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JR三江線並行道路を行く・第9章(2018年〔平成30年〕4月22日公開)
川平駅から千金駅へ
川平駅(江津市川平町南川上〔みなみかわのぼり〕)の(南口)駅前広場を出て直進し、県道112号三次・江津線に入る。川平駅に到着するまでの県道112号三次・江津線は県道221号川平停車場線と重用していたが、川平駅を過ぎてからの県道112号三次・江津線は県道298号跡市・川平停車場線と重用する。駅前で県道路線が変わるのも珍しい(注1)し、駅前を起終点とする県道路線がどちらも上位路線と重用し、起点からしばらくの間または終点までのしばらくの間は単独区間を持たないというのも珍しい。県道221号川平停車場線は江津市最北端の町・黒松町まで、県道298号跡市・川平停車場線は山陰の伊香保と称される有福温泉(江津市有福温泉町)の東方にある江津市跡市町までそれぞれ延びているのだが、二つも比較的長い県道路線が認定されたのは川平駅が何らかの拠点性を有していたからなのだろうか。今のところ三江線関連の県道路線(他には県道222号川本停車場線があるだけだが)は三江線が廃止される今年4月1日以降も存続することが決まっている(注2)が、いずれ訪れるであろう再編の時はどうなるのか。気に留めておきたい。
県道112号三次・江津線(県道298号跡市・川平停車場線重用)は南川上の集落を狭い道で通り抜けると広々としたところに出る。右側には三江線の築堤が、左側には田畑がある。しばらく走ると江の川支流の奥谷川に架かる船津橋(全長:13.2m)という古い橋を渡るのだが、その先には丁字路、すなわち江津市川平町南川上/船津橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)がある。ここで県道112号三次・江津線は右へ、県道298号跡市・川平停車場線は左へそれぞれ折れる。つまり、県道112号三次・江津線と県道298号跡市・川平停車場線の重用区間はこの江津市川平町南川上/船津橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)で終わりになるのである。ちなみに起点の三次市三次町/三次町交差点からいくつもの国道路線または県道路線と重用関係を持ってきた県道112号三次・江津線であるが、この県道298号跡市・川平停車場線が最後の重用相手になる。
江津市川平町南川上/船津橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)で右折して単独路線に戻った県道112号三次・江津線は三江線と並行するようになるのだが、県道112号三次・江津線は緩やかな坂で高度を上げていく。その先にこんな標識があった。
この先の県道112号三次・江津線が異常気象時通行規制区間に指定されていることを知らせる標識である。そこから江津市金田(かねた)町までの約2.0kmについて時間雨量30mm、連続雨量150mmに達した場合通行止めになるとのことである(注3)が、江津市中心部まであとわずかのところに来てもこういう規制があるところに三江線や県道112号三次・江津線が厳しい自然環境に置かれていることを痛感させられる。ちなみに県道112号三次・江津線を上り方向(江津→三次)に走ってきた場合はこの辺りで大雨の時冠水する恐れがあることを注意する標識を見ることになる(注4)。
異常気象時通行規制区間に指定されていることを知らせる標識を過ぎてからの県道112号三次・江津線はしばらくは三江線や江の川と並行するのだが、江の川に沿って延びる三江線に対して県道112号三次・江津線は山裾に沿うように道が作られており、間もなく左にそれる。左にそれた後の道はわずかではあるが林の中の道となるのだが、緩やかな右屈曲を過ぎると進行方向右側が開けてくる。その先に三江線の上を越える赤栗跨線橋(全長:20.8m)がある。赤栗跨線橋をくぐった三江線は赤栗トンネルで江の川の逆U字状屈曲を短絡するのだが、県道112号三次・江津線は江の川に沿うことを選んでいる。屈曲を繰り返しているため見通しは悪いし道幅は狭いので走りにくい。
右後方から江の川左岸にある赤栗集落からの道が合流してくる江津市川平町南川上/赤栗入口交差点(信号機・交差点名標なし)を過ぎると辺りは開けてくる。しばらく走ると三江線が左側に寄り添ってくる。その辺りで江津市川平町南川上から江津市金田町に入る。江津市が発足する前は那賀郡川平村(1889〜1954)と那賀郡江津町(1913〜1954)の境だったところである。境界標識があるわけでもないのでそういうことはどうでも良いことかもしれないのだが、いよいよこの旅も終わりに近付いてきたことを強調するために書いた次第である。
江津市金田町に入った県道112号三次・江津線は三江線と江の川の間を狭い道で抜けていくのだが、しばらく走ると道幅がいくらか広がってくる。その辺りで異常気象時通行規制区間から抜ける。一段高いところを通っていた三江線とほぼ同じ高さになるところもあるのだが、そのすぐ先で三江線との並行関係は終わる。三江線はこの先にある江の川の逆U字状の屈曲をトンネルで短絡するからである。
三江線との並行関係が終わった後の県道112号三次・江津線は引き続き江の川に沿って江津市中心部を目指す。道幅は上下2車線幅(注5)でまっすぐに延びている。その道幅のまま三江線がトンネルで短絡した江の川の逆U字状の屈曲に入っていく。その屈曲の途中には上下2車線になるところもある。このまま終点の江津市江津町/江津町交差点まで行ければ良いのだが、残念ながらそうは行かないのである。何があるのかはこの後でまた触れることにしたい。
さて、この江の川の逆U字状屈曲の途中に「人麻呂渡し」とも「人丸(注6)渡し」とも称する史跡がある。「人麻呂」とは飛鳥時代の歌人で、歌聖と称されている柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ。7世紀中期〜8世紀前半)のことである。石見国に役人として赴き、地元(注7)の娘・依羅娘子(よさみのおとめ)を娶(めと)った柿本人麻呂は現在の江津市周辺で多くの和歌を詠んだことで知られている。柿本人麻呂が石見国に赴任した時江の川を渡ったのがこの辺りで、江の川を渡ったところにある江津市金田町には江西(こうさい)駅という宿駅があったというのだが、確証があるわけではない(注8)。柿本人麻呂自体の生涯も詳らかではない部分が多い(注9)のだが、この「人麻呂渡し」あるいは「人丸(注6)渡し」を訪れて当時を想像してみるのも一興であろう。
「人麻呂渡し」とも「人丸(注6)渡し」とも称する史跡を過ぎると千金駅(江津市金田町)はもうすぐのところになるのだが、ここで重大な問題が起きたのである。それはどこから千金駅に行けるのかが分からないということであった。県道112号三次・江津線には一切案内標識はないし、取材の際使った道路地図(「ニューエスト32 島根県都市地図」〔昭文社〈千代田区麹町三丁目〉刊〕)には千金駅への経路に誤り(注10)があり、分からなくなったのである。千金駅は山裾にあることを手掛かりに道を探したところ、江津市金田町/金田公民館前交差点(信号機・交差点名標なし)で左折し、山沿いにたどれば行けることが分かった(途中の江津市金田町/八幡宮西交差点〔信号機・交差点名標なし〕(注11)までだがその経路はこちらで示している)。
江津市金田町/金田公民館前交差点(信号機・交差点名標なし)から山裾をたどること750m、江津市道は三江線との交差場所となる金田踏切(江津市金田町)に出る。その手前左側に千金駅はある。
千金駅(ちがねえき)
千金駅の待合所と東方に延びる三江線の線路
※駅名看板が入った待合所を撮ることは民家の敷地に入らざるを得なくなるため困難と判断し、撮影しなかった。その点はご了承願いたい。
千金駅の駅名標
三江線活性化協議会が設置した看板。千金駅の愛称は日本武尊(やまとたけるのみこと)となっている。
千金駅のデータ
項目 | 記事 |
---|---|
所在地 | 江津市金田町 |
駅名の由来 | 駅がある集落の名前。 |
開業年月日 | 1958年(昭和33年)7月14日 |
接続鉄道路線 | なし |
駅構内にあるもの | なし(プラットホームに待合所があるだけ) |
プラットホームの形式 | 単式ホームで南側を利用している。 |
起点または終点からの距離 (営業キロ) |
起点(江津)から3.4km 終点(三次)から104.7km |
前後の駅からの距離 (営業キロ) |
(下り線)江津本町駅から2.3km (上り線)川平駅から3.6km |
JR三江線の列車の発車・到着時刻 (2017年〔平成29年〕3月4日現在) |
(下り列車) 423D…午前6時1分(江津発三次行) 425D…午後0時42分(浜田発浜原行) 429D…午後3時23分(江津発三次行) 431D…午後4時41分(江津発浜原行) 435D…午後7時16分(江津発浜原行) (上り列車) 420D…午前8時4分(浜原発浜田行) 422D…午前9時23分(三次発浜田行) 426D…午後2時45分(石見川本発江津行) 430D…午後6時49分(浜原発江津行) 434D…午後9時19分(浜原発江津行) |
付近にある主要施設 | 金田公民館 |
付近にある名所・旧跡・自然 | 江の川 人麻呂の渡し(人丸の渡し) |
付近を通る国道路線 または県道路線 |
県道112号三次・江津線 ※千金駅の400mほど北西を通っている。 |
備考 | ・江津本町駅(江津市江津町)・竹駅(邑智郡美郷町乙原〔おんばら〕)とともに初代三江線が三江北線に改称してから初めて三江北線に設置された駅である。 ・三江線の駅では最も分かりにくい場所にある駅である。 ・三江線の駅では駅名看板が取り付けられている待合所が撮影しにくい駅である(そういう写真を撮ろうとすると民家の敷地に入らざるを得ないことや生け垣などで駅名看板が隠れてしまうことによる)。 |
やっとの思いでたどり着いた千金駅は三江線にある35の駅の中で最も分かりにくく、更に駅名看板が取り付けられている待合所が撮影しにくい駅であった。駅への道に迷ったことは「川平駅から千金駅へ」で触れた通りだが、駅名看板が取り付けられている待合所が撮影しにくかったというのは千金駅の北側にある民家の敷地に入らないと撮れなかったことと、生け垣や三江線活性化協議会が設置した看板(神楽〔かぐら〕の題目を記し、なおかつそれを演じている時の様子の写真が掲載されたもの。三江線の全ての駅について制定され、千金駅のそれは「日本武尊〔やまとたけるのみこと〕」となっている)で駅名看板が隠れてしまうことが理由である。それ故待合所の東半分しか撮れなかったことをこの場でお詫びしたい(他にも第8章で書いたのだが使っているデジタルカメラの電池残量に不安があったこともあったのだが…)。
この千金駅が開業したのは1958年(昭和33年)7月14日。同じ三江北線にあった江津本町・竹両駅と同じ日の開業である。それまで石見江津(現:江津)〜川平間に駅はなく(よってこの石見江津〜川平間7.0kmが当時の三江北線で最も駅間距離が長かった(注12))、江津市金田町に住む方は石見江津駅(現:江津駅〔江津市江津町〕)か川平駅に出るしか鉄道を利用する方法がなかったのである。人口がある程度ある集落なので駅を設置して欲しいという声が上がり、設置運動の末実現した駅ということになるのだろうが、訪れて感じたことはこういうところしか設置できるところはなかったのだろうかということであった。幹線道路(県道112号三次・江津線)から数百m入ったところにあることや周囲は山の中の民家が少ないところであること、街灯が少ないこと、地元住民以外はたどり着きにくいこと、目立たないこと、そして利用があまりにも少ないこと(注13)がそのように考えた理由であるが、どういうことがあってこういうところに設置することになったのだろうか。千金駅が設置されたのは60年前の話。還暦を迎える前に残念ながら三江線の廃止により営業を終えることになったのだが、もうそのことを知っている人はいないのだろうか。
それにしても興味をひかれたのは駅名となった「千金」という地名である。なぜ「千金」という地名が生まれたのかは分からないが、「千」は多いことを示す時に使うことが多い単語であり、結果「千金」という地名は多くのお金という意味になって縁起の良い地名となる(注14)。もし入場券が販売されていれば縁起を担いで買う人が多くいたことであろうが、停留所として設置されたことから入場券が売られるということはなかったようである。また、知名度も高かったとは言い難い。せっかく町名(注15)ではなく縁起の良い字名を駅名にしたのに、何とももったいない話である。
「もしも…」を付けて過去の出来事を論じることは好ましからざることとされているが、もし千金駅がもう少し目立った場所にあったら、もし千金駅が縁起の良い地名を付けた駅として広く知られていたらどうだったのだろうか。それでも三江線は生き永らえなかったかもしれない(注16)のだが、私はそのように思うのである。
千金駅から江津本町駅へ
千金駅のすぐそばにある金田踏切のすぐ北側から来た道を引き返す。150mほど進むと三差路、すなわち江津市金田町/八幡宮西交差点(信号機・交差点名標なし)に出る。川平駅から千金駅に向かっていた時は右の道(山裾の道)を通ってきたのだが、今度は左の道、すなわち田畑の真ん中を突っ切るまっすぐな道に入る。
田畑の真ん中を突っ切る道を250mほど進むと道は県道112号三次・江津線に突き当たる。その突き当たり、すなわち江津市金田町/清尻橋北交差点(信号機・交差点名標なし)で左折し、南南西方向に進む。進行方向右側にある江の川は木々などに遮られて見えないが、進行方向左側には田畑が広がっており、田園地帯の走行となる。
やがて進行方向左側から山と三江線が近付いてくると上下1.5車線〜上下2車線幅(注5)だった道幅は狭くなり、また山と川の間の狭いところを抜ける道になる。江津市中心部まであと3kmほどのところなのだが、それでもこういう地形があるというのが中国地方随一の大河・江の川の特色である。全長が200km近くに及ぶ河川なのだから河口付近は平野が形成されてもおかしくはないのだが、江の川が注ぐのは日本海であることや沖積平野を形成するために必要なもの(島や半島など)がないことから形成されずじまいになったのだろう。もし江の川河口部に沖積平野が形成されていれば江津市は島根県西部の中心都市になれただろうし、人口が3万人を下回ることもなかっただろうし、中国地方で最も人口の少ない市になること(注17)もなかっただろうし、無論三江線も廃止されることはなかっただろう。このように考えると三江線は地形に泣かされた路線ということになるのだが、残念ながらそれを逆手に取ることがあまり顧みられなかったような感じがある。
さて、道が狭くなった辺りで車を停めて写真を撮る。その時撮った写真が下の写真である。
河口近くになり、川幅が広がり、ゆったりと流れる江の川と向こう岸。その向こうに見えるのは今も江津市の経済を支えている日本製紙江津工場(江津市江津町)であろうか。日本製紙江津工場は江の川河口のすぐ西側にあるから、江の川の河口やこの旅の終着点である江津駅はそんなに遠くないところにあることが分かる。
その後も県道112号三次・江津線は三江線と江の川の間を狭い道で通り抜けるのだが、1.5kmほど進むと第二江津踏切(江津市金田町)に差しかかる。ここで三江線を渡り、山と三江線の間に入るのだが、実はこの第二江津踏切は三江線と県道112号三次・江津線との最後の交差箇所となる。三江線と県道112号三次・江津線の交差箇所(未開通区間(注18)を除く)は21箇所もある(下表参照)のだが、そのうちの17箇所をこの旅で通過したことになるのである。
(三江線と県道112号三次・江津線の交差箇所一覧表)
※「三江線の位置」は便宜上上り方向(三次→江津)で記している。
県名 | 番号 | 所在地 | 形式 | 三江線の位置 | 通過時の章 | 備考 |
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広島県 | 1 | 三次市三次町 | ガード | 三次〜尾関山 | 第1章 | |
2 | 三次市粟屋町 | 跨線橋 | 尾関山〜粟屋 | 第1章 | 荒瀬跨線橋(全長:16.9m)。 国道54号線・国道184号線との重用区間内にある。 |
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3 | 安芸高田市高宮町船木 | ガード | 長谷〜船佐 | 第2章 | ||
4 | 安芸高田市高宮町船木 | ガード | 長谷〜船佐 | 第2章 | ||
5 | 安芸高田市高宮町船木 | 踏切 | 船佐〜所木 | 第2章 | 船佐踏切。 | |
6 | 安芸高田市高宮町佐々部 | 踏切 | 信木〜式敷 | 第3章 | 川毛踏切。 国道433号線・国道434号線との重用区間内にある。 式敷駅(安芸高田市高宮町佐々部)から香淀駅(三次市作木町門田〔もんで〕)に向かう際に通過。 |
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島根県 | 7 | 邑智郡邑南町下口羽 | 跨線橋 | 江平〜口羽 | ― | 口羽陸橋(全長:99.5m)。 県道7号浜田・作木線との重用区間内にある。 |
8 | 江津市桜江町川戸 | 踏切 | 田津〜川戸 | ― | 高尾踏切。 | |
9 | 江津市桜江町川戸 | 跨線橋 | 田津〜川戸 | ― | 妙見宮跨線橋(仮称(注19)。全長:8.7m)。 | |
10 | 江津市桜江町川戸 | 踏切 | 田津〜川戸 | ― | 川戸第二踏切。 | |
11 | 江津市桜江町川戸 | ガード | 川戸〜川平 | 第8章 | 川戸駅(江津市桜江町川戸)から県道112号三次・江津線三次側車道端点(江津市桜江町後山)に向かう際に通過。 | |
12 | 江津市桜江町後山 | ガード | 川戸〜川平 | 第8章 | 川戸駅から県道112号三次・江津線三次側車道端点に向かう際に通過。 | |
13 | 江津市桜江町後山 | 踏切 | 川戸〜川平 | 第8章 | 第二仁万瀬踏切。 川戸駅から県道112号三次・江津線三次側車道端点に向かう際に通過。 |
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14 | 江津市桜江町後山 | 踏切 | 川戸〜川平 | 第8章 | 第一仁万瀬踏切。 川戸駅から県道112号三次・江津線三次側車道端点に向かう際に通過。 |
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15 | 江津市桜江町後山 | ガード | 川戸〜川平 | 第8章 | 川戸駅から県道112号三次・江津線三次側車道端点に向かう際に通過。 | |
16 | 江津市桜江町後山 | 踏切 | 川戸〜川平 | 第8章 | 第三小松踏切。 川戸駅から県道112号三次・江津線三次側車道端点に向かう際に通過。 |
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17 | 江津市桜江町後山 | 踏切 | 川戸〜川平 | 第8章 | 第二小松踏切。 川戸駅から県道112号三次・江津線三次側車道端点に向かう際に通過。 |
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18 | 江津市桜江町後山 | 踏切 | 川戸〜川平 | 第8章 | 第一小松踏切。 川戸駅から県道112号三次・江津線三次側車道端点に向かう際に通過。 |
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19 | 江津市川平町南川上 | 跨線橋 | 川戸〜川平 | 第8章 | 田ノ原跨線橋(仮称(注19)。全長:12.2m)。 県道221号川平停車場線との重用区間内にある。 |
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20 | 江津市川平町南川上 | 跨線橋 | 川平〜千金 | 第9章 | 赤栗跨線橋(全長:20.8m)。 | |
21 | 江津市金田町 | 踏切 | 千金〜江津本町 | 第9章 | 第二江津踏切。 |
三江線と交差する国道路線や県道路線は多数あるが、記すまでもなく最も多く交差するのは県道112号三次・江津線である(注20)。三次市と江津市を結ぶという、全国的にも稀な長大一般県道路線であることに加えて三江線と同じく江の川左岸を通る割合が高いこと、川の近くまで急峻な山が迫る地形を通さざるを得なくなったことが多くの交差箇所を生み出したのであろう。
第二江津踏切を通過した県道112号三次・江津線は緩やかな坂を少し上って三江線より少し高いところを通る。その辺りで三江線を見ると川岸の湾曲を短絡すべく橋梁を架けているのが見える。恐らく昭和時代初頭に建設された当時からある橋梁なのだろうが、厳しい地形の中に敷設された鉄道路線であることを改めて感じる。
その状態でしばらく進むと右側にプラットホームと待合所が見えてくる。そこが江津本町駅(江津市江津町)である。
江津本町駅(ごうつほんまちえき)
江津本町駅の待合所
江津本町駅の駅名標
三江線活性化協議会が設置した看板。江津本町駅の愛称は恵比須(えびす)となっている。
江津本町駅のデータ
項目 | 記事 |
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所在地 | 江津市江津町 |
駅名の由来 | 駅がある自治体(市)の名前+駅の近くにある集落の名前。 |
開業年月日 | 1958年(昭和33年)7月14日 |
接続鉄道路線 | なし |
駅構内にあるもの | なし(プラットホームに待合所があるだけ) |
プラットホームの形式 | 単式ホームで東側を利用している。 |
起点または終点からの距離 (営業キロ) |
起点(江津)から1.1km 終点(三次)から107.0km |
前後の駅からの距離 (営業キロ) |
(下り線)江津駅から1.1km (上り線)千金駅から2.3km |
JR三江線の列車の発車・到着時刻 (2017年〔平成29年〕3月4日現在) |
(下り列車) 423D…午前5時55分(江津発三次行) 425D…午後0時36分(浜田発浜原行) 429D…午後3時17分(江津発三次行) 431D…午後4時35分(江津発浜原行) 435D…午後7時10分(江津発浜原行) (上り列車) 420D…午前8時10分(浜原発浜田行) 422D…午前9時29分(三次発浜田行) 426D…午後2時51分(石見川本発江津行) 430D…午後6時54分(浜原発江津行) 434D…午後9時25分(浜原発江津行) |
付近にある主要施設 | 江津本町郵便局 江津市立郷田小学校 中国電力江津変電所 |
付近にある名所・旧跡・自然 | 江の川 山辺神社 旧江津町役場 旧江津郵便局 天領江津本町甍(いらか)街道 |
付近を通る国道路線 または県道路線 |
県道112号三次・江津線 |
備考 | ・千金駅・竹駅とともに初代三江線が三江北線に改称してから初めて三江北線に設置された駅である。 |
「江津本町」という駅名を見て江津市の中心部はその辺りにあるのだろうと思う方がいるかもしれない。しかし、江津本町駅に降り立っても駅の周りは山と川しかなく、集落はない。「それだったら『江津本町駅』と名乗る資格はないのではないか。『南江津駅』という名称にしたほうが良かったのではないか」とか「本町という集落はどこにあるのか」とか「最初から駅を設置しなければ良かったのではないか」とか「利用は皆無だろうから廃止しても良いのではないか。いつまで放置しているのか」と思う方もいることであろうが、実は本町という集落は江津本町駅から県道112号三次・江津線を200mほど西進したところにある。確かに本町という集落はかつては那賀郡江津村(1889〜1913)→那賀郡江津町→江津市の中心地であり、そのことは中心部にある施設(町役場や郵便局)だった建物が残っていることや江津市立郷田(注21)小学校(江津市江津町)があることなどでもうかがえる。
それならなぜ本町集落は中枢機能を失ったのか。交通事情の変化が主たる要因である。大きな変化としては次に挙げるものがあった。
・山陰本線浅利〜都野津間開業に伴う石見江津駅の開業(1920年〔大正9年〕12月25日)。
・初代三江線石見江津〜川戸間の開業(1930年〔昭和5年〕4月20日)。
・江川橋(全長:488.5m)の開通とそれに伴う現在の国道9号線に相当する道(注22)の経路変更(1950年〔昭和25年〕7月13日)。
この他にも1937年(昭和12年)に江の川河口部に新日本レーヨンの工場(現在の日本製紙江津工場)が進出したことや1962年(昭和37年)に江津市役所が現在地に移転したことも要因として挙げられよう。
新たな江津市の中心部と従来の江津市中心部の間は800mほどとあまり離れていないのだが、その間には山があり、地形的に一体ではなかった。故に新旧中心部が融合することはなく、旧中心部は寂れていった(それが古い街並みを今に残すことができた一因になったわけであるが…)。そんな中で駅を設置しようという声が上がり、実現したのであろう。
しかし、用地が捻出できなかったのか、駅は本町集落とは丘を一つ隔てた、少し離れたところに設置されたことと石見江津駅改め江津駅からあまり離れていないところに設置されたこと(注23)、江津本町駅周辺に高校など多くの利用者が見込める施設がなかったこと、三江北線改め三江線の列車本数が少なく、石見川本方面との往来に利用する人はあまりいなかったことなどから江津本町駅は微妙な立場に置かれることになった。「島根県統計書」(島根県企画振興部統計課刊)によると2006〜2015年度(平成18〜27年度)の江津本町駅の一日の平均乗車人員は0人となっており、ほとんど利用されない駅となってしまった(注24)。三江線を管轄下に置いていた西日本旅客鉄道(JR西日本。大阪市北区芝田二丁目)は利用がほとんどなくなった駅を廃止する方針は採っていないことから三江線が廃止されるまで江津本町駅は存続し得たのだが、何だかな…と思うのは私だけだろうか。
傍目に見れば不遇なまま60年近い歴史に幕を下ろした江津本町駅ではあるのだが、江津本町駅の魅力は何と言っても駅のすぐそばに江の川があり、木々に遮られるところはあるのだがプラットホームから江の川の流れを眺められることである(下の写真)。
基本的に江の川に沿って敷設された三江線にある駅で江の川の間近にあり、なおかつ江の川の流れを眺められるところは信木駅(安芸高田市高宮町佐々部)と潮駅(邑智郡美郷町潮村)、そしてこの江津本町駅の三つだけである。江の川を下る格好で進んだ場合、江津本町駅は最も河口に近いところにある駅となるわけであるが、江津本町駅のプラットホームに立ち、ゆったりとした江の川の流れを見るといよいよこの旅も終わりなんだなという気持ちにさせられる。同時にもう少し観光振興に力を入れていたら、西日本旅客鉄道が恣意的な冷遇策をとらなかったら、そして沿線住民及び沿線自治体がもう少し危機感を持って振興を考えていたら三江線はもう少し生き永らえていたのでは…という感情も浮かんだ。決して有用な路線ではなかったことや沿線は過疎化が進展し、特に江津市は一時期中国地方で最も人口の少ない市になっていたことがあること(注17)、そして何度も復旧に長い時間と多額の費用がかかる災害に見舞われたことを思えば難しかったのかもしれないが、果たしてどうなのだろうか。
他のブログやサイトなどでも江津本町駅の魅力は記されているが、三江線が廃止された後は江の川への転落を防ぐことを目的に柵が置かれ、プラットホームには入れなくなるであろう。そう思うと三江線の跡地を自転車道(記すまでもないが島根県と広島県に跨る自転車道県道とする)として整備し、それで観光振興を図っても良いのではないか。既にこちらで同じことは主張しているのだが、傍目には不遇なまま生涯を終えた駅の思いが生かされることを望みたい。
江津本町駅から江津駅へ
江津本町駅の横から県道112号三次・江津線を江津市中心部方面に向かって走り出す。江津本町駅を過ぎるとすぐに三江線と県道112号三次・江津線は別々の進路をとるようになる。三江線はまっすぐに丘を貫いたトンネルに入るのに対し、県道112号三次・江津線は左に曲がって山の中に入っていくのである。つまり、そこで三江線と県道112号三次・江津線の並行関係は終わりとなるのである。
江津本町駅のプラットホームから撮影した県道112号三次・江津線(左)と三江線(右)
三江線はまっすぐ進むのに対して県道112号三次・江津線は左に曲がっていくのがよく分かる
三江線との並行関係を解消し、山の中に入っていった県道112号三次・江津線はすぐに導水管の下をくぐる。この導水管は江津市川平町南川上で採取した江の川の水を日本製紙江津工場に運ぶために作られたものであるが、高さ制限(車高3.8m以上の車は通行禁止)がかけられている。ただ、そのことは直前にある規制予告を見るまで分からない。島根県としては県道112号三次・江津線を大きい車が通ることはないだろうとして直前までその存在を知らせないことにしているのだろうが、県道112号三次・江津線下り方向(三次→江津)の場合、江津市川平町南川上/船津橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)が最終脱出路との交差点になっていることを考えると江津市川平町南川上/船津橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)か江津市松川町長良/松川橋北詰交差点(交差点名標なし)に「Xkm先高さ制限あり。車高3.8m以上の車は国道261号線に迂回して下さい」というような標識を設置してはどうであろうか。
導水管が通っているところは切り通しになっているのだが、そこを過ぎると県道112号三次・江津線は開けたところに出て下り坂になる。江津本町駅の駅名の由来となった本町の集落に入ったのである。坂を下った先に突き当たり、すなわち江津市江津町/円覚寺前交差点(信号機・交差点名標なし)があるのだが、そこで遂に県道112号三次・江津線とはお別れとなる。三江線に並行する道路の旅は江津市江津町/円覚寺前交差点(信号機・交差点名標なし)で右折するのだが、そちらの道は江津市道になるからである。ちなみに県道112号三次・江津線は左折し、終点の江津市江津町/江津町交差点を目指すのだが、何と終点間際にも通行不能箇所が存在するのである。江津市江津町/江津町交差点では県道112号三次・江津線は大田方面から来た国道9号線(国道186号線重用)現道に鋭角に刺さる格好で合流しているのだが、国道9号線(国道186号線重用)大田方面と県道112号三次・江津線川平方面の往来がしにくいことから江津市江津町/江津町交差点と国道9号線江津バイパス嘉久志東ランプ(注25)を結ぶ道路、すなわち県道112号三次・江津線江津西バイパスの開通を契機に江津市江津町/江津町交差点の手前で封鎖したのである(注26)。最後まで波乱だらけの県道路線といったところであるが、そこが県道112号三次・江津線の面白いところであり、もっと知られても良いのでは…と思っているところである。
江津市江津町/円覚寺前交差点(信号機・交差点名標なし)にある県道112号三次・江津線の県道標識
江津市江津町/円覚寺前交差点(信号機・交差点名標なし)からの江津市道は江津市江津町/円覚寺前交差点(信号機・交差点名標なし)で左折し、終点の江津市江津町/江津町交差点を目指す県道112号三次・江津線とともに江川橋が開通する前は山陰地方の幹線道路だった道である。この辺りは舟運や海運の要衝でもあり、結果交通の要衝となっていたわけであるが、それ故に那賀郡江津村→那賀郡江津町→江津市の中心地になっていったのであろう。その後の交通事情などの変化により江津市の中心部は江津駅周辺に移っていくわけであるが、本町という地名とその辺りに多く残る古い建物は那賀郡江津村→那賀郡江津町→江津市の中心地だったことを今に伝えている。
やがて道は三江線のガード(このガードがこの旅における最後の三江線との交差箇所となる)をくぐるとすぐに左に折れ、江の川左岸堤防への上りにかかる。その辺りから道は三江線と並行するようになり、なおかつ歩道付きの上下2車線になる。なぜ立派な道になったんだろうなと思うと眼前に大きな橋が見えてきた。新江川橋(全長:378.3m)である。新江川橋は上を国道9号線江津バイパスが、下を江津市道がそれぞれ通る二階橋であり、どちらも1993年(平成5年)3月25日に開通した。二階橋は中国地方には他に下津井瀬戸大橋(全長:1,400m)と因島大橋(全長:1,270m)しかなく、珍しい存在なのだが、なぜ二階橋が建設されることになったのか。手短に記せば二度手間と財政事情の悪化の回避であった。
昭和時代末期、江津市中心部の国道9号線(国道186号線重用)の渋滞解消を目的に江津市中心部の南方を通す江津バイパスが企図された。時を同じくして前記の三江線のガードの先にあった上江川橋(全長:322.8m。1958〜1993)の架け替えが企図された(注27)。上江川橋は新江川橋の200mほど上流(南方)にあったのだが、もし上江川橋の架け替えと新江川橋の建設を別々に進めたとしたら近くに二つも大きな橋があるのはどうなのかという声が上がる恐れとたださえ人口の少ない江津市の財政事情が困窮する恐れが生じる。そこで別々の橋を一つにしてはどうかという話になり、全国的にも稀な二階橋の実現に至ったのであろう。
江津市江津町/新江川橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)を過ぎ、江の川左岸堤防からの下り坂に差しかかると道は狭くなる。坂を下り切った辺りで三江線は左に折れ、江津駅に向かっていく。その後は進行方向右側は江の川左岸堤防、進行方向左側は民家というところを通り抜けていく。今から40年ほど前は進行方向右側にも建物がいくつもあったようであるが、江の川流域に甚大な被害をもたらした1972年(昭和47年)7月中旬の梅雨末期の集中豪雨を契機に堤防が建設されることになり、立ち退いたのだという。立ち退きを余儀なくされた建物の中には宴会が開ける料理店もあったとのことであるが、その店からの江の川の眺めはさぞかし良かったことであろう。
JR山陰本線の郷川鉄橋(全長:486m)と、江川橋を続けざまにくぐるとすぐに丁字路、すなわち江津市江津町/玉江交差点(信号機・交差点名標なし)に差しかかる。そこで左折して江川橋北側側道に入る。大きな川に架かる橋の取り付け道路は両側に側道が設置されていることが多いのだが、江川橋の江津町側については自動車の通れる側道は北側しかないのである。そのため山陰地方随一の幹線道路である国道9号線(国道186号線重用)へは国道9号線(国道186号線重用)上り線(山口・益田・浜田→大田・出雲・松江)を横断して入る格好になる。危険だし何か変な感じがするのだが、致し方ない。
国道9号線(国道186号線重用)に入るとこの旅の終着地である江津駅はあと少しのところとなる。国道9号線(国道186号線重用)は前に書いた通りバイパスが中心部の南方に建設されたことにより交通量は少ない。中心部でありながら人口は多くないことや中心部の外れに大型商業施設があることもありそんなに賑やかな印象はないのだが、40年ほど前の江津市中心部を知る方の話によると駅前に商業施設があるなど人口が少ない割にはある程度は賑わっていたようである。やはり若年層を中心とした人口流出や産業構造の変化、郊外への大型商業施設の進出、更に高速道路の開通による広島市へのストロー効果(ストロー現象とも言う)の激化などもあってこういう状況になったのだろうか。
前述の商業施設の跡地に2016年(平成28年)8月1日に開業した、江津ひと・まちプラザ パレットごうつ(江津市江津町)が進行方向右側に見えてくると間もなく江津市江津町/江津市駅前交差点に差しかかる。江津市江津町/江津市駅前交差点の東側の横断歩道を過ぎてすぐに左折すると遂にこの旅の終着地となる江津駅の(北口)駅前広場に到着する。
江津駅(ごうつえき)
江津駅の駅舎
江津駅の駅名標(写真は三江線用)
江津駅の名所案内板
三江線活性化協議会が設置した看板。江津駅の愛称は八十神(やそがみ)となっている。
江津駅のデータ
項目 | 記事 |
---|---|
所在地 | 江津市江津町 |
駅名の由来 | 駅がある自治体(町→市)の名前。 |
開業年月日 | 1920年(大正9年)12月25日 ※当時の駅名は石見江津駅。1970年(昭和45年)6月1日に江津駅に改称している。 |
接続鉄道路線 | JR山陰本線 |
駅構内にあるもの | 自動券売機 みどりの窓口 駅スタンプ |
プラットホームの形式 | 単式ホームと島式ホームの併用。 駅舎のそばにある単式ホームが1番線、陸橋を渡って行くことになる島式ホームの北側が2番線、島式ホームの南側が3番線となっている。 三江線の列車は全て3番線から発着している。 |
起点または終点からの距離 (営業キロ) |
起点(江津)から0.0km 終点(三次)から108.1km |
前後の駅からの距離 (営業キロ) |
(下り線)始発駅のためなし (上り線)江津本町駅から1.1km |
JR三江線の列車の発車・到着時刻 (2017年〔平成29年〕3月4日現在) |
(下り列車) 423D…午前5時53分(当駅始発。三次行) 425D…午後0時34分(浜田発浜原行) ※浜田〜江津間は山陰本線の上り列車になるため列車番号が376Dとなる。 429D…午後3時15分(当駅始発。三次行) 431D…午後4時33分(当駅始発。浜原行) 435D…午後7時8分(当駅始発。浜原行) (上り列車) 420D…午前8時12分(浜原発浜田行) ※江津〜浜田間は山陰本線の下り列車となるため列車番号が375Dとなる。 422D…午前9時31分(三次発浜田行) ※江津〜浜田間は山陰本線の下り列車となるため列車番号が379Dとなる。 426D…午後2時54分(石見川本発。当駅止まり) 430D…午後6時57分(浜原発。当駅止まり) 434D…午後9時27分(浜原発。当駅止まり) |
付近にある主要施設 | 江津郵便局 江津市役所 江津ひと・まちプラザ パレットごうつ 江津市総合市民センター(ミルキーウェイホール) 島根県立江津工業高等学校 江津市立江津中学校 済生会江津総合病院 特別養護老人ホーム白寿園 介護老人保健施設高砂ケアセンター 江津警察署 江津市図書館 ゆめタウン江津 日本製紙江津工場 |
付近にある名所・旧跡・自然 | 江の川 日本海 |
付近を通る国道路線 または県道路線 |
国道9号線 国道186号線(国道9号線と重用) |
備考 | ・三江線で最も西にある駅である。 ・江津駅前には都市の代表駅のそばには必ずと言って良いほど見かける交番(名称は○○駅交番か××駅前交番、駅前交番となる)が設置されていない。かつては(北口)駅前広場の西端にあったのだが廃止された(注28)。現在江津駅周辺地域(嘉久志町・金田町・江津町・島の星町・松川町太田・和木町・渡津町の全域と浅利町の一部地域〔金川口〕)を管轄する交番は江津警察署(江津市江津町)の中にある。このような方式の交番制度を署所在地と称しており、島根県では大田警察署(大田市長久町長久)や川本警察署(邑智郡川本町川本)などが導入している。 ・島根県にある市の代表駅では数少ない駅前広場を起終点とする県道路線が存在しない駅である(他には安来駅〔安来市安来町〕があるだけ。江津駅と安来駅はいずれも駅前広場のすぐ北側を国道9号線が通過しており、それで設定されなかったのだろう)。 |
三江線の起点となる江津駅と、終点となる三次駅(三次市十日市南一丁目)はいくつもの共通点を持っている。それは次の通りである。
・駅名改称歴があること。
・かつての駅名は令制国名を付けていたこと(注29)。
・三江線の列車はいずれも最も南にある3番ホームに発着すること(注30)。
・三江線以外に分岐する鉄道路線が存在しないこと。
・駅前広場は国道路線(しかも他の国道路線と重用している)に接していること。
・駅前交番がないこと。
・駅のすぐ南は丘になっていること。
しかし、一方では都市の置かれた立場の違いも垣間見せている。それを挙げると次の通りになる。
・江津駅の(北口)駅前広場の整備が進んでおらず、狭い駅前広場にバス停留所やタクシー乗り場、送迎者用無料駐車場(注31)が配置されていること。(北口)駅前広場のすぐ北側を国道9号線(国道186号線重用)が通っており、拡張が難しいこと(注32)も駅前広場が狭い理由になっているのだが、これでは路線バスやタクシー、送迎車両の動線が分離されていないということになる。
・江津駅の(北口)駅前広場にあるバス停留所は二つしかないこと。東側は石見交通(益田市幸町)の路線バスが、西側は中国ジェイアールバスの高速バス(それも一日1往復だけ…(注33))がそれぞれ発着する設定になっているが、それだけで済むということは便数が少ないということを示している。また、どちらのバス停留所も屋根はなく、雨や雪の日は傘を差してバスを待つことになる(駅舎の中で待つという手もあるのだが…)。
・現在の駅舎は1957年(昭和32年)に建てられたものであること。
・江津市の代表駅であるにもかかわらず、特急列車の停車駅であるにもかかわらず売店がないこと(2016年〔平成28年〕閉店)。
・駅の窓口が閉鎖される時間があること(開いているのは午前6時30分〜午前11時20分と午後0時15分〜午後3時25分、午後4時〜午後6時30分)。
第1章でも触れた通り三次市は鉄道路線や高速道路、国道路線が集まる交通の要衝であり、広島県北部の中心都市と考える方は多いが、江津市を島根県西部の中心都市だと考える方はあまりいない。江津市の十数km南西にある浜田市が島根県西部の中心都市だと見る方が多いからである(ちなみに浜田市は島根県西部で最も人口が多い都市でもある(注34))。その差が前記の状況に表れたのである。
(このようなことを書いたら関係者からお叱りを受けるかもしれないのだが)考えてみれば中枢性が低く、人口も少ない江津市はこれまでどうかと思うような面が次に挙げるようにいくつも起きているところである。
・島根県西部にある都市で唯一「田」という字が入らないため島根県西部の主要都市の総称である石見三田(大田・浜田・益田各市)から外れ、存在感を低める格好になったこと。
・(こちらで書いたことがあるのだが)1960年(昭和35年)頃山陰放送(BSS、米子市西福原一丁目)が江津市内に中波中継局を設置しようとしたが結局取りやめたこと(注35)。
・1960年代後半以降人口が3万人の大台を割り、21世紀に入ってからは島根県のみならず中国地方で最も人口の少ない市になっていた時期があること(注17)。
・国道9号線のバイパスとして建設されているところが多い山陰自動車道について、浅利インターチェンジ(仮称。江津市松川町上河戸)〜江津インターチェンジ(江津市嘉久志町)間は国道9号線江津バイパスと県道302号浅利・渡津線を当面の間活用することにしたこと(注36)。
・中国横断自動車道広島・浜田線の一部区間が開通した1989年(昭和64年/平成元年)頃から浜田市や那賀郡旭・金城・三隅各町及び弥栄村と合併しようという話が浮上し、島根県が作成した合併パターンでもそれが反映されたこと。
・せっかく島根県西部にある都市では益田市に次いで陰陽連絡鉄道路線を持てたのに有用なものにならず、結局廃止されたこと。
・代表駅の駅前に交番があったのに廃止されたこと。
・島根県西部にある都市で唯一広島市との間の高速バスが設定されていないこと(注37)。
・国道路線は発足当時から存在するが、主要地方道路線は存在しない時期があったこと(注38)。
私は江津市は面白いところや素敵なところがいくつもあるところだと思っており、決して悲観することはないと思っているのだが、江津市民はこのことをどのように考えているのだろうか。確かに地形的には恵まれないし、中枢性は浜田市に大きく劣りはするし、中国横断自動車道広島・浜田線や山陰自動車道の開通で広島市へのストロー効果(ストロー現象とも言う)が著しくなったが、何とかしたい!! と思う人が多数出てくることを期待したいところである。ちょうど今年5月27日には市長選挙と市議会議員選挙が実施されること(注39)になったのだし…。
それはさておき、江津駅の構内に入って中を探索する。記すまでもなく中にはあと4ヶ月ほどで見納めになるものが多数あった。
自動券売機の上に掲げられた路線図。赤地に白抜き文字で「江津」と記されたところから下に延びるのが三江線分。
江津駅構内に掲げられている時刻表。山陰本線と三江線の差の著しさがうかがえる。
改札の上に掲げられた列車発車時刻を記した電光掲示板。三江線用は左下になる。
改札の脇にあったポスター
1番ホームに掲げられた乗り換え案内看板
2番ホームと3番ホームに通じる跨線橋に掲げられた看板
更に構内には三江線への惜別と感謝の思いを記した幟も多数設置されていた(下の写真。一部欠けている点はご了承願いたい)。
跨線橋を通って三江線の列車が発着する3番ホームに行く。跨線橋には三江線に関する写真が多数展示されていた。
跨線橋の階段部分の写真展示の様子(左:北側/右:南側)
跨線橋の橋梁部分の写真展示の様子
跨線橋を渡り終えて2・3番ホームに立ち、散策する。取材したのは午後2時前のことだったのだが、次の列車―鳥取発益田行の特急「スーパーまつかぜ」5号(午後2時22分発)であり、三江線の列車ではなかったのだが―が来るまでまだ時間があることや雨が降っていたことなどから閑散としていた。
江津駅の2・3番ホームは山陰本線と三江線の利用者が乗降するプラットホームである(但し山陰本線は2番ホーム・3番ホームのどちらも利用できるし下り列車も上り列車も乗り入れられるが三江線は3番ホームしか利用できない)。そのため時刻表は山陰本線用と三江線用の双方が掲示されている(下の写真)。
江津駅2・3番ホームにある時刻表(左:2番線用/右:3番線用)
2番線用と3番線用で位置が逆になっているのが興味深い
一方で山陰本線の下り列車は主に2番線に、三江線の列車は3番線に入ることから駅名標の色が表と裏、すなわち2番線用と3番線用で異なるのも興味深いところである。
2番線用駅名標(左。駅名標の左にあるのは名所案内板)と3番線用駅名標(右)
3番線用駅名標に「あさり」という駅名が入っているところから3番線に山陰本線の列車が発着することがあることがうかがえる
かつては中国地方の西日本旅客鉄道が管理する駅の駅名標は全て西日本旅客鉄道のコーポレートカラーの青色が最下段、すなわち隣の駅を記しているところに使われていた(注40)のだが、2016年(平成28年)に大半の路線でラインカラーが導入されたことによりこのようになったのである。複数の鉄道路線が乗り入れるところではプラットホームごとに駅名標に使われている色が異なるところがある(注41)が、両側を使っている駅名標の表と裏で使っている色が違うというのは面白いところである。三江線亡き後の3番線は山陰本線の列車の退避用に用いられているとのことであるが、果たして今はどうなっているのだろうか。
プラットホームの東端まで進んで山陰本線と三江線の分岐部分を見る。下の写真からもうかがえるように三江線の列車は3番線からしか発着できないことが分かる。
山陰本線・三江線分岐部分遠望。写真中央に見える踏切は魚見踏切(江津市江津町)。
上の写真から三江線は山陰本線から分かれるとすぐに森の中に消えていくように見えるのだが、そのことからも三江線が厳しい状況の中に敷設された路線であることが感じられる。三江線の下り列車は森の中に消えていくように去っていき、三江線の上り列車は森の中から突然現れるように近付いてくるという光景が見られたのだろうが、もうそれは見られない。
跨線橋を渡って改札口に戻る。改札の脇には下の写真のようなものがあった。
江津市が島根県西部地方の民家では多く見られる赤色の瓦(石州瓦と称する)の産地であることを示すオブジェの数々である。こういうオブジェは山陰自動車道江津インターチェンジの料金所の脇にもあり(下の写真)、江津市が石州瓦の産地であることを多くの方々に知らせるのに役立っている。瓦を使わない民家が多くなったことなどから経営環境は厳しいものがあるというが、地元の名産品を多くの方々に宣伝することは良いことだと思う。
江津駅は石見江津駅という名称で1920年(大正9年)12月25日に山陰本線浅利〜都野津間開業と同時に設置された駅である(現在の江津駅に改称したのは1970年〔昭和45年〕6月1日のことである)。つまり、もうすぐ開業100周年を迎えることになるわけである。しかし、開業100周年の日、すなわち2020年(平成32年)12月25日は開業時と同じく山陰本線だけの駅として迎えることになる。江の川河口に広い沖積平野が形成され、江津市が島根県西部の中心都市として発展していたら今とは変わった展開があり、無論江津駅開業100周年の日を三江線も迎えられたことであろうが、そういうことは考えるだけ空しい。エピローグ
江津駅での取材を終えた私は国道9号線(国道186号線重用)現道→県道112号三次・江津線江津西バイパス→国道9号線江津バイパス→山陰自動車道(国道9号線江津道路)→浜田自動車道→中国自動車道→尾道自動車道を経由して帰宅した。この経路だと途中で三江線の終点であり、この旅の起点である三次駅のある三次市を通過することになるのだが、江津駅から中国自動車道三次インターチェンジ(三次市西酒屋町)まで1時間30分ほどしかかからなかった。江津駅〜三次インターチェンジ間は三江線江津〜三次間より少しばかり長い(110km程度)のだが、三江線の列車の半分以下の所要時間で江津市から三次市に行ける現実に私はこれではな…と思わざるを得なかった。江津市と三次市が高速道路で結ばれたのは三江線の全線開通の28年後の2003年(平成15年)9月21日のことである(注42)が、これが三江線の存廃問題に大きな影響を与えた要因の一つになったことは否めないことであろう。まあ三江線が全線開通した時点でも三江線の列車より短い時間で江津市〜三次市間を自動車で走ることは十分可能であり(注43)、その点でも三江線は存在意義が希薄だったことがうかがえる。
今は亡き漫画家の藤子・F・不二雄(1933〜1996)の代表作であり、現在もテレビ朝日系列(注44)でアニメが放送され続けている「ドラえもん」に「天の川鉄道の夜」という作品がある。のび太がドラえもんの落とした列車の切符を持ってジャイアン・スネ夫・しずかを誘って天の川鉄道の列車の旅に出かけるという内容なのだが、この列車の車掌が「あるもの(それは未読の方に配慮して明かさないでおく)が発明されたから利用者が減り、この列車を最後に廃止されることになった」というようなことを言うのが今でも印象に残っている。この作品が発表されたのは1980年(昭和55年)頃のことであるが、「あるものが発明された」という部分を「高速道路ができた」とか「一般道路の整備が進んだ」に置き換えたらどうなのだろうか。モータリゼーションが進展した1960年代以降の日本の鉄道が置かれた苦境を投影した作品と考えることができるのではないのだろうか(注45)。無論これは三江線だけの問題ではないし、中国地方だけの問題でもない。全国的な問題である。
記すまでもないことであるが、鉄道は人だけでなく荷物も輸送するために敷設されたところが大半を占めている。しかし、鉄道には次に挙げる弱点が存在する。
・拠点(駅)を経由しないと輸送できないこと。
・自由自在に敷設できないこと。
・自由に利用できないこと。
・施設や車両の費用がかなりかかること。
・需要が見込めないと建設できないこと。
その弱点がモータリゼーションの進展に伴って多くの路線で露呈することになった。貨物輸送は大半の路線でなくなり、鉄道は人を運ぶ手段でしかないところが多くを占めるようになった。そうなると生き残れるのは次に挙げる路線となる。
・通勤・通学で利用する人が多い路線。
・優等列車が設定されるなど広域的観点から有用になっている路線。
・沿線に見所が多い観光路線。
残念ながら三江線は上記のいずれも満たさなかった。沿線人口の減少により通勤・通学で利用する人は減ったし、利用が皆無の駅もいくつか生じた。江津市と三次市を最短経路で結んでいないために広域的観点から有用な路線にはなり得なかった。江の川に沿って敷設されているので風光明媚な路線ではあるのだが沿線に人口の多い都市や多くの旅行者が訪れる観光地がなかったために観光路線にも脱皮することはできなかった。その上に災害の危険性が高いし施設も老朽化しているが災害復旧費用や施設の補修費用を捻出できるほど利用がないという問題があった。そこで遂に西日本旅客鉄道は三江線を廃止することを決めたわけである。
私としては三江線の廃止には反対であるし、同時にもう少し地元や西日本旅客鉄道が努力していれば何とか存続できていたのではないかとも思っている。しかし、この思いを快く感じない方が少なくないこともまた事実である。私はそういう意見があることを念頭に置いてこの文を書いているわけであるが、結局どちらが良かったというのだろうか。それは私には決められないし、恐らく今後も結論は出ないことであろう。
次の章では総集編として三江線並行道路の現状や問題点を紹介し、今後三江線並行道路はどのように整備していけば良いのかについて触れていくことにしたい。
注釈コーナー
注1:島根県では他に県道198号小田停車場線と県道280号佐田・小田停車場線がある。県道198号小田停車場線の起点と県道280号佐田・小田停車場線の終点はいずれも出雲市多伎(たき)町多岐/小田駅入口交差点(信号機・交差点名標なし)にある(どちらの路線もJR山陰本線小田駅〔出雲市多伎町多岐〕の〔北口〕駅前広場には入らない)。
注2:現在のところ島根県議会定例会に県道路線の改廃に関する議案が出たという情報はない。それに駅が営業を取りやめたからすぐにその駅を起終点とする県道路線が廃止されたという例は私の知る限りない(中には駅の営業終了から何十年経っても存続している例もある)。中には存在意義が消滅したのだから即刻廃止しろというようなことを主張する方もいるだろうが、通過自治体の財政事情が厳しく、移管協議が進展しないなどの事情があって存続させていることは理解して頂きたいものである。
※島根県では今回の三江線を含めて駅の営業終了により存在意義が消滅した、駅を起終点とする県道路線(いずれも一般県道路線)は七つある。その状況は下表の通りである。
県道路線名 | 起終点があった駅 | 存在意義 消滅年月日 |
その後 |
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県道39号掛合・出雲須佐停車場線 | 一畑電気鉄道立久恵線 出雲須佐駅 (出雲市佐田町反辺) |
1965年 (昭和40年) 2月18日 |
一畑電気鉄道立久恵線(非電化路線)は集中豪雨により被災したことから1964年(昭和39年)7月19日から運休し、そのまま廃止されたため実質的な廃止年月日は1964年(昭和39年)7月19日となる(復旧させずに廃止したのは復旧させても利用が見込めないとされたことが考えられる)。 いずれも1966年(昭和41年)3月29日島根県告示第430号により廃止。 |
県道40号頓原・出雲須佐停車場線 | |||
県道128号波多・出雲須佐停車場線 | |||
県道220号大社停車場線 | JR大社線大社駅 (出雲市大社町北荒木) |
1990年 (平成2年) 4月1日 |
1995年(平成7年)4月4日島根県告示第342号により廃止。 |
県道221号川平停車場線 | JR三江線川平駅 (江津市川平町南川上) |
2018年 (平成30年) 4月1日 |
現在のところ路線廃止議案が島根県議会定例会に提出されたという話はなく、当分の間存続することになっている。 |
県道298号跡市・川平停車場線 | |||
県道222号川本停車場線 | JR三江線石見川本駅 (邑智郡川本町川本) |
注3:島根県公式サイトによる。ただ、参考にした「事前通行規制台帳」の当該記事を見ると終点が江津市金田町ではなく江津市川平町南川上になっている上に異常気象時通行規制区間に指定されていることを知らせる標識の写真が逆になっている(正しくは左の写真が上り方向〔江津→三次〕用、右の写真が下り方向〔三次→江津〕用である)。
注4:第8章では触れなかったのだが、県道112号三次・江津線の下り方向(三次→江津)にもきちんと大雨の時冠水する恐れがあることを注意する標識は設置されている。場所は川平駅の少し東方(県道221号川平停車場線との重用区間内)である。
注5:普通自動車同士のすれ違いには難渋しないくらいの幅があるが中央線がない状態を指す。
注6:「人丸」は柿本人麻呂の別表記である(他に「人麿」という表記もある)。
※「人丸」という字の入った駅は兵庫県と山口県に存在する(兵庫県…人丸前、山口県…人丸)。いずれも近くに柿本人麻呂に関係した神社があり、それが駅名の由来になっている。
注7:依羅娘子は現在の江津市二宮町神主(かんぬし)出身だとされており、江津市二宮町神主にはそのことを記した石碑が建てられている。
注8:柿本人麻呂が生きていたとされる飛鳥時代から奈良時代にかけてはその位置について確証のとれないものが多数存在する。私が住んでいる福山市及びその周辺でもそういうものはいくつも存在する。その中でも代表的なものが茨城と常城(つねき)という二つの朝鮮式山城(古代山城)である。「続日本紀(しょくにほんぎ)」の養老3年(719年)12月の条に「備後国安那郡の茨城、葦田郡の常城を停む」という記述があるだけで、未だにその位置が確定していないのである。常城は福山市・府中市境付近の亀ヶ岳(標高:539.1m)周辺にあったのは確実だろう(亀ヶ岳の東方に常という地名〔福山市新市町の大字〕がある)が、茨城については福山市中心部の北東に聳(そび)える蔵王山(標高:225.3m)や福山市加茂町北山、(備後国の範囲から外れるのだが)井原市などいろいろな説が出ている(ちなみに私は蔵王山説はあり得ないと考えている。1960年代以降送電線の鉄塔や放送局の中継局が設置されるなどいくつも開発されているのに遺構が出てきたという話を聞かないし、近くに「いばら」に近い発音が入る地名がないからである)。残念なのは広島県教育委員会が飛鳥時代から奈良時代にかけての広島県の歴史には多数謎があるのに調査・解明には消極的な態度をとっていることであるが、茨城や常城の謎が解明される日は来るのだろうか。
注9:柿本人麻呂が逝去した場所はどこかは諸説あるが、実は三江線沿線にもその場所がある。それは湯抱(ゆがかい)温泉(邑智郡美郷町湯抱)である。粕淵駅(邑智郡美郷町粕渕)の北西約3.5kmにある小さな温泉なのだが、歌人の斎藤茂吉(1882〜1953)がそこが柿本人麻呂が逝去したところであるという説を立てたことで知られている。無論それが真相ということにはならないのだが、三江線の振興に柿本人麻呂は使えなかったのだろうか。恐らく「江津市以外との関係が薄い」とか「斎藤茂吉の説は確実とは言えない。確実ではないなら使いようがない」ということで却下されたのだろうが…。
注10:「ニューエスト32 島根県都市地図」では法林寺(江津市金田町)のすぐ東側から千金駅に通じる道があるように記されていたのだが、現実にはそういう道はなかった。
注11:「Googleマップ」ではなぜか江津市金田町/八幡宮西交差点(信号機・交差点名標なし)から南東方向、すなわち千金駅方面への道が描かれていない。
注12:江津本町・千金両駅が開業した後は川平〜川戸間が三江北線→三江線で最も長い駅間距離(6.9km)になっている。
注13:「島根県統計書」によるとここ数年の千金駅の一日の平均乗車人員は0〜1人となっている。
注14:学校の名称でも縁起を担いだのでは…と思われる例がある。福山市北部にある福山市立幸千中学校(福山市御幸町中津原)である。福山市北部の千田・御幸地区(清水ヶ丘・千田町・御幸町・横尾町・緑陽町)を学区とする福山市立幸千中学校は1949年(昭和24年)に深安郡千田村・深安郡御幸村組合立の中学校として発足した(福山市立幸千中学校となったのは深安郡千田・御幸両村が福山市に編入された1956年〔昭和31年〕9月30日のことである)のだが、いろいろな案が出た中で「幸千」と決まったのは多くの幸福がもたらされるようにという願いを込めたことが考えられる(発足した時期が第二次世界大戦終結からまだ間もない頃だったということもあるのだろう)。
※余談だが福山市立幸千中学校はグラビアタレントの杉原杏璃の出身校として知られている。
注15:もし町名を付けた場合は石見金田駅になったものと思われる。というのも、千金駅が開業した時、既に金田駅は福岡県に存在したからである(但し福岡県の金田駅の読み方は「かなだえき」となる)。
※ちなみに金田という地名は江津市金田町にある二つの小字、すなわち千金と田ノ村から一文字ずつとって付けられたものである。
注16:縁起の良い地名を付けた駅名があり、それが広く知られたのに廃止された鉄道路線としては北海道東部にあった国鉄広尾線(1929〜1987)がある。広尾線には途中に愛国駅(帯広市愛国町。1929〜1987)と幸福駅(帯広市幸福町東一線。1956〜1987)があったのだが、1970年代前半に「新日本紀行」(NHK総合テレビ。1963〜1982年〔昭和38〜57年〕放送)で取り上げられてから広く知られるようになり、一大ブームを巻き起こした(これを元にした「愛の国から幸福へ」という曲〔歌っていたのは芹洋子〕もあったとか…)。しかし、このブームをもってしても広尾線の経営環境改善には結び付かず、結局1987年(昭和62年)2月2日に廃止されてしまった。
注17:2008〜2015年(平成20〜27年)の話。現在は江田島市が中国地方で最も人口の少ない市になっている。
注18:江津市桜江町後山〜江津市川平町南川上間にある(途中の江津市川平町平田の瀬尻集落〔現在は無人〕に200mほど通行可能箇所があるがたどり着くのが難しいためその部分も未開通箇所に含めている)。島根県公式サイトで閲覧できる道路台帳によるとこの未開通区間には6箇所三江線と交差する箇所があるが、第8章でも紹介しているように道がないと推察されることや踏切などの交差施設が道路台帳には全く記載されていないことなどから交差箇所一覧表には掲載しないことにした。
注19:島根県公式サイトで閲覧できる道路台帳ではどちらも跨線橋の名称は「跨線橋」となっている。そのためここでは近くにある字名や神社の名称を採って跨線橋の名前を記している。
注20:三江線と交差する国道路線・県道路線は下表の通りである。
※「三江線の位置」は便宜上上り方向(三次→江津)で記している。
県名 | 番号 | 路線名称 | 所在地 | 形式 | 三江線の位置 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
広島県 | 1 | 国道183号線 国道184号線 |
三次市十日市西六丁目 | ガード | 三次〜尾関山 | |
2 | 県道112号三次・江津線 | 三次市三次町 | ガード | 三次〜尾関山 | ||
3 | 国道54号線 国道184号線 県道112号三次・江津線 |
三次市粟屋町 | 跨線橋 | 尾関山〜粟屋 | 荒瀬跨線橋。 | |
4 | 県道112号三次・江津線 | 安芸高田市高宮町船木 | ガード | 長谷〜船佐 | ||
5 | 県道112号三次・江津線 | 安芸高田市高宮町船木 | ガード | 長谷〜船佐 | ||
6 | 県道112号三次・江津線 | 安芸高田市高宮町船木 | 踏切 | 船佐〜所木 | 船佐踏切。 | |
7 | 国道433号線 国道434号線 県道112号三次・江津線 |
安芸高田市高宮町佐々部 | 踏切 | 信木〜式敷 | 川毛踏切。 | |
島根県 | 8 | 県道4号甲田・作木線 | 邑智郡邑南町下口羽 | 跨線橋 | 江平〜口羽 | 口羽跨線橋(全長:9.1m)。 |
9 | 県道7号浜田・作木線 県道112号三次・江津線 |
邑智郡邑南町下口羽 | 跨線橋 | 江平〜口羽 | 口羽陸橋(全長:99.5m)。 | |
10 | 県道294号邑南・美郷線 | 邑智郡邑南町下口羽 | ガード | 口羽〜伊賀和志 | ||
11 | 県道294号邑南・美郷線 | 邑智郡邑南町宇都井 | ガード | 伊賀和志〜宇都井 | ||
12 | 県道292号宇都井・阿須那線 | 邑智郡邑南町宇都井 | ガード | 宇都井〜石見都賀 | ||
13 | 県道294号邑南・美郷線 | 邑智郡美郷町都賀西 | ガード | 宇都井〜石見都賀 | ||
14 | 国道375号線 | 邑智郡美郷町上野 | ガード | 宇都井〜石見都賀 | ||
15 | 県道55号邑南・飯南線 | 邑智郡美郷町長藤 | ガード | 石見都賀〜石見松原 | ||
16 | 国道375号線 | 邑智郡美郷町長藤 | ガード | 石見都賀〜石見松原 | ||
17 | 国道375号線 | 邑智郡美郷町長藤 | ガード | 石見都賀〜石見松原 | ||
18 | 国道375号線 | 邑智郡美郷町長藤 | ガード | 石見松原〜潮 | ||
19 | 国道375号線 | 邑智郡美郷町潮村 | ガード | 潮〜沢谷 | ||
20 | 県道166号美郷・飯南線 | 邑智郡美郷町上川戸 | ガード | 沢谷〜浜原 | ||
21 | 国道375号線 | 邑智郡美郷町上川戸 | ガード | 沢谷〜浜原 | ||
22 | 県道40号川本・波多線 | 邑智郡美郷町簗瀬 | 跨線橋 | 石見簗瀬〜乙原 | 簗瀬橋(全長:45.2m)。 | |
23 | 県道40号川本・波多線 | 邑智郡美郷町乙原 | 跨線橋 | 石見簗瀬〜乙原 | 乙原橋(全長:50.0m) | |
24 | 県道40号川本・波多線 | 邑智郡美郷町乙原 | 跨線橋 | 乙原〜竹 | 角桶橋(全長:38.5m)。 | |
25 | 県道40号川本・波多線 | 邑智郡美郷町乙原 | 踏切 | 乙原〜竹 | 竹踏切。 | |
26 | 県道31号仁摩・邑南線 県道40号川本・波多線 |
邑智郡川本町川本 | 踏切 | 木路原〜石見川本 | 川本踏切。 | |
27 | 県道40号川本・波多線 県道291号別府・川本線 |
邑智郡川本町川本 | 跨線橋 | 石見川本〜因原 | 川本大橋(全長:218.0m)。 | |
28 | 県道291号別府・川本線 | 邑智郡川本町川本 | 踏切 | 石見川本〜因原 | 桧山踏切。 | |
29 | 県道291号別府・川本線 | 邑智郡川本町川本 | その他 | 石見川本〜因原 | 三江線のトンネルの上を通過。 | |
30 | 県道291号別府・川本線 | 邑智郡川本町因原 | 踏切 | 石見川本〜因原 | 中因原踏切。 | |
31 | 国道261号線 | 邑智郡川本町因原 | ガード | 因原〜鹿賀 | ||
32 | 県道295号日貫・川本線 | 邑智郡川本町因原 | 踏切 | 因原〜鹿賀 | 武藤踏切。 | |
33 | 県道295号日貫・川本線 | 江津市桜江町鹿賀 | 踏切 | 因原〜鹿賀 | 鹿賀踏切。 | |
34 | 県道295号日貫・川本線 | 江津市桜江町鹿賀 | ガード | 鹿賀〜石見川越 | ||
35 | 県道295号日貫・川本線 | 江津市桜江町川越 | 踏切 | 鹿賀〜石見川越 | 坂本踏切。 | |
36 | 県道295号日貫・川本線 | 江津市桜江町川越 | ガード | 鹿賀〜石見川越 | ||
37 | 県道295号日貫・川本線 | 江津市桜江町川越 | 踏切 | 石見川越〜田津 | 第二渡田踏切。 | |
38 | 県道112号三次・江津線 | 江津市桜江町川戸 | 踏切 | 田津〜川戸 | 高尾踏切。 | |
39 | 県道112号三次・江津線 | 江津市桜江町川戸 | 跨線橋 | 田津〜川戸 | 妙見宮跨線橋。 | |
40 | 県道112号三次・江津線 | 江津市桜江町川戸 | 踏切 | 田津〜川戸 | 川戸第二踏切。 | |
41 | 県道41号桜江・金城線 | 江津市桜江町川戸 | 踏切 | 田津〜川戸 | 川戸第一踏切。 | |
42 | 県道112号三次・江津線 | 江津市桜江町川戸 | ガード | 川戸〜川平 | ||
43 | 県道112号三次・江津線 | 江津市桜江町後山 | ガード | 川戸〜川平 | ||
44 | 県道112号三次・江津線 | 江津市桜江町後山 | 踏切 | 川戸〜川平 | 第二仁万瀬踏切。 | |
45 | 県道112号三次・江津線 | 江津市桜江町後山 | 踏切 | 川戸〜川平 | 第一仁万瀬踏切。 | |
46 | 県道112号三次・江津線 | 江津市桜江町後山 | ガード | 川戸〜川平 | ||
47 | 県道112号三次・江津線 | 江津市桜江町後山 | 踏切 | 川戸〜川平 | 第三小松踏切。 | |
48 | 県道112号三次・江津線 | 江津市桜江町後山 | 踏切 | 川戸〜川平 | 第二小松踏切。 | |
49 | 県道112号三次・江津線 | 江津市桜江町後山 | 踏切 | 川戸〜川平 | 第一小松踏切。 | |
50 | 県道112号三次・江津線 県道221号川平停車場線 |
江津市川平町南川上 | 跨線橋 | 川戸〜川平 | 田ノ原跨線橋。 | |
51 | 県道112号三次・江津線 | 江津市川平町南川上 | 跨線橋 | 川平〜千金 | 赤栗跨線橋。 | |
52 | 県道112号三次・江津線 | 江津市金田町 | 踏切 | 千金〜江津本町 | 第二江津踏切。 | |
53 | 国道9号線 | 江津市江津町 | 跨線橋 | 江津本町〜江津 | 新江川橋。 交差する道路は江津バイパス(江津道路)。 |
(交差形式の内訳)
形式 | 箇所数 | 備考 |
---|---|---|
ガード | 22 | |
踏切 | 19 | |
跨線橋 | 11 | |
その他 | 1 | |
合計 | 53 |
(路線ごとの交差箇所数)
※他の国道路線または県道路線と重用していて、単独区間を有しないところに交差箇所がある路線についても箇所数を計上しているため合計は53とはならない。
順位 | 路線名称 | 交差形式 | 備考 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
ガード | 踏切 | 跨線橋 | その他 | 合計 | |||
1 | 県道112号三次・江津線 | 6 | 10 | 5 | 0 | 21 | |
2 | 国道375号線 | 6 | 0 | 0 | 0 | 6 | |
県道40号川本・波多線 | 0 | 2 | 4 | 0 | 6 | ||
県道295号日貫・川本線 | 2 | 4 | 0 | 0 | 6 | ||
5 | 県道291号別府・川本線 | 0 | 2 | 1 | 1 | 4 | |
6 | 県道294号邑南・美郷線 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | |
7 | 国道184号線 | 1 | 0 | 1 | 0 | 2 | |
8 | 国道9号線 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | |
国道54号線 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | ||
国道183号線 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | ||
国道261号線 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | ||
国道433号線 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | ||
国道434号線 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | ||
県道4号甲田・作木線 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | ||
県道7号浜田・作木線 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | ||
県道31号仁摩・邑南線 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | ||
県道41号桜江・金城線 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | ||
県道55号邑南・飯南線 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | ||
県道166号美郷・飯南線 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | ||
県道221号川平停車場線 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | ||
県道292号宇都井・阿須那線 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | ||
合計 | 23 | 22 | 16 | 1 | 62 |
注21:郷田というのは那賀郡江津村→那賀郡江津町→江津市の大字である。1975年(昭和50年)1月1日に江津市江津町に改称した。
注22:現在の国道9号線に相当する道は江川橋開通当時は旧道路法により指定された国道18号線(1920〜1952)であった。国道9号線になったのは1952年(昭和27年)12月4日のことである(当時の名称は一級国道9号線。現在の名称になったのは1965年〔昭和40年〕4月1日のことである)。
※その後1970年(昭和45年)4月1日からは国道186号線も江川橋を通るようになっている。
注23:江津〜江津本町間は三江線で最も短い駅間距離(1.1km)となっている。
注24:「島根県統計書」によると他にも(広島県内の駅になるのだが)伊賀和志駅(三次市作木町伊賀和志)が2010〜2015年度(平成22〜27年度)について一日の平均乗車人員が0人になっている。
注25:国道9号線江津バイパスと県道112号三次・江津線江津西バイパスとの立体交差には特に名称は付けられていない。嘉久志東ランプは本サイトで便宜上付けたものである。
なお、嘉久志東ランプは国道9号線江津バイパス開通時点では存在せず、2004年(平成16年)11月20日に国道9号線江津バイパスと県道112号三次・江津線江津西バイパスとの立体交差が完成した際に供用を開始したものである。
注26:迂回路としては江津市役所のすぐ西側を通る江津市道がある。但しその江津市道と国道9号線(国道186号線重用)現道との接続点となる江津市江津町/江津跨線橋南詰交差点(信号機・交差点名標なし)には右折禁止規制がかけられており、江津市役所前から国道9号線(国道186号線重用)現道大田方面に進むことと国道9号線(国道186号線重用)現道浜田方面から江津市役所前に進むことはできない。
(県道112号三次・江津線現道と国道9号線〔国道186号線重用〕現道の往来方法)
※いずれも最短経路で記している。
方向 | 経路 |
---|---|
国道9号線(国道186号線重用)大田方面→ 県道112号三次・江津線川平方面 |
江津市江津町/江津跨線橋南詰交差点(信号機・交差点名標なし)を左折→ 江津市江津町/江津市役所南入口交差点を左折(信号機・交差点名標なし)を左折→ 江津市江津町/明治安田生命江津営業所前交差点(交差点名標なし)を直進 |
国道9号線(国道186号線重用)浜田方面→ 県道112号三次・江津線川平方面 |
江津市江津町/江津町交差点を右折→ 江津市嘉久志町/ゆめタウン江津東入口交差点(交差点名標なし)を左折→ 江津市江津町/明治安田生命江津営業所前交差点(交差点名標なし)を右折 ※江津市江津町/江津町交差点〜江津市嘉久志町/ゆめタウン江津東入口交差点(交差点名標なし)間は県道112号三次・江津線江津西バイパス。 |
県道112号三次・江津線川平方面→ 国道9号線(国道186号線重用)大田方面 |
江津市江津町/明治安田生命江津営業所前交差点(交差点名標なし)を左折→ 江津市嘉久志町/ゆめタウン江津東入口交差点(交差点名標なし)を右折→ 江津市江津町/江津町交差点を右折 ※江津市嘉久志町/ゆめタウン江津東入口交差点(交差点名標なし)〜江津市江津町/江津町交差点間は県道112号三次・江津線江津西バイパス。 |
県道112号三次・江津線川平方面→ 国道9号線(国道186号線重用)浜田方面 |
江津市江津町/明治安田生命江津営業所前交差点(交差点名標なし)を左折→ 江津市嘉久志町/ゆめタウン江津東入口交差点(交差点名標なし)を右折→ 江津市江津町/江津町交差点を左折 ※江津市嘉久志町/ゆめタウン江津東入口交差点(交差点名標なし)〜江津市江津町/江津町交差点間は県道112号三次・江津線江津西バイパス。 |
注27:江川橋より歴史が浅い上江川橋の架け替えが企図された背景には本文で触れた江の川左岸堤防の整備があるのではないかと考えている。
注28:江津駅前交番は下の写真の中央部の黒色の軽自動車が駐車している辺りに存在した。
注29:三次駅の場合は備後三次駅ではなく備後十日市駅(1930〜1954)となっていた。開業当時双三郡十日市町(1917〜1954)にあったからである。現在の名称である三次駅に改称したのは備後十日市駅が三次市の代表駅になったことによる。
注30:三次駅については2010年(平成22年)3月12日までは駅舎のそばにある1番線の西端に0番線という切り欠きホームが存在し、そこから三江線の列車は発着していた。3番ホームに移転したのは三次駅周辺整備事業を実施するためであるが、三次駅の陸橋にはエレヴェーターやエスカレーターは設置されていないため高齢者や障害者にとっては利用しにくくなったことは否めないところであろう。
三次駅0番線跡地。かつてはここで三江南線→三江線の列車が発着していた。
注31:江津駅の(北口)駅前広場のすぐ東側にも有料駐車場がある。
注32:三次駅の(北口)駅前広場は広いのに江津駅のそれは狭い理由は次に挙げる通りである。
・江津駅周辺の都市化の進展が早かったこと(駅の設置も三次駅より10年ほど早かったし、駅の近くに1930年代後半に新日本レーヨンの工場が作られたことが背景にあるものと思われる)。
・江津駅の(北口)駅前広場のすぐ北側を通る国道9号線(国道186号線重用)の整備が第二次世界大戦終結後間もない時期から進められていたこと(三次駅の〔北口〕駅前広場のすぐ北側を通る国道183号線〔国道184号線及び国道375号線〈三次市十日市東一丁目/三次駅前交差点以東〉重用〕の整備が進められたのは1960年代後半以降である)。
三次市十日市東一丁目にある案内標識。県道228号三次停車場線の存在を示す唯一の物件である。
同時にかつては幹線道路と三次駅がいくらか離れていたことを今に伝えている。
注33:江津駅の(北口)駅前広場に停車する高速バスは現在大阪市と江津市を三次市・浜田市経由で結ぶ昼行便「浜田道エクスプレス」号(所要時間:約6時間30分)しかない。
注34:島根県の市町村の人口や発足時期はこちらで紹介しているのだが、そのうちの西部地域にある市について抜粋したものが下表である。下表から浜田市が島根県西部にある都市で最も人口が多いことが分かる。
※発足年月日はその市が初めて発足した年月日を記しており、統合による再発足は考慮に入れていない。
※面積は「2017年(平成29年)全国都道府県市区町村別面積調」による。単位は平方キロメートル。
※人口は2015年(平成27年)10月1日実施の国勢調査による。単位は人。なお、その後に変動があった市町村については修正している。
市名 | 読み方 | 発足年月日 | 面積 | 人口 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
大田市 | おおだ/し | 1954年(昭和29年)1月1日 | 435.71 | 35,166 | |
江津市 | ごうつ/し | 1954年(昭和29年)4月1日 | 268.24 | 24,468 | |
浜田市 | はまだ/し | 1940年(昭和15年)11月3日 | 690.68 | 58,105 | |
益田市 | ますだ/し | 1952年(昭和27年)8月1日 | 733.19 | 47,718 |
ちなみに島根県西部で最初に発足した市である浜田市は島根県では県庁所在地の松江市(1889年〔明治22年〕4月1日発足)に次いで二番目に市制施行したところである。
注35:山陰放送は島根県西部では大田市と浜田市、益田市に中波中継局を設置しており、その点でも江津市は仲間外れになっている。
※ちなみに江津市内にあるラジオ中継局はNHKラジオ第一江津中波中継局(江津市江津町)だけである。よって、NHKラジオ第一以外のラジオ局(NHKラジオ第二・NHK-FM・山陰放送ラジオ・エフエム山陰〔愛称:V-air。松江市殿町〕)はそれぞれの浜田中継局を受信して聴くことになる。
注36:中国地方では他に中国横断自動車道姫路・鳥取線で一般道路を当面活用区間にしている箇所(鳥取・岡山県境の志戸坂峠付近)がある。
注37:かつては「江の川」号という高速バスが存在したが2005年(平成17年)に廃止されており、それ以降は存在しない。
注38:江津市域を通っていた主要地方道路線は下表の通りである。
路線名称 | 江津市内の 経由地 |
通過時期 | 備考 |
---|---|---|---|
県道24号大田・温泉津・江津線 | 黒松町 後地町 浅利町(終点) |
1954〜1972 | 全区間が国道9号線の一部になったため廃止。 路線番号は推定(詳細は第8章の注22で記している)。 |
県道50号田所・国府線 | 有福温泉町本明 有福温泉町 |
1994〜 | 一般県道からの昇格路線。 |
県道41号桜江・金城線 | 桜江町谷住郷(起点) 桜江町川戸 桜江町小田 桜江町市山 桜江町八戸 桜江町長谷 |
2004〜 | 路線自体は1977年(昭和52年)発足。 邑智郡桜江町を編入した時から通過自治体となった。 |
県道46号大田・桜江線 | 桜江町谷住郷(終点) | 2004〜 | 路線自体は1982年(昭和57年)発足。 邑智郡桜江町を編入した時から通過自治体となった。 |
上表から江津市域を通っていた主要地方道路線は過去に四つしかないことやいずれも江津市中心部(江津町・嘉久志町)を通っていないこと、そして1972年(昭和47年)から1994年(平成6年)まで22年間全く主要地方道路線が通っていなかったことがうかがえる。
なお、島根県にある市で主要地方道路線が通っていなかった時期のある市は江津市だけである。
注39:江津市公式サイトによる。江津市議会議員は今年5月31日が、江津市長は今年7月15日がそれぞれ任期満了日になっているのだが、経費節減のために市長選挙と市議会議員選挙を同じ日に実施することになったものと思われる。
注40:ラインカラー導入前の駅名標は下の写真に見られるようなものであった。
JR可部線今井田駅(広島市安佐北区可部町今井田。1956〜2003)の駅名標(2003年〔平成15年〕4月1日撮影)
上の写真から西日本旅客鉄道のコーポレートカラーの青色が用いられていることが分かる
※上の写真では「あきかめやま」という駅名が見えるが、現在のあき亀山駅(広島市安佐北区亀山南一丁目)のことではなく、可部線廃止区間にあった安芸亀山駅(広島市安佐北区可部町勝木。1936〜2003)のことを指す。現在のあき亀山駅はこちらでも書いているのだが、可部線可部〜あき亀山間開業(2017年〔平成29年〕3月4日)の際に開業したものである。
また、今井田駅は河合その子(1980年代中期に活動していたおニャン子クラブのメンバーでもあった)のシングル曲「青いスタスィオン」(1986年〔昭和61年〕3月21日発売)のプロモーションビデオの撮影地になったことでも知られている。
注41:例えば福山駅(福山市三之丸町)は在来線のプラットホームごとに駅名標に使われている色が異なっている。
3・4番ホーム(山陽本線下り)の駅名標
5・6番ホーム(山陽本線上り)の駅名標
7・8番ホーム(福塩線)の駅名標
※駅名標に「ひがしふくやま」が入っているのは福塩線と山陽本線上り方向(福山→岡山)を直通する列車があるためである。
注42:江津市〜三次市間が高速道路で結ばれるまでの経緯は下表の通りである。
年月日 | 記事 | 備考 |
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1978年(昭和53年)10月28日 | 中国自動車道北房インターチェンジ(真庭市五名)〜三次インターチェンジ間が開通する。 | この開通により広島県に初めて国土開発幹線自動車道の供用区間が生じることになった。 |
1979年(昭和54年)10月18日 | 中国自動車道三次インターチェンジ〜千代田インターチェンジ(山県郡北広島町丁保余原〔よおろほよばら〕)間が開通する。 | |
1983年(昭和58年)3月24日 | 中国自動車道千代田インターチェンジ〜千代田ジャンクション(山県郡北広島町有田)〜広島北ジャンクション(広島市安佐北区安佐町飯室)〜鹿野インターチェンジ(周南市鹿野上)間及び広島自動車道広島北インターチェンジ(広島市安佐北区安佐町飯室)〜広島北ジャンクション間が開通する。 | 千代田ジャンクションは当時未供用。 この開通により中国縦貫自動車道は全線開通となり、なおかつ島根県に初めて国土開発幹線自動車道の供用区間が生じることになった。更に中国横断自動車道広島・浜田線は初めて供用区間を持つことになった。 |
1985年(昭和60年)3月20日 | 山陽自動車道広島ジャンクション(広島市安佐南区伴東町)〜五日市インターチェンジ(広島市佐伯区五日市町石内)間及び広島自動車道広島ジャンクション〜広島北インターチェンジ間が開通する。 | この時は山陽自動車道福山方面は未供用だったため広島ジャンクションは広島自動車道浜田・三次方面と山陽自動車道岩国方面との往来しかできなかった。広島ジャンクションが完全化されたのは1988年(昭和63年)12月7日に山陽自動車道広島インターチェンジ(広島市安佐南区川内二丁目)〜広島ジャンクション間が開通した時である。 |
1989年(平成元年)10月18日 | 浜田自動車道旭インターチェンジ(浜田市旭町丸原)〜浜田ジャンクション(浜田市後野町)〜浜田インターチェンジ(浜田市長沢町)間が開通する。 | 浜田ジャンクションは当時未供用。 |
1991年(平成3年)12月7日 | 浜田自動車道千代田ジャンクション〜旭インターチェンジ間が開通する。 | この開通により中国横断自動車道広島・浜田線は全線開通となった。 |
2003年(平成15年)9月21日 | 山陰自動車道江津インターチェンジ〜浜田ジャンクション間が開通する。 |
注43:三江線が全線開通した1975年(昭和50年)8月31日時点における江津市〜三次市間の自動車での最適な移動経路は国道261号線→県道5号浜田・八重・可部線→国道54号線であった。改良が完成していたのは国道54号線だけだったのだが、そういう状況でも三江線の列車より短い時間で江津市から三次市に行くことは可能であった。
注44:テレビ朝日系列で「ドラえもん」が始まったのは1979年(昭和54年)4月のことであり、来年4月に放送開始40周年を迎える。但し番組開始からの2年半は日曜日の朝に放送されており、現在の金曜日の夜に放送時間が移ったのは1981年(昭和56年)10月のことである。なお、島根県にはテレビ朝日系列に属する民間テレビ放送局が存在しないが、「ドラえもん」は山陰放送テレビ(TBS系列所属)で火曜日午後4時21分〜午後4時50分に放送されている。
※「ドラえもん」はテレビ朝日系列でアニメ化される前にも日本テレビ系列でアニメ化されたことがある。1973年(昭和48年)4月から半年間放送されたのだが、視聴率低迷などの事情により打ち切られた上に諸事情により現在では見ることのかなわない作品となっている。
注45:この「天の川鉄道の夜」は作品発表当時放送され、映画化もされたアニメ「銀河鉄道999(スリーナイン)」(フジテレビ系、1978〜1981年〔昭和53〜56年〕放送)を意識した箇所がある。また、作品の序盤でスネ夫が蒸気機関車が牽引(けんいん)する観光列車に乗ってきたことをのび太・ジャイアン・しずかに対して自慢する箇所があるが、1979年(昭和54年)夏からJR山口線新山口〜津和野間に設定され、現在も3〜11月の土曜日・日曜日・祝日を中心に運転されているSLやまぐち号を意識した可能性がある(作品発表当時蒸気機関車が牽引する観光列車はJR山口線と静岡県にある大井川鉄道大井川本線しかなかった)。そういう当時の動きを意識した上で1960年代以降の日本の鉄道が置かれた苦境を投影したのがこの作品ではないのだろうか。
なお、この「天の川鉄道の夜」はてんとう虫コミックス「ドラえもん」第20巻(1980年〔昭和55年〕小学館〔千代田区一ツ橋二丁目〕刊)に収録されており、現在でも入手することや読むことは可能である。興味のある方はどうぞご覧頂きたい。