計〜筒賀(二代目)〜三段峡間開業を目前にした1969年(昭和44年)7月1日に田之尻駅(山県郡安芸太田町中筒賀。1969〜2003)に改称している。
※初代筒賀駅が田之尻駅に改称する1ヶ月ほど前に初代筒賀駅を起終点とする県道路線が二つ発足している。県道241号筒賀停車場線(1969〜2009)と県道303号上筒賀・筒賀停車場線(1969〜2009)である(どちらも1969年〔昭和44年〕5月30日広島県告示第428号により認定)。本来なら県道241号筒賀停車場線は県道241号田之尻停車場線に、県道303号上筒賀・筒賀停車場線は県道303号上筒賀・田之尻停車場線にそれぞれ改称されるべきだったのだが、なぜか改称されないまま2009年(平成21年)2月5日広島県告示第119号で廃止されるまで存続した。

在りし日の県道241号筒賀停車場線の県道標識。後ろにかすかに田之尻駅が見える。(2003年〔平成15年〕4月1日撮影)

在りし日の県道303号上筒賀・筒賀停車場線の県道標識(2003年〔平成15年〕4月1日撮影)

注33:筒賀駅の場合、山県郡筒賀村(1889〜2004)の中心部からは1kmほど離れたところにあった。

注34:「美郷町観光協会ブログ」による。

注35:普通自動車同士のすれ違いには難渋しないくらいの幅があるが中央線がない状態を指す。

注36:土居踏切以外には畳岩踏切(邑智郡美郷町上川戸)と熊見踏切(邑智郡美郷町熊見)がある。
※三江線より後に開業した鉄道路線でも踏切を設置する例はいくつもあり、中国地方ではJR可部線復活区間や井原鉄道井原線で踏切が設置されている。

JR可部線復活区間にある踏切の例

井原鉄道井原線にある踏切の例

注37:口羽駅や石見都賀駅が挙げられる。

注38:粟屋駅(三次市粟屋町)や式敷駅が挙げられる。

注39:島根県のうちの松江市・安来市・隠岐郡・仁多郡の全域と出雲市の一部地域(平田市〔1955〜2005〕だった地域)、雲南市の一部地域(大原郡加茂・木次〔きすき〕・大東各町だった地域)で構成される衆議院小選挙区。
※衆議院島根県第一区に含まれる出雲市と雲南市の町名は下表の通りである。

市名 衆議院島根県第一区に属する町名
出雲市 猪目町、十六島(うっぷるい)町、岡田町、奥宇賀町、釜浦町、上岡田町、唐川町、河下町、久多見町、口宇賀町、国富町、小伊津町、小境町、小津町、西郷町、坂浦町、塩津町、島村町、園町、多久町、多久谷町、地合町、東郷町、東福町、灘分町、西代町、西平田町、野石谷町、野郷町、平田町、別所町、本庄町、万田町、美談(みだみ)町、三津町、美保町、美野(よしの)町、鹿園寺(ろくおんじ)町
雲南市 加茂町、木次町、大東町

注40:三江線全線開業時点における衆議院島根県全県区選出の有力政治家には他に櫻内義雄(1912〜2003)や竹下登(1924〜2000)がいた。その後のことになるのだが、櫻内義雄は衆議院議長を、竹下登は総理大臣をそれぞれ務めたことは有名である。

注41:細田吉蔵は松江市出身、大橋武夫は仁多郡奥出雲町出身である。

注42:ナガ・ツキは広島市中区吉島西一丁目に本社を置く、プレキャスト製品(コンクリート二次製品とも称する)を作る会社である。公式サイトはこちらである。

注43:川や道路で複数に分かれた学校の敷地を橋で繋いでいる例は他にも多数あり、福山市及びその周辺では尾道市立長江中学校(尾道市長江三丁目)や福山市立西深津小学校(福山市西深津町五丁目)がある。

 

尾道市立長江中学校の敷地を分断する県道363号栗原・長江線に架かる橋(左:北方から撮影/右:南方から撮影)

 

福山市立西深津小学校の敷地を分断する川に架かる橋(左:北方から撮影/右:南方から撮影)

注44:浜原駅〜粕淵駅間で通る美郷町道上川戸・粕渕線(国道375号線旧道)と三江線の二度目の交差箇所は「浜原駅から粕淵駅へ」では触れていないのだが、実は渋谷橋を過ぎた先の山と川に挟まれたところで交差している。ただ、三江線は交差箇所の三次寄りのところでトンネルに入るため美郷町道上川戸・粕渕線(国道375号線旧道)を通っている時にはその交差には気付かない。

注45:北海道にあった国鉄白糠線のうちの上茶路〜北進間が挙げられる。上茶路〜北進間は1970年(昭和45年)までに完成していたのだが、上茶路駅(白糠郡白糠町上茶路基線。1964〜1983)の近くにあった炭鉱が閉山したことや人口希薄地帯であり、利用が見込めなかったことから日本国有鉄道は開業を見送った。しかし、1972年(昭和47年)に北海道を地盤とする佐々木秀世衆議院議員(1909〜1986)が運輸大臣に就任したことを契機に開業に至っている。
※その後白糠線は日本国有鉄道の経営再建の一環として廃止対象となり、1983年(昭和58年)10月23日に全線(白糠〜上茶路〜北進間)が廃止されている。政治家の力で何とか開業に漕ぎ着けた上茶路〜北進間は11年少々しか営業しなかったということになる。

注46:島根県の市町村の人口や発足時期はこちらで紹介しているのだが、そのうちの西部地域にある市について抜粋したものが下表である。

※発足年月日はその市が初めて発足した年月日を記しており、統合による再発足は考慮に入れていない。

※面積は「2017年(平成29年)全国都道府県市区町村別面積調」による。単位は平方キロメートル。

人口は2015年(平成27年)10月1日実施の国勢調査による。単位は人。なお、その後に変動があった市町村については修正している。

市名 読み方 発足年月日 面積 人口 備考
大田市 おおだ/し 1954年(昭和29年)1月1日 435.71 35,166
江津市 ごうつ/し 1954年(昭和29年)4月1日 268.24 24,468
浜田市 はまだ/し 1940年(昭和15年)11月3日 690.68 58,105
益田市 ますだ/し 1952年(昭和27年)8月1日 733.19 47,718

ちなみに島根県西部で最初に発足した市である浜田市は島根県では県庁所在地の松江市(1889年〔明治22年〕4月1日発足)に次いで二番目に市制施行したところである。

注47:島根県西部にある市を起点とする陰陽連絡鉄道路線構想は下表の通りである。

起点となる
市の名称
路線名称 行き先となる
主な山陽地方の都市
備考
大田市 大滝線 三次市
広島市
安芸高田市
府中市
福山市
大滝線は恐らく粕淵駅までの路線であり、粕淵駅以南は三江線を利用することで左記の都市に通じるようになっていた。
実現に向けての運動が起きたことはあったが結局着工に至らなかった。
江津市 三江線 三次市
広島市
安芸高田市
府中市
福山市
紆余曲折を経て1975年(昭和50年)全線開通。しかし過疎化やモータリゼーションの進展によって利用が低迷したことや江の川に沿って敷設されたため三次市と江津市を結ぶ路線としては遠回りな経路になったことなどから有用な路線にはなれず、今年4月1日をもって廃止されることになった。
浜田市 今福線
(広浜線)
広島市 第二次世界大戦前にJR山陰本線下府(しもこう)駅(浜田市下府町)を起点として浜田市金城町今福に至る路線が着工され、開業直前まで建設は進んだにもかかわらず開業は第二次世界大戦の影響で無期延期となり、そのまま放棄された。
第二次世界大戦後今度は浜田駅(浜田市浅井町)を起点とする路線として建設されたが、諸事情により遅々として進まず、一部のトンネルや高架橋ができたところで日本国有鉄道の経営事情の悪化により建設放棄となった。
もし開業に至れたとしてもJR可部線加計駅(山県郡安芸太田町加計。1954〜2003)以北の露骨な我田引鉄ぶりのせい(途中で山県郡戸河内町〔1933〜2004〕・山県郡筒賀村〔1889〜2004〕・山県郡芸北町〔1956〜2004〕・那賀郡旭町〔1958〜2005〕の中心部を通ることになっていた)で広島〜浜田間の最短経路には程遠い経路になったことや中国横断自動車道広島・浜田線が平成時代初頭に早くも全線開通を果たしたことなどから有用な路線にはなり得なかった可能性が高い。
益田市 岩日線 岩国市
大竹市
廿日市市
広島市
厳密には益田市からではなく、益田市の南隣の鹿足郡津和野町にある日原駅(鹿足郡津和野町枕瀬)で山口線から分岐することになっていた。
岩国側からは岩国市錦地区中心部にある錦町(にしきちょう)駅(岩国市錦町〔にしきまち〕広瀬)まで開業していたが、益田(日原)側からは費用対効果の問題もあるのか全く着手されなかった。
錦町駅から鹿足郡吉賀町六日市地区中心部までは日本鉄道建設公団によって建設され、ほとんど完成していたが日本国有鉄道の経営事情の悪化により建設放棄となり、開業区間(森ヶ原信号場〔岩国市御庄〕〜錦町駅間)を継承した錦川鉄道もその区間を引き取り、開業させることはしなかった。
もし開業に至れたとしても広島市と益田市を結ぶ路線としては遠回りであることや益田市の人口が少ないこと、御庄駅改め清流新岩国駅(岩国市御庄)付近で交差する山陽新幹線との連絡が全く考慮されなかったこと(山陽新幹線開業の際山陽新幹線新岩国駅〔岩国市御庄〕と清流新岩国駅が統合されなかったこと。無論現在も統合はされていない)などから有用な路線にはなり得なかった可能性が高い。
山口線 山口市 1923年(大正12年)に早くも全線開通を果たした陰陽連絡路線で、1975年(昭和50年)からは特急列車(「おき」号〔1975〜2001〕→「スーパーおき」号〔2001〜〕)も一日3往復設定されている。また、1979年(昭和54年)からは新山口〜津和野間に蒸気機関車が牽引(けんいん)する観光列車「SLやまぐち」号が設定され、人気を博している。
今年4月1日以降は島根県西部を起終点とする唯一の陰陽連絡鉄道路線となるが、活性化のためにも高速化改良や一部区間の電化、宇部線及び山陽本線下関方面との直通列車の設定、特急「スーパーおき」号の下関延伸などが今後は望まれることになろう。

大田市中心部〜益田市中心部間の距離は約100km(内訳は大田市中心部〜江津市中心部間…約40km、江津市中心部〜浜田市中心部間…約20km、浜田市中心部〜益田市中心部間…約40km)であるが、100kmの間に日本列島を横断する鉄道路線が五つも企図されたところは恐らく島根県西部以外にはないのではないのだろうか。しかし、当然のことながら全てが実現できるわけもなく、実現したとしても利用低迷に苦しめられ、結果最も早く開業に至れた山口線だけが生き残ることになった。
記すまでもないが鉄道は利用があってこそ経営が成り立つものであり、更に維持のための費用もかなりかかる。そういう観点から考えれば広島市と山陰地方中央部を結ぶ目的を有することとどの路線を建設するのか、どの路線の建設は断念するのかという調整を図ることが必要だったのでは…と考えたくなる。建設距離が短くなる点と建設難易度が低い点、そして広島市と山陰地方中央部の最短経路になる点では大滝線+三江線が、広島市との関係が深い江津市や浜田市が広島市と山陰地方中央部を結ぶ路線の途上になる点では今福線(広浜線)がそれぞれ優位になるわけである(無論目的を喪失させるような冗長な経路はとらないものとする)が、果たしてそういう観点があったのだろうか。結局狭域的な視野でしか物事を見なかったからこそ建設放棄や廃止という悲劇に見舞われたのではないか、私は今そう思うのである(無論それは島根県西部だけの話ではない)。

下府駅の山陰本線下りホーム。右側の空き地に今福線(戦前建設線)のレールが敷かれる予定だったという。

山陰本線を走るキハ187系気動車。世が世なら三江線でも見られたのだろうか。

注48:イノシシの肉は山くじらと称されている。みさ坊のはいているズボンにクジラの尻尾があるのはそのことを示すためでもある。

注49:「淵」の画数は12画だが、「渕」の画数は11画である。

注50:岡山県でそういう例がある。津山市内を通る県道449号押淵・皿線がそれである。押淵の正式表記は「押渕」であるが、県道路線の名称は「押淵」となっている。