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JR三江線並行道路を行く・第8章(2018年〔平成30年〕3月29日公開)

第7章から

鹿賀駅から石見川越駅へ

 鹿賀駅(江津市桜江町鹿賀)に通じる細い道が分かれる横断歩道があるところから県道295号日貫(ひぬい)・川本線を再び西に向かって走り出す。少し進むと江の川に架かる鹿賀大橋(全長:218m)を渡って対岸に至る道(江津市道鹿賀・松ヶ崎線)を分岐する丁字路、すなわち江津市桜江町鹿賀/鹿賀大橋南詰交差点(信号機・交差点名標なし)を通過する。その辺りだけは歩道付きの上下2車線の道になるのだが、江津市桜江町鹿賀/鹿賀大橋南詰交差点(信号機・交差点名標なし)を過ぎるとまた狭くなる。この辺りの県道295号日貫・川本線は江津市道鹿賀・松ヶ崎線の整備に合わせて拡幅されたことが分かる。
 江津市桜江町鹿賀/鹿賀大橋南詰交差点(信号機・交差点名標なし)から300mほど進むと県道295号日貫・川本線は江津市桜江町鹿賀/鹿賀西ガード東交差点(信号機・交差点名標なし)に行き着く。そこでで右折し、三江線の下をくぐる。その先で県道295号日貫・川本線は急な屈曲を入れて緩やかな坂を上り、欄干にある鹿のレリーフが印象的な鹿賀谷橋(全長:61.2m)で江の川支流の鹿賀谷川を渡る。この辺りの県道295号日貫・川本線はかつては三江線に沿って延びていたのだが、水害対策による嵩(かさ)上げで経路が変更されたようである。
 鹿賀谷橋を過ぎてしばらく進むと道は狭くなり、山と江の川の間を進むようになる。この辺り―石見川越駅(江津市桜江町川越)を過ぎた先の江津市桜江町田津の田津橋(全長:14.7m)の辺りまでだが―は予告標識こそないのだが時間雨量30mm、連続雨量130mmに達した場合通行止めになる異常気象時通行規制区間に指定されており、厳しい環境の中の道であることを感じさせている。

鳴滝橋(江津市桜江町鹿賀。全長:5.5m)付近の県道295号日貫・川本線。橋の左斜め上方には三江線鳴滝トンネルが見える。

 やがて辺りが開けたところで前方を見ると土手を突っ切って向こうに延びる三江線と、道路があったと思しき跡があるのに気付く(下の写真)。土手の切れ目には第7章の「因原駅から鹿賀駅へ」で触れた陸閘門(りくこうもん)があるのだが、道路があったと思しき跡とは何なのか。実はかつては県道295号日貫・川本線と三江線は陸閘門がある辺りで平面交差していたのだが、江の川左岸堤防建設により北方へ付け替えられたのである。

 付け替え前の県道295号日貫・川本線は渡という集落(渡とは江津市桜江町川越の小字)を狭い道で通過していたから堤防建設と同時に渡集落を回避する道、すなわち県道295号日貫・川本線渡バイパスが建設されたのかと思って付け替え後の道を通る。しかし、江の川左岸堤防を越えてしばらく進んだところ、すなわち江津市桜江町川越/坂本踏切北交差点(信号機・交差点名標なし)に進行方向右側に「295」と書かれた路線方向表示が設置されていた(下の写真)。向きからして県道295号日貫・川本線はそこで左折して元々の道に戻るようである。

 釈然としない思いを抱きながら南下すると100mほどでまだ新しい踏切を越えた。坂本踏切(江津市桜江町川越)である。某動画投稿サイトで2010年(平成22年)春に三江線の上り列車に乗って前方の風景をずっと撮った映像が公開されているのだが、それを見るとこの坂本踏切は警報機も遮断器もない、そして普通自動車の通行も不可能そうな踏切であった。その後江の川左岸堤防建設に伴う県道295号日貫・川本線の付け替えの際に自動車も通れて警報機も遮断器もある踏切に改造されたようである。ちなみに「坂本」とは江の川の対岸にある江津市桜江町の大字の名前なのだが、なぜ江の川の対岸にある地名が踏切の名称に採用されたのだろうか(しかも1950年〔昭和25年〕3月31日までは違う自治体(注1)にあったし…)。全くの謎である。

南方から撮影した坂本踏切

 坂本踏切を過ぎて数十m進むと丁字路、すなわち江津市桜江町川越/坂本踏切南交差点(信号機・交差点名標なし)に差しかかる。そこで右折し、西進を再開するのだが、その傍らには次のような標識や看板があった。

 

 県道295号日貫・川本線を下り方向(日貫→川本)に走ってきた方に対して直進後の道は川本方面へは抜けられないことを注意するものである。その理由は前に記した通り江の川左岸堤防建設により道が断ち切られたことであった。
 それはそれで良いのだが、私は更に釈然としない思いを抱いた。どういう点で釈然としない思いを抱いたのかを挙げると次の通りになる。
・江の川左岸堤防建設に伴って建設された県道295号日貫・川本線の付け替え道路は上り方向(川本→日貫)に走った場合「渡集落にバイパスができたのか…?」と思わせるが、途中でいきなり向きを変え、昔ながらの道に復帰する経路をとっていること。渡集落の狭隘箇所を回避するのなら渡集落の西方、すなわち県道295号日貫・川本線渡ガードの西方まで付け替えれば良かったのになぜこんな中途半端な形にしたのだろうか。恐らく渡集落に住む方々の利便性を考慮してそのようにしたのだろうが…。
・県道295号日貫・川本線の付け替え道路は2010年代に建設されたにもかかわらず上下2車線幅(注2)であること。交通量が少ないことがそういう規格で建設した理由なのだろうが…。
坂本踏切が改造されたのは2010年代前半であるが、結局わずか数年でお役御免になることが決まったこと。だからといって跨線橋を作ったとしても一日に10本しか列車が来ないところなので費用対効果が見込めないし、数年でお役御免になる(注3)ので同じことになるのだが…。
 実は県道295号日貫・川本線は県道11号浜田・川本線(主要地方道。1955〜1966)のうちの県道7号浜田・作木線に移行しなかった部分(邑智郡邑南町日貫/願入寺前交差点〔信号機・交差点名標なし〕邑智郡川本町因原/八面橋南詰交差点〔終点。信号機・交差点名標なし〕(注4))をもって発足した路線であるし、発足後も1970年代後半までは江津市桜江町田津/田津橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)邑智郡川本町因原/八面橋南詰交差点(終点。信号機・交差点名標なし)間は国道261号線と重用していた。つまり、かつては国道や主要地方道だったことのある路線なのである。それでいてこの状況なのは沿線人口が少ないことや地形が険しいことなどから整備するのに見合った費用対効果がないと考えられているからであろう。世が世なら島根県の内陸部(山間部)を東西に結ぶ幹線道路の一部になった可能性もあるこの道であるが、そういう機会はもう訪れないのだろうか。
 さて、江津市桜江町川越/坂本踏切南交差点(信号機・交差点名標なし)で右折して西進を再開した県道295号日貫・川本線は渡集落を狭い道で通り抜けていく。三江線の下を渡ガードでくぐり、三江線と江の川の間を進むようになっても集落は続き、狭い道は続く。ようやく進行方向右側の家並みが途切れると少し道幅は広がるが、それでも上下1.5車線〜上下2車線幅(注2)程度である。その辺りでは進行方向右側に田畑が広がっており、江の川左岸堤防までの距離がいくらかあることが分かる。
 そんな状況の道を進んでいくと間もなく進行方向左側に川越郵便局(江津市桜江町川越)の白い建物が見えてくる。川越郵便局の前を通り過ぎるとすぐに進行方向左側に見えてくるのが石見川越駅である。

石見川越駅(いわみかわごええき)

石見川越駅の駅舎

石見川越駅の駅名標

三江線活性化協議会が設置した看板。石見川越駅の愛称は頼政(よりまさ)となっている。

石見川越駅のデータ

項目 記事
所在地 江津市桜江町川越
駅名の由来 駅がある自治体(としての村)の名前。
※現在駅がある辺りの大字は「川越」になっているが、開業当時の大字は「渡村」であった。邑智郡川越村(1889〜1954)がいわゆる昭和の大合併で邑智郡市山・川戸・谷住郷・長谷各村と統合して邑智郡桜江村(1954〜1955)に移行した際に「川越」に改称している。
開業年月日 1931年(昭和6年)5月20日
接続鉄道路線 なし
駅構内にあるもの 駅舎
プラットホームの形式 単式ホームで南側を利用している。
昔は相対式ホームだったが、列車本数減少に伴う交換施設廃止により南側の線路は撤去された。
起点または終点からの距離
(営業キロ)
起点(江津)から22.3km
終点(三次)から85.8km
前後の駅からの距離
(営業キロ)
(下り線)田津駅から3.0km
(上り線)鹿賀駅から3.5km
JR三江線の列車の発車・到着時刻
(2017年〔平成29年〕3月4日現在)
(下り列車)
423D…午前6時41分(江津発三次行)
425D…午後1時22分(浜田発浜原行)
429D…午後4時3分(江津発三次行)
431D…午後5時21分(江津発浜原行)
435D…午後7時56分(江津発浜原行)
(上り列車)
420D…午前7時24分(浜原発浜田行)
422D…午前8時43分(三次発浜田行)
426D…午後2時5分(石見川本発江津行)
430D…午後6時8分(浜原発江津行)
434D…午後8時39分(浜原発江津行)
付近にある主要施設 川越郵便局
川越生涯学習センター・川越公民館
付近にある名所・旧跡・自然 江の川
付近を通る国道路線
または県道路線
県道295号日貫・川本線
備考 ・初代三江線第二期開業区間(川戸〜石見川越間)の終点。
・令制国名である石見を付けたのは開業当時既に埼玉県と三重県に川越駅があったことから混同を回避したかったことが考えられる。

 石見川越駅は現在の江津市桜江町大貫・川越・坂本・鹿賀・田津に相当する地域に存在した邑智郡川越村(1889〜1954)の代表駅である。駅のすぐそばには集落はないが、駅のすぐそばに郵便局があることや駅の南西約300mのところには2001年(平成13年)春まで桜江町立川越小学校(江津市桜江町川越)があったことからこの辺りが邑智郡川越村の中心地だったことをうかがわせている。
 そういうところに設置された石見川越駅は小さいながらも切符売り場と交換施設を有する駅でもあった。

石見川越駅の切符売り場跡地。いつからカーテンが閉ざされたままになっているのだろうか。

 

土砂や草木に埋もれた石見川越駅の上り線用プラットホーム。いつから使用されなくなったのだろうか。

 地域の代表駅であり、3年半だけだったが終着駅だったこともある駅。昔は賑わっていたのだろう。しかし、いわゆる昭和の大合併で邑智郡川越村は邑智郡市山・川戸・谷住郷・長谷各村との統合を選択し、駅の近くにあったであろう役場は遠くへ行ってしまった。若年者を中心に多くの雇用があるところへの人口流出が起き、過疎化が進行したことで地域の象徴たる小学校はなくなってしまった。過疎化が進展したことに加えてモータリゼーションが進展したことや日本国有鉄道(国鉄。千代田区丸の内一丁目。1949〜1987)の経営が悪化したことから利用の減った(というより元々利用の少ない)三江線の合理化は不可避なものとなり、石見川越駅については無人化と交換施設の撤去が行われた。そして日本国有鉄道から三江線を引き継いだ西日本旅客鉄道(JR西日本。大阪市北区芝田二丁目)による冷遇策とその末の廃止宣告…。この状況を地域の方々はどのように感じているのだろうか。
 そんな石見川越駅にも1972年(昭和47年)7月中旬に江の川流域を襲った梅雨末期の集中豪雨の痕跡はある。正面玄関脇に
それはあった。

 

石見川越駅の駅舎にある水位表示看板(左)と東方から撮影した石見川越駅の駅舎玄関(右)
右の写真から左上方にある駅舎玄関の庇(ひさし)のそばに水位表示看板があるのが分かる

 上の写真にある水位表示看板から正面玄関の庇の辺りまで浸水したことがうかがえる。私は「鹿賀駅から石見川越駅へ」の中で「(石見川越駅の手前では)進行方向右側に田畑が広がっており、江の川左岸堤防までの距離がいくらかあることが分かる」と書いたが、それでも駅舎の大半が水没したのである。当時どれだけの雨が降り、どれだけの水が上流から押し寄せたかが分かるし、戦慄さえ覚える。そして同時にどこであっても二度とこんな災害は起きて欲しくない、そして三江線がなくなり、石見川越駅の駅舎が解体されても忘れ去って欲しくないという気持ちになる。
 ところで、私は「鹿賀駅から石見川越駅へ」の中で「(石見川越駅の手前で)川越郵便局の白い建物が見えてくる」と書いたが、この文を読んでいる皆様はどんな郵便局を想像したことであろうか。実は下の写真のような郵便局なのである。

 人口の少ない自治体としての町村の中心部にない郵便局にしては建物が大きいと思った方もいるかもしれないのだが、実はこの川越郵便局は邑智郡川越村だった地域、すなわち江津市桜江町大貫・川越・坂本・鹿賀・田津の集配を担当していた郵便局であった(郵便番号:699-45)。しかし、日本郵便(千代田区霞が関一丁目)の経営合理化により2015年(平成27年)3月2日に集配業務は市山郵便局(江津市桜江町市山)に統合され、現在は普通の郵便局になっているという(注5)。第二次世界大戦後幾度も合理化の波を受け続けたこの地域であるが、この地域に住んでいる方々はどのようにとらえているのだろうか。それが気になった。

石見川越駅から田津駅へ

 石見川越駅の(北口)駅前広場の前から県道295号日貫・川本線を再び西に向かって走り出す。道幅は石見川越駅の前を境に狭くなったように感じる。

 

石見川越駅付近の県道295号日貫・川本線。
左は川本方面を、右は江津方面をそれぞれ向いて撮影。

 そんな道を300mほど走ると上下2車線になるのだが、そのすぐ先で県道295号日貫・川本線とはお別れとなる。というのも、江津市桜江町川越/第二渡田踏切北交差点(信号機・交差点名標なし)で県道295号日貫・川本線は左折し、南に去っていくからである。ただ、県道295号日貫・川本線を上り方向(川本→日貫)に走った場合、どこで左折するかは案内標識がないため分かりにくい。川越郵便局を過ぎてから初めて上下2車線になったところのすぐ先にある丁字路(横断歩道あり)が左折する場所であることを頭に入れておく必要がある。なお、江津市桜江町川越/第二渡田踏切北交差点(信号機・交差点名標なし)では国道261号線旧道も県道295号日貫・川本線と一緒に左折するので国道261号線旧道とも一旦お別れとなる。
 江津市桜江町川越/第二渡田踏切北交差点(信号機・交差点名標なし)から通ることになるのは江津市道渡田・大貫線(注6)である。江の川の右岸と左岸に分かれている江津市桜江町川越地区を結ぶ道であり、途中には江の川に架かる川越大橋(全長:212.2m)がある。但し江津市道渡田・大貫線(注6)を通るのは江津市桜江町田津/川越大橋南詰交差点(信号機・交差点名標なし)までであり、川越大橋は渡らない。
 川越大橋を目前にした江津市桜江町田津/川越大橋南詰交差点(信号機・交差点名標なし)で左折し、今度は江津市道川戸・渡田線に入る。江津市道川戸・渡田線に入るとすぐに江の川支流の田津谷川を田津谷川橋(全長:118.0m)で渡る。田津谷川橋を渡るとすぐに右に折れ、しばらく進むと右後方から江津市道となった国道261号線旧道が合流してくる。江津市桜江町田津/田津橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)で県道295号日貫・川本線と別れ、田津谷川橋の下をくぐってきたのである。この合流点、すなわち江津市桜江町田津/田津谷川橋西交差点(信号機・交差点名標なし)から再び三江線並行道路の旅は国道261号線旧道を通る旅となる。
 江津市道川戸・渡田線と国道261号線旧道が一つになってすぐのところでは災害対策の嵩上げもあってか道幅は上下2車線幅(注2)なのだが、それも長くは続かず、しばらく走ると三江線と江の川の間を縫って走る狭い道になる。その辺りから江の川の水面は木々に遮られてほとんど見えなくなる。
 そんな状況が1kmほど続いた後江津市道川戸・渡田線(国道261号線旧道)は第二田津踏切(江津市桜江町田津)で三江線を渡り、山と三江線の間に入る。その辺りから辺りは開けてきて、集落が近いことを感じさせる。案の定やがて集落に入るのだが、家は進行方向左側に多く建てられている。進行方向右側には三江線があることや江の川に近く、水害に遭いやすいことが進行方向左側に家を建てた理由であろう。道より高いところに家を建てているところも少なくなく、水害と苦闘してきた歴史を感じさせる。
 第二田津踏切(江津市桜江町田津)から1km足らずのところにある第一田津踏切(江津市桜江町田津)で再度三江線を渡り、三江線と江の川の間に入る。と言っても江の川は田畑の向こうにあるのだが、江津市道川戸・渡田線(国道261号線旧道)と江の川左岸堤防の間にある田畑は広々としており、心を和ませる。しばらく走るとまた民家の建ち並ぶところに入る。その先に横断歩道が見えるのだが、その左手にあるのが田津駅(江津市桜江町田津)である。

田津駅(たづえき)

田津駅の待合所

田津駅の駅名標

三江線活性化協議会が設置した看板。田津駅の愛称は羯鼓・切目(かっこ・きりめ)となっている。

田津駅のデータ

項目 記事
所在地 江津市桜江町田津
駅名の由来 駅がある大字の名前。
開業年月日 1949年(昭和24年)11月15日
接続鉄道路線 なし
駅構内にあるもの なし(プラットホームに待合所があるだけ)
プラットホームの形式 単式ホームで南側を利用している。
起点または終点からの距離
(営業キロ)
起点(江津)から19.3km
終点(三次)から88.8km
前後の駅からの距離
(営業キロ)
(下り線)川戸駅から5.4km
(上り線)石見川越駅から3.0km
JR三江線の列車の発車・到着時刻
(2017年〔平成29年〕3月4日現在)
(下り列車)
423D…午前6時35分(江津発三次行)
425D…午後1時16分(浜田発浜原行)
429D…午後3時57分(江津発三次行)
431D…午後5時21分(江津発浜原行)
435D…午後7時50分(江津発浜原行)
(上り列車)
420D…午前7時30分(浜原発浜田行)
422D…午前8時49分(三次発浜田行)
426D…午後2時11分(石見川本発江津行)
430D…午後6時14分(浜原発江津行)
434D…午後8時45分(浜原発江津行)
付近にある主要施設 なし
付近にある名所・旧跡・自然 江の川
付近を通る国道路線
または県道路線
国道261号線
※田津駅の500mほど北方を通っている。かつては田津駅のすぐそばを通っていたが川下・桜江バイパス開通に伴う旧道処分で邑智郡桜江町に移管された。その後邑智郡桜江町が江津市に編入されたことによりその道は江津市道川戸・渡田線となっている。
備考 ・鹿賀駅(江津市桜江町鹿賀)とともに初代三江線では初めて追加設置された駅である。

 田津駅は二つ三次寄りにある鹿賀駅とともに1949年(昭和24年)11月15日に設置された駅である。1930年代に建設された初代三江線では初めての追加設置駅でもある。第二次世界大戦終結からまだ4年しか経っておらず、なおかつまだ新たな体制が固まり切っていなかった時期に設置できたのは地域住民が根強い駅設置運動を繰り広げたこともあるのだろう。鹿賀駅も田津駅も邑智郡川越村にあることから邑智郡川越村も運動に参加していたのではないかと思われる。
 江津市桜江町田津に住む方々にとって、田津駅の設置は大きな福音になったことであろう。鉄道を利用するのに近くの駅まで何kmも歩かなければならなかったし、その途中は険しいところが多かったからである。「これで江津や浜田、川本に楽に行けるようになる」と多くの住民が喜んだことは想像に難くない。
 そんな田津駅は江津市道川戸・渡田線(国道261号線旧道)から少し高いところにある。江津市道川戸・渡田線(国道261号線旧道)からは16段ある階段を上っていくことになる。その階段を上り、突き当たったところが田津駅のプラットホームであり、突き当たりを左折した先にあるのが田津駅の待合所である。

 だが、田津駅で注目して頂きたいのは待合所の外壁に貼られているある看板である。その看板を見た方の多くは恐らく衝撃と戦慄を覚えるのではないのだろうか。その看板とは何なのか。それを撮ったものが下の写真である。

 明塚駅(邑智郡美郷町明塚)以西の三江線の多くの駅で見られる、1972年(昭和47年)7月中旬に起きた梅雨末期の集中豪雨の浸水水位を示した看板である。「それならもう何度も見た」と言う方がいると思うのだが、次の二つの写真をご覧頂きたい。あることに気付くはずである。

 

 上の写真から田津駅の待合所は道路より一段高いところにあり、水位表示看板は待合所の上部にあることがうかがえる。水位表示看板の位置は真向かいにある2階建て民家(住人の感情や私的領域に配慮して撮影していない)の屋根とほぼ同じ高さである。道路から水位表示看板までの高さはざっと見積もって4mほどと思われるから1972年(昭和47年)7月中旬に起きた梅雨末期の集中豪雨では三江線(当時の三江南線と三江北線)にある駅では最もひどい浸水被害を受けたことが分かる。
 なぜ田津駅周辺で水深4mに達する浸水被害が起きたのか、私には全く分からない。しかし、田津駅付近における江の川の源流(山県郡北広島町高野)からの距離は170km前後に及んでおり、何日間も降り続けた雨と合わせてかなりの量の水が流れてきたことは想像に難くない。恐らく集落に多量の水が押し寄せ、道路より一段高いところにある田津駅の待合所までも浸水被害を受けることになったのだろう。
 残念ながら田津駅は間もなく三江線の廃止とともに営業を終え、待合所も取り壊されることであろう。水位表示看板も見られなくなることであろう。そこで私は提案したいのだが、この未曽有の災害を伝えるものを田津駅の跡地に設置してはどうであろうか。中にはその災害を想起させるものは見たくないという方もいることであろうが、駅がなくなり、同時に未曽有の災害を伝えるものもなくなったから、そしてかなりの年数が流れ、その災害を知る人がいなくなったから伝えなくて良いとか忘れて良いという問題ではない。しかも二度と甚大な被害をもたらす水害は起きないという保証はどこにもない。だからこそ田津駅の待合所の外壁に貼られている水位表示看板に代わるものを設置してはどうかと思うのである。

 さて、田津駅の待合所は(上右の写真から少しうかがえるのだが)ガラス戸が取り付けられており、雨や雪、風を気にすることなく列車を待つことができるようになっている。待合所の中に入ってみたのだが、時刻表や運賃表、ポスター以外に下の写真のようなものがあった。

暗くてよく読めないかもしれないが次のように書かれている
上の貼り紙/美しい姿・美しい心(まだ書いてあるようだが判読できなくなっている)
下の額縁/念仏の道は 「おかげさま」と 生かされる道 「ありがとう」と 生きぬく道

 誰が貼ったのか、誰が掲げたのかは分からない(恐らく仏教関係者だろう)のだが、見ていて心が和まされたものである。

田津駅から川戸駅へ

 田津駅の前から再び西進を開始する。田津の集落はすぐに途切れ、山裾を狭い道で通り抜けていく。進行方向右側には田畑が広がっている。田畑の向こうには江の川があるのだが、遠くて水面は見えない。

田津の集落が途切れた辺りの江津市道川戸・渡田線(国道261号線旧道)

 田津駅から200mほどで国道261号線に通じる江津市道久井谷線を分岐する丁字路、すなわち江津市桜江町田津/岡田谷北交差点(信号機・交差点名標なし)を通過する。この江津市道久井谷線は道幅が狭く、更に江の川に架かる大貫橋(全長:231.4m)に重量制限(9トン以上の車は通行禁止)がかけられているため大型車通行禁止規制がかけられている。きちんと江津市桜江町田津/岡田谷北交差点(信号機・交差点名標なし)の手前の江津市道川戸・渡田線(国道261号線旧道)には大型車は直進するよう示した指定方向外進行禁止の標識があるのだが、そもそも江津市道川戸・渡田線(国道261号線旧道)は大型車の通行が難しい箇所が多い道であり、実効性はいかほどかは分からない。
 江津市桜江町田津/岡田谷北交差点(信号機・交差点名標なし)を過ぎてからも江津市道川戸・渡田線(国道261号線旧道)の進行方向右側には田畑が広がっているのだが、500mほど進むと進行方向右側に江の川が寄り添ってきて、山と川の間を通り抜ける道になる。狭い上に屈曲が多いのでいくら交通量が少なくても気が抜けない。左側を並行して通る三江線は短いトンネルを掘って短絡している(中には入口のすぐ奥に出口が見えるトンネルも…)が、道路はそうは行かなかったのだろう。
「これなら向こう岸にバイパスを作ろうと考えるのも当然の帰結だろうな…」
 私はそのように感じた。1962年(昭和37年)5月1日政令第184号(注7)に基づいて1963年(昭和38年)4月1日に二級国道261号広島・江津線(1963〜1965)として発足した国道261号線は広島市と石見地方東部(大田市・江津市・邑智郡)を結ぶ幹線道路(注8)と位置付けられ、改良が進められた。その中で大幅に経路が変更されたのが邑智郡川本町因原〜江津市桜江町谷住郷間である。都市部ならともかく、人口の少ない山間部でこれほど大幅に経路が変更された理由を挙げると次の通りになる。
・江の川のすぐそばまで山が迫っているところが多いこと。
・三江線が並行しており、工事に支障をきたすこと。
・落石や土砂崩落の危険性が高いこと。
・異常気象時通行規制区間に指定せざるを得ない箇所があること(注9)
・土木建築物が多くなり、工費がかさむこと。
 要するに江の川左岸で改良を行うことは難しいということである。そこで目を付けたのが江の川右岸である。江の川右岸も江の川のすぐそばまで山が迫っているところがあるのだが、次に挙げるような特色があった。
・建設に支障をきたすような工作物がないこと。
・江の川右岸にもいくつか集落があること。
・島根県は江の川右岸の集落を結ぶ県道路線(県道189号川下・江津線〔1959〜1966〕→県道294号川下・桜江線〔1966〜1980。路線名称は廃止当時のものを記載〕)を認定していたが、整備が進められないでいたこと(注10)
 しかし、十数kmにも及ぶバイパスを建設することは島根県だけでは難しい。そこで江の川右岸のバイパス、すなわち川下・桜江バイパスは建設省(現:国土交通省)の直轄事業として実施されることになった。1970年(昭和45年)に着手し、完成したのは1977年(昭和52年)4月16日のことであった。この後因原バイパスの建設や川下橋(全長:213.0m)の架け替えなどが行われ、邑智郡川本町因原〜江津市桜江町谷住郷間の改良が完成するのは平成時代初頭になったのだが、川下・桜江バイパスの全線開通をもって事実上江の川左岸に沿って延びる狭い道が幹線道路だった時代は終わったと考えても良いであろう(注11)。今回の取材では川下・桜江バイパスは全く通らなかったのだが、江の川左岸に沿って延びる旧道を通った上で川下・桜江バイパスを通ると隔世の感を抱くのは間違いない。
 それはさておき、江津市道川戸・渡田線(国道261号線旧道)は小原踏切(江津市桜江町田津)で三江線と交差し、山と三江線の間に入る。その手前辺りでは江津市道川戸・渡田線(国道261号線旧道)と三江線はほぼ同じ高さのところを通っており、機会があれば同じ高さのところを通る列車を見ることもできる。小原踏切の先は開けたところなのだが、空き地があるだけで集落はない。三江線に近付いていく辺りに民家が少しある程度である。やがて道は上りになり、一度近付いた三江線とは離れていく。そしてトンネルをくぐる三江線の上を乗り越し、江の川に沿うようになる。
 緩やかな坂を下るとまた三江線と並行する。先程三江線のトンネルの上を乗り越したと書いたから今度は進行方向左側に並行することになる。それはしばらく続くが、川に沿った屈曲のところでまた離れることになる。その先でまた並行関係になるがそれも束の間のことで、今度は江津市道川戸・渡田線(国道261号線旧道)は川に沿って屈曲していくのに対し、三江線はその屈曲をトンネルで大きく短絡する経路をとる。その辺りの小字は花河原といい、地図を見ると江の川は逆U字状の屈曲を入れて一旦北に向かっていた流れを西に変えているのが分かる。この花河原にも民家は数軒あるが、集落を形成するほどではない。
 花河原を過ぎてしばらく進むとまた進行方向左側に三江線が並行してくる。今度は道より高いところを通っている。進行方向右側にある江の川が眺められるところもあるが木々に遮られているところも少なくない。
 その状況は1km以上にわたって続くが、道と線路がほぼ同じ高さになったところで第二猪瀬踏切(江津市桜江町田津)となり、江津市道川戸・渡田線(国道261号線旧道)はまた山と三江線の間に入る。その先は開けた場所なのだが民家は少ししかなく、集落は形成されていない。開けた場所が尽きる辺りにある第一猪瀬踏切(江津市桜江町田津)でまた三江線を渡るのだが、第一猪瀬踏切のすぐ西側で江津市道川戸・渡田線(国道261号線旧道)と三江線の並行関係は終わりとなる。というのも、三江線は江の川とその支流の八戸(やと)川の間に横たわる山をトンネルで抜けて八戸川右岸に出るからである。その後は江の川に沿って屈曲を繰り返す狭い道となる。
 いつまでこういう道が続くんだろうなと思いつつ走っていると、突然辺りが開け、前方には桜江大橋(全長:211.1m)が見えてくる。江の川に沿って屈曲を繰り返してきた道は江の川左岸堤防になる。そして右側には江の川、左側には江津市桜江地区中心部が広がっている。ようやく江津市桜江地区の中心部・川戸に入ってきたのである。
 江の川左岸堤防を走ると道は桜江大橋の袂(たもと)で突き当たる。その突き当たり、すなわち江津市桜江町川戸/桜江大橋南詰交差点(信号機・交差点名標なし)で左折し、県道41号桜江・金城線に入る。県道41号桜江・金城線に入って50mほどで十字路、すなわち江津市桜江町川戸/かどや商店前交差点(信号機・交差点名標なし)を通過するのだが、その脇には「112」と書かれた路線方向表示が設置されていた。尾関山〜伊賀和志間で何度も通ってきた県道112号三次・江津線とここで再会したのである。

県道112号三次・江津線の路線方向表示(西方から撮影)

 この江津市桜江町川戸/かどや商店前交差点(信号機・交差点名標なし)で県道112号三次・江津線は江津市中心部方面へと分かれるから、県道112号三次・江津線は川戸駅(江津市桜江町川戸)方面に進む場合はこの江津市桜江町川戸/かどや商店前交差点(信号機・交差点名標なし)から県道41号桜江・金城線と重用することになるのだが、別れた時も重用区間、再会した時も重用区間というところにこの県道112号三次・江津線の特色が表れていると言えよう。
 江津市桜江町川戸/かどや商店前交差点(信号機・交差点名標なし)から更に坂を下り、県道41号桜江・金城線(県道112号三次・江津線重用)が左に折れた先に川戸駅の駅舎とその(北口)駅前広場はある。

川戸駅(かわどえき)

川戸駅の駅舎

川戸駅の駅名標

川戸駅の名所案内板

三江線活性化協議会が設置した看板。川戸駅の愛称は鈴鹿山となっている。

川戸駅のデータ

項目 記事
所在地 江津市桜江町川戸
駅名の由来 駅がある(自治体としての)村の名前。
駅がある大字の名前。
開業年月日 1930年(昭和5年)4月20日
接続鉄道路線 なし
駅構内にあるもの 駅舎
プラットホームの形式 単式ホームで南側を利用している。
昔は相対式ホームだったが、列車本数減少に伴う交換施設廃止により南側の線路は撤去された。更に跨線橋(江津方に設置されていた)も撤去されている。
起点または終点からの距離
(営業キロ)
起点(江津)から13.9km
終点(三次)から94.2km
前後の駅からの距離
(営業キロ)
(下り線)川平駅から6.9km
(上り線)田津駅から5.4km
JR三江線の列車の発車・到着時刻
(2017年〔平成29年〕3月4日現在)
(下り列車)
423D…午前6時23分(江津発三次行)
425D…午後1時4分(浜田発浜原行)
429D…午後3時45分(江津発三次行)
431D…午後5時3分(江津発浜原行)
435D…午後7時38分(江津発浜原行)
(上り列車)
420D…午前7時42分(浜原発浜田行)
422D…午前9時1分(三次発浜田行)
426D…午後2時23分(石見川本発江津行)
430D…午後6時26分(浜原発江津行)
434D…午後8時57分(浜原発江津行)
付近にある主要施設 江津市役所桜江庁舎
江津市図書館桜江分館
江津邑智消防組合桜江出張所
江津警察署川戸駐在所
川戸簡易郵便局
江津市立川戸地域コミュニティ交流センター
付近にある名所・旧跡・自然 江の川
八戸川
付近を通る国道路線
または県道路線
県道41号桜江・金城線
県道112号三次・江津線(県道41号桜江・金城線と重用)
備考 ・初代三江線第一期開業区間(石見江津〔現:江津〕〜川戸間)の終点。

 今年4月1日に廃止される三江線の歴史は1930年(昭和5年)4月20日、この川戸駅と山陰本線にある石見江津駅(現:江津駅〔江津市江津町〕)との間が開業したことにより始まった。それから88年近く地域の足として活躍してきたわけであるが、記すまでもなくその中にはいくつもの波乱があった。その中で最も大きな出来事はやはりこれまで何度も触れてきた1972年(昭和47年)7月中旬の梅雨末期の集中豪雨であった。川戸駅についても駅舎の外壁に水位表示看板が取り付けられている)。

 

川戸駅の駅舎に貼られている水位表示看板(左)と川戸駅の駅舎の中にあるそのことを説明した貼り紙(右)

 川戸駅の駅舎の中では1972年(昭和47年)7月中旬の梅雨末期の集中豪雨に関する写真が展示されていた(下の写真)。それらの写真から江津市桜江地区の中心部、すなわち当時の邑智郡桜江町(1956〜2004)の中心部がどれだけひどい被害に見舞われたかがうかがえる。

 

 そういえば江津市桜江地区の中心部はきれいに整備された感じがあったのだが、この展示から1972年(昭和47年)7月中旬の梅雨末期の集中豪雨の後嵩上げして町を整備し直したことを知った。ここまで1972年(昭和47年)7月中旬の梅雨末期の集中豪雨を契機に嵩上げして二度と甚大な被害に見舞われないようにしたところはいくつも見てきたが、自治体の中心部で実施したところは江津市桜江地区の中心部が初めてである。実施に際してはいろいろな声があったことであろうが…。

 さて、川戸駅は地域に親しまれている駅だなと感じた。どの点にそのことを感じたかを挙げると次の通りになる。
・駅務室の跡地を歓談スペースに改装していること(但し第二木曜日と第四木曜日しか開いていない。また三江線廃止後はどうなるかは不明)。

川戸駅の駅舎の玄関に掲げられている歓談スペースの看板(よく読めないかもしれないが「サロンかわど こしかけ」と書かれている)

駅務室を改装して設置された歓談スペース「サロンかわど こしかけ」

・三江線に関する写真を展示していること。「写真を撮りに来ちゃんさい!」と方言で書かれた宣伝文句があるのも良い。

 

・昔の三江線に関する写真を展示していること。

・三江線に対して多くの方々が書いたコメントを掲示していること。

・新聞記事(子供達が花の苗を植えたというもの)と子供達の絵(恐らく自画像)を列車で通る人に対して展示していること。

 川戸駅がいつから無人駅になったかは分からないが、こういうものをいくつも目にすると心が和む。三江線廃止後の駅舎の活用方法はまだ決まっていないようであるが、何らかの活用策を探って頂きたいものだと思う。

 駅舎を出てプラットホームに出る。そこには厳しい現実が待ち構えていた。かつては列車の交換ができた駅だったのだが列車本数の削減によりその機能は廃止され、上り線の線路と対向ホームに渡るための跨線橋は撤去されたのである。

川戸駅のプラットホームから江津方面を望む。
赤矢印で指し示した辺りに対向ホームに渡るための跨線橋の入口があった。

川戸駅のプラットホームから三次方面を望む

 そしてもう一つ残念に思ったことは因原駅(邑智郡川本町因原)と同じく、使われなくなったプラットホームに駅名標や三江線活性化協議会が設置した看板(神楽〔かぐら〕の題目を記し、なおかつそれを演じている時の様子の写真が掲載されたもの。三江線の全ての駅について制定され、川戸駅のそれは「鈴鹿山」となっている)が設置されていたことである。三江線の列車から見て頂こうという考えで設置したのであろうが、困ったことに三江線活性化協議会が設置した看板は使われなくなった上り線用プラットホームにしか設置されていなかったのである。なぜ最後まで使用され続けることになった下り線用プラットホームにも設置しなかったのか。今更こういうことを書いてもどうにもなる問題ではないのだが…。

使われなくなった上り線用ホームにある川戸駅の三江線活性化協議会が設置した看板と駅名標

 ところで、川戸駅の前には三江線の駅では珍しいものがある。それはいわゆる駅前旅館である。あいにく取材の時は使っているデジタルカメラの電池残量に不安があったためその旅館―美川旅館というのだが―の写真は撮らなかったのだが、公式サイト(それはこちら)を見るとまだ三江線について影も形もなかった1897年(明治30年)から営業を続けているのだという。宿泊できる人数は多くはないのだが、120年以上営業を続けられてきたのはそれだけ多くの方々に愛されてきたことの証なのだろう。
 多くの波乱を経験してきた江津市桜江地区。その中心となる川戸地区はいわゆる平成の大合併で江津市の一部になったことにより中枢機能を減じ、そして今度は長い歴史を刻んできた鉄道が消えることになった。今後どうなっていくのだろうか。それが気になる。

ちょっと寄り道

 川戸駅の(北口)駅前広場から県道41号桜江・金城線(県道112号三次・江津線重用)を北東方向に進む。70mほど緩やかな坂を上ると江津市桜江町川戸/かどや商店前交差点(信号機・交差点名標なし)に着く。ここで県道112号三次・江津線は県道41号桜江・金城線との重用関係を解消して左折し、江津市中心部方面に進んでいく。
 それはそれで良いのだが、その江津市桜江町川戸/かどや商店前交差点(信号機・交差点名標なし)には下の写真に見えるような路線方向表示しかない。つまり、案内標識の類が全くないのである。

 この様子から県道112号三次・江津線江津市中心部方面には何か不都合なことがあると感じ取る方がいるのではないかと思うのだが、果たしてこの先の県道112号三次・江津線には一体何があるのか。紹介することにしたい。
 江津市桜江町川戸/かどや商店前交差点(信号機・交差点名標なし)で県道41号桜江・金城線と分かれた県道112号三次・江津線は上下1.5車線の道で緩やかな坂を下る。坂を下り切った先で二度ほど緩やかな屈曲を経て三江線の下をくぐる。県道112号三次・江津線を乗り越す三江線の橋梁の名称は島根県公式サイトで閲覧できる道路台帳によると第二川本街道陸橋であるが、このことから初代三江線が開業した頃の県道112号三次・江津線―無論当時はそういう路線名称ではなかったのだが(注12)―は江津市と邑智郡川本町を結ぶ幹線道路としての役割を担っていたことを感じさせる。
 三江線の下をくぐった後はかつてはまっすぐ北西に向かい、八戸川を渡っていたようであるが、堤防を高くしたことや橋を架け替えたことにより逆U字状の急な屈曲が入るように改良された(この点は「鹿賀駅から石見川越駅へ」で触れた県道295号日貫・川本線の鹿賀谷橋の川本寄りの状況と同じである)。堤防への坂を上り切った先にあるのが八戸川に架かる近原(きんばら)橋(全長:108.0m)というわけであるが、その袂にある衝撃的なことが記された案内標識があった(下の写真)。

 県道112号三次・江津線は近原橋を渡った先の丁字路、すなわち江津市桜江町後山/近原橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)で右折するが、そこから3km先で行き止まりになるということである。案内標識に書かれた右折先の地名(小松・近原)は江津市桜江町後山の小字であり(注13)、江津市中心部に行くには有用な道ではないことを暗示させている。
 そこで予告するので島根県は親切だなと思って近原橋を渡り、江津市桜江町後山/近原橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)に差しかかるとその前方に同じような案内標識があった(下の写真)。

 そして右折すると下の写真のような標識があった。

 何と百数十mの間に三つも3km先で行き止まりになることを注意した標識が設置されていたというわけである。私が住んでいる福山市及びその周辺にはいくつか通行不能区間を有する県道路線がある(注14)が、ここまで執拗(しつよう)に「この先は行き止まりになりますよ。通り抜けはできませんよ」と予告するところは見たことがない(注15)。対岸に整備が終わっている国道261号線があるにもかかわらず江津市中心部に抜けられるのでは…と思って迷い込む人が少なくないからなのか。それとも大切なことなので何度も通告したほうが良いと島根県は考えたのか。いずれにせよ強く訴える必要性がそこにはあったということなのだろう。
 さて、江津市桜江町後山/近原橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)で右折した県道112号三次・江津線は最初は八戸川左岸に沿って進む。道幅は上下1.5車線程度であり、そんなに狭くは感じない。右斜め前方には八戸川に架かる三江線の橋梁が見える。
 しかし、八戸川を渡ってきた三江線の下をくぐる前に道幅は狭まる。「この道は有用とは見なされていないんだな…」と感じる。そこまである程度広かったのはやはり河川改修と近原橋架け替えを契機に整備されたからであろう。なお、県道112号三次・江津線を乗り越す三江線の橋梁の名称は島根県公式サイトで閲覧できる道路台帳によると第一川本街道陸橋であり、(前と同じことを書くのだが)初代三江線が開業した頃の県道112号三次・江津線―無論当時はそういう路線名称ではなかったのだが(注12)―は江津市と邑智郡川本町を結ぶ幹線道路としての役割を担っていたことを感じさせる。
 三江線の下をくぐり、三江線と江の川の間に入った県道112号三次・江津線は数百mにわたってまっすぐに進む。この辺りは先程紹介した案内標識に出てくる地名の一つである近原と称しているようであるが、三江線と江の川に囲まれた狭い平地には民家は全く見当たらない。途中には三江線の南側へ通じる道を分岐するところ(江津市桜江町後山/近原入口交差点〔信号機・交差点名標なし〕)があるが、どうやら三江線の南側に何軒か民家があるらしい。
 直線路が終わった辺りで三江線が左側に並行してくるのだが三江線はトンネルに入るのに対して県道112号三次・江津線は江の川の屈曲に合わせており、並行区間はすぐに終わる。江の川との間には草木が繁茂しており、江の川の水面はほとんど見えない。やがて離れていた三江線が再び左側に並行し、しばらく進むと緩やかな上り坂になり、その先にある第二仁万瀬踏切(江津市桜江町後山)で三江線を渡る。しばらく山裾を通ると民家が数軒あり、集会所(後山中集会所〔江津市桜江町後山〕)もある仁万瀬の集落になる。
 仁万瀬の集落を過ぎた先にある第一仁万瀬踏切(江津市桜江町後山)で三江線を渡り、また三江線と江の川の間に入る。三江線と江の川の間の開けた場所を通るのだが、民家は見当たらない。それもすぐに終わり、また三江線と江の川の間の狭いところを通り抜けることになる。江の川の屈曲に合わせて屈曲を繰り返す道は狭くて見通しが悪く、いくら交通量が少なくても、いくら江津市中心部方面への通り抜けはできないと知っていても気が抜けない。その後で三江線の下をくぐり、三江線の山側(西側)に出るが150mほどで第三小松踏切(江津市桜江町後山)を渡り、また三江線と江の川の間に入る。三江線は切り通しやトンネルで短絡するが県道112号三次・江津線は江の川の屈曲に合わせて屈曲を繰り返す。同じことの繰り返しである。
 第三小松踏切から200m少々で第二小松踏切(江津市桜江町後山)を渡り、三江線の西側に入ると間もなく小松の集落に入る。小松は先程紹介した案内標識に出てくる地名の一つである。いよいよ車道端点が近付いてきたことを感じる。小松の集落を過ぎ、第一小松踏切(江津市桜江町後山)を渡り、三江線と江の川の間に出る。辺りは開けており、もしかしたら…という期待を抱かせるがそれも束の間のことで、右方から近付いてきた竹藪に行く手を遮られる。江津市桜江町後山/近原橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)から約2.8km。遂に県道112号三次・江津線の三次側車道端点に到達したのである。

県道112号三次・江津線の三次側車道端点(江津市桜江町後山)

県道112号三次・江津線の三次側車道端点の手前の様子

 県道112号三次・江津線の三次側車道端点があるのは江津市中心部の南東約9kmのところである。起点の三次市三次町/三次町交差点からずっと、途中には重量制限箇所や高さ制限箇所、狭隘箇所、異常気象時通行規制箇所、冬期閉鎖箇所、重用箇所がありながらも続いてきたこの道であるが、江津市中心部を目前にして遂に途切れたのである。車道端点の先にはけもの道も見当たらず(注16)、完全にそこで道は終わりとなった。
 鉄道の三江線は何とか全線開通を果たしたが、県道の三江線、すなわち県道112号三次・江津線は島根県では今年6月13日に還暦を迎える(注17)にもかかわらず、江津市中心部まであと少しのところまで来ているにもかかわらず未だに全線開通に至っていない。なぜ全線開通に至れないのか、理由を記すと次の通りになる。
・川の近くまで山が迫っていること。
・川の近くまで山が迫っているところを三江線が通っているため道路用地を捻出できないこと。
・もし整備する場合は構造物を多用することになるため費用がかさむこと。
・もし整備する場合は江の川を管理する建設省改め国土交通省との交渉が必要になること。
・対岸には整備が完了している国道261号線があること。
・もし整備しても江の川左岸を通る道には未整備の箇所が多いため有用な道にはなり得ないこと。
・もし整備しても交通量が少なくなることは明らかであり、費用対効果が見込めないこと。
・整備するに当たっては土砂崩落や路肩崩壊、浸水などの災害対策が必要なこと。
・途中にはある程度の人口を有する集落がないこと。
 いずれにせよ整備するには難しい面が多くあることがうかがえる。
 一方では三江線が廃止されるのだから三江線の跡地を用いて整備すれば良いのではないかという声もあるが、私は実現は難しいのではないかと見ている。県道112号三次・江津線の未開通区間の延長は3.8kmにも及ぶし、全く手付かずの状態から建設しなければならないからである。更に未開通区間の前後の道も整備しなければ江津市中心部〜江津市桜江地区間の幹線道路として有用な存在になり得ないし、それには莫大な費用がかかる。たださえ人口減少や財政事情悪化に苦しんでいる島根県が整備に積極的になることはまず考えられない。よって私は恐らく三江線廃止後も当分の間は現状維持になると見ているのだが、果たしてどうであろうか。

川戸駅から川平駅へ

 川戸駅の(北口)駅前広場から県道41号桜江・金城線(県道112号三次・江津線重用)を北東方向に進む。緩やかな坂を70mほど上った先の江津市桜江町川戸/かどや商店前交差点(信号機・交差点名標なし)で県道112号三次・江津線と別れ、緩やかな坂を更に50mほど上ると江津市桜江町川戸/桜江大橋南詰交差点(信号機・交差点名標なし)に差しかかる。つまり、川戸駅の(北口)駅前広場から江津市桜江町川戸/桜江大橋南詰交差点(信号機・交差点名標なし)までは田津駅から川戸駅へ向かう時に通った道を逆走してきたわけである。
 この先は桜江大橋となるわけであるが、この桜江大橋は実にカラフルである。何と上部から空色と桜色、若草色に塗り分けられているのである。あいにく取材の時は使っているデジタルカメラの電池残量に不安があったため桜江大橋の写真は撮らなかったのだが、初めて見た方は恐らく驚くことであろう。江津市桜江地区を象徴する色に1987年(昭和62年)に塗り替えたというのだが、こんなにカラフルなトラス橋は他にはないのではないのだろうか(もし他にあったとしたら申し訳ないことを書いたことになるのだが…)。
 桜江大橋の南側入口に掲げられた「またきちゃんさい桜江へ」と書かれた横断幕(注18)に見送られて桜江大橋を渡り、江津市桜江地区中心部を後にする。桜江大橋の先にある十字路、すなわち江津市桜江町谷住郷/桜江大橋北詰交差点(交差点名標なし)で左折し、国道261号線に入る。これまではずっと旧道を通ってきたのだが、ようやく現道を走る時が来たのである。
 江津市桜江町谷住郷/桜江大橋北詰交差点(交差点名標なし)からの国道261号線は上下2車線化が完了しているので快適に走れる。国道261号線になる前は一般県道(県道189号川下・江津線)だったこの道(注19)は1963年(昭和38年)4月1日に二級国道261号広島・江津線として発足した路線であることや広島市と石見地方東部(大田市・江津市・邑智郡)を結ぶ幹線道路(注8)として、更に江津市と邑智郡各地を結ぶ幹線道路として位置付けられていたことから改良は早い時期に進められ、1970年代末期には江の川に沿う部分の改良は完成している。しかし、次に挙げるような問題が生じたのである。
・改良が早い時期に行われたため道路規格が低くなったこと。
・川の近くまで急峻な山が迫るところに建設された道だけに災害が頻発し、2002年(平成14年)春には土砂崩落で1ヶ月近く通行止めになったこともあること。
・江津市中心部と江津市桜江地区中心部を結ぶ唯一の幹線道路であり、常時通行できるようにする必要が生じたこと。
 そこで大口バイパスと久坪(くつぼ)バイパスの建設が企図され、前者は2011年(平成23年)8月10日に、後者は2005年(平成17年)8月9日にそれぞれ開通した。大口バイパスには桜江トンネル(全長:631.0m)が、久坪バイパスには櫃原(ひつばら)トンネル(全長:174.0m)があるのだが、意外にも櫃原トンネルは邑智郡川本町川下/川下橋西詰交差点(交差点名標なし)以西の国道261号線では初めて建設されたトンネルとなっている。
 この辺りの国道261号線は木々に遮られるところもあるが、進行方向左側に江の川を眺めながらの走行となる。そんな中で気になるのが江の川の対岸である。江の川の対岸を通る県道112号三次・江津線が途切れていることは前に書いた通りであるが、実は瀬尻集落(江津市川平町平田)に200mほどだが自動車が通れるところが存在するのである。つまり、県道112号三次・江津線の通行不能区間(未開通区間)は江津市川平町平田字瀬尻で一旦中断する格好になっているのだが、このことは全くと言って良いほど知られていない。そのことを知る手段は島根県公式サイトで閲覧できる道路台帳だけであることとそこに行くには狭い江津市道を通る以外に方法がないこと(注20)が理由なのだが、残念ながら国道261号線から瀬尻集落を見ることは江の川左岸に繁茂している草木に遮られてできなかった。動画投稿サイトには三江線を走る列車から車窓を撮ったものが多数公開されており、瀬尻集落の様子を見ることはできるのだが、インターネット検索で調べたところこの瀬尻集落は10年ほど前から住んでいる人が誰もいない集落になっているのだという。山道を通る以外他の地域へ行けないことや度々水害に見舞われたことが無人化してしまった要因であるが、もし三江線の駅があったら、そして県道112号三次・江津線が通れるようになっていたらまた違った展開があったのではないかと考えたくなるのは私だけだろうか(それでも過疎化や三江線の廃止は免れなかったかもしれないが…)。
 さて、江津市桜江町谷住郷/桜江大橋北詰交差点(交差点名標なし)から走ってきた国道261号線であるが、久坪バイパスを過ぎた先にある丁字路、すなわち江津市松川町長良/松川橋北詰交差点(交差点名標なし)で早くもお別れすることになる。江津市松川町長良/松川橋北詰交差点(交差点名標なし)で左折して県道221号川平停車場線に入るからである。ちなみにこの江津市松川町長良/松川橋北詰交差点(交差点名標なし)の信号機は点滅式押しボタン式信号機(国道261号線側が黄色点滅、県道221号川平停車場線側が赤色点滅になっている)になっており、国道261号線と県道221号川平停車場線の交通量の格差が大きいことを感じさせる(注21)
 ここでこのページをご覧になっている方の中には県道221号川平停車場線はこの江津市松川町長良/松川橋北詰交差点(交差点名標なし)で終点になると思う方がいるのではないかと思うのだが、実は終点はそこではなく、国道261号線や県道177号大田・井田・江津線と重用しながら江津市黒松町を目指しているのである。江津市黒松町/黒松出合バス停南交差点(信号機・交差点名標なし)で国道9号線と合流するところが終点となるのだが、なぜ江津市最北端の町・黒松まで路線を延ばしているのだろうか。この県道221号川平停車場線が認定されたのは1959年(昭和34年)8月7日のこと(1959年〔昭和34年〕8月7日島根県告示第626号による)なのだが、江津市松川町長良/松川橋北詰交差点(交差点名標なし)で接続する国道261号線はその当時県道221号川平停車場線と同時に認定された県道189号川下・江津線だったから現在は県道177号大田・井田・江津線になっている一級国道9号線(1952〜1965)か現在は国道9号線になっている県道24号(注22)大田・温泉津(ゆのつ)・江津線(主要地方道。1955〜1972)のどちらかに接続させる必要があってそのようにしたのだろうか(注23)
 県道221号川平停車場線に入るとすぐに江の川に架かる松川橋(全長:188.1m)を渡る。昨年5月9日に還暦、すなわち開通60周年を迎えたこの橋であるが、二つのアーチが印象的な橋である。ここまでを振り返って江の川には本当に印象的な橋が多いなと感じるのだが、実はこの橋がこの旅で最後に渡った江の川の橋となるのである。あとは終着地の江津駅まで江の川左岸を通るだけになるからであるが、いよいよこの旅も終わりに近付いてきたのだなと思うと感慨深いものがある(無論見所はまだいくつもあるのだが…)。
 松川橋を渡った県道221号川平停車場線は50mほど先で今度は三江線の上を跨ぐのだが、その跨線橋(島根県公式サイトで閲覧できる道路台帳では単に「跨線橋」としか名称を記していないが本サイトでは便宜上田ノ原跨線橋〔全長:12.2m〕という名称を付けることにした)は実は県道112号三次・江津線(県道221号川平停車場線重用)のものである。つまり、松川橋と田ノ原跨線橋の間で県道112号三次・江津線が左方から合流してくることになるわけである。しかし、左方を見てもけもの道すら見当たらない。結局県道112号三次・江津線の通行不能区間には前に触れた江津市川平町平田字瀬尻を除き全く道がないことを思い知る。
 田ノ原跨線橋の手前から県道112号三次・江津線(県道221号川平停車場線重用)は右に曲がっていき、田ノ原跨線橋を過ぎた先で山裾に取り付く。その辺りで左後方から合流してくる道があるのだが、江津市が設置した通り抜けできない旨の看板があり、県道112号三次・江津線とは関係ないと知る。恐らくすぐに行き止まりになる生活道路なのだろう。
 県道112号三次・江津線(県道221号川平停車場線重用)が山裾に取り付いてから150mほど進むと道は左に折れるのだが、その反対側に川平駅(江津市川平町南川上〔みなみかわのぼり〕)とその(南口)駅前広場はある。

川平駅(かわひらえき)

川平駅の駅舎

川平駅の駅名標

三江線活性化協議会が設置した看板。川平駅の愛称は大江山となっている。

川平駅のデータ

項目 記事
所在地 江津市川平町南川上
駅名の由来 駅がある自治体(としての村)の名前。
開業年月日 1930年(昭和5年)4月20日
接続鉄道路線 なし
駅構内にあるもの 駅舎
プラットホームの形式 単式ホームで北側を利用している。
昔は相対式ホームだったが、列車本数減少に伴う交換施設廃止により北側の線路は撤去された。更に跨線橋(江津方に設置されていた)も撤去されている。
起点または終点からの距離
(営業キロ)
起点(江津)から7.0km
終点(三次)から101.1km
前後の駅からの距離
(営業キロ)
(下り線)千金駅から3.6km
(上り線)川戸駅から6.9km
JR三江線の列車の発車・到着時刻
(2017年〔平成29年〕3月4日現在)
(下り列車)
423D…午前6時9分(江津発三次行)
425D…午後0時50分(浜田発浜原行)
429D…午後3時31分(江津発三次行)
431D…午後4時49分(江津発浜原行)
435D…午後7時24分(江津発浜原行)
(上り列車)
420D…午前7時56分(浜原発浜田行)
422D…午前9時15分(三次発浜田行)
426D…午後2時37分(石見川本発江津行)
430D…午後6時40分(浜原発江津行)
434D…午後9時11分(浜原発江津行)
付近にある主要施設 江津川平郵便局
江津警察署松平駐在所
付近にある名所・旧跡・自然 江の川
山本の白枝垂(しろしだれ)桜(島根県天然記念物に指定されている)
付近を通る国道路線
または県道路線
県道112号三次・江津線
県道221号川平停車場線(県道112号三次・江津線重用)
県道298号跡市・川平停車場線(県道112号三次・江津線重用)
備考 ・初代三江線第一期開業区間(石見江津〔現:江津〕〜川戸間)で唯一開業当初からある駅である。
・三江線にある駅では唯一複数の県道路線の起終点が駅前にある駅である。

 川平駅は初代三江線第一期開業区間(石見江津〔現:江津〕〜川戸間)で唯一開業当初からある駅である。なぜ駅が設置されたのか。那賀郡川平村(1889〜1954)の代表駅だったこともあるのだが、石見江津駅改め江津駅と川戸駅のほぼ中間にあることも大きかったように思われる。江津〜川平間は7.0km、川平〜川戸間は6.9km(ちなみに川平〜川戸間は現在の三江線で最長の駅間距離となっている)。確かに江津〜川戸間のほぼ中間にある。開業当時一日にどのくらいの本数の列車が設定されていたかは分からないのだが、わずか十数kmの行き止まり路線であっても列車交換可能駅があることは列車ダイヤを組む上でやりやすかったことであろう。
 さて、川平駅は開業当時からの駅舎が残る駅なのだが、昔ながらの木製の長椅子が残るなど懐かしさを感じさせる駅舎であった。

 

川平駅の駅舎の内部

 こういう趣のある駅舎があることもあってか川平駅は映画のロケ地にもなったことがあるという。2007年(平成19年)に公開された「天然コケッコー」(注24)と、2008年(平成20年)に公開された「砂時計」(注25)である。それらの映画に関する展示が駅舎の中にあった。ちなみにどちらの映画も若手女優の夏帆が主演を務めている(注26)

 駅舎を出てプラットホームに立つ。前にも記したように川平駅は那賀郡川平村の代表駅だったことや石見江津駅改め江津駅と川戸駅のほぼ中間にあることから列車交換施設を備えた駅であった。鉄道利用が多かった時期は一日に何度も列車の交換が行われ、多くの人々で賑わっていたのだろう。しかし、列車の本数が減ったことで対向ホーム(下り線用ホーム)は使用されなくなり、下り線用のレールと対向ホームに通じる跨線橋は撤去されてしまった。取材当日は晩秋の雨の降る日であり、更に4ヶ月後には廃止されるとあって淋しさを感じさせた。

 

駅舎側しか使われなくなった川平駅のプラットホーム(左:江津方面/右:三次方面)
よく見ると下り線用線路に枕木が残っている

対向ホームに残る跨線橋の土台(赤矢印のところ)

 そんな中でも好感が持てたのが、因原駅や川戸駅と違ってこの川平駅では三江線活性化協議会が設置した看板(神楽〔かぐら〕の題目を記し、なおかつそれを演じている時の様子の写真が掲載されたもの。三江線の全ての駅について制定され、川平駅のそれは「大江山」となっている)が駅舎の壁に取り付けられていたことである。今更こういうことを書いても遅いのだが、因原駅や川戸駅ではなぜそうしなかったのかなとか取り付けられる場所はあったはずなのになと思いたくなった。
 さて、プラットホーム側から駅舎を見ているとある貼り紙が目を引いた。

 「花田植え」といえば山県郡北広島町壬生(みぶ)のものが有名である(重要無形民俗文化財やユネスコ無形文化遺産に指定されている)が、江津市川平地区でも行われているとは知らなかった。毎年5月下旬に豊作を祈って行われるとのことであるが、調べてみたら島根県でも各地で行われているのだという。そういえば神楽も広島県北部や島根県西部で盛んだが、中国山地を越えて文化が広まっていったのだろうか。
 駅舎を出て(南口)駅前広場に出る。改めて駅舎を見ていると、やはりこの駅にも1972年(昭和47年)7月中旬に起きた梅雨末期の集中豪雨の浸水水位を示した看板があるのを見つけた。

 しかし、その看板は川平駅の玄関ではなく、玄関から少し離れたところにあった(下の写真で赤矢印で指し示した辺り)。

 なぜ玄関ではなく、玄関から少し離れたところなのか。しかも(上の写真をご覧頂ければ分かることであるが)看板の前にはいくつか植木があり、見にくくなる恐れがある。「あの災害のことはもう思い出したくない。目に付かないところに取り付けてくれ」という住民がいたのかもしれないが、気持ちは分からないわけではないもののこれはどうなのかなと思った。
 (残念ながら写真には撮らなかったが)他にも開業を記念して植えられたとされる桜の古木(残念ながら先日バスの方向転換用地を確保するため伐採されたとのこと)が駅前広場にあることや駅前広場を起終点とする県道路線が二つもあること(しかも県道221号川平停車場線は東方へ、県道298号跡市・川平停車場線は西方へそれぞれ向かっており、正反対の方向に進むこととどちらの路線も県道112号三次・江津線と重用しており、川平駅付近では全く単独区間を有しないことが珍しい。但しそのことを示す物件はない)など興味をひかれることがいくつもあった駅である。今回訪ねるまでこういうことを知らないでいたことが非常に悔やまれる。

 さて、遂にこの旅も次の章でいよいよ終着の地・江津駅に到着することになる。

第9章に続く

注釈コーナー

注1:江津市桜江町坂本は1950年(昭和25年)3月31日までは邑智郡川下村(1889〜1955)に属していたが、1950年(昭和25年)4月1日に邑智郡川越村に編入されている。

注2:普通自動車同士のすれ違いには難渋しないくらいの幅があるが中央線がない状態を指す。

注3:お役御免になったとしても費用がかかるなどの事情からすぐに取り壊される跨線橋はほとんどない。下を通っていた鉄道路線が廃止されてからかなりの年月が経っても残っている例も少なくない。
※中国地方では岡山市南区にある国道30号線泉田跨線橋が有名な例である。1984年(昭和59年)12月30日に下を通る岡山臨港鉄道が廃止されたが、それから30年以上経った現在もそのまま残されている。

注4:ここでは県道295号日貫・川本線が発足した1966年(昭和41年)3月29日時点の区間を書いている。

注5:しかし2017年(平成29年)版「郵便番号簿」の巻末に掲載されている2016年(平成28年)7月31日現在の「郵便区番号一覧」によると699-45は川越郵便局の番号であると記されている。つまり、「郵便番号簿」上は川越郵便局は現在も集配郵便局となっているということになるのだが、実際のところはどうなのだろうか。なお、日本郵便公式サイトには集配郵便局の改廃に関する情報は全くと言って良いほど掲載されておらず、真相ははっきりしない。

注6:江津市公式サイトには川越大橋線と記されている箇所がある(恐らく誤りであろう)。

注7:1962年(昭和37年)5月1日政令第184号に基づいて1963年(昭和38年)4月1日に発足した、中国地方を通る国道路線は下表の通りである。

種類 路線名称 備考
一級国道 53号線 二級国道179号岡山・鳥取線(1953〜1963)が一級国道に昇格。
54号線 二級国道182号広島・松江線(1953〜1963)が一級国道に昇格。
発足当時の事実上の終点は八束郡宍道(しんじ)町(1927〜2005)にあった(現在八束郡宍道町は松江市の一部になっている)。
二級国道 179号姫路・倉吉線 路線名称からすれば姫路市と倉吉市を結ぶ路線となるが、実は倉吉市は通過地の一つであり、終点ではない(終点は発足当時から現在に至るまで倉吉市の北隣にある東伯郡羽合町〔1953〜2004〕→東伯郡湯梨浜町にある)。
事実上の起点は発足当時から現在に至るまで揖保(いぼ)郡太子町にある。
182号新見・福山線
261号広島・江津線 発足当時の事実上の起点は安佐郡安佐町(1955〜1971)にあった(現在安佐郡安佐町は広島市安佐北区の一部になっている)。
262号萩・防府線

この2年後の1965年(昭和40年)4月1日に1965年(昭和40年)3月29日政令第58号に基づいて一級国道と二級国道は統合され、一般国道が発足したため中国地方で発足した一級国道路線と二級国道路線は上表に示した6路線が最後になった。

注8:大田市は国道261号線は通っていないのだが、広島市との往来には国道261号線を通ることが多いためここで記している。

注9:異常気象時通行規制が制定された契機は今年8月18日に発生から半世紀を迎える飛騨川バス転落事故(1968年〔昭和43年〕8月18日。死者・行方不明者104人)である。但し島根県が管理する道路について異常気象時通行規制区間が指定されるようになったのは1971年度(昭和46年度)以降のことである。また、本文で触れた県道295号日貫・川本線の江津市桜江町田津〜江津市桜江町鹿賀間が異常気象時通行規制区間に指定されたのは1986年度(昭和61年度)のことである(いずれも島根県公式サイトによる)。

注10:あるところで最近入手した「コンパニオン道路地図帖 九州編」(ワラヂヤ出版〔大阪市西区新町三丁目。2002年〈平成14年〉破産し廃業〕刊)の1974年(昭和49年)版にはなぜか山陽地方(大阪市以西の瀬戸内海沿岸部)・山陰地方(松江市以西の日本海沿岸部)の地図も掲載されているのだが、それを見ると県道294号川下・桜江線は全線にわたって赤い×印が打たれている。つまり、1974年(昭和49年)時点では県道294号川下・桜江線は全線にわたって自動車通行不能だったことになる。
しかし、私は一部区間については自動車は通れていたのではないかと考えている。そのように考える理由は次の通りである。
・県道294号川下・桜江線の沿線にある江津市桜江町大貫は当時既に江の川左岸とは大貫橋と川越大橋(1974年〔昭和49年〕時点の橋は現在の橋のすぐ東側にあった。その橋は現在の橋が開通した後解体されている)で結ばれていたこと。つまり、江津市桜江町大貫には自動車が通れる道がいくらかあったことが考えられる。
・そもそも「自動車通行不能」の定義が不明確なこと。自動車通行不能(自動車交通不能とも称する)は線形や勾配、幅員などの問題により最大積載量4トンの貨物自動車が通れないところを指しているが、もしそれを律義に当てはめたら軽自動車が通れるところはどうなのかという問題が生じるのだが…。
・ワラヂヤ出版が刊行していた道路地図で自動車通行不能とされていたところで実際は通れるところがいくつもあること。岡山県や広島県にはそういうところはいくつもあることを私は知っている。
・現在の地図を見ると県道294号川下・桜江線だったのでは…と思える道が国道261号線のそばでいくつか見られること。
いずれにせよ当時の写真や資料が見つからない限りは真相は分からないわけであるが、実際のところはどうだったのだろうか。

注11:いつ江の川左岸に沿って延びていた国道261号線が県道295号日貫・川本線や桜江町道→江津市道に再編されたかは分からない。ただ、国道261号線川下・桜江バイパスに発展的解消を遂げた県道294号川下・桜江線が1980年(昭和55年)2月29日島根県告示第171号で廃止されていることを考えると1980年(昭和55年)頃に再編された可能性が高い。

注12:県道112号三次・江津線が発足したのは本文でも触れた通り初代三江線石見江津〜川戸間が開業してから28年も後の1958年(昭和33年)6月13日のことである。

注13:左折先の地名である志谷も江津市桜江町後山の小字である。

注14:福山市及びその周辺(岡山県…浅口市・井原市・笠岡市・浅口郡・小田郡、広島県…尾道市・福山市・府中市・神石郡)にある県道路線の通行不能箇所は下表の通りである。

県名 路線名称 通行不能区間 備考
起点 終点
岡山県 県道155号鴨方・矢掛線 小田郡矢掛町浅海 小田郡矢掛町浅海 予告標識は県道標識の補助標識として取り付けられている。
県道377号山口・押撫線 笠岡市東大戸 笠岡市東大戸 予告標識は県道標識の補助標識として取り付けられている。
通行不能区間としては珍しく田園地帯の中の道となっており、バイクまでなら通行は可能である(地元住民の話では軽トラックで通った人もいるというのだがどうなのだろう…)。
県道382号本庄・玉島線 浅口市金光町上竹 浅口市金光町上竹 予告標識は県道標識の補助標識として取り付けられている。
広島県 県道398号新山・府中線 福山市駅家町助元 福山市新市町下安井 府中側には予告標識はない(十数年前まではあったがなくなった)。
また、起点のすぐそばにある新山側の予告標識は1980年(昭和55年)頃設置されたものであり、老朽化が著しい。
新山側は車道端点の500mほど手前に通行不能を宣告する標識がある。
県道463号津之郷・山守線 福山市津之郷町津之郷 福山市駅家町今岡 山守側の予告標識は旧道にある(2007年〔平成19年〕7月27日に全線開通した、福山市立宜山〔むべやま〕小学校〔福山市駅家町今岡〕の西側を通る現道には未だに設置されていない)。
また、津之郷側・山守側とも予告標識は1980年(昭和55年)頃設置されたものであり、老朽化が著しい。

岡山県南西部で見られる県道標識に取り付けられた通行不能を予告する補助標識

 

老朽化が目立つ広島県南東部にある通行不能予告標識

福山市駅家町雨木にある県道398号新山・府中線の通行不能宣告標識
まだ500mほどは軽自動車なら通れるのだが状況の良い脱出路がないためにそこに宣告標識を設置したものと思われる

注15:車道端点までに三つも通行不能予告標識を設置している例は呉市にある県道465号川尻・安浦線の川尻側がある。但し県道112号三次・江津線と異なるのは三つの予告標識はある程度の距離を置いて設置されていることである。
※現在県道465号川尻・安浦線は呉市安浦町安登(あと)にある通行不能箇所の解消に向けた道路建設が進められており、2020年代初頭には通行不能が解消されることになりそうである(十数年前から建設しているようだが難航しているのだろうか)。よって、通行不能予告標識はあと数年で見られなくなることになる。

注16:本ページに掲載している写真からけもの道はあったのだが藪に埋もれたのだろうと思う方がいるかもしれない。ところが、島根県公式サイトで閲覧できる道路台帳を見ると県道112号三次・江津線の通行不能区間は三次側車道端点から江津側車道端点までそのほとんどが一本点線になっており、二本線になっていない。つまり、道がないことが考えられるのである。

注17:県道112号三次・江津線は島根県と広島県に跨る路線であり、島根県と広島県で認定期日を合わせる必要があったのだが、なぜか広島県での路線認定は島根県側での路線認定から2年4ヶ月も後の1960年(昭和35年)10月10日となった。
※同じことは鳥取県に跨る路線と山口県に跨る路線にも言える。鳥取県に跨る路線の鳥取県側の路線認定は島根県より半月ほど早い1958年(昭和33年)5月27日のことであったし、山口県に跨る路線の山口県側の路線認定は島根県より3ヶ月半ほど遅い1958年(昭和33年)10月1日のことであった。

注18:ちなみに江津市桜江地区中心部の入口になる桜江大橋の北側入口に掲げられている横断幕には「ようきんさった桜江へ」と書かれている。これらの横断幕は桜江ライオンズクラブ(江津市桜江町川戸)が設置したものである。

注19:1963年(昭和38年)4月1日に発足した中国地方の二級国道路線4路線のうち前身が一般県道路線だった割合が高いのは実は二級国道261号広島・江津線である。発足当時の単独区間(広島市安佐北区安佐町飯室/飯室交差点江津市渡津町/渡津町交差点間)の前身路線は下表の通りとなる。

※地名は現在のものを記しているが、路線名称は現存するものであっても1963年(昭和38年)3月31日時点のものを記している。

※煩雑になるため重用している県道路線に関する記載は省略している。

県名 路線種別 路線名称 起点 終点 備考
広島県 一般県道 県道4号千代田・安佐線 広島市安佐北区安佐町飯室/
飯室交差点
山県郡北広島町有田/
壬生口交差点
主要地方道 県道12号八重・温泉津線 山県郡北広島町有田/
壬生口交差点
山県郡北広島町大朝/
広島・島根県境
県境はおおよその位置を示している(当時存在した中三坂隧道は現在閉鎖されており、地図では示されなくなっているため)。
島根県 主要地方道 県道1号八重・温泉津線 邑智郡邑南町上田所/
広島・島根県境
邑智郡川本町因原/
八面橋南詰交差点
(信号機・交差点名標なし)
県境はおおよその位置を示している(当時存在した中三坂隧道は現在閉鎖されており、地図では示されなくなっているため)。
主要地方道 県道11号浜田・川本線 邑智郡川本町因原/
八面橋南詰交差点
(信号機・交差点名標なし)
江津市桜江町田津/
田津橋西詰交差点
(信号機・交差点名標なし)
一般県道 県道12号江津・川本線 江津市桜江町田津/
田津橋西詰交差点
(信号機・交差点名標なし)
江津市桜江町川戸/
薬王寺前交差点
(信号機・交差点名標なし)
一般県道 県道3号三次・江津線 江津市桜江町川戸/
薬王寺前交差点
(信号機・交差点名標なし)
江津市桜江町川戸/
かどや商店前交差点
(信号機・交差点名標なし)
一般県道 県道60号桜江・大家線 江津市桜江町川戸/
かどや商店前交差点
(信号機・交差点名標なし)
江津市桜江町谷住郷/
増屋橋南詰交差点
(信号機・交差点名標なし)
一般県道 県道189号川下・江津線 江津市桜江町谷住郷/
増屋橋南詰交差点
(信号機・交差点名標なし)
江津市渡津町/
渡津町交差点

上表から主要地方道だったのは山県郡北広島町有田/壬生口交差点江津市桜江町田津/田津橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)間であることがうかがえる。単独区間のうちの主要地方道だった部分は半分を少し超える程度であり、他の同時発足の二級国道路線3路線と比べても低かった(そのうち二級国道182号新見・福山線と二級国道262号萩・防府線は全区間が主要地方道から移行している)。

注20:2箇所以上の通行不能区間を擁する国道路線や都道府県道路線で通行不能区間の合間にある通行可能区間に行くことが困難な例は鳥取県や大分県にもある。その概要は下表の通りである。

県名 路線名称 概要
鳥取県 県道103号若桜・湯村温泉線 鳥取県八頭郡若桜(わかさ)町若桜と兵庫県美方郡新温泉町歌長(うたおさ)を結ぶ路線だが、鳥取県八頭郡若桜町諸鹿と鳥取県八頭郡若桜町諸鹿〜兵庫県美方郡新温泉町岸田間、兵庫県美方郡新温泉町岸田〜兵庫県美方郡新温泉町中辻間に通行不能区間があり、通行可能区間は四つに分かれている。その中で最もたどり着きにくい通行可能区間は鳥取県八頭郡若桜町諸鹿の広留野高原を通る箇所である。若桜町中心部から標高700〜800mのところにあるその通行可能区間に行くには西隣の鳥取県八頭郡八頭町を経由する以外に方法はない(つまり鳥取県八頭郡若桜町だけを通って行くことはできないということ)。鳥取県八頭郡若桜町諸鹿にある通行不能区間を解消して鳥取県八頭郡若桜町だけを通って広留野高原に行けるようにする計画もあったが鳥取県の財政事情が厳しいことや通行不能区間付近の地形が険しいこと、そして自然環境の保護を求める声が高まったことなどから頓挫した。
大分県 県道711号合瀬・上野田線 日田市中津江村合瀬(ごうせ)と日田市上津江町上野田を結ぶ路線だが、日田市中津江村合瀬と日田市中津江村合瀬〜日田市上津江町上野田間に通行不能区間があり、通行可能区間は三つに分かれている。最もたどり着きにくい通行可能区間は日田市中津江村合瀬の山中にあり、そこに行くには未舗装の荒れた林道を通らなければならないという。

探せばまだあるのかもしれないが、たどり着きにくい通行可能区間に興味本位で行くことは本サイトとしては一切お勧めしない(もしそうして何らかの問題が起きても一切責任はとれないので悪しからず)。

注21:邑智郡川本町川下/川下橋西詰交差点(交差点名標なし)以西の国道261号線にある信号機で通常点灯なのは江津市桜江町谷住郷/桜江大橋北詰交差点(交差点名標なし)だけである(但し深夜・早朝は点滅運用になる)。

注22:路線番号は私の推定である。その路線番号を付けた理由は次の通りである。
・1972年(昭和47年)3月21日島根県告示第209号では大田・温泉津・江津線の路線番号は14となっていたが、それは1955年(昭和30年)2月4日〜1966年(昭和41年)3月29日に使用していた番号だったこと。
・1966年(昭和41年)3月29日以降路線番号14を使用していたのは松江停車場線(現:県道22号松江停車場線)だったこと。
・1966年(昭和41年)3月29日時点で大田市〜江津市間の日本海沿いで進められていた国道9号線の改良工事は完成していたとは考えられず、主要地方道大田・温泉津・江津線は存続させる必要があったこと(現に1964年〔昭和39年〕12月28日建設省告示第3,620号で大田・温泉津・江津線は引き続き主要地方道に指定されている)。
・1966年(昭和41年)3月29日時点の島根県における主要地方道の路線番号は23まで使われていたこと。

注23:こういう例は広島県にも存在する。JR山陽本線西高屋駅の駅前、すなわち東広島市高屋町中島/西高屋駅前交差点を起点とする県道194号西高屋停車場線がそれである。東広島市高屋町中島/西高屋駅前交差点は県道194号西高屋停車場線と県道59号東広島・本郷・忠海線との交差点になっているのだが、県道194号西高屋停車場線はそこから北に延び、東広島市高屋町杵原/杵原交差点で国道375号線(国道486号線重用)に合流して終点となっている。県道194号西高屋停車場線が認定された1960年(昭和35年)10月10日時点で国道375号線は県道32号西条・豊栄線(1954〜1976。路線名称は廃止当時のものを記載)だったのに対して県道59号東広島・本郷・忠海線は県道349号入野・檜山線(1960〜1982。路線名称は廃止当時のものを記載)だったことから西高屋駅と県道32号西条・豊栄線を結ぶ路線にしたほうが妥当だという判断があってそのようにしたのであろう。

 

西高屋駅の駅舎(左)と県道194号西高屋停車場線の県道標識(右)

注24:原作はくらもちふさこ(母親が浜田市出身)のマンガ作品。

注25:原作は芦原妃名子(あしはら・ひなこ)のマンガ作品。映画化される前の年、すなわち2007年(平成19年)には「愛の劇場」(TBS系、1969〜2009年〔昭和44年〜平成21年〕に設定されていた午後1時台の30分ドラマ枠)でテレビドラマ化されている(全60回)。但しテレビドラマ版は松江市・出雲市・大田市でロケが行われている。
※記すまでもないが島根県・広島県ともTBS系列に属する民間テレビ放送局がある(島根県…山陰放送テレビ〔BSS、米子市西福原一丁目〕、広島県…中国放送テレビ〔RCC、広島市中区基町〕)ので「砂時計」を含む「愛の劇場」枠のテレビドラマは十分視聴可能であった。

注26:映画「砂時計」に関しては松下奈緒とのダブル主演になっている。