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JR三江線並行道路を行く・第7章(2018年〔平成30年〕3月15日公開)

第6章から

竹駅から木路原駅へ

 竹駅(邑智郡美郷町乙原〔おんばら〕)のすぐ横を通る県道40号川本・波多線を南西方向に進む。そのすぐ先で邑智郡美郷町港に通じる美郷町道竹・港線を分岐する邑智郡美郷町乙原/みなと橋南詰交差点(信号機・交差点名標なし)を通過する。邑智郡美郷町乙原/みなと橋南詰交差点(信号機・交差点名標なし)の前後だけ県道40号川本・波多線は盛り上がっているが、みなと橋(全長:160.0m)の路面の水面からの高さを稼ぐためにそのようにしているのであろう。

竹駅のプラットホームから撮影した県道40号川本・波多線の盛り上がり部分
最も高いところに邑智郡美郷町乙原/みなと橋南詰交差点(信号機・交差点名標なし)がある
写真右端の木や建物で見えないが写真右端の木や建物の背後には邑智郡美郷町港に通じる港橋がある

 邑智郡美郷町乙原/みなと橋南詰交差点(信号機・交差点名標なし)の盛り上がりを過ぎると下り坂になり、坂を下り切ると県道40号川本・波多線は上下2車線の道になる。しかしすぐに狭い道になる。だが少し進むと上下2車線幅(注1)の道になる。安定しない道幅だが、島根県としては対岸へのバイパス建設を企図する一方でこの道もいずれは改良しようと考えているのだろうか。
 ところで、県道40号川本・波多線が上下2車線幅になった辺りの左側には明治時代末期まで銅が丸銅山(邑智郡美郷町乙原)の精錬所があったという(注2)。19世紀末期には早くも電気が通るなど隆盛を極めたというが、価格暴落とその後の失火による施設の焼失で放棄されたという。この辺りの三江線が開通したのは閉山から20年以上経ってからであったが、もし三江線が開業した頃も操業を続けていたら状況は大きく変わっていたことであろう。もっとも、日本における銅山は価格の安い輸入銅に押されたこともあって次々閉山になり、今はどこも操業していないので結果は同じことになったのかもしれないのだが…。
 再び道幅が狭まり、江の川支流の田水(でんすい)川を堀川橋(全長:25.2m)で渡ると前方には「川本町 Kawamoto Town」と書かれた標識がある。長かった邑智郡美郷町を抜け、邑智郡川本町に入ったことを知る。

邑智郡川本町の境界標識

 振り向くと堀川橋の東の袂には「美郷町 Misato Town」と書かれた標識があり、堀川橋が架かる田水川が邑智郡美郷町と邑智郡川本町の境であると思いたくなるのだが、実はそれは誤りである。というのも、堀川橋の辺りの邑智郡美郷町と邑智郡川本町の境はなぜか田水川を通っておらず、田水川の東方数十mのところ(堀川橋の手前の道幅が狭まったところ)を通っているからである。そのことは「地理院地図(電子国土Web)」というサイトや島根県公式サイトで閲覧できる道路台帳からも確認できるのだが、なぜ堀川橋の辺りだけ邑智郡美郷町と邑智郡川本町の境は田水川から外れたのだろうか。全くの謎である。
 それともう一つここで書いておきたいのは「邑智郡川本町」と書いて「おおちぐんかわもとちょう」と読むのは本当は誤りということである。正式には「おおちぐんかわもとまち」と読むのである。邑智郡川本町は中国地方の自治体としての町で唯一「町」を「まち」と読むところ(注3)なのだが、そのことを知らない方が少なくない。本サイトは地名についても取り上げているのでここで書いた次第であるが、本当に地名はややこしいなと感じているところである。

 それはさておき、堀川橋を渡り終えたところ、すなわち邑智郡川本町川本/堀川橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)を県道40号川本・波多線は右折するのだが、そのすぐ先に縦長の電光掲示板が設置されていた(下の写真)。電光掲示板が点灯しているところの写真は撮れなかったのだが、恐らく対向車が来た時は進入しないで下さいとかここでしばらくお待ち下さいというような内容の表示がなされるのだろう。

 つまり、邑智郡川本町川本/堀川橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)以西の県道40号川本・波多線には普通自動車同士のすれ違いが難しい箇所があるということを示しているということになるのだが、県道40号川本・波多線を上り方向(雲南・三瓶山・粕渕→川本)に走ってきた場合、そのことは堀川橋の手前に設置された看板で予告されている(下の写真)。しかし、県道40号川本・波多線を上り方向に走ってきた場合、そこまでそのことを知る方法がないのはどうなのだろうか。せめて県道40号川本・波多線が国道375号線に合流する場所、すなわち邑智郡美郷町粕渕/邑智小学校西交差点(信号機・交差点名標なし)に設置されている案内標識に「川本方面Xkm先最小幅員Xm」というような注意書きを入れるとか邑智郡美郷町粕渕/邑智小学校西交差点(信号機・交差点名標なし)から邑智郡川本町川本/堀川橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)までの何箇所かに「Xkm先最小幅員Xm」というようなことを記した標識を設置してはどうであろうか。

 邑智郡川本町川本/堀川橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)からの自動車同士のすれ違いが不可能な区間は150mほどに過ぎない。しかし、江の川に面した崖の中腹を通り抜ける道であり、落石の恐れもある。更に電光表示板を見落とすか無視するかして対向車が進入してくる恐れもある(だから狭隘区間の途中にも対向車が来たことを知らせる小さな看板が設置されている)。江の川の眺めは良いが気の抜けない道である。すれ違い不可能箇所を過ぎても狭隘箇所はしばらく続くのだが、この狭隘箇所の存在は県道40号川本・波多線が邑智郡各地と松江市を結ぶ幹線道路として有用になっていく上で最大の障害となっている。
 そこでバイパスを建設する必要が生じたわけであるが、前に触れた通り対岸を通すことになった。なぜ県道40号川本・波多線が通る江の川左岸で建設することはできなかったのか。要因として挙げられることは次の通りである。
・並行して通る三江線と干渉する箇所がいくつも生じること(無論計画が決定した時点では三江線の廃止問題は浮上していない(注4))。
・地形が険しい上に未改良箇所が長いことから長いトンネルを掘らざるを得なくなること。
・邑智郡川本町の中心部を通り、なおかつ県道40号川本・波多線と重用する箇所のある県道路線、すなわち県道31号仁摩・邑南線と県道291号別府・川本線の改良も考えなければならなかったこと。
 このバイパス、すなわち県道40号川本・波多線川本バイパスは今は邑智郡川本町多田〜邑智郡美郷町港間について着手し始めた段階であり、いずれも上下2車線幅(注1)で架けられている川本大橋(全長:218.0m)と川本東大橋(全長:160.4m)の架け替えや邑智郡川本町中心部を迂回する長大トンネルの建設も今後は考えられてくることになるであろう。かなりの建設費を投じることになるため全線開通はかなり先のことになるであろうが、果たしてどうなっていくのか。今後も注目していきたいところである。
 邑智郡川本町川本/第二木路原踏切北交差点(信号機・交差点名標なし)で旧道と思しき道(川本町道木路原線)を左に分けてから辺りは開け、更に県道40号川本・波多線は歩道(上り方向のみ)、更に中央線のある整備された道になる。そこで振り返って下り方向(川本→粕渕・三瓶山・雲南)を見ると下の写真にあるような標識があった。

 先程の狭隘区間の道幅が最小で2.5mになるという最大幅の標識である。最近設置されたもののようであるが、実は県道40号川本・波多線を下り方向で走ってきた場合ここでようやく狭隘箇所の存在を知ることになるのである。結局川本側も粕渕側も話は同じということになるわけであるが、果たしてこれで良いのであろうか。
 やがて県道40号川本・波多線は左側に新し目の民家がいくつも建ち並ぶところを通り抜けていく。この辺りの県道40号川本・波多線が整備されたのは平成時代初頭のようであるが、水害対策で土地を嵩(かさ)上げしたところに直線的なバイパスを建設したのであろうか。
 江の川支流の竜安寺川を竜安寺橋(全長:13.5m)で渡った先の邑智郡川本町川本/竜安寺橋南詰交差点(信号機・交差点名標なし)で左折して川本町道に入り、60mほど先の丁字路、すなわち邑智郡川本町川本/竜安寺橋南詰東交差点(信号機・交差点名標なし)で右折する。右折後の道が「く」の字に折れ曲がるところの手前に山のほうに延びる通路が見えるのだが、それが木路原駅(邑智郡川本町川本)への通路である。

木路原駅(きろはらえき)

木路原駅の待合所

木路原駅の駅名標

三江線活性化協議会が設置した看板。木路原駅の愛称は天神となっている。

木路原駅のデータ

項目 記事
所在地 邑智郡川本町川本
駅名の由来 駅がある集落の名前。
開業年月日 1962年(昭和37年)1月1日
接続鉄道路線 なし
駅構内にあるもの なし(プラットホームに待合所があるだけ)
プラットホームの形式 単式ホームで東側を利用している。
起点または終点からの距離
(営業キロ)
起点(江津)から34.6km
終点(三次)から73.5km
前後の駅からの距離
(営業キロ)
(下り線)石見川本駅から2.0km
(上り線)竹駅から3.0km
JR三江線の列車の発車・到着時刻
(2017年〔平成29年〕3月4日現在)
(下り列車)
423D…午前7時7分(江津発三次行)
425D…午後2時5分(浜田発浜原行)
429D…午後4時29分(江津発三次行)
431D…午後5時53分(江津発浜原行)
435D…午後8時22分(江津発浜原行)
(上り列車)
420D…午前6時55分(浜原発浜田行)
422D…午前8時18分(三次発浜田行)
424D…午後0時14分(三次発石見川本行)
430D…午後5時43分(浜原発江津行)
434D…午後7時38分(浜原発江津行)
付近にある主要施設 なし
付近にある名所・旧跡・自然 江の川
竜安寺川
木路原天満宮(境内には川本町天然記念物に指定されているムクノキがある)
付近を通る国道路線
または県道路線
県道40号川本・波多線
※木路原駅の90mほど西方を通っている。かつては乙原駅の30mほど西側を通っていたが木路原バイパス開通に伴う旧道処分で邑智郡川本町に移管され、川本町道になっている。
備考 ・元日に開業した珍しい駅である(三江線関係では他に終点の三次駅〔三次市十日市南一丁目〕があるのみ(注5))。

 木路原駅も乙原駅(邑智郡美郷町乙原)と同じく集落の外れの山裾に押し込められたような駅である。乙原駅と違うのはこの辺りの三江線が開業してかなり経ってから設置された停留場であることであるが、川本町道から駅のプラットホームまでの通路の長さ―恐らく30〜40m程度だろう―や案内の不十分さを見るともう少し便利なところに設置できたのでは…と考えたくなる。

川本町道と木路原駅を結ぶ通路

 更にどうかと思うのは竹駅と同じく待合所が開放式であることである。竹駅と同じく待合所が山と向き合っているからこれで良いだろうと考えたのかもしれないのだが、雨の日や雪の日、強い風の日、寒い日に列車を待つのは辛いものがあったのではないのだろうか。

開放式の木路原駅の待合所(写っているのは南半分だけだが)。南(江津方面)を向いて撮影している。

 そんな木路原駅が開業したのは何と1962年(昭和37年)1月1日のことだったという。三江線関係では他に終点の三次駅(三次市十日市南一丁目)があるだけであり(注5)、全国的にも珍しいと言える(もしかしたら他にもあるのかもしれないのだが…)。木路原駅が設置されるに至ったのはある程度の人口集積があるにもかかわらず江津市や浜田市に出るのに2km離れた石見川本駅(邑智郡川本町川本)まで出ないと行けないのは不便だという地域住民の声が上がったことが考えられるが、木路原集落とは川本東大橋で結ばれている邑智郡川本町川下地区東部(久座仁・多田)や邑智郡川本町祖式(注6)地区(川内・小谷・馬野原)の住民からも声が上がった可能性も考えられるところである。木路原駅が木路原集落の南の外れに位置するのはそのためもあるのだろうか。
 「一年の始まりである元日というめでたい日にこの集落に駅ができた。大変めでたい」などと言って木路原集落の住民は大いに喜んだことであろう(ただ開業祝賀行事はあったのだろうか…。まさか元日だからしなかったということはないと思うのだが…)が、時が経つにつれて木路原駅は微妙な立場に置かれることになる。他の駅にも共通すること(過疎化による利用者減少、利用者減少による列車本数の削減、存廃問題の浮上、道路事情の改善)以外の要因としては次のようなことが挙げられる。
・利用が期待された邑智郡川本町川下地区東部及び祖式地区は地区内を通る県道31号仁摩・邑南線を大田市中心部と邑智郡川本町中心部を結ぶ石見交通(益田市幸町)の路線バスが通っており、邑智郡川本町中心部に出るにはそれを利用したほうが便利だったこと。
・木路原集落と邑智郡川本町中心部の間は2kmほどしか離れておらず、また急な勾配があるところもないため自転車で十分往来できること。
・木路原駅が集落の外れの山裾にあり、なおかつ道路(川本町道〔県道40号川本・波多線旧道〕)から通路を数十m歩かないと行けなかったため利用しづらかったこと。
・木路原駅の待合所が開放式だったため天候の悪い日に利用することを避ける人が少なくなかったこと。
 かくして木路原駅の利用者は減り、「島根県統計書」(島根県企画振興部統計課刊)によるとここ数年の木路原駅の一日の平均乗車人員は0〜2人だという(注7)。元日というめでたい日に開業した駅なのにこの状況は何だかな…と思ってしまう。やはり時が流れれば人の心も変わってしまうものなのだろうか。

木路原駅から石見川本駅へ

 木路原駅への通路の入口から川本町道(県道40号川本・波多線旧道)を南下する。左手に川本町天然記念物に指定されているムクノキが境内にある木路原天満宮を眺めながら走るとやがて邑智郡川本町川本/木路原天満宮西交差点(信号機・交差点名標なし)で県道40号川本・波多線に突き当たる。そこで左折し、県道40号川本・波多線に復帰する。
 復帰後間もなくの県道40号川本・波多線は快適な上下2車線の道なのだが、しばらくすると道幅は狭まってしまう。あと少しで邑智郡川本町の中心部というところに未改良箇所が残されているというのは由々しき問題ではあるのだが、山が江の川のすぐ近くまで迫っているところを通しているので拡幅が難しいのだろう(だから前にも書いた通り江の川右岸を通るバイパスが企図されたわけであるが…)。
 普通自動車同士のすれ違いに難渋しそうなところを通り抜けると邑智郡川本町川本/川本東大橋南詰交差点(信号機・交差点名標なし)で二つの赤いアーチが印象的な川本東大橋を渡ってきた県道31号仁摩・邑南線と合流する。邑智郡川本町と大田市を結ぶ幹線道路と合流することになるわけであるが、道幅は上下2車線幅(注1)になった程度である。邑智郡川本町川本/川本東大橋南詰交差点(信号機・交差点名標なし)のすぐ先には広島市までの距離を記した案内標識があり、県道31号仁摩・邑南線が広島市と大田市を結ぶ幹線道路として位置付けられていることをうかがわせているが、まだまだだなという印象を受ける。
 江の川と離れ、緩やかな坂を下っていくと三江線と平面交差する川本踏切(邑智郡川本町川本)があり、そこを過ぎるといよいよ邑智郡川本町の中心部に入っていく。しかし、昔ながらの道が県道31号仁摩・邑南線(県道40号川本・波多線重用)となっていることもあり、道幅は広くない。両側に民家が建ち並んでいることもあり、広域幹線道路として有用になるために改良するのであればバイパスを建設する以外には方法はないことがうかがえる。
 やがて進行方向左側に「222」と書かれた路線方向表示が見えてくる。残念ながら取材時点では県道31号仁摩・邑南線下り方向(仁摩→邑南)及び県道40号川本・波多線上り方向のそれは何らかの理由により向きが県道31号仁摩・邑南線(県道40号川本・波多線重用)と平行になってしまっており、県道31号仁摩・邑南線下り方向及び県道40号川本・波多線上り方向からは見にくくなったのだが、反対方向、すなわち県道31号仁摩・邑南線上り方向(邑南→仁摩)及び県道40号川本・波多線下り方向のそれについては健在であった。

県道31号仁摩・邑南線下り方向及び県道40号川本・波多線上り方向用の「222」と書かれた路線方向表示(2010年〔平成22年〕11月28日撮影)。
今回の取材の際見たところこの標識が何らかの理由により向きが変わっていた。

県道31号仁摩・邑南線上り方向及び県道40号川本・波多線下り方向用の「222」と書かれた路線方向表示

 ではこの「222」とは何なのか。実は県道222号川本停車場線のことである。なぜ県道222号石見川本停車場線ではないのかという疑問(注8)はさておき、石見川本駅の(東口)駅前広場と県道31号仁摩・邑南線(県道40号川本・波多線重用)を結ぶ県道路線である。記すまでもなく県道31号仁摩・邑南線(県道40号川本・波多線重用)に突き当たるところ、すなわち邑智郡川本町川本/光永寺西交差点(信号機・交差点名標なし)が終点となるわけであるが、県道222号線がそこから分岐することは県道31号仁摩・邑南線(県道40号川本・波多線重用)を通る人には分かってもそれが石見川本駅に通じていることは案内標識が全くないため分からない。県道222号川本停車場線がまっすぐに石見川本駅(の〔東口〕駅前広場)に至っていないこともあるのだろうが、県道31号仁摩・邑南線(県道40号川本・波多線重用)仁摩・大田・粕渕方面と石見川本駅を往来する場合の最短経路になることを考えると案内標識ぐらいあっても良かったのではないのだろうか(ここでこういうことを書いてももう遅いが)。

路線方向表示と駅への案内標識が併存している例(撮影場所:江津市浅利町)

 なお、邑智郡川本町川本/光永寺西交差点(信号機・交差点名標なし)で右折して県道222号川本停車場線に入った場合は120mほど西進したところにある邑智郡川本町川本/萩原商店前交差点(信号機・交差点名標なし)で左折し、邑智郡川本町川本/萩原商店前交差点(信号機・交差点名標なし)から100mほど南進すると石見川本駅の(東口)駅前広場の横に到着する。邑智郡川本町の中心部を通り抜けるとあって道の両側にはずっと建物が並んでおり、営業している店舗も少なくない。全線にわたって上下2車線幅(注1)であり、薄赤紫色(?)のカラー舗装が施されている。
 さて、邑智郡川本町川本/光永寺西交差点(信号機・交差点名標なし)で右折せず、引き続き県道31号仁摩・邑南線(県道40号川本・波多線重用)を進むと100mほどで邑智郡川本町川本/川本郵便局前交差点(交差点名標なし)という丁字路(Y字路)に差しかかる。ここで右折して県道31号仁摩・邑南線と別れ、今度は県道40号川本・波多線(県道291号別府・川本線重用)に入る。県道31号仁摩・邑南線(県道40号川本・波多線重用)を仁摩・大田・粕渕方面から南下してきた場合、かつては邑智郡川本町川本/川本郵便局前交差点(交差点名標なし)の真正面に川本警察署(邑智郡川本町川本)が見えたのだが、川本警察署は20年ほど前に300mほど北東の丘の上に移転し、現在そこは川本中央駐車場と加藤病院になっている。
 ところでこの邑智郡川本町川本/川本郵便局前交差点(交差点名標なし)は夜間・早朝に訪れるとある珍しいものを見ることができる交差点である。それは何と三方向全ての信号機の灯火が赤色の点滅になるというものである。2011年(平成23年)7月30日に邑智郡川本町を訪れた時(注9)に撮影したのが下の写真である。

 

邑智郡川本町川本/川本郵便局前交差点(交差点名標なし)の県道31号仁摩・邑南線(県道291号別府・川本線重用)出羽(いずわ)方面用灯火と
県道40号川本・波多線桜江方面用灯火の点滅の様子

邑智郡川本町川本/川本郵便局前交差点(交差点名標なし)の県道31号仁摩・邑南線(県道40号川本・波多線重用)仁摩・大田・粕渕方面用灯火の点滅の様子
よく見ると歩行者用信号機の灯火が全て消えており点滅運用中であることが分かる

 邑智郡川本町にはもう一箇所全方向の信号機の灯火が赤色の点滅になる交差点がある(邑智郡川本町川下/川下橋西詰交差点〔交差点名標なし〕)のだが、こういう点滅運用は交通量が多かったり道幅が広かったりする道路が黄色の点滅に、そうでない道路が赤色の点滅にそれぞれなることしか知らない人には奇異なものに見える。ではなぜ川本警察署は邑智郡川本町川本/川本郵便局前交差点(交差点名標なし)邑智郡川本町川下/川下橋西詰交差点(交差点名標なし)の2箇所で全方向の信号機の灯火が赤色の点滅になる運用を行っているのか。その理由を考えるためにこの二つの交差点に入ってくる道路はどういう状況なのかを下表に示したのでご覧頂きたい。

(川本郵便局前交差点)

方向 路線名称 主な行き先 備考
県道31号仁摩・邑南線
(県道40号川本・波多線重用)
大田市
邑智郡美郷町
南東 県道31号仁摩・邑南線
(県道291号別府・川本線重用)
邑智郡邑南町 狭隘箇所が多いことや高さ制限のあるトンネルがあることなどから有用な幹線道路にはなり得ていない。
南西 県道40号川本・波多線
(県道291号別府・川本線重用)
江津市

(川下橋西詰交差点)

方向 路線名称 主な行き先 備考
北北東 県道40号川本・波多線 大田市
邑智郡美郷町
東南東 国道261号線 邑智郡邑南町
南南西 国道261号線 江津市
西北西 県道32号温泉津・川本線 大田市温泉津地区 「温泉津」は「ゆのつ」と読む。

 一部には有用な存在になり得ていないものがあるが、この二つの交差点に入ってくる道路は国道路線か主要地方道路線であり、しかもいずれの道路も直進関係にない。故に通行に注意して頂きたいということで道路に差別を付けず、全方向の信号機の灯火を赤色の点滅にする運用を行っているのであろう。ちなみに某動画投稿サイトでいろいろな投稿動画を見ていたところ、宮城県や山梨県にも全方向の信号機の灯火を赤色の点滅にする運用を行っているところがあるようである。
 邑智郡川本町川本/川本郵便局前交差点(交差点名標なし)で右折して県道40号川本・波多線(県道291号別府・川本線重用)に入って50mほど進んだところで邑智郡川本町川本/加藤病院北交差点(信号機・交差点名標なし)という変形四差路に差しかかる。県道40号川本・波多線(県道291号別府・川本線重用)上り方向から見れば左・中・右と三つの道が眼前に示されるわけであるが、石見川本駅へは真ん中の道、すなわち川本町道川本駅通線に入る。なお、左の道は県道40号川本・波多線(県道291号別府・川本線重用)、右の道は諸事情により頓挫した県道40号川本・波多線中町バイパス(注10)である。
 邑智郡川本町川本/加藤病院北交差点(信号機・交差点名標なし)からの川本町道川本駅通線は上下2車線で両側に歩道があるという立派な道である。こちらを県道222号川本停車場線にしたほうがふさわしいのではないかという声も出てきそうだが、経路を変えるだけの大義名分がないことや邑智郡川本町の財政事情が厳しいことから変えないでいるのだろう。
 川本町道川本駅通線を西進すること100m程度で邑智郡川本町川本/石見川本駅前交差点(信号機・交差点名標なし)に到着する。北方から来た県道222号川本停車場線と交差する場所でもある。その邑智郡川本町川本/石見川本駅前交差点(信号機・交差点名標なし)の右斜め前方に石見川本駅はある。

石見川本駅(いわみかわもとえき)

石見川本駅の駅舎

 

石見川本駅の駅名標

 

三江線活性化協議会が設置した看板。石見川本駅の愛称は八幡(はちまん)となっている。

石見川本駅のデータ

項目 記事
所在地 邑智郡川本町川本
駅名の由来 駅がある(自治体としての)町の名前。
駅がある大字の名前。
開業年月日 1934年(昭和9年)11月8日
接続鉄道路線 なし
駅構内にあるもの 駅舎
駅スタンプ
プラットホームの形式 相対式ホーム。
駅舎側(西側)にあるのが1番ホームで、駅舎の反対側(東側)にあり、跨線橋を渡って行くことになるのが2番ホームとなる。
下り列車は全て2番ホームを、上り列車は全て1番ホームをそれぞれ使っている。
起点または終点からの距離
(営業キロ)
起点(江津)から32.6km
終点(三次)から75.5km
前後の駅からの距離
(営業キロ)
(下り線)因原駅から3.7km
(上り線)木路原駅から2.0km
JR三江線の列車の発車・到着時刻
(2017年〔平成29年〕3月4日現在)
(下り列車)
423D…午前7時2分(江津発三次行)
425D…午後2時0分(浜田発浜原行)
429D…午後4時25分(江津発三次行)
431D…午後5時48分(江津発浜原行)
435D…午後8時18分(江津発浜原行)
(上り列車)
420D…午前7時3分(浜原発浜田行)
422D…午前8時23分(三次発浜田行)
424D…午後0時18分(三次発。当駅止まり)
426D…午後1時45分(当駅始発。江津行)
430D…午後5時48分(浜原発江津行)
434D…午後8時18分(浜原発江津行)
付近にある主要施設 川本郵便局
加藤病院
川本町立川本小学校
悠邑(ゆうゆう)ふるさと会館
かわもとおとぎ館
川本町役場
川本警察署
松江家庭裁判所川本出張所・川本簡易裁判所
島根県川本合同庁舎
島根県立島根中央高等学校
川本保育所
川本地方合同庁舎(川本公共職業安定所などが入居している)
付近にある名所・旧跡・自然 江の川
弓ヶ峯八幡宮
金比羅山公園
付近を通る国道路線
または県道路線
県道222号川本停車場線
県道40号川本・波多線(県道291号別府・川本線重用)
※県道40号川本・波多線(県道291号別府・川本線重用)は当駅の100mほど東方を通っている。
備考 ・初代三江線第三期開業区間(石見川越〜石見川本間)の終点。
・「川本駅」は他には存在しないのに令制国名である石見を付けたのは島根県西部にあることを強調したかったことが考えられる。
・三江線の途中駅で唯一駅スタンプが設置されている駅である。
・唯一石見川本駅を終着とする424Dと、唯一石見川本駅を始発とする426Dは実は同じ車両を用いている。但し石見川本駅に停車している間は車両の中に留まることはできない。
・三江線下り方向(江津→三次)では最初の列車交換可能駅であり、反対に上り方向(三次→江津)では最後の列車交換可能駅である。一日4回列車交換がある(423Dと420D、425Dと424D→426D、431Dと430D、435Dと434D)が前記の事情により対向列車を長時間待たせて交換を行うことが多い(423D…0分、420D…4分、425D…17分、424D→426D…1時間27分、431D…6分、430D…1分、435D…1分、434D…36分)。
・三江線の途中駅では数少ない駅前を起終点とする県道路線がある駅である(他には川平駅〔江津市川平町南川上〕しかない)。
・令制国名を付けているが三江線の途中駅では唯一の自治体名を付けた駅である。

 邑智郡川本町は邑智郡の中心地とされてきたところである。そのことは1927年(昭和2年)4月1日に邑智郡で初めて町制を施行したことや国や島根県の出先機関がいくつもあること、郵便番号が3桁または5桁だった頃(1998年〔平成10年〕2月1日以前)邑智郡川本町の大部分(注11)を管轄していた川本郵便局(邑智郡川本町川本)の郵便番号が自治体としての町としては珍しい(注12)3桁(696)だったことでも示されている。
 無論その邑智郡川本町の代表駅である石見川本駅は邑智郡の中心地にある駅としてのふさわしさを感じさせている。どの点にそれを感じたのかを挙げると次の通りになる。
・三江線の途中駅にある駅舎では最も大きいこと。
・他に川本駅はないにもかかわらず令制国名である石見を付けていること。
・駅舎の中にはガラス戸で仕切られた待合室があること。

・かつては自動券売機や売店があったこと。

石見川本駅の切符売り場。その左側のポスターが貼られているところに自動券売機があった。

石見川本駅売店跡地。現在は清涼飲料水の自動販売機が置かれている。

・玄関脇に手書きの駅名看板があること。

・駅前を起終点とする県道路線があること。
・保線基地があることもあり、敷地面積が広いこと。
・跨線橋があること。

石見川本駅の跨線橋。奥に見える青い橋桁は川本大橋。

・広い駅前広場があること(恐らく三江線の途中駅では最大ではないかと思われる)。
・各地(大田市・広島市・邑智郡邑南町)への路線バスが駅前広場に発着すること。
 かつては多くの利用者で賑わっていたのだろうなと思うのだが、過疎化が進展したことや近隣の都市(大田市・江津市・広島市など)へのストロー現象(ストロー効果とも称する)が生じたこと、そしてモータリゼーションが進展したことなどから利用は減り、今では一日11本(下り5本・上り6本)しか列車が来ない駅となってしまった。自動券売機や売店は撤去され、切符売り場も休止時間が長くとられるようになっている(注13)
 改札を抜けてプラットホームに立つ。石見川本駅は江の川のすぐそばにあることが分かる。江の川流域に甚大な被害をもたらした1972年(昭和47年)7月中旬の梅雨末期の集中豪雨では邑智郡川本町の中心部も大きな被害を受けたという。石見川本駅も浸水被害を受けたようであるが、他の駅にあるような水位表示看板は見当たらなかった(私の見落としかもしれないが…)。

2番ホームから撮影した江の川左岸土手

 駅舎を出て三江線の途中駅では随一の広さを有する(東口)駅前広場を見る。その中にある街路灯の土台(正六角形)をよく見るといろいろな記号が刻まれていることに気付く。下の写真から確認できるのは川本町章と音楽記号の♭(フラット)と♯(シャープ)である。川本町章は分かるとしてなぜ街路灯の土台に音楽記号が刻まれているのか。実は邑智郡川本町にある唯一の高校・島根県立川本高等学校(現:島根県立島根中央高等学校〔邑智郡川本町川本〕)の吹奏楽部が全日本吹奏楽コンクールで何度も優勝したことを契機に音楽の町を宣言したことにちなむのだという。

 

 なお、邑智郡川本町の中心部の東方の丘には悠邑ふるさと会館(邑智郡川本町川本)なる大ホールや図書館、会議室を備えた大型文化施設が建設されており、音楽の町として振興を図ろうという邑智郡川本町の思いを感じ取ることができる。

邑智郡川本町中心部(川本町道川本駅通線)から撮影した悠邑ふるさと会館

 さて、私が石見川本駅を訪れたのは2017年(平成29年)11月下旬の日曜日のことであった。三江線の廃止まで残り4ヶ月少々という時期であった。2016年(平成28年)9月に西日本旅客鉄道(JR西日本。大阪市北区芝田二丁目)が廃止を表明してから三江線の列車に乗りに来る人は増え、第1章の「三次駅(みよしえき)」でも触れた通り廃線ブームが起きているのだが、石見川本駅での状況はどうなのか。残念ながら列車が来る前の時間帯に訪れたので廃線ブームがどのような状況だったのか見ることはできなかったのだが、その一端を垣間見ることができたので紹介したい。
 石見川本駅の駅舎の中には下の写真のようなパネルがあった。三江線最終運行日までの残り日数を書いた看板を掛けている三江線活性化協議会が設定した女性キャラクター「石見みえ」のパネルである。「石見みえ」は第5章の「浜原駅(はまはらえき)」で公開した写真にも登場しているのだが、こういうキャラクターを設定した背景には昨今の萌えブームにあやかろうとしたことがあったのだろう。下の写真をよく見ると駅舎の外には「さあ、三江線に乗ろう。」と書かれた幟もあり、それらのものからは何としてでも利用を増やして地域を活性化させようという思いが感じられる。

 その「石見みえ」のパネルに掛けられている、三江線最終運行日までの残り日数を書いた看板に記されていた日数は125日。本当に残り少なくなってしまったなという思いを抱く。最終運行日となる今年3月31日まで、石見川本駅を訪れた方の多くがこのパネル・看板を目にすることであろうが、恐らく同じ感情を抱くのではないのだろうか。
 石見川本駅の駅舎を出て、辺りを見回すと石見川本駅の斜め左前方のビルの1階におもてなしサロンという無料休憩所が設置されているのが見えた。石見川本駅の駅舎からは(東口)駅前広場と県道222号川本停車場線を横切っていくことになる。営業時間は午後0時〜午後2時であり、三次発石見川本行上り列車(424D)の石見川本駅到着(午後0時18分)と石見川本発江津行き上り列車(426D)の石見川本駅発車(午後1時45分)に合わせて営業していることがうかがえる。

 

三江線おもてなしサロンの遠景(左)と近景(右)

 ちなみに上の写真からもうかがえるのだが三江線おもてなしサロンの入口の脇には石見川本駅の駅舎の中で見たのと同じ、三江線最終運行日までの日数を書いた看板を掛けた「石見みえ」のパネルが設置されていた(下の写真)。

 更に石見川本駅の(東口)駅前広場ではたこ焼きの移動販売車が停まっているのも見かけた(下の写真)。三次発石見川本行上り列車(424D)で石見川本駅に降り立った方々を相手に商売をするために来たのであろう。

 こういう光景も間もなく見納めになると思うと寂しいものがあるのだが、三江線廃止後憂慮されるのは邑智郡川本町の今後であろう。邑智郡川本町は邑智郡の中心地として位置付けられてはいるのだが、次に挙げる弱点があり、中枢性を発揮できていない状況がある。
・中心部が江の川と山に囲まれた狭い場所にあること。
・中心部の平地が少ないこと。
・中心部と邑智郡各地を結ぶ道路の整備が十分とは言えず、交通の要衝としての機能が弱いこと。
・交通の要衝としての機能が弱いため、商業集積も十分であるとは言えないこと。
・道路整備が進展した結果、近隣の都市、すなわち大田市・江津市・広島市・三次市へのストロー現象(ストロー効果とも称する)が生じたこと。
・第二次世界大戦後町制施行する自治体が各地にでき、優位性が薄れたこと。
・第二次世界大戦後特に邑智郡邑智町(1955〜2004)→邑智郡美郷町が交通の要衝としての地位を高めたこと。
 邑智郡川本町がいわゆる平成の大合併を経験しなかったのは前記の弱点があったことも大きいのではないか(注14)と私は考えるのだが、これで三江線が廃止され、邑智郡各地と松江市を結ぶ幹線道路として位置付けられる県道40号川本・波多線の川本バイパスが開通して邑智郡川本町中心部を通る自動車がその周縁の山裾を通るようになったらどうなるのだろうか。今邑智郡川本町は正念場に立たされていると言えるのだが、どのようにこの難局を乗り越えていくのか、今後に注目したい。

石見川本駅から因原駅へ

 石見川本駅の(東口)駅前広場を出て右折し、南に向かう。道は邑智郡川本町川本/石見川本駅前交差点(信号機・交差点名標なし)で県道222号川本停車場線から川本町道川本停車場・谷線に変わる。その境目で舗装の色が変わるのが興味深い。邑智郡川本町川本/石見川本駅前交差点(信号機・交差点名標なし)に東方から入ってくる川本町道川本駅通線も舗装の色が違うので邑智郡川本町川本/石見川本駅前交差点(信号機・交差点名標なし)では三つの異なる舗装の色が見られることになるわけであるが、どういう意図があってそのようにしたのだろうか。

石見川本駅の(東口)駅前広場にある街路灯の土台の後ろに見える邑智郡川本町川本/石見川本駅前交差点(信号機・交差点名標なし)
写真中央右側を見ると舗装の色が変わっているがそこが県道222号川本停車場線と川本町道川本停車場・谷線の境目となる

 川本町道川本停車場・谷線は入るとすぐに200m先から大型車の通行が禁止されている旨の予告標識が進行方向右側に掲げられており、狭い道であることがうかがえる。川本大橋の下をくぐり、しばらく進むと大型車通行禁止規制区間に入るわけであるが、その少し先には三江線と交差する天神町踏切(邑智郡川本町川本)がある。狭い上に前後に急な屈曲が入るので大型車通行禁止規制をかけたのであろう。
 天神町踏切を過ぎると川本町道川本停車場・谷線は緩やかな上り坂になり、江の川左岸を通るようになる。但し草木に阻まれ、江の川の水面はあまり見えない。江の川左岸との並走は百数十mで終わり、江の川左岸と離れていくとその先には谷踏切(邑智郡川本町川本)があり、また三江線と交差する。谷踏切を過ぎてしばらく進むと県道31号仁摩・邑南線(県道291号別府・川本線重用)と合流する邑智郡川本町川本/下谷交差点(信号機・交差点名標なし)に差しかかる。そこで右折して県道31号仁摩・邑南線(県道291号別府・川本線重用)に入る。道幅は上下2車線幅(注1)であり、そんなに広くはない。
 邑智郡川本町川本/下谷交差点(信号機・交差点名標なし)から百数十m南下すると県道31号仁摩・邑南線と県道291号別府・川本線が分岐する邑智郡川本町川本/石見谷バス停前交差点(信号機・交差点名標なし)に差しかかる。ところが、県道31号仁摩・邑南線(県道291号別府・川本線重用)を仁摩・大田・粕渕方面から進んできた場合この邑智郡川本町川本/石見谷バス停前交差点(信号機・交差点名標なし)には案内標識がなく、分岐を見逃す恐れがあるのである。「Googleマップ」で閲覧できる「Googleストリートビュー」によると2014年(平成26年)9月にはきちんと案内標識があったことが分かるのだが、案内標識を取り付けている柱が腐食したことから撤去されたようである。島根県としては邑智郡川本町中心部から県道31号仁摩・邑南線と県道291号別府・川本線を通って国道261号線に出ようと思う人はほとんどいないのではないかと考えて新しい案内標識や路線方向表示を設置しないままにしているのかもしれないのだが、邑智郡川本町川本/下谷交差点(信号機・交差点名標なし)から県道31号仁摩・邑南線(県道291号別府・川本線重用)を南下してすぐの横断歩道のある丁字路が県道31号仁摩・邑南線と県道291号別府・川本線が分岐する邑智郡川本町川本/石見谷バス停前交差点(信号機・交差点名標なし)であるとあらかじめ認識しておかなければならない現状はどうなのだろうか。
 邑智郡川本町川本/石見谷バス停前交差点(信号機・交差点名標なし)からの県道291号別府・川本線は最初は上下2車線幅(注1)なのだが、江の川の支流の矢谷川に架かる谷川橋(全長:31.0m)に差しかかる辺りから道幅は狭まる。谷川橋を渡った先で広島方面への案内標識が出ており、邑智郡川本町中心部と広島市を往来するのに通る車が少なくないことをうかがわせているのだが、三江線が右側に沿うようになった辺りでは大型車同士のすれ違いに難渋するところもあり、島根県がこの道の通行を推奨しない理由も何となく分かる気がする。

谷川橋と県道291号別府・川本線の県道標識

 桧山踏切(邑智郡川本町川本)で三江線と交差して三江線と江の川の間を通るようになっても状況は変わらず、やっと上下2車線幅(注1)に戻るのは進行方向左側に川本街道踏切(邑智郡川本町川本)がある辺りとなる。その後多少狭くなるところはあるが上下2車線幅(注1)で因原の集落に入る。

邑智郡川本町因原を通る県道291号別府・川本線(北方を向いて撮影)

 邑智郡川本町因原/中因原踏切東交差点(信号機・交差点名標なし)で県道291号別府・川本線は右折して去っていき、代わって進むことになるのは県道295号日貫(ひぬい)・川本線となる。県道295号日貫・川本線も上下2車線幅(注1)邑智郡川本町因原/中因原踏切東交差点(信号機・交差点名標なし)以北の県道291号別府・川本線と同じ道幅である。県道295号日貫・川本線に入って間もなくすぐ右側を並走していた三江線と別れ、因原の町中に入っていく。
 邑智郡川本町因原/中因原踏切東交差点(信号機・交差点名標なし)から170mほど南下すると県道295号日貫・川本線に入って初めての横断歩道のある丁字路、すなわち邑智郡川本町因原/因原駅入口交差点(信号機・交差点名標なし)に差しかかる。そこで右折し、まっすぐ進むと40mほどで因原駅(邑智郡川本町因原)の(東口)駅前広場に到着する。

因原駅(いんばらえき)

因原駅の駅舎

因原駅の駅名標

三江線活性化協議会が設置した看板。因原駅の愛称は剣舞となっている。

因原駅のデータ

項目 記事
所在地 邑智郡川本町因原
駅名の由来 駅がある大字の名前。
開業年月日 1934年(昭和9年)11月8日
接続鉄道路線 なし
駅構内にあるもの 駅舎
プラットホームの形式 単式ホームで西側を利用している。
昔は相対式ホームだったが、列車本数減少に伴う交換施設廃止により西側の線路は撤去された。更に跨線橋(三次方に設置されていた)も撤去されている。
起点または終点からの距離
(営業キロ)
起点(江津)から28.9km
終点(三次)から79.2km
前後の駅からの距離
(営業キロ)
(下り線)鹿賀駅から3.1km
(上り線)石見川本駅から3.7km
JR三江線の列車の発車・到着時刻
(2017年〔平成29年〕3月4日現在)
(下り列車)
423D…午前6時56分(江津発三次行)
425D…午後1時37分(浜田発浜原行)
429D…午後4時18分(江津発三次行)
431D…午後5時36分(江津発浜原行)
435D…午後8時11分(江津発浜原行)
(上り列車)
420D…午前7時10分(浜原発浜田行)
422D…午前8時29分(三次発浜田行)
426D…午後1時51分(石見川本発江津行)
430D…午後5時55分(浜原発江津行)
434D…午後8時25分(浜原発江津行)
付近にある主要施設 道の駅インフォメーションセンターかわもと
川本因原郵便局
浜田河川国道事務所川本出張所
因原保育所
江川荘
みどりの里やすらぎ荘
川本町学習交流センター
川本西公民館
邑智郡森林組合本所
江川漁業協同組合
付近にある名所・旧跡・自然 江の川
濁川
因原児童公園
付近を通る国道路線
または県道路線
県道295号日貫・川本線
※県道295号日貫・川本線は当駅の40mほど東方を通っている。
県道291号別府・川本線
国道261号線
※県道291号別府・川本線と国道261号線はともに当駅の裏手を通っている。
備考 ・乙原(おんばら)駅(邑智郡美郷町乙原)とともに自治体の代表駅ではないにもかかわらず初代三江線開業当時からある駅である。
・現在は駅舎内に運輸会社の営業所が入居している。
・三江線では唯一道の駅の近くにある駅である。

 因原駅のある邑智郡川本町因原は島根県の本土部分で市制町村制が施行された1889年(明治22年)4月1日(注15)から現在に至るまで属する自治体の中心にはなれなかったところである。市制町村制施行後属してきた自治体は邑智郡川本村(1889〜1927)→邑智郡川本町(1927〜)となるのだが、いずれも中心は川本にあったのである。
 邑智郡川本村が町制施行して邑智郡川本町が発足した頃敷設が始まったのがいわゆる初代三江線であった。1930年代に石見江津駅(現:江津駅〔江津市江津町〕)から順次江の川上流に延びていったのだが、開業と同時に設置された駅のほとんどは自治体の中心地に置かれたものであり、自治体の中心地ではないところに置かれたのは乙原駅(邑智郡美郷町乙原)とこの因原駅だけであった(下表参照)。

※データは初代三江線が全線開通した1937年(昭和12年)10月20日現在のものを記している。

※自治体の代表駅については駅名の前に◎を付けている。

自治体名 駅名 読み方 所在地 起点からの
距離
(単位:km)
開業年月日 列車交換
施設の有無
備考
那賀郡江津町 ◎石見江津 いわみごうつ 那賀郡江津町郷田 0.0 1920年
(大正9年)
12月25日
初代三江線の始発駅。
開業年月日は接続する山陰本線のものを書いている。
那賀郡川平村 ◎川平 かわひら 那賀郡川平村南川上 7.0 1930年
(昭和5年)
4月20日
邑智郡川戸村 ◎川戸 かわど 邑智郡川戸村川戸 13.9 1930年
(昭和5年)
4月20日
邑智郡川越村 ◎石見川越 いわみかわごえ 邑智郡川越村渡村 22.3 1931年
(昭和6年)
5月20日
邑智郡川本町 因原 いんばら 邑智郡川本町因原 28.9 1934年
(昭和9年)
11月8日
◎石見川本 いわみかわもと 邑智郡川本町川本 32.6 1934年
(昭和9年)
11月8日
邑智郡吾郷村 乙原 おんばら 邑智郡吾郷村乙原 39.8 1935年
(昭和10年)
12月2日
×
◎石見簗瀬 いわみやなぜ 邑智郡吾郷村簗瀬 42.7 1935年
(昭和10年)
12月2日
邑智郡粕淵村 ◎粕淵 かすぶち 邑智郡粕淵村粕淵 48.1 1937年
(昭和12年)
10月20日
邑智郡浜原村 ◎浜原 はまはら 邑智郡浜原村浜原 50.1 1937年
(昭和12年)
10月20日
初代三江線の最終的な終着駅。

 ではなぜ因原駅と乙原駅は自治体の代表駅ではなかったのに設置されたのか。因原駅と乙原駅を設置しなかった場合、石見川越〜石見川本間は10.3km、石見川本〜石見簗瀬間は10.1kmとなり、駅間距離がかなり開いてしまうことやある程度の人口があり、利用が見込めるという観測があったこと、そして駅の設置を求める声が高まったことが考えられる。そのことは第6章の「乙原駅(おんばらえき)」でも書いたのだが、因原駅については他に考えられる理由がある。それは広域的な利用を見込んだということである。
 因原駅の(東口)駅前広場から東に延びる道を進むと邑智郡川本町因原/因原駅入口交差点(信号機・交差点名標なし)に突き当たるが、そこで右折すると邑智郡邑南町石見・瑞穂地区へ、左折すると邑智郡川本町川下・三原地区へそれぞれ至る。もし因原駅がなかったとしたらこれらの地区に住んでいる方々やこれらの地区に用のある方々は石見川本駅か石見川越駅(江津市桜江町川越)を利用しなければならないことになり、不便である。更に邑智郡川本町因原はある程度まとまった平地があり、交通の要衝として発展し得る余地があった。そこで邑智郡川本町因原への駅の設置を要望し、実現させたのではないのだろうか。
 それから80年以上の歳月が流れたわけであるが、幹線道路同士の交差点は江の川の対岸の邑智郡川本町川下/川下橋西詰交差点(交差点名標なし)に移ったけれど邑智郡川本町因原が交通の要衝であることを示すものが因原駅の西方に存在する。それは道の駅インフォメーションセンターかわもと(邑智郡川本町因原)である。開業したのは2007年(平成19年)10月13日のことであり、広島方面と江津・大田・粕渕方面を往来する方々の休憩の場として利用されている。

道の駅インフォメーションセンターかわもとの看板(写真は国道261号線下り方向〔広島→江津〕用のもの)

道の駅インフォメーションセンターかわもとの建物

 鉄道の駅のそばに道の駅があるというのはなかなか珍しい話(注16)なのだが、そこでこういうことを考える人がいるかもしれない。
「だったら道の駅インフォメーションセンターかわもとと因原駅を合体させたら良かったのではないか」
 しかし、それは残念ながら実現しなかった。恐らく次に挙げる事情があったからではないかと思われる。
・因原駅の駅舎の出入口は開業当時から東を向いており、向きを変えることに反対する人がいたこと。
・因原駅はかつては相対式ホームであったが、道の駅インフォメーションセンターかわもとが開業した時点では駅舎側(東側)の線路(相対式ホーム時代の上り線)しか使われなくなっており、西側の線路(相対式ホーム時代の下り線)は既に撤去されていたこと。

線路が撤去された因原駅下り線用プラットホーム。その向こうに道の駅インフォメーションセンターかわもとの建物が見える。

・もし因原駅と道の駅インフォメーションセンターかわもとを合体させた駅舎を作ることになった場合は橋上駅舎になる可能性が高かったが、費用対効果が見込めないこと。
・昔ながらの木造駅舎を解体することに反対する声が多かったこと。
 道の駅インフォメーションセンターかわもとが開業した2007年(平成19年)時点ではまだ三江線の廃止問題は浮上していなかったのだが、もし実現していればどういう展開があったのだろうか。過去の問題に「もしも…」を付けて論じることは好ましからざることではあるが気になる。
 さて、因原駅は開業当時からの木造駅舎が残る駅である。無人化されて久しいのだが、現在三江線運輸なる運送会社が駅務室に入居して営業所として使用している。この三江線運輸なる会社をインターネット検索で調べたところ、昔は鉄道貨物の積み込み・取り卸しを営んでいたが、鉄道貨物の縮小により貨物自動車運送業者に転換したとあった。鉄道は人だけでなく荷物を運ぶために各地に敷設されたものであるが、ここにもモータリゼーションの影響が及んでいたことがうかがえる。

南東方向から撮影した因原駅の駅舎。よく見ると「ゆうパック」と書かれた幟や看板が見える。

 この因原駅も1972年(昭和47年)7月中旬の梅雨末期の集中豪雨では浸水被害を受けている。その時の浸水水位を示した看板が駅舎の壁に貼られている(下の写真)。第6章で取り上げた明塚駅(邑智郡美郷町明塚)や石見簗瀬駅(邑智郡美郷町簗瀬)よりは浸水水位は低いが、それでも甚大な災害だったことに変わりはない。

 

 駅舎の中には(貼られてからかなりの年月が経ち、色褪せてはいるのだが)三江線に関する写真が配線図とともに多数展示されていた他、小荷物取扱所の跡と思しきものがあった(下の写真)。交通の要衝にある駅だったことを感じさせた。

 駅舎を出てプラットホームに立つ。列車交換施設が撤去され、今はかつての上り線用プラットホームしか使われていないことは前に記した通りだが、使われなくなった下り線用プラットホームに駅名標や三江線活性化協議会が設置した看板(神楽〔かぐら〕の題目を記し、なおかつそれを演じている時の様子の写真が掲載されたもの。三江線の全ての駅について制定され、因原駅のそれは「剣舞」となっている)が設置されていた。三江線の列車から見て頂こうという考えで設置したのであろうが、困ったことに三江線活性化協議会が設置した看板はその下り線用プラットホームにしか設置されていなかったのである。なぜ最後まで使用され続けることになった上り線用プラットホームにも設置しなかったのか。今更こういうことを書いてもどうにもなる問題ではないのだが、この点が残念に感じたところであった。

下り線用ホームに設置されている駅名標と三江線活性化協議会が設置した看板の遠景

因原駅から鹿賀駅へ

 因原駅の(東口)駅前広場を出て駅前通りを東進し、突き当たりの邑智郡川本町因原/因原駅入口交差点(信号機・交差点名標なし)で右折して県道295号日貫・川本線に入る。因原の集落を通る県道295号日貫・川本線は上下2車線幅(注1)で、普通自動車同士のすれ違いなら難渋しない幅である。実はこの道は1970年代後半から1980年代初頭にかけて国道261号線だった道である。その前は県道1号(注17)八重・温泉津線(主要地方道。1955〜1966(注18))→県道32号温泉津・川本線だった道でもあり、いずれにせよ国道261号線因原バイパス開通に伴う旧道処分で県道295号日貫・川本線に再編されるまでは主要幹線道路の座にあったことがうかがえる。
 国道261号線因原バイパスを因原跨道橋(全長:17.8m)で越え、しばらく進むと進行方向左側に下の写真のような案内標識が見えてくる。

 その先にある丁字路、すなわち邑智郡川本町因原/八面橋南詰交差点(信号機・交差点名標なし)に関する案内標識であるが、実は直進後の道(川本町道下因原線)と右折後の道(県道295号日貫・川本線)は1962年(昭和37年)5月1日政令第184号に基づいて1963年(昭和38年)4月1日に発足した二級国道261号広島・江津線(1963〜1965)の発足当初の経路であった。広島方面から一路北上してきた二級国道261号広島・江津線はこの邑智郡川本町因原/八面橋南詰交差点(信号機・交差点名標なし)で西に向きを変え、江の川に沿って江津市に向かっていたわけである。二級国道261号広島・江津線改め国道261号線が進行方向を変える地点はその後川下・桜江バイパスの開通(1977年〔昭和52年〕4月16日)を契機に邑智郡川本町川下/川下橋西詰交差点(交差点名標なし)に移動するわけであるが、いずれにせよこの邑智郡川本町因原/八面橋南詰交差点(信号機・交差点名標なし)は広島方面と江津方面、そして温泉津・大田・粕渕方面からの道路が交わる場所であり、広島市から江津市や大田市、三瓶山(標高:1,125.8m)に行く場合の重要な地点となったのである。
 邑智郡川本町因原/八面橋南詰交差点(信号機・交差点名標なし)で右折し、進行方向を南から西に変えた県道295号日貫・川本線はすぐに八面橋(全長:91.3m)で江の川支流の濁川を渡る。進行方向右側には三江線の井原川橋梁が見えるのだが、井原川橋梁の三次方に二つ「おや?」と思うものがあった。

三江線井原川橋梁

二つの「おや?」と思うものの拡大写真

 線路で断ち切られた濁川右岸土手とまだ真新しい橋脚。その正体は一体何なのか。その真実は一体何なのか。実はこの二つの物件はいずれも三江線と水害との闘いの歴史の証なのである。
 まず、濁川右岸土手が三江線で断ち切られて大丈夫なのかと思った方がいるかもしれないのだが、実は土手が断ち切られている部分には大雨の時因原の集落に濁川の水が入ってこないようにするための陸閘門(りくこうもん)が設置されているのである。この陸閘門は江津〜石見川本間に8箇所設置されており、梅雨に入る前の時期にはいざという時使えるように開閉訓練が行われている(恐らく昨年の訓練が最後になるものと思われる)。三江線が廃止された後は門は全て閉じることになっており、早ければ今年4月1日から門は閉じられることになる。
 次に井原川橋梁の最も三次寄りにある橋脚が新しい件であるが、実はこの井原川橋梁は2013年(平成25年)8月24日に集中豪雨により甚大な被害を受けたのである。その際最も三次寄りにある橋脚が流されてしまったので新しい橋脚を作ったものである。この集中豪雨により不通になった三江線は2014年(平成26年)7月19日に全線で運転を再開するのだが、それから4年足らずで全線廃止に追い込まれることになるとは当時誰も思わなかったことであろう。
 八面橋を渡った県道295号日貫・川本線は因原児童公園(邑智郡川本町因原)の入口を左に見ながら進む。やがて武藤踏切(邑智郡川本町因原)で三江線と交差し、三江線と江の川の間を進むようになる。武藤踏切の手前まで上下2車線幅(注1)だった道幅は1〜1.5車線幅になる。この道が半世紀前は国道261号線だったのだが、当時は普通自動車同士のすれ違いにも難渋することがしばしばあったのだろう(下の写真)。

 武藤踏切から1kmほど進んだところで江の川支流の志谷川に架かる志谷橋(全長:8.1m)という小さな橋を渡る。その先に「江津市 Gotsu City」と書かれた境界標識があった。遂にこの旅は最後の町・江津市に入ったのである。

 

志谷橋(左)と境界標識の拡大写真(右)

 この旅の終点となる江津駅まではまだ30km近くあるのだが、なぜこんなところから江津市に入ることになったのか。それは2004年(平成16年)10月1日に江津市が東隣の邑智郡桜江町(1956〜2004)を編入したからであった。その邑智郡桜江町と邑智郡川本町の境があったのがこの志谷川であり、必然的に志谷川は邑智郡川本町と江津市の境になったのである。「これから通る地域は江津市よりも邑智郡川本町に出たほうが近いし、日常の買い物は国道261号線因原バイパスの沿線にある店舗で行うことが多いだろうに中央(桜江町議会)が決めた選択、すなわち江津市に編入されることをどのように感じているのだろうか」と思うと江津市に入ったことは素直に喜べない。邑智郡桜江町としては中心部からの距離が近いのは江津市であることや江津市は島根県にある市で最も人口が少なく、人口が3万人を下回るようになって久しい(注19)がある程度の商業・産業の集積があること、そして過疎化や少子・高齢化が止まらない現状では独立を保ち続けるのは難しいことが江津市に編入されることを選んだ理由に挙げるのだろうが、何でもかんでも中央の論理で決めることは最善なのだろうかと考えたくなってくる。無論こういう話は邑智郡桜江町に限ったことではない。
 江津市に入った県道295号日貫・川本線は引き続き山と江の川の間を進む。道幅は上下2車線幅(注1)である。ゆったりと流れる江の川が眺められるところも少なくない一方で左側には山があり、落石や土砂崩れの危険性もあり気が抜けない。ちなみにこの辺りの三江線は沓尾滝トンネルで難所を回避しているが、そのトンネルの名称の由来になった「沓尾滝」はどこにあるのかは分からない。
 やがて沓尾滝トンネルを抜けてきた三江線と並行するようになると江の川が右にそれ、辺りが開けてくる。道幅は広狭混在であり、一定しない。鹿賀踏切(江津市桜江町鹿賀)で三江線と交差して三江線の南側に出ると道幅は上下2車線幅(注1)になり、安定してくる。その状態でしばらく進むと横断歩道があるのだが、そこから右に延びる道(自動車では入らないほうが無難)が見える。その先に鹿賀駅はある。

鹿賀駅(しかがえき)

鹿賀駅の待合所

鹿賀駅の駅名標

鹿賀駅の名所案内板

三江線活性化協議会が設置した看板。鹿賀駅の愛称は道返(ちがえ)しとなっている。

鹿賀駅のデータ

項目 記事
所在地 江津市桜江町鹿賀
駅名の由来 駅がある大字の名前。
開業年月日 1949年(昭和24年)11月15日
接続鉄道路線 なし
駅構内にあるもの なし(プラットホームに待合所があるだけ)
プラットホームの形式 単式ホームで北側を利用している。
起点または終点からの距離
(営業キロ)
起点(江津)から25.8km
終点(三次)から82.3km
前後の駅からの距離
(営業キロ)
(下り線)石見川越駅から3.5km
(上り線)因原駅から3.1km
JR三江線の列車の発車・到着時刻
(2017年〔平成29年〕3月4日現在)
(下り列車)
423D…午前6時49分(江津発三次行)
425D…午後1時30分(浜田発浜原行)
429D…午後4時11分(江津発三次行)
431D…午後5時29分(江津発浜原行)
435D…午後8時4分(江津発浜原行)
(上り列車)
420D…午前7時17分(浜原発浜田行)
422D…午前8時36分(三次発浜田行)
426D…午後1時58分(石見川本発江津行)
430D…午後6時1分(浜原発江津行)
434D…午後8時32分(浜原発江津行)
付近にある主要施設 なし
付近にある名所・旧跡・自然 江の川
コインレストラン川本(国道261号線沿いにある自動販売機が多く設置されているドライヴイン)
付近を通る国道路線
または県道路線
県道295号日貫・川本線
国道261号線
※国道261号線は当駅の300mほど北方を通っている。かつては鹿賀駅の少し南側を通っていたが川下・桜江バイパス開通に伴う旧道処分で県道295号日貫・川本線に再編された。
備考 ・田津駅(江津市桜江町田津)とともに初代三江線では初めて追加設置された駅である。

 鹿賀駅は二つ江津寄りにある田津駅(江津市桜江町田津)とともに1949年(昭和24年)11月15日に設置された駅である。1930年代に建設された初代三江線では初めての追加設置駅でもある。
 田津駅と鹿賀駅が設置された1949年(昭和24年)は第二次世界大戦終結からまだ4年しか経っていない時期であり、まだ新たな体制が固まり切っていなかった時期でもあった。そういう時期に駅が設置された背景には地域住民が根強い駅設置運動を繰り広げたことが考えられる。そのことは待合所の中に掲げられている「鹿賀駅沿革」という看板からもうかがえる(下の写真。写真がぼけている点と〔理由は分からないのだが〕看板に汚れがある点はご了承願いたい)。

鹿賀駅の待合所に掲げられている「鹿賀駅沿革」という看板。
「邑智郡桜江町」「石見江津駅」という単語(注20)が時代を感じさせる。

 ちなみに田津駅と鹿賀駅はどちらも当時邑智郡川越村(1889〜1954)に属しており、邑智郡川越村が先頭に立って両地区への駅設置運動を進めたことも考えられるところである。もしかしたら邑智郡川越村の対岸にあった邑智郡川下村(1889〜1955)の西部地区(川下・坂本(注21))の住民も駅設置運動に参加していたのかもしれない。
 さて、のどかな田園地帯の真ん中にある鹿賀駅であるが、この駅も1972年(昭和47年)7月中旬の梅雨末期の集中豪雨では浸水被害を受けている。その時の浸水水位を示した看板が待合所の壁に貼られている(下の写真)。

 

鹿賀駅の待合所(左)とその壁に貼ってある浸水水位を示した看板(右)。
右の写真から浸水水位を示した看板は建設省(現:国土交通省)が設置したことがうかがえる。

 実は鹿賀駅のある場所は周囲より少し高いところである(下の写真参照)。それでも待合所は屋根を残して水没したのである。その被害のひどさがうかがえる。

鹿賀駅のプラットホームから見た江の川左岸土手。鹿賀駅がいくらか高いところにあることがうかがえる。
なお、江の川左岸土手の上に見える白いものは江の川右岸を通る国道261号線のガードレールである。

 地域の熱い思いと未曽有の災害の爪痕を今に伝える鹿賀駅も間もなく68年あまりの歴史に終止符を打つ。それらのことを知る住民も少なくなり、いずれは忘れ去られてしまうのだろうか。時間の流れを考えれば致し方ないが寂しいものがある。

 いよいよ最後の町・江津市に入ったこの旅であるが、次の章では興味をひかれるものが次々と出てくることになる。どんなものが出てくるのかは次の章をご覧頂きたい。

第8章に続く

注釈コーナー

注1:普通自動車同士のすれ違いには難渋しないくらいの幅があるが中央線がない状態を指す。

注2:銅が丸銅山の採掘現場跡地へは邑智郡川本町川本/堀川橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)で左折し、川本町道田水線を通って行くことになる(つまり邑智郡川本町を通らないと行けないということになる)。但し無断で跡地に立ち入ることは禁じられていることや危険なところがあることなどから本サイトでは具体的な場所は一切指し示さないことにした。そのことはご了承願いたい。

注3:中国地方で平成の大合併が始まる前の時点で「町」を「まち」と読んでいた自治体としての町は島根県と広島県に存在した。それは下表の通りである。

県名 町名 読み方 存続期間 備考
島根県 飯石郡掛合町 いいしぐんかけやまち 1951〜2004 現在は雲南市掛合町(かけやちょう)になっている。
邑智郡川本町 おおちぐんかわもとまち 1927〜
大原郡加茂町 おおはらぐんかもまち 1934〜2004 現在は雲南市加茂町(かもちょう)になっている。
自治体としての加茂町は中国地方には他に岡山県と広島県に存在した(岡山県のそれは2005年〔平成17年〕2月28日に津山市に、広島県のそれは1975年〔昭和50年〕2月1日に福山市にそれぞれ編入されたためどちらも現存しない)がどちらも読み方は「かもちょう」だった。
邇摩郡温泉津町 にまぐんゆのつまち 1903〜2005 現在は大田市温泉津町(ゆのつちょう)になっている。
能義郡広瀬町 のぎぐんひろせまち 1889〜2004 現在は安来市広瀬町(ひろせちょう)になっている。
簸川郡大社町 ひかわぐんたいしゃまち 1925〜2005 現在は出雲市大社町(たいしゃちょう)になっている。
なぜか日本放送協会(NHK)のアナウンサーは簸川郡大社町在りし頃いつも「ひかわぐんたいしゃちょう」と読んでいた。
広島県 豊田郡豊町 とよたぐんゆたかまち 1956〜2005 現在は呉市豊町(ゆたかまち)になっている。
中国地方にあった「町」を「まち」と読んでいた自治体としての町で唯一消滅後も読み方を変えていない。

なお、岡山県に存在した都窪郡茶屋町(1896〜1972。現:倉敷市茶屋町)は代表駅の駅名の読み方から「町」を「まち」と読んでいた自治体だったと思われることがあるが、実際は「つくぼぐんちゃやちょう」と読んでおり、「町」を「まち」と読んでいた自治体ではなかった(1972年〔昭和47年〕5月1日に倉敷市に編入された後は駅名の読み方に合わせて「ちゃやまち」と読むようになっている)。
※都窪郡茶屋町の所属郡は発足当時は都宇郡だったが、1900年(明治33年)4月1日に窪屋郡と都宇郡が統合して都窪郡が発足したことにより都窪郡に変わっている。

注4:但し2010年(平成22年)4月に当時の西日本旅客鉄道(JR西日本。大阪市北区芝田二丁目)の社長が利用の少ない路線の廃止を検討していることを明らかにしたことから近い将来三江線が標的にされるのではないかと思った人は少なくないと思われる。

注5:三次駅は1930年(昭和5年)1月1日に備後十日市駅として開業している。現在の名称になったのは1954年(昭和29年)12月10日のことである。

注6:「祖式」という地名は大田市のものという印象が強いが、実は1956年(昭和31年)9月29日までは大田市祖式町と邑智郡川本町川内・小谷・馬野原は同じ自治体、すなわち邑智郡祖式村(1889〜1956)であった。そのことからここでは邑智郡川本町川内・小谷・馬野原を邑智郡川本町祖式地区としている。

注7:2011〜2015年度(平成23〜27年度)について見ると木路原駅の一日の平均乗車人数は2011年度(平成23年度)は0人、2012年度(平成24年度)は2人、2013年度(平成25年度)と2014年度(平成26年度)、2015年度(平成27年度)はそれぞれ1人となっている。

注8:実は駅名とその駅の駅前広場を起終点とする都道府県道路線の名称が合致しない例は多数存在する。中国地方における事例(県道路線・駅とも現存するもののみ)は下表の通りである。

県名 路線名称 起終点となる駅の名称
及び所在地
備考
島根県 県道211号三隅停車場線 JR山陰本線三保三隅駅
(浜田市三隅町西河内)
1958年(昭和33年)6月13日島根県告示第525号により認定された時の路線名称は三保三隅停車場線だったが、なぜか1960年代後半以降島根県が発行する資料では「三隅停車場線」と記されることが多くなり、2006年(平成18年)3月22日島根県告示第274号により正式に三隅停車場線に改称された。
なお、「三保」とは現在の浜田市三隅町西河内・古市場・湊浦に相当する地域にかつて存在した自治体としての村の名前である。
県道222号川本停車場線 JR三江線石見川本駅
(邑智郡川本町川本)
県道228号平田停車場線 一畑電車北松江線雲州平田駅
(出雲市平田町)
駅名は雲州平田駅(1914〜1970)→平田市駅(1970〜2005)→雲州平田駅(2005〜)と変遷しているが路線名称は1958年(昭和33年)6月13日島根県告示第525号により認定された時からずっと平田停車場線のままである。
県道309号東仙道・津田停車場線 JR山陰本線石見津田駅
(益田市津田町)
岡山県 県道196号高梁停車場線 JR伯備線備中高梁駅
(高梁市旭町)
広島県 県道230号山内停車場線 JR芸備線山ノ内駅
(庄原市山内町)
「山内町」は「やまのうちちょう」と読む。
県道231号庄原停車場線 JR芸備線備後庄原駅
(庄原市中本町二丁目)
山口県 県道206号湯田停車場線 JR山口線湯田温泉駅
(山口市今井町)
1958年(昭和33年)10月1日山口県告示第644号の2で路線認定された当時の駅名は湯田駅であり、路線名称と合致していたのだが、1961年(昭和36年)3月20日に湯田温泉駅に改称してからは合致しなくなっている。なぜ改称されないままになっているのか、はっきりしたことは分からない。

県道196号高梁停車場線の路線方向表示(撮影場所:高梁市鉄砲町)

県道230号山内停車場線の県道標識(撮影場所:庄原市山内町)

県道231号庄原停車場線の県道標識(撮影場所:庄原市中本町一丁目)

注9:その時は浜田市中心部に用事があって出かけていたのだが、邑智郡川本町中心部で「ええなぁまつりかわもと」が開催されているというのでその帰りに邑智郡川本町に立ち寄って見物したものである。

邑智郡川本町中心部のある電器店に貼られていたその時の「ええなぁまつりかわもと」のポスター。
この時は安来のおじ(島根県を中心に活動している歌手)と小片悦子(山陰地方を中心に活動しているフリーアナウンサー)が司会として来ていた。

余談だがこちらこちらで公開している、JR山陰本線下府(しもこう)駅(浜田市下府町)の近くのバス停留所の待合所に貼られていた島根県立大学(浜田市野原町)の学園祭のポスターの写真を撮ったのもこの時である(撮影当時歌手デビューを果たした山根万理奈〔現在も歌手として活動しており、公式サイト〔それはこちら〕やブログ〔それはこちら〕も存在する〕が島根県立大学に在学していたことを知ったのはそれから半年以上経ってからであった。山根万理奈の存在は邑智郡でも受信できるところがある広島エフエム放送〔HFM、広島市南区皆実町一丁目〕が彼女の曲「ジャンヌダルク」を2011年〔平成23年〕7月分の邦楽ヘヴィーローテーションに選定したことで知っていたのだが当時は顔を出していなかった上に在学大学名も明かしておらず、喋り手が「島根県内の大学に通っている」と言っていたので国立島根大学〔松江市西川津町。人気お笑い芸人のブルゾンちえみが在学していたこと〈但し中退〉で知られる〕に通っているのだろうと思っていたものであった)。

注10:この県道40号川本・波多線中町バイパスは360mほど進んだ妙船寺(邑智郡川本町川本)の前で終わりとなる。そこで右折して川本町道元町・学校線に入ると100mほど先の邑智郡川本町川本/元町東交差点(信号機・交差点名標なし)で県道31号仁摩・邑南線(県道40号川本・波多線重用)に突き当たるため一応は県道40号川本・波多線のバイパスとしては使える。しかし、邑智郡川本町川本/元町東交差点(信号機・交差点名標なし)には一切の案内はないため川本町道元町・学校線と県道40号川本・波多線中町バイパスを通って粕渕方面と桜江方面を往来する車は皆無に近い。なお、頓挫した理由としては通過予定地の住民の理解を得られず、用地買収が行き詰まったことや三江線や江の川との関係をどうするかで経路選定が難航したこと、邑智郡川本町中心部を迂回する県道40号川本・波多線川本バイパスの計画が浮上したことなどが挙げられる。
※この県道40号川本・波多線中町バイパスは中央大通りと称しており、7月下旬に開催される「ええなぁまつりかわもと」や11月上旬に開催される「川本町産業祭」の会場として使われている。

 

県道40号川本・波多線中町バイパス(中央大通り)で開催されている「ええなぁまつりかわもと」の一場面(2011年〔平成23年〕7月30日撮影)

注11:現在は三原郵便局(邑智郡川本町南佐木。郵便番号:696-12)が配達を担当していた地域も川本郵便局の配達担当地域となり、結果川本郵便局は邑智郡川本町全域を配達担当地域とするようになっている。

注12:島根県では他には西郷郵便局(隠岐郡隠岐の島町西町。郵便番号:685)があるだけである。

注13:石見川本駅の切符売り場の営業時間は午前6時55分〜午後5時25分だが午前7時20分〜午後0時と午後2時10分〜午後3時30分は閉鎖しており、結局営業しているのは4時間30分に過ぎない。

注14:邑智郡川本町は邑智郡邑智町や邑智郡大和村(1957〜2004)との合併協議に臨んでいたが途中で離脱している。
※邑智郡邑智町と邑智郡大和村は2004年(平成16年)10月1日に統合して邑智郡美郷町に移行している。

注15:島根県のうちの離島部分、すなわち旧隠岐国の部分の市制町村制施行は1904年(明治37年)4月1日のことである。

注16:西日本旅客鉄道が運営する鉄道路線にある駅ではJR越美北線九頭竜湖駅(大野市朝日)やJR紀勢本線那智駅(東牟婁〔ひがしむろ〕郡那智勝浦町浜ノ宮)が道の駅併設駅となっている。

注17:島根県内での路線番号(整理番号)を記している。広島県側の路線番号(整理番号)は12であった。
※島根県と広島県に跨る県道路線の路線番号が統一されたのは1972年(昭和47年)11月1日のことである。

注18:ここでは島根県側の存続期間を記している(広島県側の存続期間は1954〜1965年〔昭和29〜40年〕)。

注19:江津市の人口が初めて3万人を下回るようになったのは1970年(昭和45年)10月1日実施の国勢調査からである。それから一度も人口が3万人以上になったことはなく、2008〜2015年(平成20〜27年)には中国地方で最も人口の少ない市になっていた(現在は江田島市が中国地方で最も人口の少ない市になっている)。また、今は亡き簸川郡斐川町(1965〜2011)の人口を下回ったこともある。

(参考資料:江津市の人口の変遷〔国勢調査による〕)

※人口は当時の市域基準。邑智郡桜江町を編入した直後の2005年(平成17年)について増減数・増加率を示さなかったのはそのためである。

総人口
(単位:人)
増減数
(単位:人)
増加率
(単位:%)
備考
1965年
(昭和40年)
30,209 -3,276 -9.8 増減数と増加率は1960年(昭和35年)10月1日実施の国勢調査との比較。
1970年
(昭和45年)
27,891 -2,318 -7.7
1975年
(昭和50年)
27,992 101 0.4
1980年
(昭和55年)
28,264 272 1.0
1985年
(昭和60年)
28,597 333 1.2
1990年
(平成2年)
27,748 -849 -3.0
1995年
(平成7年)
26,958 -790 -2.8
2000年
(平成12年)
25,773 -1,185 -4.4
2005年
(平成17年)
27,774 2004年(平成16年)10月1日邑智郡桜江町を編入。
人口の内訳は旧江津市が24,486人、旧邑智郡桜江町が3,288人。
2010年
(平成22年)
25,697 -2,077 -7.5 人口の内訳は旧江津市が22,712人、旧邑智郡桜江町が2,985人。
2015年
(平成27年)
24,468 -1,229 -4.8 人口の内訳は旧江津市が21,808人、旧邑智郡桜江町が2,660人。

注20:「邑智郡桜江町」が存在したのは1956年(昭和31年)1月1日〜2004年(平成16年)9月30日であり、石見江津駅が存在したのは1920年(大正9年)12月25日〜1970年(昭和45年)5月31日である。よって、この看板が鹿賀駅の待合所に掲げられたのは1950年代後半〜1970年代初頭のある時期となる。

注21:邑智郡川下村坂本は1950年(昭和25年)4月1日に邑智郡川越村に編入されている。