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JR三江線並行道路を行く・最終章 (2018年〔平成30年〕8月12日公開)

第10章(総集編)から

 これまで今年4月1日に廃止されたJR三江線の並行道路と駅の様子を紹介してきたわけであるが、最後に自分の感じたことや今思っていることなどを綴ってこのシリーズを終えることにしたい。かなり長い文章になるのだが、どうぞご覧頂きたい。

その1

 三江線は江の川中流域にある広島県北部の中心都市・三次市と、江の川河口にある江津市を結ぶことを目的として大正時代に企図された鉄道路線である。江の川の舟運に代わって大量に荷物を輸送できる路線として、岡山・倉敷・広島・福山方面と江津・浜田方面を結ぶ陰陽連絡路線として期待されたが、状況は当初から厳しいものがあった。それを挙げると次の通りになる。
・沿線地域には三次市中心部のある三次盆地を除いて広大な平地がなかったこと。
・江の川が中国山地を突っ切って広島県北部から日本海へ流れているところを通せた点では恵まれてはいたが、江の川のすぐそばまで急峻な山が迫っているところが多く、建設の難航や災害の多発が予想されたこと。
・沿線地域の人口が少なかったこと。
・島根県西部には地形的な問題などもあって卓越した中核都市が形成されず、結果規模が同じような大田・江津・浜田・益田といった地域の中心都市がいずれも山陽方面への鉄道路線を欲したこと。
 それでも1930年代に江津側からの鉄道は浜原駅(邑智郡美郷町浜原。1937〜2018)まで延び、計画の半分近くまでは成就したのだが、その矢先に立ち塞がったのが第二次世界大戦であった。利用が見込めない路線や地形的な事情から建設費が高騰する路線、軍事上必要のない路線はことごとく建設中止に追い込まれたのである。無論三江線も例外ではなかった。三次側の建設はかなり完成した段階で中断させられたのである(注1)
 やっと三江線の建設が再開されたのは1950年代に入ってからであり、1955年(昭和30年)には三次〜式敷間が開業し、江津側・三次側双方とも開業区間を有するようになったのだが、その矢先に立ち塞がったのが大規模なダムの建設問題であった。邑智郡美郷町都賀行及び長藤に高さ94m(89mとする資料もある)の堰堤を建設するというものだったのだが、山陽地方だけでなく山陰地方の発展に寄与するという触れ込みで企図されたものの実現には多大な犠牲を払うことになる。結局ダム建設計画は白紙撤回されるのだが、これで式敷駅(安芸高田市高宮町佐々部。1955〜2018)以遠への延伸は停滞し、ようやく式敷〜口羽間が開業したのは1963年(昭和38年)のことであった。
 残る未開業区間は浜原〜口羽間となり、日本鉄道建設公団(横浜市中区本町六丁目。1964〜2003)によって建設が進められたのだが、状況の厳しさには変わりはなかった。むしろ将来が不安視される状況がいくつも生じていた。それを挙げると次の通りになる。
・若年者を中心に大都市や工業地帯に転居する人が増え、過疎化が進展したこと。
・自動車やバイクを持つ人が増えたこと。
・貨物輸送の手段としてトラックが多く利用されるようになったこと。
・集中豪雨や豪雪などの災害に見舞われやすい地域だったこと。
・もし開業に漕ぎ着けても優等列車が通るなど広域的利用が見込める状況にはなかったこと。

 そんな中、浜原〜口羽間の建設放棄と既存区間、すなわち三江南線と称していた三次〜口羽間、三江北線と称していた石見江津改め江津(注2)〜浜原間の廃止の危機に瀕する事件がいくつも起きている。主なものとしては日本国有鉄道(千代田区丸の内一丁目。1949〜1987)が使命を終えたと考えられる路線を公表し、その廃止を推進しようとした施策(赤字83線(注3))と、三江南線・三江北線の各所に甚大な被害をもたらした1972年(昭和47年)7月の梅雨末期の集中豪雨が挙げられる。しかし、いずれの危機も乗り越えている。日本国有鉄道の路線合理化策は沿線住民の強硬な反対などが原因でほとんど行われずに終わったし、当時は災害で甚大な被害を受けた路線を復旧させずに廃止することは私鉄ならともかく日本国有鉄道では認められないという雰囲気があったからである(注4)
 そして浜原〜口羽間は1975年(昭和50年)8月31日に開業し、石見江津改め江津(注2)〜川戸間開業から45年かかって三江線は全線開通を果たしたのである。

その2

 少なくとも全線開業を果たした時点では三江線は(語弊はあるかもしれないのだが)幸運な存在だと言えた。次に挙げる事情があったからである。
・三江線全線開通時点で○○南線+未開業区間(建設路線名称は○○線)+○○北線という形をとっていた路線はあと二つ(北海道北部を通っている興浜南線+興浜線+興浜北線と、福井・岐阜両県に跨る越美南線+越美線+越美北線)あったが、どちらも全線開通に至れなかったこと(注5)
・三江線全線開通時点で中国地方で着工されていた、日本国有鉄道が開業後運営することになっていた路線は兵庫・鳥取・岡山各県に跨る智頭線と鳥取・岡山両県に跨る南勝線、島根・広島両県に跨る今福線(広浜線)、島根・山口両県に跨る岩日北線、岡山・広島両県に跨る井原線があったが、いずれも日本国有鉄道の経営再建の過程で建設放棄に追い込まれたこと(注6)
・三江線全線開通から日本国有鉄道が分割・民営化されて消滅するまでの11年7ヶ月間に多くの需要が見込めない路線で開業に漕ぎ着けられ、日本国有鉄道が運営することになったものは宮城県の太平洋沿岸を通る気仙沼(けせんぬま)線だけだったこと(注7)
 今書いた事柄からもうかがえることであるが、その頃既に日本国有鉄道の経営状況はかなり厳しくなっていたのである。
 無論何とか全線開通に至れた三江線も日本国有鉄道の経営難から逃れることはできなかった。次に挙げる状況があったからである。
・全線開通は果たしたが口羽駅(邑智郡邑南町下口羽。1963〜2018)で線路が分断されており、口羽駅での乗り換えを余儀なくされたこと。口羽駅で分断されていた線路が繋がり、江津〜三次間全線を直通する列車が設定できるようになったのは全線開通から2年半以上も経った1978年(昭和53年)3月30日のことである。
・利用しにくい駅がいくつもあったこと。三江線最終開業区間だけ見ても江の川や幹線道路(国道375号線)ではなく人家のない山に向かって出入口が設置された石見松原駅(邑智郡美郷町長藤。1975〜2018)や116段もある階段を通らないとプラットホームにたどり着けない宇都井駅(邑智郡邑南町宇都井。1975〜2018)はその代表的存在である。女性が被害に遭う犯罪が少なくないことや高齢者が多くなっていたことを考えるとこれはないのでは…と取材した時感じたものである。
・駅舎(ここでは切符売り場など職員が常駐して業務をこなせる場所がある駅を指している)のない駅がいくつもあったこと。三江線を上り方向(三次→江津)に進んだ場合、尾関山駅(三次市三次町。1955〜2018)の次は何と浜原駅までなかった。駅舎があったのでは…と思う駅(注8)や駅舎が建てられてもおかしくはない駅(注9)はいくつもあったのだが、駅舎を建てることも断念するほど費用を節約したかったのだろうか。
 更に三江線を取り巻く環境は厳しさを増していた。それを挙げると次の通りになる。
・三江線全線開通の約半年前の1975年(昭和50年)3月10日に山陽新幹線岡山〜博多間が開業したこと。岡山・倉敷・福山方面と江津・浜田方面を往来するに当たっては広島駅(広島市南区松原町)を経由する方法が最も早く移動できる方法となり、三江線は陰陽連絡鉄道としての役割を有せない状況で全線開通することが確定してしまった。
・沿線人口が過疎化により激減してしまったこと。多くの雇用が見込める産業がないことや生活していくのに不便な面が多かったこと、自然環境が厳しかったことが背景にあるのだが、過疎化に歯止めがかからなければ三江線の利用者も減ることになり、存廃問題も浮上する恐れをはらんでいた。
・モータリゼーションが進展したこと。鉄道やバスなどの公共交通機関は利用できる場所まで赴かなければならないことや自分が利用したい時間に利用できるとは限らないことといった問題点があり、公共交通機関に恵まれない地方では自動車やバイクを利用する人が増えるのは当然の帰結であった。
・三江線全線開通の約5ヶ月前の1975年(昭和50年)4月1日に邑智郡美郷町粕渕以南で三江線と並行していた主要地方道大田・三次線(島根県:1955〜1977/広島県:1954〜1976)が国道375号線の一部に移行したこと。国道路線になったとはいえ管理するのは島根県と広島県である(但し建設省→国土交通省から維持や改良については補助が出る)し、地形の厳しさから改良がなかなか進まないのは目に見えていたのだが、モータリゼーションが進展していた時代であることを考えるともし改良が進めば三江線にとって脅威になることは確実であった。
・三江線沿線で初めて発足した国道路線である国道261号線の改良が進んでいたこと。1970年(昭和45年)からは江の川右岸で県道294号川下・桜江線(1966〜1980。路線名称は廃止当時のものを記載)を活用したバイパスの建設が建設省直轄事業として進められており、これが完成すれば三江線にとって脅威になることは確実であった。
・中国自動車道三次インターチェンジ(三次市西酒屋町)と大田市・邑智郡美郷町を最短経路で結ぶ県道166号邑智・赤来線(1958〜2006。現:県道166号美郷・飯南線)の改良が進んでいたこと。整備が進めば三次市〜邑智郡美郷町間は1時間程度で往来できることになり、その点でも三江線にとって脅威になることは確実であった。
・日本国有鉄道の経営状況が悪化していったこと。原因としてはモータリゼーションが進展したことや利用の少ない路線を多く抱えるようになったことなどいろいろあるのだが、もし経営再建に向けて動き出すのであれば激烈極まりない施策をとるのは確実であり、三江線もその影響を受ける恐れがあった。
・高速道路網の整備が進められようとしていたこと。三江線に並行する高速道路は計画されなかったが、中国縦貫自動車道や中国横断自動車道広島・浜田線が整備されれば三次市〜江津市間は1時間30分程度で往来できるようになり、三江線にとって脅威になることは確実であった。
 全線開通したとしても走る列車は普通列車だけだし、線路規格は一定ではない。更に三次市と江津市を江の川に沿って結んでいるのでかなり遠回りな経路をとっており、その点でも不利であるし、地形が険しいことから災害にも見舞われやすい。厳しい状況だけが三江線には突き付けられたのである。

その3

 しかし、三江線が日本国有鉄道の経営再建の過程で廃止に追い込まれることはなかった。並行している国道375号線や県道40号川本・波多線などの改良が進んでおらず、路線バスに転換するのは難しかったからである(注10)。そして1987年(昭和62年)4月1日、三江線は西日本旅客鉄道(JR西日本。大阪市北区芝田二丁目)が管理する路線の一つになり、何とか生き残ったのである。
 だが、よく考えれば分かることであるが、日本国有鉄道の分割・民営化とそれに伴う西日本旅客鉄道の発足は利益を生み出さないものは容赦なく切り捨てるという状況が生じたこと(注11)でもある。つまり、西日本旅客鉄道の管理する路線の一つになれたからと言って安住できる保証はどこにもなかったのである。そのことに気付いていれば違う展開があったのかもしれないのだが、やはり並行道路の未整備で廃止は免れ続けるだろうという安心感が沿線住民には生じたのであろうか。
 無論西日本旅客鉄道の管理下に置かれてからも状況は更に厳しくなっていった。特に西日本旅客鉄道発足後に顕著に見られたのは道路整備の目覚ましい進展であった。三江線に関係する主な道路の整備の進展―ここでは西日本旅客鉄道が発足した1987年(昭和62年)4月1日以降に開通したものに限定するものとする―を示すと下表の通りになる。

年月日 道路名称 備考
1989年(平成元年)6月22日 国道9号線浜田道路 浜田市下府(しもこう)町/浜田バイパス東口交差点〜浜田インターチェンジ(浜田市長沢町。当時未供用)間が開通(注12)
山陰自動車道
(国道9号線浜田道路)
浜田インターチェンジ(当時未供用)〜相生(あいおい)インターチェンジ(浜田市相生町)間が開通(注12)
1989年(平成元年)10月18日 中国横断自動車道広島・浜田線
(浜田自動車道)
旭インターチェンジ(浜田市旭町丸原)〜浜田ジャンクション(浜田市後野町。当時未供用)〜浜田インターチェンジ間が開通。
1991年(平成3年)12月7日 中国横断自動車道広島・浜田線
(浜田自動車道)
千代田ジャンクション(山県郡北広島町有田)〜旭インターチェンジ間が開通。
これにより中国横断自動車道広島・浜田線は全線開通した
(注13)
1993年(平成5年)3月25日 国道9号線江津道路 江津市渡津町/江津バイパス東口交差点〜江津インターチェンジ(江津市嘉久志町)間が開通。
1996年(平成8年)11月12日 県道62号庄原・作木線
便坂トンネル
2003年(平成15年)8月8日 国道375号線
邑智バイパス
2003年(平成15年)9月21日 山陰自動車道
(国道9号線江津道路)
江津インターチェンジ〜浜田ジャンクション間が開通。
これにより三次市と江津市は高速道路だけで往来できるようになった。
2005年(平成17年)8月9日 国道261号線
久坪バイパス
2006年(平成18年)5月30日 国道375号線
作木・大和道路
2008年(平成20年)10月21日 県道7号浜田・作木線
口羽バイパス
2010年(平成22年)4月27日 国道375号線
香淀トンネル
2011年(平成23年)8月10日 国道261号線
大口バイパス
2015年(平成27年)11月9日 県道7号浜田・作木線
雪田バイパス

 これらの道路の開通は三江線の存在意義を薄めていくのに充分であった。三次市と江津市を往来するのなら中国自動車道→浜田自動車道→山陰自動車道を通れば良い。三次市と三次市作木地区・邑智郡邑南町・邑智郡美郷町大和地区を往来するのなら国道54号線→県道62号庄原・作木線を通れば良い。三次市と邑智郡美郷町邑智地区を往来するのなら国道54号線→県道166号邑智・赤来線改め県道166号美郷・飯南線を通れば良い。江津市と江津市桜江地区・邑智郡川本町を往来するのなら国道261号線を通れば良い。少なくとも自動車やバイクを持つ人にとっては三江線はまず使うことのない存在になったのである。
 となると三江線の主たる利用者は自動車やバイクを運転できない人、すなわち子供や高齢者といったところになるが、子供は沿線の過疎化で減っていくし、高齢者も駅まで出るのは…ということで利用しなくなった。つまりどの世代も利用しなくなったということである。そこで西日本旅客鉄道は列車の本数を減らしていったわけであるが、そうするとまた利用しない人が増え…という悪循環が生じることになった。更にそれは沿線自治体が子供の通学や高齢者の通院の利便性向上を図るための路線バスの経営に乗り出す契機にもなった。
 それに追い打ちをかけたのがいわゆる平成の大合併であった。三江線が全線開通した時点で三江線沿線には江津市・邑智郡桜江町・邑智郡川本町・邑智郡邑智町・邑智郡大和村・邑智郡羽須美村・双三郡作木村・高田郡高宮町・三次市と九つも自治体があったのだが、平成の大合併では江津市(江津市+邑智郡桜江町)・邑智郡川本町(異動なし)・邑智郡美郷町(邑智郡邑智町+邑智郡大和村)・邑智郡邑南町(邑智郡石見町+邑智郡瑞穂町+邑智郡羽須美村)・三次市(三次市+甲奴郡甲奴町+双三郡吉舎〔きさ〕町+双三郡三良坂町+双三郡三和町+双三郡君田村+双三郡作木村+双三郡布野村)・安芸高田市(高田郡甲田町+高田郡高宮町+高田郡美土里町+高田郡向原町+高田郡八千代町+高田郡吉田町)に再編された。それがもたらした不利益を挙げると次の通りになる。
・三江線から離れたところに平成の大合併で発足した自治体の中心部があるところがいくつもあったこと(邑智郡邑南町・安芸高田市)。三江線が通っていることで三江線の存廃問題に関わらざるを得なくはなるのだが、中心部を三江線が通っているところほど関心が高いとは言えない状況が生じた。
・邑智郡が一つの自治体にまとまれなかったこと。背景には町村によって志向が異なることや行政の中心を担っている川本町中心部との道路事情が芳しくないところが多いこと、一つの自治体になっても市制施行に至れず(注14)、利益がなかったことなどがあった。
・平成の大合併で町村役場がなくなったことにより中枢性を喪失したところがあったこと。過疎化の進展などによりたださえひっそりとしたところが多かったのだが、平成の大合併による中枢性喪失はそれに拍車をかける格好になった。
 2008年度(平成20年度)のデータによると三江線の一日の利用者数は83人だったという。JRグループ各社が管理する路線では岩手県東部の山間部を通る岩泉線(1972〜2014)の49人に次いで少なかったのだが、そういう状況では近い将来西日本旅客鉄道が廃止を提案してくることは確実な状況になっていた。しかし、(部外者が勝手なことを書くなと叱られそうであるが)訴求力のある存続運動や振興策が見られなかったような感じがある。そういう状況でも並行道路の未整備を理由に当分の間存続させるだろうという安心感があったのか、それとも「もうどうにもなる問題ではない」などと考えて冷めてしまったのか…。

その4

 1968年(昭和43年)9月の日本国有鉄道による整理対象路線(いわゆる赤字83線)公表以来三江線は常に廃止の危機と隣り合わせの状況にあったが幸運にもいつもその危機を逃れてきた。しかし、2010年代に入るともうその危機からは逃れられない状況が生じてきた。その状況を記すと次の通りになる。
・2009年(平成21年)秋の台風18号による被災で不通になっていたJR名松線家城(いえき)〜伊勢奥津(いせおきつ)間17.7kmの廃止問題が浮上したこと(注15)
・2010年(平成22年)4月に当時の西日本旅客鉄道の社長が利用が少ない路線の廃止を検討していることを表明したこと。
・2010年(平成22年)7月に岩泉線で列車が斜面から崩れて線路を塞いでいた土砂に乗り上げて脱線し、数人の負傷者を出す事故が起きたが、東日本旅客鉄道(JR東日本。渋谷区代々木二丁目)は復旧させず、廃止する方針をとったこと。
・結局岩泉線は並行道路の整備が完了しない状況で2014年(平成26年)4月1日をもって廃止されたこと(注16)
・東日本大震災(東北地方太平洋沖地震。2011年〔平成23年〕3月11日)で甚大な被害を受けた路線のうち気仙沼線の柳津(やないづ)〜気仙沼間と大船渡線の気仙沼〜盛間の鉄道での復旧を東日本旅客鉄道は断念したこと。
 なお悪いことに三江線は21世紀に入ってから二度も集中豪雨で甚大な被害を受け、長期間運休するという悲劇に見舞われた。その度に復旧したのだが、西日本旅客鉄道もこの状況はもう看過できないと考えたのであろう。遂に廃止することを決定したのである。こうして三江線は2018年(平成30年)4月1日、石見江津改め江津〜川戸間開業から88年の歴史に終止符を打ったのである。
 三江線の顛末(てんまつ)を見て「西日本旅客鉄道は厄介払いをしたかったのだろう」とか「沿線住民は何をしていたのか。もう少し振興策に懸命になっていれば廃止されることはなかったのではないか」と思う方も多いのではないのだろうか。しかし、もう策はなかったと考えざるを得ない状況があったのは事実である。それは次の通りである。
・観光鉄道に特化したとしても沿線には多くの観光客が訪れるような名所や大都市がなく、すぐに行き詰まる恐れがあったこと。
・反対に多くの観光客が訪れるような名所(石見銀山〔大田市大森町〕など)があったとしてもそれは三江線沿線から外れた地域にあり、三江線振興には結び付かなかったこと。
・そもそも中国地方随一の大河である江の川の知名度が高いとは言えないこと(注17)
・もう少し行政の介入があっても良かったとは言えるのだが、三江線は島根県の県庁所在地・松江市からかなり離れたところにあることや島根県は石見地方(大田市・江津市・浜田市・益田市・邑智郡・鹿足郡)を軽んじている傾向があること、広島県は全般的に鉄道の振興に冷淡な態度をとっていること(注18)から結局見て知らぬふりをとることになったこと。
・第三セクター方式の会社を作ってそれが運営する方法で存続させることも考えられないわけではなかったが、経営難に陥ることは目に見えていたことや特に地方自治体が出資に消極的だったこと、既に廃止に追い込まれた路線が少なくなかったことから困難だと判断したこと。
・並行道路に異常気象時通行規制区間に指定されているところがいくつもあることからもうかがえるように災害に見舞われやすい路線であり、いずれは割に合わなくなる恐れがあったこと。
・いずれ考えざるを得なくなる老朽化対策について、施すには割に合わない状況があったこと。
・三次市と江津市を江の川に沿って結んでいるため広域的観点からしても有用な路線にはなり得ていなかったこと。
・沿線人口が減っており、今後も利用が増える見込みはなかったこと。
・沿線の志向がバラバラになっており、必ずしも三次市や江津市を向いていないこと。
・特に沿線地域は広島市との繋がりが強まっていたこと。
・三江線を利用しないで生活する人がほとんどだったこと。
・三江線に対して冷めた感情を持つ人が多く、それを変えることは困難だったこと。
 私は三江線は廃止すべきだったとは一切主張しない。しかし、このように見ると致し方なかったのだろうなと思えてくる。一切明かしてはいないが西日本旅客鉄道だって株主の方々から「いつまであの誰も利用しない路線を残しておくのか。もう切り捨てるべきだ」などと言われていたのだろうし、西日本旅客鉄道は未だに需要の多い京阪神地方に力を入れたい。更に中国地方を見ても車両の新調を望む地域や自動改札を拡充したら良いのに…と思う地域、電化・複線化・高速化を望む地域は多数ある。それに応えるためには不採算路線を切り捨てざるを得ないのだろう。

その5

 (語弊のある表現をお許し頂きたいのだが)三江線は全線開通に至れたことまでは幸運だったが、結果として薄幸のまま終わった路線となった。社会情勢の変化や複雑な地理的状況が三江線を窮地に追い立たせ、結果廃止に追い込まれる元凶になったことは最早否定のしようはないであろう。
 私は三江線の存在を否定はしないのだが、同時に感じたことはもう少し計画性のある鉄道計画が実行されていたら、費用対効果があるか否か、諸条件に照らし合わせて必要なのかどうか見極めがきちんとなされていたらどうだったのだろうと思っている。というのも、島根県西部にある都市、すなわち大田市・江津市・浜田市・益田市はいずれも山陽地方への鉄道路線を欲していたからである。島根県西部に卓越した中核都市がないことがこの状況を生み出したと言えるのだが、わずか100kmの間に大滝線(大田市〜粕淵間。着工されず。なぜ大滝線という名称になったのかは第5章で触れているので併せてご覧頂きたい)・三江線(江津〜粕淵〜三次間。全線開業を果たしたが廃止)・今福線(別名:広浜線。下府〔しもこう〕・浜田〜三段峡間(注19)。開業に至れず)・山口線(益田〜日原〜新山口間。現存)・岩日線(日原〜錦町間。開業に至れず)と五つも山陽地方に通じる鉄道路線が構想されていたことには驚かされた。それだけ山陽地方への鉄道を欲する思いが強かったことがうかがえるのだが、特急列車(「スーパーおき」号)が一日3往復設定され、なおかつ観光列車「SLやまぐち」号が春から秋の観光シーズンに設定されている山口線を除けば共倒れになったところを見ると調整する考えはなかったのだろうかと思いたくなってくる。
 私は鉄道計画に否定的なことを書いているのだが、私は致し方ないことだったことも併せて認識しているところである。三江線を含めて鉄道路線の敷設計画があったところはほとんどが過疎に悩んでいる地域であった。つまり、鉄道建設は地域振興という一面を持っていたのである(注20)。更に地域振興の実現はその地域の政治家―無論与党に属する人間になるのだが―の支持拡大にも繋がる。地域にとっても政治家にとってもおいしい話だったのである。
 しかし、そこにはある点が欠落していた。それはもう鉄道が陸上交通の王者である時代は過ぎ去ろうとしていたことであった。そもそも鉄道には次に挙げるような弱点があり、それが鉄道が陸上交通の王者から引きずり降ろされる要因になったのである。
・拠点(駅)を経由しないと利用できないこと。
・自由自在に敷設できないこと。
・急な勾配は設定できないこと。
・施設の建設費用や維持費用がかなりかかること。
・施設だけでなく車両の費用もかかること。
・全員が利用するわけではないこと(言い換えれば利用しないで済む人も少なくないこと)。
・多くの利用がなければ存在意義がないこと。
・速度向上にも限界があること。
 そこで建設路線の見直しや既存路線の合理化が考えられれば良かったのだが、それは実現しなかった。政治家や地元住民が強硬に反発したし、何より「今太閤」とか「コンピューター付きブルドーザー」などと呼ばれ、日本列島改造論をぶちまけた田中角栄(1918〜1993。首相在任期間:1972〜1974)が総理大臣になったことでうやむやになってしまったからである。ようやく建設路線の見直しや既存路線の合理化が考えられ始めたのは三江線が全線開通した後の1970年代末期のことであった。どれほど日本国有鉄道の経営状況がひどいものになっていたか、それは最早記すまでもないであろう。
 取捨選択のできなかった鉄道計画は本当に必要なのに、もし開業していれば有用な路線になっていたはずなのに建設が頓挫した路線や改良ができずじまいになった路線を多数生み出した。そして日本国有鉄道は分解させられ、その後継のJRグループ各社は利益至上主義に走った。そのことを考えれば私は心苦しさを感じる。

その6

 三江線だけでなく人口の少ない地方は切り捨てられるものが多数出ている。広島県では三江線廃止と同じ今年4月1日に因島(いんのしま)・音戸両警察署が廃止されたし、私が住む福山市でも市立小学校・中学校の統廃合が進められようとしている。
 人口が減ったから、投資効果が見込めなくなったから致し方ないという考えもあるのだが、一方で私はそれに関わる住民の思いはどうなのだろうかとか地域にどのような影響を及ぼすのか考えたことがあるのだろうかと思うことがある。そのような思いを持つようになった事柄を挙げると次の通りになる。
・民主党中心政権時代初期に国土交通省が管理する国道路線のバイパス建設または道路改良を凍結しようとしたこと。福山市松永地区にある国道2号線松永道路の上下4車線化はその対象になったものの一つである(注21)が、現実も見ずに、凍結で生じる効果も示さずにただ国家財政が厳しいというだけで凍結を一方的に決めて良いものなのかと思ったものである。
・民主党中心政権時代に民主党議員による地方をバカにする発言が相次いだこと。石井一選挙対策委員長の「鳥取県や島根県は日本のチベット」発言や松本龍復興担当大臣(1951〜2018)の「自分は九州の人間だから東北地方の○○市がどの県にあるか知らない」発言はその代表的事例であるが、そういう発言をして失礼だと思わない神経が理解できない(特に石井一選挙対策委員長は抗議されても一切謝罪しなかったし…)。確かかつて岩手県北部の山間部を日本のチベットだと言っていたことはあるが今は言わないし、チベットの方々に対しても失礼であろう。東日本大震災からの復興で陣頭指揮を執るべき人間が常識的なことも知らないというのはどうなのだろう。政権与党の座に就いたことで有頂天になっていたことは否めないのだろうが、一挙手一投足が気にされる存在になったことを思うとたとえそれが冗談だったとしてももう少し発言には気を付けるべきではなかったのだろうか(注22)
・民間放送局の一社提供番組の中には複数の地方の系列局でネットを見合わせる例があること。塩野義製薬(大阪市中央区道修町〔どしょうまち〕三丁目)一社提供の長寿音楽番組「ミュージックフェア」(フジテレビ系)はその著名な例で、かつては中国地方全域で放送されていたのに現在では岡山・香川両県を放送区域としている(注23)岡山放送(OHK、岡山市北区学南町三丁目)と広島県を放送区域としているテレビ新広島(TSS、広島市南区出汐二丁目)でしか放送されていない。いかなる意図があって塩野義製薬は鳥取・島根両県を放送区域としている山陰中央テレビジョン放送(TSK、松江市向島町)や山口県を放送区域とする民間テレビ放送局(注24)でのネットを見合わせているのだろうかと思いたくなるのだが、宣伝効果はないと考えているのだろうか(無論鳥取・島根・山口各県で塩野義製薬の商品が売られていないということはないのだが…)。
・民間放送局の一社提供番組の中にはある時期をもって複数の地方の系列局でのネット一斉打ち切りを断行するものがあること。JFN系列の番組でそういう例が散見され、私が最もひどかったと思っているのが「C1000 presents yuumiのLOVELY DAY」(2006〜2008年〔平成18〜20年〕放送)であった。静岡エフエム放送(愛称:K-mix。浜松市中区常盤町)を制作局としたこの番組は静岡エフエム放送や広島エフエム放送(HFM、広島市南区皆実町一丁目)など11局で放送されていたのだが、2008年(平成20年)3月末をもって広島エフエム放送を含む7局でのネットが打ち切られたのである(注25)。大半のネット局での打ち切りの背景には宣伝効果がなくなったことやスポンサーを務めている企業の業績が芳しくなくなったことなどが考えられるのだが、番組や喋り手の知名度は低かったものの聴取者の思いを無視しているのでは…と思うのは私だけだろうか。
・衆議院や参議院、都道府県議会でよく「一票の格差」が問題になること。参議院では鳥取県と島根県、徳島県と高知県がそれぞれ一つの選挙区になったのだが、考え方は分からないわけではないもののこのようなことをされては地方の声はますます中央に届きにくくなってしまう。「一票の格差」をなくすことは難しいのだが、良い方法はないのだろうか。
・民間テレビ放送局のやり方に疑問を抱くことが多くなったこと。その始まりは小泉純一郎が総理大臣に就任して間もない頃の「サンデーモーニング」(TBS系)で岡山県南西部を東西に貫き、国道2号線のバイパスとして通る車も多い備南広域農道を多くのトラックが通っていると紹介したことであった。確かに「農道」と称する道をトラックが多く通ることはけしからんという考えで放送したのだろうが、倉敷方面との往来にこの道を通ることが多い私としては非常に不満が残るものとなった。その背景にある現実を伏せてほんの些細(ささい)なことを報道することで視聴者をある方向に導きたかったのだろうが、それで誰かが憤慨しても泣くことになってもお構いなしなのだろうか。
・西日本旅客鉄道が中国地方を冷遇しているのではないかと感じていること。路線の廃止は他の管轄地域(北陸・近畿〔関西〕)に比べて多い(注26)し、普通列車用新型車両の導入も広島地区でようやく始まったところで、岡山・福山・山口地区ではどうなるかすら分かっていない。更にICOCA対応の自動改札の導入にしても都市圏の広がりに対応できていない面が多々見られる(注27)。「中国地方は人口が少ないので…」とか「費用対効果が見込めないので…」などと言うのだろうが、そういう消極的な考え方が三江線などを廃止に追い込んでいるのではないのだろうか。
・七大都市(札幌・仙台・東京・名古屋・大阪・広島・福岡)の中で広島市が差別されている印象を抱くことが少なくないこと。著名な歌手の公演が広島市だけ開催されなかったりある全国展開のライヴハウスが広島市だけ進出しなかったり(注28)2016年(平成28年)秋からフジテレビ系列が日曜日午前8時30分から放送しているアニメ番組について広島県内の系列局であるテレビ新広島では放送されなかったり(注29)するなどいろいろあるのだが、こういう事実に対して怒りを見せる人がいないのはどうかと思う。もっと冷遇されていることに気付き、「広島市を差別するのは許せない」とか「なぜ仙台市より人口の多い広島市を差別するのか。理由を説明しろ」などと怒る人が出てきても良いのでは…と思っているのだがどうであろうか。
・都道府県道路線の整理を強行する都道府県があること。近年では愛知県・三重県・大阪府・鳥取県が積極的なのだが、都道府県道路線の廃止はほとんどの場合通過市区町村への移管であり、たださえ財政事情が厳しい通過市区町村への負担を強いることでしかない。そのことを分かっていてやっているのだろうか。岡山県のようにひどい財政難の中にあっても路線を維持し続けているところもあるのだし…。
・市民の安全を守る警察の施設再編についてどうかと思うことがあること。例えば福山市南西部と尾道市浦崎町を管轄する福山西警察署(福山市神村〔かむら〕町)は2002年(平成14年)に警察官駐在所の統廃合を実施したのだが、記すまでもなく交番または警察官駐在所の管轄区域が広大になっただけでなく直接道路では繋がっていない地域を管轄するようになった交番も出現している(注30)。福山西警察署の管轄区域は人口が減少している地域が少なくない一方で前尾道市長夫妻殺害事件(1980年〔昭和55年〕2月9日。未解決)や明王台主婦殺害事件(2001年〔平成13年〕2月6日。情報提供を呼びかけているページはこちら)などの未解決凶悪事件がいくつも起きているのだが、それでも再編を行う必要はあったのだろうか。
 これらの事柄から見えてくるのは効率や利益、党利党略、財政再建などのためには地域や住民の思いを蔑(ないがし)ろにして良いのかということである。地域や住民の思いは少数意見であり、無視しても構わないというのだろうが、それを軽んじても良いものなのだろうか。
 この風潮が今後も続けば都会ばかりが栄え、地方は衰退していくことだろう。そして人口は減り、いろいろなものが機能しなくなるだろう。それでも良いのだろうか。今その風潮を見直すべき時期が来たように感じる。

その7

 残念ながら三江線は廃止されてしまった。そこで課題になってくることの一つが跡地利用である。鉄道公園を作ろうとかいろいろな声が出ているようであるが、私はこちらでも主張した通り自転車道に転用してはどうかと考えている。その理由は次の通りである。
・三江線の全長は108.1kmであるが、「地理院地図(電子国土Web)」というサイトによると三次駅(三次市十日市南一丁目)の標高は157.0m、江津駅(江津市江津町)の標高は7.3mとなっており、平均勾配は約1.38パーミルと緩いこと。
・三江線はそのほとんどの区間で中国地方随一の大河・江の川に沿って敷設されていること。
・自転車なら三江線から離れた地域にある名所(常清滝〔三次市作木町下作木〕や石見銀山など)を巡りながら旅ができること。
・島根県はこれまでに県道○○自転車道線を二つ認定しているが、いずれも出雲地方(結果的に松江市と出雲市だけになる(注31))を通っており、石見地方や隠岐地方(隠岐郡)を通る路線は未だに発足していないこと。
・広島県は都道府県道路線数は全国9位(中国地方2位)なのだ(注32)が、県道○○自転車道線は県道466号向島・因島・瀬戸田自転車道線しか認定しておらず、都道府県道○○自転車道線の路線数は最下位になっていること(注33)
・広島県唯一の県道○○自転車道線である県道466号向島・因島(いんのしま)・瀬戸田自転車道線は島嶼(とうしょ)部しか通っておらず、結果広島県の本土部分には未だに県道○○自転車道線は通っていないこと(更に県道466号向島・因島・瀬戸田自転車道線はいわゆる平成の大合併で全線が尾道市を通る路線となったため尾道市以外には県道○○自転車道線はないということになる)。
・広島県は県道○○自転車道線は一つしか認定していないが、サイクリングを観光振興の材料にしており、いくつかルートを設定していること。
 中国地方で鉄道路線跡地を自転車道に転用した例は岡山県にある。県道703号備前・柵原(やなはら)自転車道線である。全部分ではないのだが同和鉱業片上鉄道(1923〜1991)の跡地を自転車道に転用したものである。
 ところが、三江線跡地の自転車道転用は実現がかなり難しい状況にある。次に挙げるような現実があるからである。
・島根県・広島県とも財政事情が厳しく、新規の県道路線認定は長らく見合わせていること。
・三江線の施設は老朽化しており、改修するにはかなりの費用がかかること。
・三江線は災害の多い地域を通っており、土砂崩落や橋梁流出などの被害を受ける恐れがあること。
・三江線は積雪地帯を通っており、積雪期は利用しにくくなること。
・人口集積地をいくつも通っている県道466号向島・因島・瀬戸田自転車道線と異なって三江線沿線には飲食物を入手できるような店がある集落や食事・休憩ができる施設が少ないこと。
・三江線最終開業区間(浜原〜口羽間)には3km近い長さのトンネルがあり、監視カメラを取り付けたり夜間の通行を禁止したりするなどの防犯対策をとらなければならないこと。
・三江線に並行する道路は整備が遅れており、三江線跡地の道路転用を求める声が少なくないこと。
 更に都道府県道○○自転車道線は各都道府県の財政事情の悪化の中で維持がろくに行われなくなったり建設が中断したりするところがいくつも出ている。私が把握している例を挙げると次の通りになる。

都道府県名 路線名称 状況
青森県 県道256号青森・十和田湖自転車道線 本サイトからリンクを貼っているヨッキれんさんのサイト「山さ行がねが」でその状況が紹介されているが、未整備区間が長い上に整備済の区間でも利用が少なく、荒れ果てている箇所がある(その様子はこちらで公開されているが途中まで公開したところで中断したままになっている)。
岩手県 県道503号遠野・東和自転車道線 山さ行がねが」で岩手県の財政難により橋を架ける計画が頓挫した箇所が紹介されている(それはこちら)。
秋田県 県道403号秋田・男鹿自転車道線 山さ行がねが」で海岸沿いの災害から復旧されないままになっている箇所(注34)が紹介されている(それはこちら)。
千葉県 県道403号和田・白浜・館山自転車道線 たからったさんのブログ「埼玉発 おとなの小探検」の今年5月9〜11日公開の記事で海岸沿いを通るこの路線が海からの砂で埋もれ、通りにくくなっていることが紹介されている。
和歌山県 県道802号太地・新宮自転車道線 山さ行がねが」で和歌山県の財政難により建設が中断されている箇所が紹介されている(それはこちら)。
大分県 県道220号玖珠・九重自転車道線 大分県公式サイトで閲覧できる大分県法規集によると1983年(昭和58年)7月19日大分県告示第911号により認定されたとあるのだが、数年前大分県公式サイトで公開されていた「大分県道路管内図」にはこの路線は掲載されていない。大分県によると認定から30年以上経過した現在も区域決定にも供用開始にも至っていないというのだが…(注35)

 同和鉱業片上鉄道の跡地を自転車道として整備した岡山県もその例に漏れず、1996年(平成8年)に県道703号備前・柵原自転車道線を認定したのを最後に20年以上県道路線の新規認定を見送り続けている。財政事情が悪化し、新たな路線を発足させる余裕がなくなったことが理由であるが、県道○○自転車道線の新規認定は最近でもいくつかある(注36)ものの難しい状況にあることを思い知らされる。

その8

 今秋で可部線可部〜三段峡間が廃止されてから15年になる。一部区間は復活を果たしたが、その他の部分は大半が放置されていて、中には未だにレールが残っているところすらある。

あき亀山駅(広島市安佐北区亀山南一丁目)の西方に残る可部線のレール。
手前にある道は県道267号宇津・可部線。

今もプラットホームと待合所が残る今井田駅(広島市安佐北区可部町今井田。1956〜2003)

 この可部線廃止区間について観光鉄道として再生させようという話があり、会社を設立したまでは良いが住民や行政の理解を得られず、更に資金も集まらず遂に断念してしまったことはよく知られている(注37)。観光鉄道として再生させようと考えた方のやり方が良かったのかどうか疑問が残る(その方は今どうしているのだろうか。もし跡地問題が進展していないことをどうかと思い続けているのなら何らかの行動を起こして欲しいものであるが…)のだが、それ以上に次に挙げる理由から実現は事実上不可能だったのではないかと私は考えている。
・多くの観光客が訪れるところのすぐ近くに起点となる駅が設置できないこと。
・廃止区間の途中に多くの観光客を集められるような場所がないこと。
・「また訪れたい」とか「知人や友人、同僚に魅力を教えたい」というような状況を作り出すことができるかどうか疑問だったこと。
・災害に遭いやすいこと。
・施設の老朽化対策を考えなければならないこと。
・可部線は広島県西部の景勝地・三段峡の入口に通じる路線だったが、三段峡へは自動車で行く人がほとんどであり、いくら観光鉄道として再生したとしてもそれを使って三段峡に行こうと思う人は増える可能性がなかったこと。
・可部線廃止区間の大半は平成の大合併で発足した山県郡安芸太田町を通っているのだが、地域浮揚の切り札になると期待した可部線も中国自動車道も結局は期待通りにはならず、何をやってもどうにもならないという意識が根強くなっていたこと。
・沿線には集落が多数あるのに観光鉄道として営業したら通勤・通学客が使えず、結果損をする恐れがあったこと。
・山県郡に属する自治体は過疎に悩まされている上に財政事情が厳しく、新たな負担は勘弁して欲しいという意識が根強かったこと。
・観光鉄道としては長すぎ、更に列車はそんなに速くは走らなかっただろうから利用が多いのは開業時からのしばらくの間だけで、数年経てば閑古鳥が鳴くようになった可能性が高かったこと。
・鉄道は維持費用がかさむために利用が少ないとその費用を捻出できない恐れがあったこと。
 可部線跡地に関しては広島県公式サイトの提言コーナーで自転車道として整備してはどうかという投稿がなされたこともあった(残念ながら現在は削除され、閲覧できなくなっている)が、結局広島県も広島市も山県郡安芸太田町も見て知らぬふりを決め込んだ状態になっている。確かに財政事情が厳しく、費用対効果が見込めないことには手を出したくないという気持ちは分かるのだが、果たしてこれで良いのであろうか。観光鉄道計画には冷淡な態度をとっておいて何の対案も示さず、「金がない」とか「何をやっても無駄」などと言って放置し続ける姿勢から私は可部線なんかどうでも良かったとか可部線があったことは忘れ去りたい過去だと感じているのではないかと勘繰りたくなる。
 折悪しくも今年7月上旬に広島県内各地で集中豪雨による甚大な被害が生じ、利用の少ない山間部の鉄道路線がことごとく被災している。復旧には1年以上かかるという話もあるが、復旧に見合った費用対効果は見込めないとして西日本旅客鉄道が廃止を提案してくることも考えられない話ではなくなっている。もし本当に廃止されるのなら鉄道路線跡地を自転車道にというようなことは収拾が付かなくなるので取り下げざるを得なくなってくるのだが、鉄道を冷遇し続けている広島県も人口の多い沿岸部の鉄道路線の整備だけでなく山間部の鉄道路線の維持に真剣に取り組み、一方で既に廃止されてしまった可部線や三江線の跡地の利用をどのようにするのか真剣に考えるべき時期が来たのではないか、私はそのように感じている。

その9

 今回の取材、そして執筆で感じたことは三江線に対する沿線住民の思いは決して同じではなく、温度差が著しかったということであった。私として特に残念に思ったのは次に挙げることである。
・案内看板がなく、駅がどこにあるか分からないところがあったこと。
・駅が集落の外れや山裾に押し込められているところがあったこと。
・駅の出入口が幹線道路ではなく人家や街灯のない山に向けてあったところがあったこと。
・駅前広場に設置された観光案内地図が鉄道利用者に対して背を向けていたこと(つまり鉄道利用者からは見られないということになる)。
・三江線活性化協議会が設置した看板(神楽〔かぐら〕の題目を記し、なおかつそれを演じている時の様子の写真が掲載されたもの。三江線の全ての駅について制定されていた)が交換施設廃止により使用されなくなったプラットホームに設置されていたために撮影しにくい駅があったこと。
・存続や利用を訴える横断幕は各地で見たが、利用を促す施策に対してどれだけ熱意を持っていたか疑問が残ること。
・学生や高齢者の足を確保するために町営バスを設定するなどしてますます利用されないように仕向けてしまったこと。
・西日本旅客鉄道に対して積極的な観光振興策を提案するなどしたのかどうか疑問が残ること。
 確かに三江線はそんなに関係が強いとは言えない三次市と江津市を遠回りな江の川に沿って結ぼうとしたことから全線開通を果たしても有用な路線にはなり得ないことは火を見るより明らかだった。しかも第二次世界大戦や高度経済成長期のダム建設・電源開発構想で建設工事は滞った。その間に過疎化は進展し、道路事情も良くなりつつあった。だから三江線の建設→開業について冷ややかな目で見ていた方は少なくなかったのではないかと思われる。だからこういう状況が見られても致し方はなかったのであろう。
 それは私が住んでいる福山市を通っている井原鉄道井原線にも言えることである。井原鉄道井原線は明治時代に幹線筋(注38)から外された井原市や小田郡矢掛(やかげ)町にとっては悲願の鉄道(注39)であり、それ故第三セクター方式の運営会社、すなわち井原鉄道(井原市東江原町)を設立して開業に漕ぎ着けたものである。しかし、開業時点で並行して通る国道313号線や国道486号線は既に整備が終わっていたし近隣の人口の多い都市である岡山市・倉敷市・福山市との往来には西日本旅客鉄道が運営する路線との接続駅での乗り換えを伴うという不便が生じた(注40)。更に普通列車しか設定されないため広域的観点から考えても有用とは言い難かったし駅は高架の上にあって利用するには何十段もある階段を上らなければならないし沿線に知名度が高く、多くの人が訪れる観光地はそんなにないし運賃も高い(注41)。だから井原鉄道井原線について冷めた目で見る方は少なくないだろうし、沿線自治体の井原鉄道井原線に対する考え方にも温度差が生じているのは否めないところであろう。また、1990年代半ばに表面化した岡山県のひどい財政難の一因(注42)になったのではないかと指摘する人も少なくない。

階段を上らないと利用できない井原鉄道井原線の駅の一例。
写真は湯野駅(福山市神辺町湯野)のもので、プラットホームまでは42段ある。

 それでも井原鉄道井原線はまだ三江線より沿線人口が多いし列車本数も多いのでまだ良いのだが、今後も良いのかといえばそうは言えない面がある。不安要素を挙げると次の通りである。
・並行して通る国道313号線や国道486号線では将来は上下4車線化されることになっているバイパスの建設が各地で行われていること。

今年4月21日に全線開通した国道313号線(国道486号線重用)神辺バイパス。
井原鉄道井原線のすぐ南側を並行している。

国道313号線(国道486号線重用)神辺バイパス神辺トンネル西側坑口を望む。
東行車線(左側)で暫定供用していることと西行車線の用地(右側)が確保されていることがよく分かる。

・沿線にある自治体は人口が減少しているところが少なくないこと(注43)
・今年7月上旬の集中豪雨に伴う倉敷市真備地区の浸水被害(注44)により倉敷市真備地区で甚大な被害が生じたこと。復旧には2ヶ月近くを要した。
 井原鉄道がどのようにこれらの不安要素をとらえているかは分からないのだが、いずれにせよ鉄道路線を存続させていくためには鉄道会社だけでなく地域住民や沿線自治体の目に見える努力が必要になってくることであろう。

 私は思うのだが、あるもの―それは鉄道路線だけでなく組織なども含まれるのだが―を存続させたい、発展させたいと思うのなら運営する側は当然のこと、その恩恵を享受する側も誰もが分かるような努力を示すことが必要ではないのだろうか。存続・発展のために発言することや行動することは別に悪いことではないし、それが地域や組織にとって良い結果をもたらすこともある。けれどしないことが多いのはなぜだろうか。やはりそんなことはやっても無駄だとかお前は世の中の道理が分からないのかとかこの社会で孤立したいのかとか考え方が他人とずれていることが分からないのかとかいくら声を上げても相手は分かってくれないことを知るべきだというような冷淡な考えを持つ方が多いからだろうか。それともそういうことを考える人がほとんどいないからだろうか。まあ現実に即した考えを持ったほうが良いことは良いのだが、もう少し考え方に柔軟性を持つことや多様な意見を認めること、いくら現実を分かっていたとしても志を持つ方の意欲を萎えさせるようなことを言わないように努めること、多く出された意見の中から結論を導出すること、そして自分の地位などの高さを悪用して自分の意見を押し通すことのないようにすることはできないものなのだろうか。

その10

 今のところ中国地方では鉄道路線の廃止提示があったところはない。しかし、だからと言ってこの鉄道網が今後も維持される保証はない。他地方では路線廃止に向けた動きが起きていること(注45)を考えると人口減少や過疎化、少子・高齢化が著しい中国地方も他人事でいられるわけがないのである。折しも先日の集中豪雨で中国山地を通る鉄道路線はその多くが被災したが、西日本旅客鉄道は全線の復旧を行うことにはしているもののもしかしたら「やはり復旧させても費用対効果が見込めないので…」ということで翻意し、廃止を提案してくることも考えられない話ではない。
 鉄道会社側の考えも分からないわけではないのだが、私としてどうかと思っているのは鉄道会社のやり方はあまりにも恣意的だということである。どういうことかというとお払い箱にしたい路線に対して冷遇策をとり、利用させないように仕向けているのではないかということである。どのようなことがあるかを挙げると次の通りになる。
・新型車両を導入しない。
・災害対策や事故対策を名目に徐行する箇所を設ける。
・景観の良い箇所があるのにそのことを全く公にしない。
・利用増加対策を考えないし、実践しない。
・利用しにくいダイヤにする。
・沿線住民の声を無視する。
・災害に見舞われても復旧には消極的な態度をとる。
・列車本数が減ったことを理由に列車交換施設を廃止し、所要時間を延ばす策をとる。
 特定地方交通線の整理が終わった後廃止された中国地方の西日本旅客鉄道が運営していた路線を見るとJR美祢線大嶺支線やJR可部線可部〜三段峡間では普通列車用の新型車両が導入されなかった(注46)し、三江線では各所で徐行運転を行うようになったことや列車交換施設を持つ駅が減らされたことから1980年代初頭の時点では全線の所要時間は3時間10分ほどだったのが廃止時点では3時間40分ほどになっていた。これらの事柄に対する苦情はいくらかは寄せられたことであろうが西日本旅客鉄道には聞く耳も改善する気も全くなく、時機を見計らって「○○線を廃止したいのですが…」と沿線地域に提案し、廃止を強行していったのである。
 排除したいものや気に入らないものに対しては何をしても許されるのだろうかと私は思う。その先にあるのはいつも人であり、人には感情がある。よって、そのものに関係していた人の感情も損なう。「声を上げないのは我々のやり方に賛成している証拠。だから何をしても良い」とか「いちいち一般市民の声など聞いていられない」とか「何をやっても自由だろう。やることなすことに対して何だかんだ言うのは自由を妨害することと同じだ。そんなことを言うのなら最初から関わらないで欲しい。あなたに関わることを求めたことなど一度もないのだから」などと言うのだろうが、日本国有鉄道の分割・民営化はそういう風潮を助長していったのではないのだろうか。次に挙げる事柄にその風潮は垣間見える。
・企業において気に入らない社員を追い出すためにとる施策。具体的な事例を挙げると閑職に追いやることや理解し難かったり納得できかねたりするような理由で解雇すること、いじめることなどがある。
・企業の採用試験での気に入らない人に対する採用担当者の態度。具体的な事例を挙げるとぞんざいな態度をとることや嘘をつくこと、呑めないような条件を突き付けること、志願者の気に障るような言行をとること、志願者を騙すこと(注47)などがある。
・地方の民間放送局における番組の打ち切り。確かに視聴率や聴取率が芳しくなかったりその地域の嗜好(しこう)に合わなかったり番組のスポンサーがその地域で放送する意味が見出せないと判断したりしたから番組の継続は難しいと判断してネットを取りやめたのだろうが、視聴者・聴取者の中には「放送日時を変えて続けることはできないのか」とか「番組を視聴または聴取してもらえるような努力はしたのか」とか「すぐに打ち切るくらいなら最初から放送するな」とか「視聴者または聴取者の意見を聞いた上で打ち切るかどうかを決めろ。人権侵害だ」というような苦情が出ることは考えないのだろうか。更に放送日当日の新聞のテレビ・ラジオ欄に最終回記号(注48)がなかったのに番組の終わりで「この番組は今回をもって終了させて頂きます。来週からは『○○』を放送します」というような字幕またはアナウンスがあったのでそこで初めて番組の打ち切りを知ったということも時々見られる(注49)。事前にテレビ雑誌や放送局の公式サイトなどで打ち切りを把握できていればまだ良いのだが、こういうやり方は卑怯ではないのか。我々は番組の打ち切りに怯えながら番組を視聴または聴取しなければならないのか。こんな不健全かつ恣意的な番組編成はやめて欲しい。
・民間放送局の視聴率または聴取率を稼げるなら何をしても許されるという態度。具体的な事例を挙げればきりがないので書かないでおくが、どの放送局もやっていることが同じになり、面白味を削ぐ結果になったことや何度も問題を起こし、その度に視聴者または聴取者の信頼を損ねているのに愚行を繰り返していることがどれだけ悪影響を及ぼしているのかに未だに気付いていないのがどうかと思う。更に番組の内容などについて批判すれば「イヤなら見るな」というような態度をとるだけで何の改善もしないし説明責任も果たさない。この状況を改めなければどうにもならなくなることに早く気付いて頂きたいものであるが…。
・都道府県道路線の整理(通過市区町村への移管)。前にも記した通り最近は愛知県・三重県・大阪府・鳥取県が廃止(移管)に積極的であるし、山口県でも1990年代中期に県道路線の大量廃止を断行したことがあった。しかし、せっかく都道府県が管理していた路線を恣意的にたださえ財政事情が厳しい市区町村に押し付けている感が否めないし、廃止理由が不明確な場合が多い(注50)。更に廃止したことでどれだけの費用が節減できるか示したこともない。都道府県道路線の整理を推進すべきだと主張することは「そういう主張はやめろ」とか「沿線住民の感情を逆撫でする気か」というような抗議を受ける恐れが高くなること(注51)でもあり、その点からも抵抗感をもって受け止められることであることが明白なのだが、岡山県が厳しい財政難の中でも路線網を維持していることを考えればどうにかできるのでは…と思うのは私だけだろうか。
 まだまだ挙げればあるのだが、私としては利益や効率を追求することは悪いことだとは一切考えていない。しかし、その陰で泣く人や腹を立てる人が少なくないということに思いをはせることがあるのかと訴えたいのである。確かにそういう状況を見ても「流れに乗らないと、雰囲気を察してそれに合った行動をとらないと後ろ指を差されるし孤立する。そんなことになるのはイヤだ」とか「そもそもそこはそういうところ。何を言っても取り合ってもらえないし変わろうとしないからもう関わるのはやめておこう」などと考えて何もしないでいた我々一般市民もどうかと思うのだが、やはり企業・団体・組織は一般市民からの声を真摯に受け止め、自らやっていることを顧み、それを生かす努力をしてはどうかと思うのである。「我々のやっていることは正しい。一般市民が苦情を言うことはあるがそういうことを言う人はクレーマーでしかない。よってそういう意見は一切無視する」と思い続けるのであればそれは何らかの形でいつか好ましからざる結果をもたらすであろう。もしかしたらひどい被害を受けるかもしれないし、滅びてしまうかもしれない。戦国時代の武将・武田信玄(1521〜1573)が残した名言に「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」というのがあるが、誰もがそれを真剣に考える時期が来たのではないか、私はそう思うのである。
 私として理想としているのは効率や利益、感情が両立できる社会である。恐らくそれは実現できないであろう。しかし、その社会の実現に向けて少しでも歩むこと、それが今後我々に課せられた問題になることであろう。

その11

 今後三江線の跡地と三江線の沿線はどうなっていくのだろう。線路跡地のほとんどはずっと放置されたままになるのだろうか。沿線は過疎化が更に進展して自治機能が維持できなくなり、どこかの自治体との合併を模索するとかいうような事態に陥るのだろうか。数十年後―いつまで私が生きているかは分からないが―にこんなことを見るのは本当に寂しいものがある。
 そこで私は最後に三江線の沿線自治体、すなわち島根県と広島県、江津市、安芸高田市、三次市、邑智郡邑南町、邑智郡川本町、邑智郡美郷町に対して提言をすることにしたい。こういうことをしてもどうにもならないであろうことや聞く耳を持ってもらえないであろうこと、何だかんだ言う方が出てくるであろうことは想定しているのだが、それでも書かずにはいられないのである。最終節はかなり長くなるのだが、もう少し私のとりとめのない話にお付き合い頂きたい。

1 三江線を忘れ去りたい存在にしないで頂きたいこと

 私として残念に思うのは地域の象徴として多くの方々から愛され、惜しまれつつなくなったのにそのことを示す物件が全くないという話がいくつもあることである。中には企業の敷地になっていて石碑を建立することが不可能な場合もある(注52)のだが、そういう状況がないのに何もないところも少なくなく、「なかったことにしたい過去なのか」とか「本当はどうでも良い存在ではなかったのか」と勘繰りたくなる(注53)
 そういう中で気になるのが廃止されてしまった鉄道路線を沿線住民がどのようにとらえているかである。そこで注目したいのが今秋で廃止から15年になる可部線可部〜三段峡間である。記すまでもなく惜しまれつつ廃止になった路線なのだが、(偏見と思われるかもしれないのだが)沿線自治体には最初からその存在を好意的にとらえていない、言い換えれば冷淡に受け止めている面があるのではないかと私は感じているところである。どの点にそのことを感じるのかを挙げると次の通りになる。
・廃止区間の途中にある初代(注54)筒賀駅(山県郡安芸太田町中筒賀。1956〜1969)の駅前を起終点とする県道路線が1969年(昭和44年)に二つ(県道241号筒賀停車場線〔1969〜2009〕と県道303号上筒賀・筒賀停車場線〔1969〜2009〕)も発足したのだが、発足直後に初代(注54)筒賀駅が田之尻駅(山県郡安芸太田町中筒賀。1969〜2003)に改称したにもかかわらず2009年(平成21年)に廃止するまで一切名称を変更しなかったこと。改称の契機になった加計〜三段峡間の開業(1969年〔昭和44年〕7月27日)と、その途中への二代目(注54)筒賀駅(山県郡安芸太田町中筒賀。1969〜2003)の設置(1969年〔昭和44年〕7月27日)が間近に迫っており、初代(注54)筒賀駅の改称も確実な状況になっていたのに県道241号筒賀停車場線と県道303号上筒賀・筒賀停車場線の路線認定はそれを待たずに行った(1969年〔昭和44年〕5月30日広島県告示第428号による)し、誤解を招く恐れがあることを認識しながら県道241号筒賀停車場線を県道241号田之尻停車場線に、県道303号上筒賀・筒賀停車場線を県道303号上筒賀・田之尻停車場線にそれぞれ改称することは見送り続けた。広島県としては可部線可部〜加計間が日本国有鉄道の整理対象路線(いわゆる赤字83線)に指定された直後のことであることや三段峡駅(山県郡安芸太田町柴木〔しわぎ〕。1969〜2003)から浜田市方面への延伸は進展を見なかったこと(一部取りかかったが結局白紙撤回された)から近い将来存廃問題が浮上するだろうと考え、こういう態度をとったのだろうが…(注55)

在りし日の県道241号筒賀停車場線の県道標識。後ろにかすかに田之尻駅が見える。(2003年〔平成15年〕4月1日撮影)

在りし日の県道303号上筒賀・筒賀停車場線の県道標識(2003年〔平成15年〕4月1日撮影)

・せっかく広島県西部随一の名勝・三段峡の入口の近くまで鉄道が延びたのにそのことを生かそうという姿勢がなかったこと。背景には加計〜三段峡間開業当時可部〜三段峡間の存廃問題が起きていたことやそれを乗り切った後に日本国有鉄道の経営難が表面化したこと、可部線横川〜加計間の線路規格が低かったこと、並行して通る道路、すなわち国道191号線や中国自動車道などの整備が早く進んだことなどが挙げられる。状況的に難しかったことがそこからはうかがえるのだが…。
・振興を図り、存続させようという動きがあまり見られなかったこと。三江線の例を見るまでもなく焼け石に水に終わることは火を見るより明らかではあったのだが、もう少し何とかしようという姿勢が見えなかったのがどうかと思ったものである。
・可部線可部〜三段峡間廃止後の跡地利用について積極的な議論がなく、その大半が今なお放置状態にあること。一時期実現に向けての動きがあった観光鉄道構想は前に指摘した通り難しい面があったが、それが無理なら例えば自転車道とか遊歩道として活用しようという声はなぜ上がらないのだろうか。特に広島県は前にも記した通り県道○○自転車道線は県道466号向島・因島・瀬戸田自転車道線一つしかないことを考えると二つ目の県道○○自転車道線発足への絶好の機会だったと思うのだが…(前にも書いたが「県政提言コーナー」にそういう投稿がなされたこと〔現在は削除され、見られない〕もあったのだし…)。
 なぜこんなことになったのか。私は次のように考えている。
・地域に何をしても無駄という感情が蔓延(まんえん)している可能性があること。山県郡安芸太田町に相当する地域の交通政策は平地の少ない山間部にしては厚かったと私は思う(注56)のだが、残念ながらそれは地域の発展に結び付かず、過疎からの脱却もならなかったためにそういう感情が芽生えたとしても全く不思議ではない。
・可部線可部〜三段峡間はは有用な路線にはなり得ないという予感を持つ方が多かったこと。山県郡戸河内町(1933〜2004)や山県郡筒賀村(1889〜2004)の要望や日本鉄道建設公団の方針により広島市と浜田市を結ぶ路線としては遠回りなものになったことや浜田側の建設が滞ったこと、太田川に沿って敷設されているために規格が低いこと、人口減少や道路整備の進展により利用が減ったこと、そして1968年(昭和43年)以降日本国有鉄道→西日本旅客鉄道の整理対象路線に挙げられていたことが背景にある。
・可部線廃止区間の沿線地域は平地が少なく、鉄道建設で土地を取られることに抵抗感を抱いていた人が少なくなかったこと(注57)
・沿線自治体の財政事情がどこも厳しいこと。
・(前にも記しているが)広島県は鉄道の整備に対して冷淡な態度をとっていること(注18)
・山県郡安芸太田町は山間部にある自治体としては早くから道路整備が進んだため、鉄道が絶対に必要だという人は少数派になっていたこと。
 しかし、太田川に沿って鉄道路線が延びていたことや営業期間は34〜67年と長かったこと(注58)は事実である。更に梅雨末期の集中豪雨の際可部線の築堤が砂防ダムの役割を果たし、可部線以南の地域の被害が軽減されたという話(注59)もあった。このような事実を考える時、決して可部線の存在は忘れ去って良いものではないのである。だからこそ跡地利用について議論してはどうかと思うわけであるが、「そんな金はない」とか「役に立たなかったもののことなどどうでも良い」とか「何をやっても無駄」という感情が根強く存在する以上それはかなわないことなのだろうか。
 では三江線の場合はどうなのだろうか。ますます忘れ去るのは難しい存在になっているのではないかと私は考えている。そのように考える理由は次の通りである。
・営業期間は42〜88年とかなり長かったこと(注60)
・その効果はともかく、観光振興で存続を図ろうという努力が各所で見られたこと。
・全線開通時点はともかく、廃止時点でも並行する道路の整備は進んでいたとは言い難かったために住民の貴重な足としてとらえていた人が少なくないこと。
・旧三江北線部分(江津〜浜原間)の各所には地域を度々襲った水害との闘いの跡が多数見られること。
・三江線に関する動画が動画投稿サイトで多数見られること。
・三江線を取り上げたサイトが多数存在すること。
・三江線を取り上げたテレビ番組が多数放送されたこと。
・三江線の一部の橋梁には歩道が併設されており、地域住民の貴重な交通路としても使われていたこと。
・最終開業区間(浜原〜口羽間)を中心に解体にはかなりの費用がかかるために当面施設が残される箇所が多くあること。
・廃止前には各地から多くの方々が乗りに来て地域は盛り上がったこと。
・その廃止に関しては多くの方々の関心を得るに至ったこと。
 三江線の存在をどうかと思っている方も少なくないことは念頭に置いているのだが、これでもうどうでも良いとか何をしても無駄というような感情が蔓延するのならそれは非常に残念なことだと私は思う。やはり三江線の存在を後世に継承し、跡地を活用する努力を見せて頂きたいのである。無論それは三江線に限ったことではない。
 誰もがなかったことにしたい過去を持っている。しかし、その過去を変えることはできないし、もし過去に戻れてなかったことにしたい過去を変えられるようになったとしたらその後の歴史は大きく変わってしまい、望むことは果たせずに終わることであろう。だからこそ辛くても快く思わなくても現実を受け入れ、それを生かすことを考えて頂きたいのである。

2 島根県はもう少し石見地方の振興に力を注いで頂きたいこと

 東西に長く伸びる島根県はかつて出雲・石見・隠岐と三つの令制国に分かれていた。記すまでもなく現在その中心にあり、人口が多いのは旧出雲国だった部分である(下表参照)。

※人口は2015年(平成27年)10月1日実施の国勢調査による。

※出雲国・石見国境は現在の市区郡町村境とは一致していないが出雲国・石見国に行政区域が跨る市区郡町村は中心部が出雲国・石見国のどちらかにあるかで出雲地方か石見地方かを決めている。

地方名 市区郡町村名 読み方 人口
(単位:人)
備考
出雲 松江市 まつえ/し 206,230 県庁所在地。
出雲市 いずも/し 171,938
雲南市 うんなん/し 39,032
安来市 やすぎ/し 39,528
飯石郡飯南町 いいし/ぐん/いいなん/ちょう 5,031
仁多郡奥出雲町 にた/ぐん/おくいずも/ちょう 13,063
出雲地方合計 474,822
石見 大田市 おおだ/し 35,166
江津市 ごうつ/し 24,468
浜田市 はまだ/し 58,105
益田市 ますだ/し 47,718
邑智郡邑南町 おおち/ぐん/おおなん/ちょう 11,101
邑智郡川本町 おおち/ぐん/かわもと/まち 3,442
邑智郡美郷町 おおち/ぐん/みさと/ちょう 4,900
鹿足郡津和野町 かのあし/ぐん/つわの/ちょう 7,653
鹿足郡吉賀町 かのあし/ぐん/よしか/ちょう 6,374
石見地方合計 198,927
隠岐 隠岐郡海士町 おき/ぐん/あま/ちょう 2,353
隠岐郡隠岐の島町 おき/ぐん/おきのしま/ちょう 14,608
隠岐郡西ノ島町 おき/ぐん/にしのしま/ちょう 3,027
隠岐郡知夫村 おき/ぐん/ちぶ/むら 615
隠岐地方合計 20,603
合計 694,352

 記すまでもなく人口の多いところや中心部に近いところに力を入れることが多大な効果をもたらす投資となるわけであるが、だからと言って他の地域を軽んじることは認められる問題ではない。しかし、島根県の場合、人口が多い出雲地方に重きが置かれ、その他の地方が軽んじられる傾向が強いように私は感じるのである。どういう点でそのことを感じるのかを挙げると次の通りになる。
・島根県を地盤としている、中央政界における有力政治家は出雲地方出身者が多いこと。総理大臣を務めた若槻礼次郎(1866〜1949)や竹下登(1924〜2000)、三江線全線開通記念碑に揮毫した細田吉蔵(1912〜2007)や大橋武夫(1904〜1981)はいずれも出雲地方出身である(注61)。石見地方や隠岐地方出身の政治家はいないわけではないのだろうが、(もしかしたら申し訳ないことを書いてしまうかもしれないのだが)目立った存在になり得ていない感が否めない。
・石見地方の各都市から山陽地方に向かって鉄道路線の計画があったことは前に触れた通りであるが、わずか100km程度の距離のところに五つも計画があることについて全く調整しようともしなかったこと。出雲地方は木次(きすき)線があるし人口の少ないところで乱立する計画はいずれ破綻するだろうという見方があったのかもしれないが、石見地方の各都市から山陽地方に向かう鉄道計画は経路の選定によっては広島市と山陰地方中央部を結ぶ幹線鉄道になり得た可能性があったことはどのように考えているのだろうか。三江線も実はその一つだった(注62)だけにもう少し関心を持っていたら…と思うのは私だけだろうか。
・1954年(昭和29年)に初めて主要地方道路線が指定された時、島根県では松江駅(松江市朝日町)と出雲市駅(注63)(出雲市駅北町)、益田駅(注63)(益田市駅前町)の駅前広場を起終点とする路線が指定されたのだが、益田駅の駅前広場を起終点とする路線は取り下げていること。松江駅と出雲市駅は出雲地方にあるため結局石見地方にある鉄道の駅の駅前広場を起終点とする主要地方道路線はこの時は発足しなかったわけである(注64)が、他の石見地方の都市の感情に配慮したこと(注65)も考えられるものの露骨な石見地方に対する差別にも見えて致し方ない。
・1970年代以降石見地方は道路整備の進展により広島市との結び付きが強まっていったのだが、島根県警察本部(松江市殿町)は石見地方の警察力強化には消極的な態度をとっていること。島根県における未解決凶悪事件(冤罪〔えんざい〕事件を含む)は石見地方に多い傾向があるような感じがある(注66)のだが、道路整備の進展で広島市との結び付きが強まったことは同時に石見地方が広域犯罪の現場になる恐れが高まったということであることを認識していたのだろうかと考えたくなる。事件の被害者や容疑者が他の都道府県に住んでおり、それで捜査が難航する事例は多数あったことであり、どこかで気付いて頂きたいものであるのだが…。
・国道9号線のバイパスとして建設される箇所が多い山陰自動車道の建設について、石見地方の進捗率が低いこと。江津市や益田市では一般道路で当面の間代替することになっている(注67)上に須子インターチェンジ(益田市飯田町)〜山口県境間の計画がまだ具体化していない。既に広島市方面との高速道路は完成しているのでこの状況ではますます広島市との繋がりが深くなり、島根県の一体性を形成するのが難しくなってくる。果たしてこれで良いのだろうか。
・三江線の存続について積極的に動こうとはしなかったこと。確かに松江市から遠く離れたところを通っていることや利用が少ないことなどから積極的になれなかったのは分かるのだが、鉄道路線亡き後の地域が衰退していくのを何とも思わないのだろうか。これで松江市郊外を通る木次線について存廃問題が起きた時、存続に向けて積極的に動いたら三江線沿線地域住民はどのように思うことであろうか。
 複数の令制国をもって行政区域が構成されていることや江戸時代、現在の島根県に相当する地域を治めていたのは複数の藩だったこと(注68)、出雲地方は広大な平野があるが石見地方はそれがないことなどいろいろ事情はあるのだろうが、これが望ましいとは思わない。難しい問題だとは思うのだが、真剣に考えてはどうであろうか。

3 広島県はもっと鉄道の振興に力を入れて頂きたいこと

 広島県に住んでいて感じることは広島県は鉄道の振興に消極的であるということである。どの点でそのように感じるのかを挙げると次の通りになる。
・(こちらでも書いているのだが)主要地方道が初めて指定された1954年(昭和29年)から今日に至るまで一度も「○○停車場線」という主要地方道路線を認定したことがないこと。
・(こちらでも書いているのだが)新幹線停車駅を起終点とする都道府県道路線が一切ないこと(他には大阪府だけ。なお、山陽新幹線開通前の話であるが福山駅〔福山市三之丸町〕と三原駅〔三原市城町一丁目〕を起終点とする県道路線は存在した)。
・私鉄路線の駅を起終点とする都道府県道路線を一切認定したことがないこと。
・広島市は七大都市で唯一本線・新幹線以外のJRグループが管理する鉄道路線で複線区間のある路線がないこと(つまり複線区間があるのは山陽新幹線と山陽本線のみ。呉線のうちの呉〜海田市間については用地やトンネルは確保されているところはあるが具体化していない)。
・広島市は七大都市で唯一地下鉄がないこと(但し広島市中心部と広島市安佐南区西部を結んでいる広島高速交通広島新交通一号線〔愛称:アストラムライン〕の一部区間は地下化されており、地下鉄と見なす考えもある)。
・広島市は七大都市で唯一最寄りの空港に通じる鉄道路線がないこと(構想はあったが費用対効果が見込めないことや急勾配を入れざるを得ないこと、山陽新幹線の利用者を奪われたくない西日本旅客鉄道が非協力的な態度をとったことなどから実現しなかった)。
・中国地方における日本国有鉄道→西日本旅客鉄道が運営する路線の廃止は広島県が最も多いこと。
 このようになったのは次に挙げる事情があったからではないかと思われる。
・広島県は地形がかなり複雑であり(注69)、鉄道の建設が難しい面があったこと。
・広域的な道路の整備には積極的であること。
・広島県にはマツダ(安芸郡府中町新地)という大手自動車製造会社があること。
・西日本旅客鉄道にとって微妙な立場にある地域であること。
・開発行為に対して何だかんだ言う人が少なくないこと。
・大阪市・福岡市双方から近いために影響を受ける範囲が中国地方全体に及んでいないこと。
・広島県は現実主義的な考えを持っていること。言い換えれば鉄道が陸上輸送の王者である時代は早晩終わると見ていた可能性があること。
 だが、私はこの鉄道の振興に消極的であることが広島市が七大都市の中で最も低く見られている一因ではないかと考えている。私は前に「七大都市の中で広島市が差別されている印象を抱くことが少なくない」と書いたのだが、広島市より人口の少ない仙台市が広島市より上に見られているのはなぜなのか考えたことがあるだろうか。その理由の一つが鉄道が整備されているということである。その状況を挙げると次の通りになる。
・仙台市内には地下鉄(JRグループが管理する路線を含む)が3路線もあること。
・仙台市内の本線・新幹線以外のJRグループが管理する鉄道路線には複線区間を持つものがあること。
・仙台市と他の東北地方の県庁所在地(青森市・盛岡市・秋田市・山形市・福島市)は乗り換えなしで往来できること。
・仙台空港(名取市下増田)と仙台市中心部を結ぶ鉄道路線が建設されていること。
 その成否はともかくとしてもこういう事実を挙げてみると広島市は仙台市に完全に負けているという印象を抱きたくなるし「差別」と受け取れるような仕打ちをされるのも当然の帰結だなと思いたくなる。
 まあ鉄道が陸上輸送の王者だった時代は過去のことになっているし、広島県も現実的な考えで臨んできたことも考えられるわけであるが、だからと言ってこれで良いわけではない。これ以上の地位低下や鉄道路線の廃止は何としてでも避けたい。そこで私は広島県はもう少し鉄道の振興に積極的になってはどうかと思うわけである。望まれる施策としては次に挙げるようなものがある。
・芸備線や福塩線電化区間、広島県南東部の山陽本線における普通列車用の車両の新調。
・芸備線狩留家(かるが)〜広島間の電化。
・芸備線備後庄原〜広島間の高速化。
・呉線呉〜海田市間の複線化。
・広島空港(三原市本郷町善入寺)への連絡鉄道の建設。
・新駅の設置。
・自動改札の拡充。
・広島高速交通の路線拡充。
・広島電鉄市内線の路線拡充。
・一般市民の生活実態に合った運転系統の実現。
・列車利用促進策の実践。
 中には西日本旅客鉄道が良い顔をしないものもあるし、沿線自治体が負担に対して消極的になるものもあるのだが、やはり一般市民も関心を持ち、声を上げることも必要ではないのだろうか。例えば可部線の廃止区間のうちの可部駅(広島市安佐北区可部二丁目)から1.6kmの区間が復活できたことや山陽本線西条〜八本松間に駅が設置されたこと(これらのことはこちらで取り上げているので併せてご覧頂きたい)は周辺住民がその実現に向けて長年運動し続けてきたことが大きいわけであるが、鉄道路線の消長は我々一般市民の生活に直結するだけにもう少し関心を持って頂きたいものだと思っている。
 現実主義になるのも良いかもしれないが、積極的になることも必要ではないのか。誰に何を言われようとも、理不尽な仕打ちを受けようともどうかと思うことに対しては声を上げることも必要ではないのか。それがこれからの広島県に求められる姿勢である。

4 沿線自治体は民間資本の跡地利用についてもっと関心を持ち、もっと関与して頂きたいこと

 平成時代初頭の話であるが、山陽本線下関駅(下関市竹崎町四丁目)の東口を出ると東口駅前広場の向こうに茶色の大きな建物を目にしたものであった。ところが近付いてみると1階の一部を路線バス会社が切符・定期券売り場として使っている以外は全く使われておらず、建物の中に入ることもできなかった。この建物は実はサンロードという商業施設で、その南側―その間には県道323号下関停車場線があるのだが―にある大型商業施設・シーモール下関(下関市竹崎町四丁目)と同じ1977年(昭和52年)に開業したのだが下関駅東口から遠いことやシーモール下関には規模などの面で劣っていたことなどから経営不振が続き、1988年(昭和63年)暮れに遂に路線バス会社の切符・定期券売り場を除いて閉鎖されてしまったのである。ちょうどその頃下関市は人口が減少し始めたこと(注70)などから営業再開になかなか至らないサンロードは下関衰退の象徴と揶揄(やゆ)されたものであった。
 下関市中心部は下関駅より東に大きく展開しているため下関市中心部に用のある方の大半は下関駅東口を利用することになるわけであるが、その目の前に長らく使われていないと思しき建物があったらどのように思うことであろうか。「この町はどうなっているのか。寂れているのではないか」と感じるのではないのだろうか。そのことを考えると下関市はこの問題を由々しきものととらえ、何らかの行動を起こすべきであった。しかし、下関市はサンロードの問題には一切見て知らぬふりを貫いた。その理由は次の通りである。
・下関市は1960年代以降財政事情が厳しかったこと(注71)
・下関市はシーモール下関の運営主体である下関商業開発(下関市竹崎町四丁目)に出資しており、サンロード問題に介入することは敵に塩を送ることになるためできなかったこと。
・下関駅周辺では他にもニチイ下関店(下関市竹崎町三丁目。1971〜1985)が廃業しており、大型商業施設はシーモール下関一つだけで十分であることが確定的な状況があったこと。
・人口減少や主力産業の衰退、福岡・北九州方面へのストロー現象(ストロー効果)の激化といった問題があることは認識していたが、危機感に乏しいのか、諦めの雰囲気が蔓延していたのかどうかは分からないのだが具体的な行動を起こそうという雰囲気が見られなかったこと。
・民間資本の失敗の尻拭いをするのはどうかという考えが根強かったこと。
・シーモールの運営主体の下関商業開発と、サンロードの運営主体の専門大店(下関市竹崎町四丁目)は福岡・北九州方面への買い物客流出に対して共闘すべき立場にあったのに何らかの事情で反目し合う関係になってしまったこと(シーモール下関にニチイ下関店が移転入居しなかったのも同じ事情があったからだろう(注72)が…)。
 しかも時代もサンロードには味方しなかった。バブル景気の終焉とその後の長期的な不況、郊外型大型商業施設の開業などがあったのだが、こうなるともう再開など望めたものではなかった。結局サンロードはある私立大学が買収し、サテライトキャンパスを建設するということで1996年(平成8年)に解体されたのである。
 しかしその計画は頓挫し、長らく跡地は放置されていた。駅前の一角が鉄板で覆われ、立ち入りできないという状況が生じたのである(もっともその中は下関駅東口に建設された人工地盤から見ることができたのだが)。結局サンロード跡地は結婚式場に転用されることになり、閉鎖当時の建物は取り壊されたが跡地問題は十数年かかってようやく解決を見たのである。
 さて、なぜ私はここで鉄道とは関係のない話を書いたのか。それは町中にあってよく目立つ民間資本の跡地について地方自治体はもっと関心を持って頂きたいということを訴えたいからである。まあ民間資本の失敗の尻拭いをすることに対してはどうかと思う声も少なくないし、財政事情が小さければ小さいほど、芳しくなければ芳しくないほど関わるのを嫌う傾向があるわけであるが、他地域から来た人が代表駅の出口の眼前に何年も使用されないままでいる大きな建物や幹線道路に並行して延びる、廃止されて久しい鉄道路線の跡地が放置されているのを見たらどのように思うのだろうか。そのことを真剣にとらえて頂きたいのである。
 鉄道路線の跡地は細長いことや長いトンネルが多いことなどから使い道が限られている。しかし、解体するにしても、遊歩道や自転車道に転用するにしてもかなりの費用がかかることから放置される場合が少なくない。確かに中には放置することが最善の措置だろうと思うところもあるわけであるが、可部線廃止区間や三江線は放置することが最善の措置であるとは私は考えない。何らかの形で活用することを考えたほうが良いと考えている。その一つの案が島根県には出雲地方にしかない、広島県には一つしかなく、しかも本土にはない自転車道への転用であるというわけであるが、財政事情が厳しいことやその代償があまりにも重いものになること(注73)は承知で記すもののもし実現すれば、更に知名度を上げる施策を考えれば広島県唯一の県道○○自転車道線である県道466号向島・因島・瀬戸田自転車線のように人気のある自転車道となる可能性も秘めているように思う。
 三江線沿線の自治体が三江線の跡地についてどのようにしようと考えているのか、それは定かではない。しかし、サンロードや可部線廃止区間の二の舞にはして頂きたくない。もしそのようにするのならそれは三江線に関心を寄せた多くの方々に対する背信行為でしかない。財政事情が芳しくないので費用のかかることはできないし、何かしたところでさしたる効果もなく終わるだろうと思う方が多勢を占めるかもしれないが、何とかしようという気概を見せて頂きたいものだと思う。

5 島根県と広島県は三江線沿線の交通事情の改善について真剣に考えて頂きたいこと

 何度も記してきたように三江線は並行道路の整備がまだ終わっていない状況で廃止されたわけであるが、それから間もなく交通事情の改善を痛感させられる事件が起きたことはあまり知られていない。今年5月7日未明に江津市桜江町谷住郷の国道261号線で土砂崩れが発生し、10日間通行できなくなった事件である。この土砂崩れが起きたところは江の川の対岸を通る県道112号三次・江津線が途切れているところであり、江津市中心部と江津市桜江地区・邑智郡各町を往来するのに遠回りを余儀なくされることになったのである。
 そのことを知った私はもし県道112号三次・江津線が通れるようになっていたら大型車の通行が困難であるとか異常気象時通行規制区間があるという問題はあるけれど江津市中心部と江津市桜江地区・邑智郡各町を往来するのに有用な迂回路になっていたのではないかと考え、島根県公式サイトの「県民ホットライン」にその旨を投稿した(それはこちら)。島根県の回答は本企画の予想通り(そのことは第8章で触れている)だったわけであるが、今後も江の川の対岸を通る県道112号三次・江津線が途切れているところの国道261号線が災害に見舞われない保証はないことや一度災害に見舞われると長期間不便を余儀なくされることを思うとどうにかならないのかなという思いを新たにした次第である。
 まあ三江線は中国地方随一の大河・江の川に沿って敷設されたことを考えると三江線に並行して通る道路も災害の危険性をはらむ運命を持っているわけであるが、三江線亡き後地域交通を担う道路が災害で塞がれ、しかもかなり遠回りしなければならないという現実はどうなのだろうか。確かに地形が険しいことや財政事情が厳しいことから改良を積極的に進められないという状況があるのは分かるのだが、だからと言って何もしないというのは私としてはどうかと思う。三江線の跡地の活用は今後の問題になってくることを思うと私はやはり三江線の跡地を活用して県道112号三次・江津線の未開通区間の解消を行い、県道の三江線の全線開通を目指しても良いように感じているところである(注74)。「それでは自転車道に転用してはどうかという主張と矛盾するだろう」と指摘する方もいるかもしれないのだが、県道○○自転車道線が既存の県道路線と同じところを通っているところは多数あり、問題はないと考えている(注75)
 一方、三江線亡き後、並行道路を代替交通機関として路線バスが多数設定されたのは良い(路線図と時刻表はこちら)のだが、鉄道路線が撤退するほどの過疎地でどれだけの利用があるのか、そして5年後、10年後どれだけの路線が存続し、反対にどれだけの路線が廃止されてしまうのだろうかと気になってしまう。利用するのは自動車やバイクを運転できない人(いわゆる交通弱者)に限られるだろうし、その数も年々減っていくことであろう。まあ設定はしたけれど実態とはかけ離れていたということで見直しが起きることは致し方のないことではあるのだが、交通弱者への配慮をどのようにするかが今後は求められていくことになろう。不便だから他地域に転居する→人口が減る→バスの便数が減る…という悪循環を繰り返して結局廃止という最悪の事態だけは何とか回避して頂きたいものではあるのだが…。

6 多様な意見を認めてそこから議論を進めて方向性を定めて頂きたいこと

 私として残念に感じていることは一つの流れが決まるとそれに反するものは排除されるという現実である。その時主流的立場にある人々の口から出る言葉は次のようなものである。
・そんな金は我々にはない。
・そこまでこだわる必要がどこにあるのか。
・そんなことはやっても無駄。
・我々の考えに背くならこの場から立ち去ってくれ。
・二度とそんなことは言ってくるな。
・強硬的になっても困る。
・うるさい。
・お前は我々の和を乱している。
・これまでいろいろやってきたがどれも報われなかった。それを分かっているのか。
・空気(雰囲気)を読め。
・お前の意見は独り善がりだ。
・考えが甘い。
・考えていることが他の人とずれている。
・いつまで夢を見ているのか。
・あなたの意見は聞く耳を持てない。
・あなたの意見は利益にならない。
 こういう傾向は民間テレビ放送局の番組(特に情報番組)を見るとよく分かる。取り上げ方がどこも同じようなものだと常々感じるのである。事例は多数あるのでここでは書かないでおくのだが、見ていてどこか一局でも良いから別の取り上げ方をしようという考えはないのかと思いたくなってくるのである。放送局側は「視聴率が稼げないからそういうことは考えていない」とか「人権や名誉なんかどうでも良い。視聴者が見てくれればそれで良いだろう」とか「そんなに方針に楯突くのなら私どもの番組はご覧にならなくて結構だ。私どもはあなたに番組を見るよう求めたことはないし、私どもの番組を見ることは義務ではないのだから」と言うのだろうが、同じでないと安心できない、変わったことをすれば損にしかならないのでしないという考えがそこには垣間見える。
 そういう局面に相対した人の態度は次のようになる。
・「現実は変えられないのだ」とか「自分一人が何かをしたところで世の中は変わらない」と考えて諦める。
・「絶対に自分の思いは果たさなければならない」と考えて自分の思いを認めさせよう、自分の思いを果たそう、そして自分の思いを実現させようと努力する。
・「自分の考え方は正しいのに誰も分かってくれない」とか「自分は一生懸命になっているのになぜ分かってくれないのか」とか「自分は何も悪いことはしていない。なのになぜ拒絶するのか」などと考えて自分を認めない人間を悪者と決め付け、自分の考え方を認めない人間に対して攻撃的な態度に出る。
 私として好ましいと思うのは二番目に挙げた「『絶対に自分の思いは果たさなければならない』と考えて自分の思いを認めさせよう、自分の思いを果たそう、そして自分の思いを実現させようと努力する」である。一番目の「『現実は変えられないのだ』とか『自分一人が何かをしたところで世の中は変わらない』と考えて諦める」というのは自分のやり方に問題はなかったのかとか自分の志をあっさり諦めて悔いはないのかという疑問が残るし、三番目の「『自分の考え方は正しいのに誰も分かってくれない』とか『自分は一生懸命になっているのになぜ分かってくれないのか』とか『自分は何も悪いことはしていない。なのになぜ拒絶するのか』などと考えて自分を認めない人間を悪者と決め付け、自分の考え方を認めない人間に対して攻撃的な態度に出る」というのはますます自分の支持を失わせ、望んでいない結果を招く恐れが高くなる。どれを選ぶかは個人の自由ではあるのだが、やはり後味の悪さを残すことだけは避けて頂きたいものだと思うところである。
 一方で私は流れを決めた側ももう少し考えの違う方々の声に対して聞く耳を持つなり柔軟な考えを持つなりしてはどうかと思うところである。確かに確固たる考えを持ち、それを基に目的に向かって進むことは別にいけないことではないのだが、その一方で寄せられる意見には一切耳を傾けず、何だかんだ言う人は排除し、自身の考えていることややっていることに対して一切見直しも反省もしないならば多くの場合発展・永続への道ではなく破綻への道を突き進むことになるであろう。無論その後には好ましい結果など生まれはしない。
 これから三江線の跡地利用の問題や三江線亡き後の地域振興が論議されていくことになるだろうが、私は可部線廃止区間の二の舞だけは避けて頂きたいと思っているところである。ここでも指摘している通り一時期話のあった観光鉄道構想は実現困難なものであり、断念に至ったのは当然の帰結と言えるものであったのだが、その案に消極的だった方々は廃止から15年近く経つ可部線跡地の大部分が今なお放置されていることをどのように感じているのだろうか。私としていつも残念に思うのはある提案に反対しておいて対案を示さないことやその提案を却下する際に一切却下した理由を説明せず、提案者の不信感を解消しようとしないことであるが、これでは日本は真の民主主義国家にはなり得ないし、大多数の方が望む状況などいつまで経っても実現しないだろう。
 私は訴えたい。状況は厳しいけれど、何をするにも消極的になっているのかもしれないけれど、寄せた意見を真摯に受け止め、生かすことを考えて頂きたい。決してそれらの意見は看過すべきではない、真面目なものなのだし、独善的や強硬的なものに見えて実はそうではないものなのだし、閉塞的になっている地域の未来を変えるものになるのかもしれないのだから。

 さて、昨年10月から1年近くかかって展開してきたこの企画であるが、ようやくここで終わりにすることができた。本来なら三江線が廃止されるまでに書き上げたかったのだが、いろいろあってかなり時間がかかったことをお許し頂きたい。しかし、この企画で紹介したものは貴重な記録として本サイトが存続する限り公開していきたいと思っている。
 最後になったが、一日も早く三江線の跡地利用の問題や三江線亡き後の地域振興が定まり、実現していくこと、そして二度とこういう企画を組まないで済むようになることを望みつつこの企画を締めることにしたい。

注釈コーナー

注1:1947年(昭和22年)秋にアメリカ合衆国軍が撮影した空中写真(国土交通省国土地理院〔つくば市北郷〕の公式サイトの「地図・空中写真閲覧サービス」で閲覧することができる)を見ると三次側は式敷駅付近まで建設が進んでいたことがうかがえる。

注2:石見江津駅が江津駅に改称したのは1970年(昭和45年)6月1日のことである。

注3:日本国有鉄道はその施策では次に挙げる条件を満たした路線を対象とした。
・営業キロが100km以下であること。
・鉄道網全体から見た機能が低いこと。
・沿線人口が少ないこと。
・定期乗車券を利用する客の片道輸送量が3,000人以内であること。
・貨物の一日の発着量が600t以内であること。
・輸送量の伸びが競合する輸送機関のそれを下回っていること。
・旅客・貨物とも輸送量が減少していること。
そして中国地方では下表に挙げる路線が対象になった。

通過県 路線名称 対象区間 延長
(単位:km)
備考
鳥取県 倉吉線 全区間
(上井〜山守間)
20.0 上井(あげい)駅は現在のJR山陰本線倉吉駅(倉吉市上井。1972年〔昭和47年〕2月14日改称)。
1985年(昭和60年)4月1日廃止。
若桜線 全区間
(郡家〜若桜間)
19.2 1987年(昭和62年)10月14日西日本旅客鉄道から経営分離。
現在は若桜(わかさ)鉄道若桜線として営業中。
島根県 三江北線 全区間
(石見江津〜浜原間)
50.1 石見江津駅は現在のJR山陰本線江津駅(1970年〔昭和45年〕6月1日改称)。
1975年(昭和50年)8月31日三江線に改称。
2018年(平成30年)4月1日廃止。
大社線 全区間
(出雲市〜大社間)
7.5 1990年(平成2年)4月1日廃止。
島根県・
広島県
三江南線 全区間
(三次〜口羽間)
28.4 1975年(昭和50年)8月31日三江線に改称。
2018年(平成30年)4月1日廃止。
広島県 宇品線 全区間
(広島〜上大河間)
2.4 利用者減少と国道2号線新広島バイパス建設に伴い1966年(昭和41年)12月20日上大河(かみおおこう)〜宇品間の旅客営業廃止(この時をもって存続区間のダイヤが市販の時刻表に載らなくなる)。広島〜上大河間の旅客営業も1972年(昭和47年)4月1日廃止。その後貨物線として存続するがそれも1986年(昭和61年)10月1日廃止。旅客営業を行っていた頃には営業係数(100円を稼ぐのにどのくらいの費用がかかるかを示した数値。100以下なら黒字、100以上なら赤字となる)が日本国有鉄道が経営する鉄道路線で最悪になったこともある。
可部線 可部〜加計間 32.0 2003年(平成15年)12月1日廃止(同時に延伸区間の加計〔かけ〕〜三段峡間も廃止)。
可部駅から1.6kmの区間は2017年(平成29年)3月4日に復活しているが、その間にあった河戸(こうど)駅(広島市安佐北区亀山二丁目。1956〜2003)は復活しなかったため復活というよりは新規開業路線と考えたほうが良いと言える。
山口県 岩日線 全区間
(森ヶ原信号場〜錦町間)
30.8 森ヶ原信号場(岩国市御庄)はJR岩徳線との分岐点にある信号場(旅客上の分岐駅とされているJR岩徳線川西駅〔岩国市川西二丁目〕から1.9kmのところにある)。
河山〜錦町間は1963年(昭和38年)10月1日に開業した、中国地方では1968年(昭和43年)時点で最も歴史の浅い開業区間であった。
1987年(昭和62年)7月25日西日本旅客鉄道から経営分離。
現在は錦川鉄道錦川清流線として営業中。

しかし、本文でも記した通りこの時の鉄道路線合理化策は沿線住民の強硬な反対運動などが原因でほとんど進まず、中国地方では宇品線が廃止され、貨物線に転用されただけに終わっている。

注4:但し日本国有鉄道でも災害で甚大な被害を受けたことを理由に復旧させないで廃止した例がある。長崎県にあった柚木(ゆのき)線(1920〜1967)である。石炭輸送がなくなり、一日に4往復(しかも朝と夕方だけ)しか列車が走らなかったことでもうかがえるように旅客利用も減っていたところに集中豪雨で甚大な被害を受け、そのまま1967年(昭和42年)9月1日に廃止されている。

注5:興浜線の場合は興浜南線雄武(おむ)駅(紋別郡雄武〔おうむ〕町雄武。1935〜1985)・興浜北線北見枝幸(きたみえさし)駅(枝幸郡枝幸町栄町。1936〜1985)双方からいくらかは建設が進められ、高架や橋梁、トンネルが完成していたのに対し、越美線の場合は全く着手されずに白紙撤回の日を迎えている。
※興浜南線・興浜北線・越美南線・越美北線のその後は次の通りである。
・興浜南線…1985年(昭和60年)7月15日廃止。
・興浜北線…1985年(昭和60年)7月1日廃止。
・越美南線…1986年(昭和61年)12月11日日本国有鉄道から経営分離。現在は長良川鉄道越美北線として営業中。
・越美北線…現在は西日本旅客鉄道の管理する路線として営業中。

注6:智頭線・今福線(広浜線)・岩日北線・井原線はある程度構造物は完成していたのに対し、南勝線は全く着手されずに白紙撤回の日を迎えている。この後智頭線と井原線は第三セクター方式で運営会社を設立して建設が再開され、智頭線は智頭急行智頭線として1994年(平成6年)12月3日に、井原線は井原鉄道井原線として1999年(平成11年)1月11日にそれぞれ開業している。
※ここでは本四備讃線(通称:瀬戸大橋線)は含めていない。本四備讃線が着工されたのは1978年(昭和53年)10月10日のことだからである。

注7:気仙沼線は東北地方随一の都市・仙台市と宮城県北東部・岩手県南東部を結ぶ路線としては有用であり、優等列車の設定も考えられるところではあったのだが、快速列車「南三陸」号(1988〜2011)が一日2往復設定されただけに終わっている。このようになったのは日本国有鉄道の経営事情が悪化していたことや全線開通時点で並行して通る国道45号線の整備が終わっていたこと、沿線の過疎化が進展し、需要が見込めなかったことなどが挙げられる。
※気仙沼線は本文でも触れた通り東日本大震災で甚大な被害を受けた路線の一つである。現在は柳津(やないづ)線だった部分(前谷地〔まえやち〕〜柳津間)だけで列車が運行されており、最終開業区間(柳津〜本吉間)と初代気仙沼線だった部分(本吉〜気仙沼間)は鉄道での復旧は断念され、一部はバス専用道路に転用されている。

注8:粟屋駅(三次市粟屋町。1955〜2018)が挙げられる。

注9:口羽駅や石見都賀駅(邑智郡美郷町都賀本郷。1975〜2018)が挙げられる。

注10:並行道路の整備が進んでいなかったために廃止を免れ、JRグループ各社に運営が移行した路線は下表の通りである。

※「並行道路の整備が進んでいなかった」というのは1980年代のことであり、現在では大きく状況が異なっている場合がある。

※予土線の延長は四国旅客鉄道(JR四国。高松市浜ノ町)が運営する区間(川奥信号場〜北宇和島間)の距離を記している。

通過
都道府県名
路線名称 延長
(単位:km)
継承会社名 備考
北海道 深名線 121.8 北海道 並行道路の整備が完成したことから1995年(平成7年)9月4日廃止。
岩手県 岩泉線 38.4 東日本 2010年(平成22年)7月31日発生の土砂崩落・脱線事故を契機に運休。災害復旧を行わないまま長期間放置され、結局2014年(平成26年)4月1日廃止。廃止時点で並行道路の整備は完成していなかった。
山田線 157.5 東日本 東日本大震災で被災したため運休している宮古〜釜石間55.4kmは2019年(平成31年)3月23日に復旧し、その際三陸鉄道に移管されることになっている(ちなみに路線名称に用いられている「山田」は宮古〜釜石間にある)。
福島県/
新潟県
只見線 135.2 東日本 並行して通る国道252号線に冬期閉鎖箇所があるために存続。
会津川口〜只見間27.6kmが2011年(平成23年)7月下旬の集中豪雨で被災したため運休中(2021年度〔平成33年度〕復旧予定)。
福井県 越美北線 52.5 西日本
三重県 名松線 43.5 東海
島根県/
広島県
木次線 81.9 西日本
三江線 108.1 西日本 並行道路の整備が完成していなかったにもかかわらず2018年(平成30年)4月1日廃止。
愛媛県/
高知県
予土線 72.7 四国
熊本県/
宮崎県/
鹿児島県
肥薩線 124.2 九州
宮崎県/
鹿児島県
日南線 88.9 九州

注11:著名な事例としては日本国有鉄道の分割・民営化とそれに伴う西日本旅客鉄道の発足の際には中国地方各地を走っていた客車寝台特急列車の食堂車営業休止がある。日本国有鉄道の分割・民営化とそれに伴う西日本旅客鉄道の発足の時点では東京駅(千代田区丸の内一丁目)と中国・九州地方各地を結んでいた列車の大半に食堂車が連結され、営業していたのだが、1991年(平成3年)6月1日に「出雲」1・4号と「みずほ」号について、更に1993年(平成5年)3月18日に「あさかぜ」1・4号と「さくら」号、「はやぶさ」号、「富士」号についてそれぞれ食堂車の営業を取りやめている。列車利用者の減少が一因であるが、このことが列車利用者の更なる減少を招き、東京駅と中国・四国・九州地方各地を結んでいた客車寝台特急列車全廃(2009年〔平成21年〕3月14日)に至ったことは否めないところであろう。

注12:国道9号線浜田道路の相生インターチェンジ以西の区間、すなわち山陰自動車道(国道9号線浜田道路)相生インターチェンジ〜原井インターチェンジ(浜田市原井町。当時未供用)間及び国道9号線浜田道路原井インターチェンジ(当時未供用)〜浜田市笠柄町/浜田バイパス西口交差点間は1993年(平成5年)6月3日に開通している。
※原井インターチェンジは2015年(平成27年)3月14日に山陰自動車道(国道9号線浜田・三隅道路)原井インターチェンジ〜西村インターチェンジ(浜田市西村町)間が開通した時に供用を開始している。なお、原井インターチェンジは国道9号線現道益田方面と山陰自動車道(国道9号線浜田道路)松江・広島方面との出入りしかできない構造になっている。

注13:中国横断自動車道広島・浜田線のうち、表に掲載しなかった区間の開通時期は下表の通りである。

路線名称 区間 開通年月日 備考
広島自動車道 広島ジャンクション(広島市安佐南区伴中央六丁目)〜
広島北インターチェンジ(広島市安佐北区安佐町飯室)
1985年
(昭和60年)
3月20日
山陽自動車道広島ジャンクション〜五日市インターチェンジ(広島市佐伯区五日市町石内)間と同時開通。
山陽自動車道広島ジャンクション以東の区間はこの当時はまだ建設中であり、福山方面とのランプウェイは当面の間使用されなかった(1988年〔昭和63年〕12月7日広島インターチェンジ〔広島市安佐南区川内二丁目〕〜広島ジャンクション間の開通により使用開始)。
広島自動車道 広島北インターチェンジ〜
広島北ジャンクション(広島市安佐北区安佐町飯室)
1983年
(昭和58年)
3月24日
中国自動車道 広島北ジャンクション〜
千代田ジャンクション
1983年
(昭和58年)
3月24日
その時開通した千代田インターチェンジ(山県郡北広島町丁保余原〔よおろほよばら〕)〜鹿野インターチェンジ(周南市鹿野上)間の一部区間。前記区間の開通により中国自動車道は全線開通した。
開通当時千代田ジャンクションは未供用。

ちなみに中国横断自動車道広島・浜田線は本州を横断する高速道路としては東京都と新潟県を結んでいる関越自動車道(1985年〔昭和60年〕10月2日全線開通)に次いで二番目に全線開通を果たした路線でもある。

注14:平成の大合併では町村統合で人口が3万人を超えた場合市制施行に踏み切れる特例を設けていた。しかし、邑智郡の2000年(平成12年)10月1日実施の国勢調査による人口は2万8,878人となっており、市制施行要件を満たしていない。

注15:結局名松線家城〜伊勢奥津間は2016年(平成28年)3月26日に復旧を果たしている。

注16:但し東日本旅客鉄道は岩泉線廃止に当たって存続要因になっていた宮古市・下閉伊郡岩泉町境付近の国道340号線の未改良箇所の整備に協力することを提案している。その結果、岩泉線押角トンネル(全長:2,987m)は国道340号線の押角トンネル(仮称。全長:3,094m)に転用されることになった(2020年度〔平成32年度〕開通予定)。

注17:江の川という地名は何度か全国高等学校野球選手権大会や選抜高等学校野球大会に出場した私立高校の名称に使われていることで知った方も多いのではないのだろうか(著名な出身者としては横浜大洋ホエールズ→横浜ベイスターズ〔現:横浜DeNAベイスターズ〕や中日ドラゴンズで捕手として活躍し、中日ドラゴンズの監督も務めた谷繁元信〔庄原市出身〕がいる)。但しこの江の川高等学校は2009年(平成21年)に石見智翠館(いわみちすいかん)高等学校(江津市渡津町)に改称している。

注18:広島県が鉄道の振興に対して冷淡な態度をとっていることは次に挙げる事実からもうかがえる(以下は本文の再掲である)。
・主要地方道が初めて指定された1954年(昭和29年)から今日に至るまで一度も「○○停車場線」という主要地方道路線を認定したことがないこと。
・新幹線停車駅を起終点とする都道府県道路線が一切ないこと。
・私鉄路線の駅を起終点とする都道府県道路線が一切ないこと。
・広島市は七大都市で唯一本線・新幹線以外のJRグループが管理する鉄道路線で複線区間のある路線がないこと。
・広島市は七大都市で唯一地下鉄がないこと。
・広島市は七大都市で唯一最寄りの空港に通じる鉄道路線がないこと。
・中国地方における日本国有鉄道→西日本旅客鉄道が運営する路線の廃止は広島県が最も多いこと。

注19:今福線(広浜線)は当初山陰本線下府駅(浜田市下府町)から分岐する路線として建設された。下府川に沿って浜田市金城町今福まで建設され、開業まであと少しのところまで工事は進んだのだが、第二次世界大戦の影響で開業は見送られている。その後下府川に沿って建設された路線は放棄され、山陰本線浜田駅(浜田市浅井町)からほぼまっすぐに浜田市金城町今福に向かう経路で建設が進められたのだが、これも日本国有鉄道の経営再建の過程で白紙撤回されている。なお、浜田市金城町今福の線路跡地は県道5号浜田・八重・可部線のバイパスに転用されており、県道5号浜田・八重・可部線を上り方向(可部・安芸高田・北広島→浜田)に走った場合、前方に今福線(広浜線)の跡地を見ることができる。

下府駅の山陰本線下りホーム。右側の空き地に今福線(戦前建設線)のレールが敷かれる予定だったという。

注20:森口誠之(もりぐち・まさゆき)著「JTBキャンブックス 鉄道未成線を歩く 国鉄編」(2002年〔平成14年〕JTB〔現:JTBパブリッシング〈新宿区払方町〉〕刊)を見るとある路線の話であるが農閑期には農民の格好のアルバイト先になったりそれまで存在しなかったスナックやキャバレーが開業したりして地域経済が少なからず潤っていたことが記されている。

注21:国道2号線松永道路の上下4車線化は広島県立松永高等学校(福山市神村〔かむら〕町)の北方にある平(ひら)トンネル(上り線用。全長:247m)の建設を始めようというところで民主党中心の政権が発足する少し前から中断していた。結局国道2号線三原バイパスの全線開通(2012年〔平成24年〕3月31日)までは中断が続き、再開されたのは2013年(平成25年)頃からである(完成したのは2017年〔平成29年〕3月26日)。

注22:反対に冗談のつもりで言ったことと推察されるのにそれが元で役職を辞めざるを得なくなった例もある。柳田稔法務大臣(当時)のいわゆる「国会軽視」発言である。場を楽しませるためにそういう発言をしたのではないかと思うのだが、政治家は少なくとも公の場では冗談も言ってはならないのだろうかと思うのは私だけだろうか。

注23:岡山県と四国地方に属する香川県が同じ放送区域になったのは1979年(昭和54年)のことである。その時点で岡山県側には第三民間テレビ放送局用のチャンネルが郵政省(現:総務省)から割り当てられていたのだが、それが岡山・香川両県の第五民間テレビ放送局用のチャンネルに移行し、五大都市(札幌・東京・名古屋・大阪・福岡)以外で唯一テレビ東京系列に属する民間テレビ放送局が開局できた要因になった。但し、岡山・香川両県の人口は広島県の人口より少し多いのだが300万人に満たず、下に示す通り民間放送局の経営はかなり厳しい状況になっている。
・五大都市のある都道府県以外にある唯一のテレビ東京系列に属する民間テレビ放送局・テレビせとうち(TSC、岡山市北区柳町二丁目)は未だに井原市に中継局を設置できていないし、中国地方に本社を置いている民間テレビ放送局では唯一広島市に支社を設置できていないといった問題を抱えている。
・テレビ東京系列に属する民間テレビ放送局がない広島県では放送されたのにテレビせとうちでは放送されずじまいになった番組がいくつかある。
・西日本放送テレビ(RNC、高松市丸の内)は四国地方に本社のある日本テレビ系列に属する民間テレビ放送局で唯一終夜放送を実施していない。
・山陽放送ラジオ(RSK、岡山市北区丸の内二丁目)の自社制作のワイド番組の改廃が激しい。
・山陽放送ラジオはradikoへの参入も遅かったし、エフエム補完放送の開始も遅かった。
・西日本放送ラジオは日曜日は午前0時で放送を終了している。
・西日本放送ラジオはradikoへの参入も遅かったし、未だにエフエム補完放送開始への動きを見せていない。
・かつて山陽放送ラジオはJRN(詳細はこちらを参照のこと)にしか、西日本放送ラジオはNRN(詳細はこちらを参照のこと)にしかそれぞれ加盟していなかったが、1997年(平成9年)にどちらもJRN・NRNクロスネット局に転換したことから両局とも独自性が薄れた感が否めない(前記の山陽放送ラジオの自社制作のワイド番組の激しい改廃はこのことに起因する可能性もある)。
・(喋り手の高齢化による引退が主たる原因と思われるのだが)西日本放送ラジオ随一の長寿番組だった「タンゴアルバム」(1953〜2017年〔昭和28年〜平成29年〕放送)が昨年10月末で終了してしまった。
・香川県ではこれまでに五つコミュニティ放送局が開局したが、そのうちの三つは既に廃業している(中でもエフエムこんぴら〔仲多度郡琴平町榎井〈えない〉。1997〜1998〕は日本で初めて廃業したコミュニティ放送局として知られている)。
・岡山県ではコミュニティ放送局の廃業事例はないが、経営上の問題から半年間放送休止したり自社制作番組を大幅に減らしたりしているところがある。
ただ、厳しい状況でも頑張っている様子は各所で垣間見られる。それを挙げると次の通りになる。
・山陽放送テレビや岡山放送は毎週ゴールデンタイムに自社制作番組を放送している。
・テレビせとうちは1989年(平成元年)以降中断した時期はあったが全国ネットのアニメ番組を制作している(現在は「しまじろうのわお!」を放送している。但しこの「しまじろうのわお!」は全編アニメではない)。
・エフエム香川(高松市西宝町一丁目)は多くの都道府県域民間ラジオ放送局が放送を休止している月曜日の早朝も原則として終夜放送を実施しており、完全終夜放送を実施している。
・岡山エフエム放送(岡山市北区中山下一丁目)には開局した1999年(平成11年)春からずっと続いている自社制作のワイド番組が二つもある。
・山陽放送ラジオ・西日本放送ラジオとも中波放送の周波数を統一している(山陽放送ラジオ…1494kHz、西日本放送ラジオ…1449kHz)。
・山陽放送ラジオはホームゲームに限定しているのだがJリーグ二部に属しているファジアーノ岡山の公式戦を中継している。
いろいろ意見はあるところであるが、これらのことは評価したいものである。

注24:山口県にはフジテレビ系列に属する民間テレビ放送局がないのだが、TBS系列に属しているテレビ山口(TYS、山口市大内千坊六丁目)が「ミュージックフェア」をネットしていたことがある(2000年〔平成12年〕6月をもって打ち切り)。
※本文では書かなかったのだが山陰中央テレビジョン放送での「ミュージックフェア」のネットは1981年(昭和56年)9月で打ち切られている。

注25:「C1000 presents yuumiのLOVELY DAY」の2008年(平成20年)3月時点におけるネット局は次の通りである。
・静岡エフエム放送(制作局)
エフエム北海道(愛称:AIR-G'〔エアージー〕。札幌市中央区北一条西二丁目)
エフエム仙台(愛称:Date fm〔デイトエフエム〕。仙台市青葉区本町二丁目)
エフエム東京(愛称:TOKYO FM。千代田区麹町一丁目)
・エフエムラジオ新潟(愛称:FM-NIIGATA。新潟市中央区幸西四丁目)
・エフエム石川(愛称:HELLO FIVE〔ハローファイヴ〕。金沢市彦三町二丁目)
・エフエム愛知(愛称:@FM〔アットエフエム〕。名古屋市中区千代田二丁目)
・エフエム大阪(愛称:FM OH!。大阪市浪速区湊町一丁目)
・広島エフエム放送
・エフエム香川
・エフエム福岡(福岡市中央区清川一丁目)
このうち静岡エフエム放送・エフエム東京・エフエム愛知・エフエム大阪以外の放送局について2008年(平成20年)3月末をもってネットが打ち切られている。番組はその半年後の2008年(平成20年)9月末で終了しており、ネット局の大幅削減が番組の終わりの始まりになってしまった感が否めない。
ちなみに広島エフエム放送では「C1000 presents yuumiのLOVELY DAY」は日曜日の朝に放送されていたのだが、当時私は日曜日の朝に車を運転する機会が多く、故に聴く機会も多かった(私は車を運転する時はエフエム放送をかけることが多い)。だから広島エフエム放送などでのネット打ち切り通告も聴くことができたのである。

注26:西日本旅客鉄道が発足した1987年(昭和62年)4月1日時点で西日本旅客鉄道が管理していた路線(貨物線を除く)で移管・鉄道営業終了により切り捨てられたものは下表の通りである。

府県名 路線名称 区間 延長
(単位:km)
廃止年月日 備考
新潟県
富山県
石川県
北陸本線 金沢〜直江津 177.2 2015年
(平成27年)
3月14日
北陸新幹線長野〜金沢間開業に伴う経営分離。
金沢〜倶利伽羅間17.8kmはIRいしかわ鉄道に、倶利伽羅〜市振間100.1kmはあいの風とやま鉄道に、市振〜直江津間59.3kmはえちごトキめき鉄道にそれぞれ移管。いずれの鉄道路線も現在も営業中である。
富山県 富山港線 全区間
(富山〜岩瀬浜)
8.0 2006年
(平成18年)
3月1日
路面電車化に伴う経営分離。但し富山〜下奥井間2.3kmは路面電車化の際に経路が変更されており、途中にあった富山口駅(富山市城北町。1924〜2006)は廃止されている。
富山ライトレールに移管され、2ヶ月間ほど運休した後2006年(平成18年)4月29日に開業。
現在も営業中である。
石川県 七尾線 和倉温泉〜輪島 48.4 1991年
(平成3年)
9月1日
運行をのと鉄道に移管。但し施設は引き続き西日本旅客鉄道が所有。
穴水〜輪島間20.4kmは利用低迷により2001年(平成13年)4月1日廃止。
残る和倉温泉〜穴水間28.0kmは現在も営業中である。
能登線 全区間
(穴水〜蛸島)
61.1 1988年
(昭和63年)
3月25日
第三次特定地方交通線指定路線。
のと鉄道に移管されたが利用低迷により2005年(平成17年)4月1日廃止。
滋賀県 信楽線 全区間
(貴生川〜信楽)
14.8 1987年
(昭和62年)
7月13日
第一次特定地方交通線指定路線。
信楽(しがらき)高原鉄道に移管され、列車事故や水害での被災を経て現在も営業中である。
京都府
兵庫県
宮津線 全区間
(西舞鶴〜豊岡)
83.6 1990年
(平成2年)
4月1日
第三次特定地方交通線指定路線。
北近畿タンゴ鉄道に移管されたが2015年(平成27年)4月1日にWILLER TRAINSに経営者は変更されている。現在も営業中である。
大阪府 片町線 京橋〜片町 0.5 1997年
(平成9年)
3月8日
並行して建設されていたJR東西線の開通により廃止。
兵庫県 鍛冶屋線 全区間
(野村〜鍛冶屋)
13.2 1990年
(平成2年)
4月1日
第三次特定地方交通線指定路線。
起点の野村駅(西脇市野村町)は鍛冶屋線廃止と同時に西脇市駅に改称している。
鳥取県 若桜線 全区間
(郡家〜若桜)
19.2 1987年
(昭和62年)
10月14日
第一次特定地方交通線指定路線。
若桜鉄道に移管され、現在も営業中である。
島根県 大社線 全区間
(出雲市〜大社)
7.5 1990年
(平成2年)
4月1日
第三次特定地方交通線指定路線。
終点の大社駅(出雲市大社町北荒木。1912〜1990)の駅舎は現在も保存されていることで知られている。
島根県
広島県
三江線 全区間
(江津〜三次)
108.1 2018年
(平成30年)
4月1日
利用低迷により廃止。
広島県 可部線 可部〜三段峡間 46.2 2003年
(平成15年)
12月1日
利用低迷により廃止。
但し可部駅からから1.6kmの区間は2017年(平成29年)3月4日に復活しているが、その間にあった河戸駅は復活しなかったため復活というよりは新規開業路線と考えたほうが良いと言える。
山口県 岩日線 全区間
(森ヶ原信号場〜錦町)
30.8 1987年
(昭和62年)
7月25日
第二次特定地方交通線指定路線。
錦川鉄道に移管され、現在も営業中である。
なお、旅客上の起点は岩徳線川西駅となる。
美祢線 南大嶺〜大嶺 2.8 1997年
(平成9年)
4月1日
通称:大嶺支線(大嶺線と称する場合もある)。
利用低迷により廃止。

1987年(昭和62年)4月1日時点では鉄道路線として盛業中だったが現在は廃止されている、すなわち鉄道としての営業を終えている路線(他の会社に移管された後廃止されたものを含む)の距離を地方ごとに見ると次の通りになる。
・北陸地方…81.5km(七尾線の一部区間20.4km+能登線61.1km)
・近畿(関西)地方…13.7km(片町線の一部区間0.5km+鍛冶屋線13.2km)
・中国地方…163.0km(大社線7.5km+三江線108.1km+可部線44.6km〔復活部分の可部〜あき亀山間の距離を差し引いて計算している〕+美祢線2.8km)
つまり、中国地方の鉄道としての営業を終えている路線の距離は北陸地方のそれの2倍、近畿(関西)地方の約12倍になるのである。そうなってしまったのはやはり三江線の廃止が原因だったのだが、いかに厳しい環境(山間部が多い、過疎化が進展している地域が多い、災害に遭いやすい、道路整備が進んでいるなど)の中に中国地方の鉄道路線が置かれているかが分かろうというものである。恐らく今後も存廃が取り沙汰される路線は出てくるであろうが、もう少し西日本旅客鉄道は中国地方に積極的に投資してはどうであろうか。決して中国地方は見下されるべき地域ではないし魅力的なこともたくさんある地域なのだから…。

注27:私が特に問題視しているのは津山線と福塩線である。津山線で自動改札を導入しているのは法界院駅(岡山市北区学南町三丁目)だけ、福塩線で自動改札を導入しているのは備後本庄駅(福山市本庄町中三丁目)と横尾駅(福山市横尾町一丁目)、神辺駅(福山市神辺町川南)だけである。津山線の法界院駅以北や福塩線の神辺駅以北も宅地開発が進んでおり、利用は多いのだが、導入されないままになっているのである。確かに津山線は法界院〜岡山間、福塩線は福山〜神辺間が最も列車本数が多く、それを念頭に置いた可能性はあるのだが、もう少し拡大することはできないのだろうか。

注28:このライヴハウスは現在は仙台と福岡については撤退している(このように書いたらどこかは分かると思うがあえて書かないでおく)。

注29:このアニメ番組がテレビ新広島で放送されないのはスポンサーが広島県やテレビ新広島を差別しているというよりは視聴率が見込めないこと(裏番組には視聴率が高いアニメ番組や情報番組があるし…)などからテレビ新広島がネットを拒否していることが大きいのではないかと思われる。ちなみにこのアニメ番組は岡山放送では放送されているが、山陰中央テレビジョン放送では放送されていない(恐らく山陰中央テレビジョン放送もテレビ新広島と同じ考えなのだろう)。全般的に視聴率が低迷しているフジテレビ系列の現状がうかがえる事例の一つと言えるのだが、総本山のフジテレビジョン(CX、港区台場二丁目)に何とかしようという考えはないのだろうか。

注30:福山西警察署で統廃合の対象になった警察官駐在所は下表の通りである。

警察官
駐在所名
所在地 統合先 備考
金江 福山市金江町藁江 松永南交番
(福山市柳津町四丁目)
藤江 福山市藤江町
柳津 福山市柳津町
熊野 福山市熊野町 水呑交番
(福山市熊野町)
山南 福山市沼隈町中山南 沼隈交番
(福山市沼隈町草深)
千年 福山市沼隈町草深
常石 福山市沼隈町常石
瀬戸 福山市瀬戸町長和 津之郷交番
(福山市津之郷町津之郷)
田尻 福山市田尻町 鞆交番
(福山市鞆町鞆)
走島 福山市走島町
横島 福山市内海町 田島警察官駐在所
(福山市内海町)

その結果、福山西警察署の交番及び警察官駐在所とその管轄区域は下表の通りになっている。

種類 施設名 所在地 管轄地域 備考
交番 駅前 福山市松永町 福山市今津町
福山市神村町
福山市高西町
福山市松永町(一部)
福山市南今津町
福山市宮前町
松永町については住所がX番地で表記される地域と一丁目・二丁目・四丁目を管轄。
「駅前」とは山陽本線松永駅(福山市松永町)の前という意味である。
津之郷 福山市津之郷町津之郷 福山市神島町
福山市佐波町
福山市瀬戸町
福山市津之郷町
福山市東明王台
福山市明王台
福山市鞆町鞆 福山市田尻町
福山市鞆町
福山市走島町
沼隈 福山市沼隈町草深 福山市沼隈町
松永南 福山市柳津町四丁目 福山市金江町
福山市藤江町
福山市松永町(一部)
福山市南松永町
福山市柳津町
松永町については三丁目・五丁目・六丁目・七丁目を管轄。
水呑 福山市水呑町 福山市熊野町
福山市水呑町
福山市水呑向丘
山手 福山市山手町六丁目 福山市郷分町
福山市山手町
警察官
駐在所
赤坂 福山市赤坂町赤坂 福山市赤坂町
浦崎 尾道市浦崎町 尾道市浦崎町
田島 福山市内海町 福山市内海町
本郷 福山市本郷町 福山市東村町
福山市本郷町

管轄区域が拡大した交番または警察官駐在所が生じるのは当然の帰結なのだが、私が問題視したいのは水呑(みのみ)交番(福山市水呑町)が直接の交通路が存在しない福山市熊野町を管轄するようになったことである。福山市水呑町と福山市熊野町は沼南アルプスと称される標高400m前後の急峻な山々で隔てられており、直接の交通路は作りようがないのだが、往来するために他の交番の管轄区域を通らざるを得ない状況はどうなのだろうか。

注31:(本文で触れたことを再び記すのだが)島根県にある県道○○自転車道線は県道351号平田・大社自転車道線→県道351号出雲路自転車道線と県道352号松江・平田自転車道線→県道352号宍道湖湖北自転車道線の二つである。改称前の路線名称からもうかがえるように県道351号平田・大社自転車道線改め県道351号出雲路自転車道線は出雲市しか、県道352号松江・平田自転車道線改め県道352号宍道湖湖北自転車道線は松江市と出雲市しかそれぞれ通っていない。

注32:都道府県道路線が多い都道府県を10位まで挙げると下表の通りになる(データは2018年〔平成30年〕8月12日現在)。

順位 都道府県名 路線数 備考
主要地方道 一般
都道府県道
合計
北海道 151 742 893
新潟県 89 453 542
兵庫県 97 394 491
愛知県 80 386 466
福岡県 102 355 457 主要地方道の路線数と合計には大牟田市内を通過しているが福岡県が存在を認めていない熊本県道29号荒尾・南関線を含めている。
長野県 83 319 402
岡山県 68 305 373 一般県道の路線数と合計には鳥取県が津山市阿波と八頭郡智頭町口波多を結ぶ目的で認定しながら未だに岡山県が認定を拒んでいる鳥取県道303号大高下・口波多線を含めている。
福島県 76 295 371
広島県 76 285 361
10 埼玉県 90 256 346

注33:都道府県道○○自転車道線の都道府県ごとの路線数の順位は下表の通りである。

路線数 都道府県名 備考
10 北海道
9 千葉県
7 埼玉県
6 福岡県
5 石川県
静岡県
4 茨城県
山梨県
大阪府
兵庫県
奈良県
和歌山県
鳥取県
岡山県
大分県
16 3 岩手県
秋田県
山形県
福島県
栃木県
群馬県
福井県
長野県
愛知県
京都府
山口県
香川県
28 2 青森県
宮城県
東京都
神奈川県
新潟県
富山県
岐阜県
三重県
滋賀県
島根県
徳島県
愛媛県
高知県
熊本県
宮崎県
鹿児島県
44 1 広島県
佐賀県
長崎県
沖縄県

広島県は佐賀県・長崎県・沖縄県とともに1路線しかなく、路線数は最下位(44位)になっている。県土の面積は佐賀県・長崎県・沖縄県より広いのだが…。

注34:こちらでも触れているのだが、復旧されなかった理由としてはすぐそばに国道101号線の生鼻崎トンネル(全長:490m)が通っており、そちらを通れば良いことと災害に遭いやすいことが挙げられる。

注35:中国地方ではそういうことをしている県はないのだが、他地方では単独区間のない路線や区域の決定していない路線を存在しないものと見なして資料に掲載しないことがよく見られる。私の知っている範囲では大分県以外では神奈川県(全線が国道16号線と重用している主要地方道府中・相模原線を掲載していない)や福岡県(区域が未決定のままになっている県道114号前津江・星野線を掲載していない)がそのようにしている。

注36:最近5年間では茨城県道505号桜川・土浦・潮来(いたこ)自転車道線(2016年〔平成28年〕4月1日茨城県告示第430号により発足)や奈良県道280号大和青垣吉野川自転車道線(2016年〔平成28年〕6月3日奈良県告示第74号により発足)がある。なお、茨城県道505号桜川・土浦・潮来自転車道線は茨城県道501号桜川・土浦自転車道線(2006〜2016)と茨城県道504号潮来・土浦自転車道線(2001〜2016)を統合して発足させた路線である。

注37:実は同和鉱業片上鉄道も観光鉄道として再生させようという話が出たことがあった。しかし、思い付きの域を出ず、結局実現はしていない。

注38:西国街道(山陽道)を指す。この西国街道は岡山市中心部から現在の国道180号線→県道270号清音・真金線→国道486号線→国道313号線→県道378号御幸・松永線に沿う格好で福山市西部に抜けていた。井原市や小田郡矢掛町はこの沿線にあり、特に小田郡矢掛町は宿場町の町並みが残っていることで知られている。

注39:井原市や小田郡矢掛町にはかつては井笠鉄道(笠岡市笠岡。1911〜2012)が通っており、鉄道のない町ではなかった。しかし、鉄道利用の減少などの事情により1971年(昭和46年)までに廃止されている。

注40:岡山・倉敷方面に直通する列車は一切設定されていないが、福山駅に乗り入れる列車は一日3往復設定されている。福山市と井原市の繋がりが深いことなどを考えると福山駅に乗り入れる列車をもっと増やしても良いように思われるのだが、線路使用料を西日本旅客鉄道に払わないといけないことなどからできないでいるものと思われる。

福山駅に停車している井原鉄道の気動車

注41:井原鉄道井原線の運賃体系は下表の通りである。なお、比較のために西日本旅客鉄道の地方交通線の運賃体系も併せて掲載している。

※大人は中学生以上、子供は小学生以下となっている。

※伯備線との共用区間となる総社〜清音間(3.4km)だけ利用した場合の運賃は大人190円、子供90円となっている。

乗車距離
(単位:km)
井原鉄道井原線の
運賃
(単位:円)
西日本旅客鉄道の
地方交通線の運賃
(単位:円)
井原鉄道井原線における
該当区間及び距離
大人用 子供用 大人用 子供用
0.1〜3.0 210 110 140 70 清音〜川辺宿間(2.6km)
川辺宿〜吉備真備(きびのまきび)間(2.2km)
吉備真備〜備中呉妹(びっちゅうくれせ)間(2.9km)
井原〜いずえ間(1.8km)
いずえ〜子守唄の里高屋間(1.8km)
御領〜湯野間(1.9km)
湯野〜神辺間(2.2km)
(以上7区間)
3.1〜6.0 280 140 190 90 総社〜川辺宿間(6.0km)
清音〜吉備真備間(4.8km)
川辺宿〜備中呉妹間(5.1km)
備中呉妹〜三谷間(4.0km)
三谷〜矢掛間(3.1km)
矢掛〜小田間(5.2km)
小田〜早雲の里荏原間(3.4km)
早雲の里荏原〜井原間(3.7km)
子守唄の里高屋〜御領間(3.5km)
早雲の里荏原〜いずえ間(5.5km)
井原〜子守唄の里高屋間(3.6km)
いずえ〜御領間(5.3km)
子守唄の里高屋〜湯野間(5.4km)
御領〜神辺間(4.1km)
(以上14区間)
6.1〜9.0 350 180 210 100 総社〜吉備真備間(8.2km)
清音〜備中呉妹間(7.7km)
吉備真備〜三谷間(6.9km)
備中呉妹〜矢掛間(7.1km)
三谷〜小田間(8.3km)
矢掛〜早雲の里荏原間(8.6km)
小田〜井原間(7.1km)
小田〜いずえ間(8.9km)
早雲の里荏原〜子守唄の里高屋間(7.3km)
井原〜御領間(7.1km)
井原〜湯野間(9.0km)
いずえ〜湯野間(7.2km)
子守唄の里高屋〜神辺間(7.6km)
(以上13区間)
9.1〜10.0 420 210 210 100 川辺宿〜三谷間(9.1km)
吉備真備〜矢掛間(10.0km)
いずえ〜神辺間(9.4km)
(以上3区間)
10.1〜12.0 420 210 240 120 総社〜備中呉妹間(11.1km)
清音〜三谷間(11.7km)
三谷〜早雲の里荏原間(11.7km)
小田〜子守唄の里高屋間(10.7km)
早雲の里荏原〜御領間(10.8km)
井原〜神辺間(11.2km)
(以上6区間)
12.1〜15.0 490 250 240 120 清音〜矢掛間(14.4km)
川辺宿〜矢掛間(12.2km)
備中呉妹〜小田間(12.3km)
矢掛〜井原間(12.3km)
矢掛〜いずえ間(14.1km)
小田〜御領間(14.2km)
早雲の里荏原〜湯野間(12.7km)
早雲の里荏原〜神辺間(14.9km)
(以上8区間)
15.1〜19.0 580 290 320 160 総社〜三谷間(15.1km)
総社〜矢掛間(18.2km)
川辺宿〜小田間(17.4km)
吉備真備〜小田間(15.2km)
吉備真備〜早雲の里荏原間(18.6km)
備中呉妹〜早雲の里荏原間(15.7km)
三谷〜井原間(15.4km)
三谷〜いずえ間(17.2km)
三谷〜子守唄の里高屋間(19.0km)
矢掛〜子守唄の里高屋間(15.9km)
小田〜湯野間(16.1km)
小田〜神辺間(18.3km)
(以上12区間)
19.1〜20.0 660 330 320 160 清音〜小田間(20.0km)
備中呉妹〜井原間(19.4km)
矢掛〜御領間(19.4km)
(以上3区間)
20.1〜23.0 660 330 410 200 川辺宿〜早雲の里荏原間(20.8km)
吉備真備〜井原間(22.3km)
備中呉妹〜いずえ間(21.2km)
備中呉妹〜子守唄の里高屋間(23.0km)
三谷〜御領間(22.5km)
矢掛〜湯野間(21.3km)
(以上6区間)
23.1〜27.0 740 370 500 250 総社〜小田間(23.4km)
総社〜早雲の里荏原間(26.8km)
清音〜早雲の里荏原間(23.4km)
川辺宿〜井原間(24.5km)
川辺宿〜いずえ間(26.3km)
吉備真備〜いずえ間(24.1km)
吉備真備〜子守唄の里高屋間(25.9km)
備中呉妹〜御領間(26.5km)
三谷〜湯野間(24.4km)
三谷〜神辺間(26.6km)
矢掛〜神辺間(23.5km)
(以上11区間)
27.1〜28.0 820 410 500 250 清音〜井原間(27.1km)
(以上1区間)
28.1〜31.0 820 410 580 290 総社〜井原間(30.5km)
清音〜いずえ間(28.9km)
清音〜子守唄の里高屋間(30.7km)
川辺宿〜子守唄の里高屋間(28.1km)
吉備真備〜御領間(29.4km)
備中呉妹〜湯野間(28.4km)
備中呉妹〜神辺間(30.6km)
(以上7区間)
31.1〜32.0 920 460 580 290 川辺宿〜御領間(31.6km)
吉備真備〜湯野間(31.3km)
(以上2区間)
32.1〜36.0 920 460 670 330 総社〜いずえ間(32.3km)
総社〜子守唄の里高屋間(34.1km)
清音〜御領間(34.2km)
川辺宿〜湯野間(33.5km)
川辺宿〜神辺間(35.7km)
吉備真備〜神辺間(33.5km)
(以上6区間)
36.1〜37.0 1,010 510 670 330 清音〜湯野間(36.1km)
(以上1区間)
37.1〜41.0 1,010 510 760 380 総社〜御領間(37.6km)
総社〜湯野間(39.5km)
清音〜神辺間(38.3km)
(以上3区間)
41.1〜41.7 1,100 550 840 420 総社〜神辺間(41.7km)
(以上1区間)

上表から井原鉄道井原線の運賃はいずれも西日本旅客鉄道の地方交通線の運賃より高いことがうかがえる。

(参考資料:井原鉄道井原線の駅一覧表)

県名 駅名 読み方 所在地 距離(単位:km) 備考
総社から 神辺から
岡山県 総社 そうじゃ 総社市駅前一丁目 0.0 41.7 起点。ここから清音駅まではJR伯備線と線路を共用している。
JR吉備線との接続駅。
清音 きよね 総社市清音上中島 3.4 38.3 JR伯備線との分岐駅。
川辺宿 かわべじゅく 倉敷市真備町川辺 6.0 35.7 駅名は近くに西国街道(山陽道)の宿場があったことから付けられた。
吉備真備 きびのまきび 倉敷市真備町箭田 8.2 33.5 列車交換可能駅。
駅名は倉敷市真備地区が奈良時代の政治家・吉備真備(693or695〜775)の故郷とされていることから付けられた。
「箭田」は「やた」と読む。
備中呉妹 びっちゅうくれせ 倉敷市真備町尾崎 11.1 30.6 駅名は1952年(昭和27年)まで存在した自治体としての村の名前(下道〔しもつみち〕郡呉妹村〔1889〜1900〕→吉備郡呉妹村〔1900〜1952〕。現在の倉敷市真備町尾崎・妹〔せ〕に相当する区域に存在)から付けられた。
井原鉄道井原線では唯一の令制国名を付けた駅でもある(「呉妹」という駅名は他には見られないにもかかわらずわざわざ令制国名を付けた理由は不明)。
三谷 みたに 小田郡矢掛町東三成 15.1 26.6 列車交換可能駅。
駅名は1952年(昭和27年)まで存在した自治体としての村(小田郡三谷村。現在の小田郡矢掛町東三成・横谷に相当する区域に存在)の名前から付けられた。
矢掛 やかげ 小田郡矢掛町矢掛 18.2 23.5 列車交換可能駅。
小田 おだ 小田郡矢掛町小田 23.4 18.3
早雲の里
荏原
そううんのさと
えばら
井原市東江原町 26.8 14.9 列車交換可能駅。
井原鉄道の本社と車両基地が駅の構内にある。
駅名は戦国時代の武将・北条早雲(1432or1456〜1519)の出身地とされていることと1953年(昭和28年)まで存在した自治体としての村(後月〔しつき〕郡荏原村。現在の井原市神代〔こうじろ〕町・東江原町に相当する区域に存在)の名前から付けられた。
井原 いばら 井原市七日市町 30.5 11.2 列車交換可能駅。
「七日市町」は「なぬかいちちょう」と読む。
いずえ いずえ 井原市下出部町 32.3 9.4 駅名を平仮名表記にした理由としては「出部」が難読地名であることが考えられる。
子守唄の里
高屋
こもりうたのさと
たかや
井原市高屋町三丁目 34.1 7.6 駅名に「子守唄の里」と付けたのは井原市高屋町が「中国地方の子守唄」(広島県民には中国放送テレビ〔RCC、広島市中区基町〕の放送終了時に流れる曲として知られている)の発祥地であることによる。
広島県 御領 ごりょう 福山市神辺町下御領 37.6 4.1 列車交換可能駅。
湯野 ゆの 福山市神辺町湯野 39.5 2.2
神辺 かんなべ 福山市神辺町川南 41.7 0.0 終点。
JR福塩線との接続駅。

注42:岡山県のひどい財政難を招いた要因は6期24年の長きにわたり岡山県知事を務めた長野士郎(1917〜2006。知事在任期間:1972〜1996)が大規模な公共事業を次々に展開したことである。中でも現在の加賀郡吉備中央町に建設された吉備高原都市や倉敷駅(倉敷市阿知一丁目)のすぐ北側に建設された倉敷チボリ公園(倉敷市寿町。1997〜2009)は期待通りの成果を挙げられなかった代表的事例であり、財政難の元凶とされている(無論吉備高原都市の建設は凍結され、倉敷チボリ公園は廃業している)。岡山県は岡山平野という中国・四国地方随一の広大な平野を持っていることや岡山市は中国・四国地方随一の交通の要衝になっていることからもっと発展させよう、大都市のある兵庫県や広島県に対抗しようという考えで大規模な公共事業を次々に展開したのだろうが…。

 

在りし日の倉敷チボリ公園の夜景(2008年〔平成20年〕12月19日撮影)

※あまり知られていないことであるが、長野士郎は県道路線の認定を積極的に行っており、1972〜1978年(昭和47〜53年)に一般県道を何と52路線(下表参照)も発足させている。岡山県の県道路線数が全国第7位・中国地方第1位の座に就けているのは長野士郎の功績が大きいと言えるのだが、整備が進んでいない路線が少なくない。

発足年/
路線数
発足
月日
告示
番号
路線名称 備考
1972年
(昭和47年)
(1路線)
11月24日 1,192 県道102号下御領・井原線 広島県に跨る路線であり、広島県でも同じ日に路線認定を行っている(1972年〔昭和47年〕11月24日広島県告示第983号による)。
岡山県・広島県とも県道標識(正式名称は都道府県道番号)導入に伴う路線番号再編で現在の路線番号体制が発足してから初めて発足した路線である。
現存。
1973年
(昭和48年)
(21路線)
1月30日 86 県道420号茶屋・都線 県道93号茶屋・曽根線(1960〜1973。岡山県で県道標識導入に伴う路線番号再編が実施されたと思われる1972年〔昭和47年〕11月1日以降の路線番号は不明だが再編前提で420を付けていた可能性がある)を岡山市南区藤田まで延伸して発足した路線。
県道154号倉敷・茶屋線(1960〜1979)と統合して県道154号倉敷・都線(1979〜1994)に移行したため1979年(昭和54年)3月30日岡山県告示第280号により廃止。
現在は県道74号倉敷・飽浦(あくら)線の一部になっている。
県道436号布寄・下原線 岡山県発行の資料によると1973年(昭和48年)10月2日岡山県告示第898号により認定されたと記されているが、1973年(昭和48年)1月30日岡山県告示第87号で一部区間の区域決定もなされているため本サイトでは1973年(昭和48年)1月30日岡山県告示第86号で認定されたものと見なしている。
路線名称からすれば高梁市成羽町布寄と高梁市成羽町下原を結ぶ路線になるのだが、なぜか岡山県発行の資料では起点が高梁市成羽町長地(おさじ)となっている。高梁市成羽町布寄〜高梁市成羽町長地間については区域未決定または未開通と解するべきなのだろうが岡山県がどのように考えているかは分かっていない。
現存。
県道438号西山・布寄線 現存。
県道439号中井・豊永佐伏線 全区間が県道78号長屋・賀陽線の一部に移行したため1994年(平成6年)4月1日岡山県告示第251号により廃止。
県道443号大井野・千屋花見線 現存。2006年(平成18年)4月1日からは新見市が管理する路線になっている。
3月20日 326 県道449号押渕・皿線 現存。
県道452号小原・船頭線 現存。
3月30日 338 県道109号油野・東城線 広島県に跨る路線であり、広島県でも同じ日に路線認定を行っている(1973年〔昭和48年〕3月30日広島県告示第239号による)。
全区間が県道12号足立・東城線の一部に移行したため1994年(平成6年)4月1日岡山県告示第251号により廃止(広島県でも1994年〔平成6年〕4月1日広島県告示第408号の2により廃止)。
県道419号日比港線 現存。
県道424号岡山西環状線 県道195号一宮・久米線(1960〜1973。岡山県で県道標識導入に伴う路線番号再編が実施されたと思われる1972年〔昭和47年〕11月1日以降の路線番号は不明)と県道198号妹尾・久米線(1960〜1973。岡山県で県道標識導入に伴う路線番号再編が実施されたと思われる1972年〔昭和47年〕11月1日以降の路線番号は不明)と岡山市北区一宮地区〜岡山市北区津島地区間の岡山市道を統合して発足した路線。
一部区間が県道61号妹尾・御津線の一部に移行したため1982年(昭和57年)9月28日岡山県告示第863号により廃止。
現在は県道61号妹尾・御津線や県道152号倉敷・妹尾線、県道238号上芳賀(かみはが)・岡山線に再編されている。
8月17日 766 県道431号六条院東・里庄線 県道224号六条院西・里庄線(1960〜1973。岡山県で県道標識導入に伴う路線番号再編が実施されたと思われる1972年〔昭和47年〕11月1日以降の路線番号は不明だが再編前提で431を付けていた可能性がある)を浅口市鴨方町六条院東まで延伸して発足した路線。
現存。
9月4日 810 県道430号玉島黒崎・金光線 現存。但し倉敷市玉島黒崎(沙美峠付近)に通行不能箇所がある。
9月14日 845 県道418号鶴海港・坂田線 現存。
10月2日 898 県道429号槙谷・西山内線 全区間が県道76号総社・三和(みと)線の一部に移行したため1994年(平成6年)4月1日岡山県告示第251号により廃止。
県道450号三浦・勝北線 現存。
10月9日 923 県道451号和田北・鶴田線 現存。2009年(平成21年)4月1日からは岡山市通過分については岡山市が管理する路線になっている。
10月16日 958 県道423号福渡停車場線 現存。2009年(平成21年)4月1日からは岡山市が管理する路線になっている。
11月2日 1,021 県道455号小山・桑上線 現存。
1,026 県道700号岡山・総社自転車道線 現存。2009年(平成21年)4月1日からは岡山市通過分については岡山市が管理する路線になっている。
11月9日 1,052 県道425号磯上・備前線 現存。
12月14日 1,176 県道417号和気・吉井線 現存。但し和気郡和気町津瀬〜赤磐市稲蒔間は通行不能である。
1974年
(昭和49年)
(18路線)
1月11日 32 県道422号蒜山高原線 現存。
2月12日 154 県道266号長尾・児島線 県道266号迫間(はざま)・児島線(1960〜1974)の起点変更により発足した路線。
現存。
県道302号宇治・鉄砲町線 県道302号宇治・本町線(1960〜1974)の終点変更により発足した路線。
現存。
県道345号上横野・兼田線 県道345号上横野・下押入線(1960〜1974)の終点変更により発足した路線。
現存。
2月19日 185 県道434号小坂西・六条院中線 現存。
2月26日 212 県道442号豊永赤馬・長屋線 現存。2006年(平成18年)4月1日からは新見市が管理する路線になっている。
214 県道435号宇治・長屋線 県道252号長地・宇治線(1960〜1974。岡山県で県道標識導入に伴う路線番号再編が実施されたと思われる1972年〔昭和47年〕11月1日以降の路線番号は不明だが再編前提で435を付けていた可能性がある)を高梁市備中町長屋まで延伸し、なおかつ起点・終点を入れ替えて発足した路線。
現存。
3月19日 309 県道427号槌ヶ原・日比線 県道182号槌ヶ原・玉線(1960〜1974。岡山県で県道標識導入に伴う路線番号再編が実施されたと思われる1972年〔昭和47年〕11月1日以降の路線番号は不明だが再編前提で427を付けていた可能性がある)の経路を変更して発足した路線。
現存。
3月22日 337 県道453号宮地・鹿瀬線 県道123号建部(たけべ)停車場・上建部線(1960〜1974。岡山県で県道標識導入に伴う路線番号再編が実施されたと思われる1972年〔昭和47年〕11月1日以降の路線番号は不明だが再編前提で453を付けていた可能性がある)を岡山市北区御津鹿瀬まで延伸し、なおかつ起点・終点を入れ替えて発足した路線。
現存。2009年(平成21年)4月1日からは岡山市が管理する路線になっている。
3月26日 369 県道447号粟谷・美甘線 現存。
6月18日 642 県道105号前原谷・仙養線 広島県に跨る路線だが広島県では1965年(昭和40年)3月31日広島県告示第259号で認定していたにもかかわらず岡山県では長らく路線認定を見送っていた。広島県側での認定当時通過地(高梁市備中町平川)に岡山県側から行ける道路がなく、広島県に整備・維持を委託していたからではないかと思われるが詳細は不明。
現存。
7月9日 710 県道457号吉田・御津線 現存。2009年(平成21年)4月1日からは岡山市が管理する路線になっている。
11月5日 1,016 県道444号上刑部・新庄線 全区間が県道58号北房・新庄線(1979〜1994)の一部に移行したため1979年(昭和54年)1月5日岡山県告示第9号により廃止。
現在は県道58号北房・川上線の一部になっている。
11月8日 1,027 県道428号倉敷西環状線 現存。
県道456号下籾・三明寺線 現存。2009年(平成21年)4月1日からは岡山市通過分については岡山市が管理する路線になっている。
11月19日 1,061 県道440号上有漢・北房線 現存。
12月20日 1,159 県道441号下神代・哲多線 現存。
12月27日 1,187 県道446号本茅部・新庄線 全区間が県道58号北房・川上線の一部に移行したため1994年(平成6年)4月1日岡山県告示第251号により廃止。
1975年
(昭和50年)
(4路線)
1月10日 43 県道426号多麻・滝宮線 現存。
県道448号百谷・奥津線 全区間が県道75号加茂・奥津線の一部に移行したため1994年(平成6年)4月1日岡山県告示第251号により廃止。
廃止時点では苫田郡鏡野町百谷〜苫田郡鏡野町養野間と苫田郡鏡野町養野〜苫田郡鏡野町奥津間に通行不能箇所があったが、県道75号加茂・奥津線に移行した後に苫田郡鏡野町養野〜苫田郡鏡野町奥津間については解消されている。
3月28日 313 県道433号青島新開・神島外港線 現存。
10月21日 970 県道458号勇崎・入江線 岡山県道路公社(岡山市北区蕃山町。1971〜2006)が運営する玉島・笠岡有料道路の受け皿道路として認定。しかし、並行して計画されていた山陽自動車道の建設が早く進んだことや沿線住民が建設に強硬に反対したこと、岡山県道路公社の経営が運営する道路の通行量低迷で厳しかったことなどから着工に至らず、幻の県道となっていた。
並行して国道2号線玉島・笠岡道路が企図されたことを受けて2001年(平成13年)秋に玉島・笠岡有料道路の計画の白紙撤回が決定。それを受けて2002年(平成14年)4月19日岡山県告示第252号により廃止(ちなみに岡山県における県道路線の廃止告示は今のところこれが最後になっている)。記すまでもないが痕跡は一切残っていない。
1976年
(昭和51年)
(5路線)
2月20日 124 県道437号下郷・惣田線 現存。但し落石のため2013年(平成25年)12月21日から全線の通り抜けはできなくなっている。
4月23日 366 県道432号大島中・新庄線 現存。
7月13日 551 県道117号鱒返・余戸線 鳥取県に跨る路線だが、鳥取県で認定されたのは岡山県側での認定から5ヶ月半後の1976年(昭和51年)12月28日のことであった(1976年〔昭和51年〕12月28日鳥取県告示第1,043号による)。1976年(昭和51年)12月28日鳥取県告示第1,043号ではもう一つ岡山県と鳥取県に跨る県道路線、すなわち県道303号大高下・口波多線が認定されているが、岡山県は現在に至るまでこの路線の存在を認めていない(津山市阿波〔あば〕と鳥取県を結ぶ他の県道路線、すなわち県道117号鱒返・余戸線と県道118号加茂・用瀬〔もちがせ〕線がいずれも鳥取・岡山県境付近で途切れている上に大高下・口波多線も鳥取・岡山県境付近で途切れた状態で発足したことから同じ状況の路線を三つも抱えることに岡山県が難色を示したことが背景にあるものと思われる。津山市阿波と鳥取県を結ぶ県道路線がいずれも鳥取・岡山県境で途切れている状況は現在も変わっていない)。
認定当初の名称は岡山県道117号/鳥取県道232号鱒返・余戸線だったが、鳥取県で県道標識導入に伴う路線番号再編が実施された1982年(昭和57年)9月10日に路線番号が117に統一され、岡山県道/鳥取県道117号鱒返・余戸線に改称した(更に1984年〔昭和59年〕8月31日鳥取県告示第645号で改称告示がなされている)。
現存。
県道445号下和・奥津川西線 県道302号羽出西谷・奥津川西線(1960〜1976。岡山県で県道標識導入に伴う路線番号再編が実施されたと思われる1972年〔昭和47年〕11月1日以降の路線番号は不明だが再編前提で445を付けていた可能性がある)を真庭市下和(したお)まで延伸して発足した路線。
現存。
8月17日 631 県道129号後山・上石井線 兵庫県に跨る路線だが、兵庫県で認定されたのは5ヶ月前の1976年(昭和51年)3月16日のことであった(1976年〔昭和51年〕3月16日兵庫県告示第534号による)。
認定当初の路線名称は岡山県道129号/兵庫県道556号後山・上石井線だったが、1994年(平成6年)4月1日岡山県告示第255号により路線番号が556に統一され、岡山県道/兵庫県道556号後山・上石井線に改称した。
現存。
1977年
(昭和52年)
(2路線)
6月3日 455 県道460号黒忠・三山線 全区間が県道77号美星・高山市(こうやまいち)線の一部に移行したため1994年(平成6年)4月1日岡山県告示第251号により廃止。
10月7日 742 県道454号全間・仁堀中線 「全間」は「またま」と読む。
全区間が県道52号勝央・仁堀中線の一部に移行したため1994年(平成6年)4月1日岡山県告示第251号により廃止。
1978年
(昭和53年)
(1路線)
10月17日 820 県道459号若代・神代線 現存。

注43:1995〜2015年(平成7〜27年)の井原鉄道井原線沿線に存在する自治体(総社市〔旧都窪郡清音・山手両村を除く部分〕・都窪郡清音村・吉備郡真備町・小田郡矢掛町・井原市〔旧小田郡美星町・旧後月〈しつき〉郡芳井町を除く部分〕・深安郡神辺町)の人口の変遷は下表の通りである(人口は国勢調査に基づく)。

自治体名 人口(単位:人) 20年間の
増減数
(単位:人)
20年間の
増減率
(単位:%)
備考
1995年
(平成7年)
2000年
(平成12年)
2005年
(平成17年)
2010年
(平成22年)
2015年
(平成27年)
総社市 56,097 56,531 56,988 56,239 56,468 371 0.7
都窪郡清音村 5,484 5,652 5,546 5,616 5,659 175 3.2 2005年(平成17年)3月22日総社市及び都窪郡山手村と統合して改めて発足した総社市に移行。
吉備郡真備町 23,163 22,915 22,755 22,356 22,242 -921 -4.0 2005年(平成17年)8月1日倉敷市に編入。
小田郡矢掛町 16,803 16,230 15,713 15,092 14,201 -2,602 -15.5
井原市 35,076 34,817 34,322 33,951 32,530 -2,546 -7.3
深安郡神辺町 39,977 40,361 40,578 42,140 42,699 2,722 6.8 2006年(平成18年)3月1日福山市に編入。

井原鉄道井原線しか鉄道路線がないところ(井原市・吉備郡真備町・小田郡矢掛町)の人口はいずれも減少し、反対に井原鉄道井原線以外にも鉄道路線があるところ(総社市・都窪郡清音村・深安郡神辺町)の人口はいずれも増加している点が興味深い。

注44:本サイトからリンクを貼っている倉敷市在住の主婦・トマコさんのブログ「あぁ、トマコの生きる道」や福山市在住の整理収納アドバイザー・世良美由紀さんのブログに今回の倉敷市真備地区の水害に関する記事がある。

注45:現在廃止が決まっているか廃止が濃厚になっている鉄道路線は下表の通りである。

路線名称 区間 距離
(単位:km)
備考
JR根室本線 富良野〜上落合信号場 57.6 かつては優等列車(特急列車・急行列車)が通っていたが、1990年(平成2年)9月1日以降は設定がなく、普通列車と快速列車しか通らない区間になっている。
東鹿越〜上落合信号場間17.4kmは2016年(平成28年)8月末に襲来した台風10号で被災したため現在不通になっている。
JR日高本線 鵡川〜様似 116.0 かつては優等列車(急行列車)が通っていたが、1986年(昭和61年)11月1日以降は設定がなく、普通列車しか通らない区間になっている。
鵡川〜様似間116.0kmは2015年(平成27年)1月に高波で被災したため現在不通になっている。
もし鵡川〜様似間の廃止が実施されれば日高本線は日高振興局管内を通らない路線になる(存続区間は胆振〔いぶり〕総合振興局管内しか通っていないため)。
JR留萌本線 深川〜留萌 50.1 かつては優等列車(急行列車)が通っていたが、1986年(昭和61年)11月1日以降は設定がなく、普通列車しか通らない区間になっている。
2016年(平成28年)12月5日に留萌(るもい)〜増毛間16.7kmが廃止されており、深川〜留萌間も廃止されると留萌本線は全線廃止となる(本線という名称の入る日本国有鉄道→JRグループが運営する路線の全線廃止は1989年〔平成元年〕5月1日に廃止されたJR名寄〔なよろ〕本線に次いで二番目となる)。
JR札沼線 北海道医療大学〜新十津川 47.6 札沼線はかつては名称からうかがえるように札幌市と雨竜郡沼田町を結ぶ路線だったが、新十津川〜石狩沼田間の利用が少なかったことから1972年(昭和47年)6月19日に新十津川〜石狩沼田間34.9kmが廃止されており、名称通りの路線ではなくなっている。
桑園(そうえん)〜北海道医療大学間は札幌都市圏に入ることから電化・複線化が進められたが、北海道医療大学〜新十津川間は過疎化が進展したことや近くをJR函館本線が通っていること、並行して通る国道275号線の整備が進んだことなどから利用が減少し、2016年(平成28年)3月26日以降は浦臼〜新十津川間は一日1往復しか列車が通らなくなった。
JR石勝線 新夕張〜夕張 16.1 通称:夕張支線。
かつては優等列車(急行列車)が通っていたが、1972年(昭和47年)3月15日以降は設定がなく、普通列車しか通らない区間になっている。また、かつては石炭を積んだ貨車が多く行き交っていたが、相次ぐ炭鉱の閉山によりそれも見られなくなった。
終点の夕張駅(夕張市末広一丁目)は1985年(昭和60年)と1990年(平成2年)の二度起点方向に移転しており、二度の移転により延長が2.1km短くなったことになる(一度目の移転で1.3km、二度目の移転で0.8kmそれぞれ短縮)。
今春2019年(平成31年)4月1日に廃止されることが決定した。

上表の5路線はいずれも北海道旅客鉄道(JR北海道。札幌市中央区北十一条西十五丁目)が運営する路線である。北海道旅客鉄道自体の経営が厳しいことと自然環境が厳しく、施設の老朽化が早く進むところが多いこと、利用が過疎化などにより減少していることなどが背景にある。

注46:ここでの新型車両とは三江線にも導入されていたキハ120形気動車を指す。美祢線の本線(厚狭〔あさ〕〜長門市〔ながとし〕間)については1993年(平成5年)12月1日に導入されている。

西日本旅客鉄道の非電化路線で多く見かけるキハ120形気動車(写真は福塩線のもの)

注47:「企業の採用試験での気に入らない人に対する採用担当者の態度」の具体的な事例の詳細な内容を記すと下表の通りになる。

※中には「企業側の都合も考えるべきだ」とか「主張が独り善がりだ」と思うようなものがあるかもしれないが、常識や志願者の感情に照らし合わせてどうかと思うものを挙げている。その点を理解した上でご覧頂きたい。

種類 具体的な内容
ぞんざいな態度をとること ・面接を申し込んだのに一切対応しない。
・面接を申し込んでから返答するまでの時間がかかりすぎる。
・優先順位が低いのでは…というような対応をされる(一両日中ではなく一週間後に面接を行うと通告するなど)。
・暗に採用はないよと言うような態度をとる(面接を短時間で打ち切る、求人票などには明記されていた筆記試験を行わないなど)。
・指定日時から面接が始められず、待たされる。
・(あるグループホームで実際にあったことなのだが)事務室ではなく利用者の部屋で面接を行う(無論その時利用者は部屋の外に出ている)。
・面接担当者の態度がおかしい(横柄である、真剣に話を聞く様子がないなど)。
・不採用者に対しては一切連絡しない。
・不採用通知がいい加減である(文書の表題に結果を記している、通知が届いたのは4日後なのに文書の日付は面接の翌日だったなど)。
・志願者に対して負担をかけるようなことをさせる(志願者に対して採否結果を聞くために面接会場まで赴くように言うなど)。
・(ある派遣会社で実際にあったことなのだが)志願者に合う案件が見つかったと連絡した際にそれがどこにあるかを言わなかった。
・面接の待ち時間にその企業のテレビコマーシャルの制作風景を収録したVTRを見せる。
・何の理由説明もなく採否連絡を遅らせる。
・自らに非があるにもかかわらず志願者が抗議したのに誠意ある対応をとらない。
・(派遣会社でよく見られることなのだが)一度契約不成立になるとその後いくら申し込んでも案件斡旋(あっせん)に至らない。
嘘をつくこと ・(大手派遣会社で実際にあったことなのだが)一度も連絡してきた様子がないにもかかわらず、連絡先を知っているにもかかわらず連絡が取れない旨を書いた電子メールを送ってくる。
・熱意を評価したり褒めたり笑顔を見せたりするなどして志願者をぬか喜びさせる。
・わざと志願者を憤慨させるような行為をし、そこで自らの不手際を認めた上で「きちんと対処します」と口約束をしてその場を収める。
・説明会では現実とは真逆の状況を説明し、面接場所で現実を見せる。
呑めないような条件を突き付けること ・(あるコンビニエンスストアで実際にあったことなのだが)志願者の自宅から遠いところにあり、求人広告には募集対象店舗に挙げられていなかった店舗でもう一度面接を受けるように言う(ちなみにその店舗は経営不振により近々撤退することになっていたという)。
・(ある派遣会社で実際にあったことなのだが)通勤困難な案件(自宅から30kmほどある)を斡旋する。
・(ある派遣会社で実際にあったことなのだが)明らかに約束の時間までに行ける場所ではないのに「○時までに○○社まで来て下さい。もし来られないと斡旋はなかったことにします」と担当者が言ってくる(無論「行けません」とか「そこには△時には行けますが待って頂けますか」などと反論すれば斡旋はなかったことになるのは記すまでもない)。
志願者の気に障るような言行をとること ・志願者の悪気のない一言が契機になって怒り出し、長々と説教をする。
・面接中に志願者に対して採用したくない人の条件(経験の少なさ、転職回数の多さなど)を言い出す。
・志願者の発言にツッコミを入れて志願者を困惑させる。
・志願者の人格を否定するようなことを言う。
・未婚の女性に対して恋人がいるかとか結婚の予定があるかを尋ねる。
・既婚の女性に対して妊娠の予定があるかどうかとか現在妊娠中かどうかを尋ねる。
・(ある教材販売会社の福山営業所で実際にあったことなのだが)明らかに福山市より規模・人口・知名度・中枢性が高い岡山市にも営業所を置いているはずなのに岡山営業所の管轄下にあるはずの津山市や備前市まで行くことがあると話す。
・交通事故を起こしたことがあるかどうかを尋ねる。
志願者を騙すこと ・和やかな雰囲気の中で面接を行い、志願者に採用確実だと思わせる。
・熱意を評価したり褒めたり笑顔を見せたりするなどして志願者に採用確実だと思わせる。
・自らの失態を詫び、早急に善処する旨を口約束で告げる。
・本当は職員募集などしていないのに面接に応じる。

企業の考えていることも分からないわけではないし志願者が何らかの勘違いをしている可能性もあるのだが、問題にしたいのはそういう対応を受けた人がその企業を嫌うようになる恐れが十分考えられることである。つまり、企業にとってみれば顧客になる可能性があった人を失う恐れがあるということなのである。不採用通知に対して快い感情を抱く方はいないことを考えると不快感を与えるようなことはしてはならないはずなのだが、なぜそれでもあえて嫌われるようなことをするのだろうか。
一方でこういう仕打ちが横行する理由としてはそれを根絶させようという動きが鈍いことが考えられる。「自業自得。そうなっても文句は言うべきではない」とか「そういうことをする企業は所詮そういう水準のところ。採用されても後でなかったことにしたいと思うようになったであろう。だから採用されなくて良かった」とか「門前払いした企業にいつまでもこだわるべきではない」とか「何を言っても変わるものではない」とか「どうかと思って訴えようにも訴えるところがどこか分からないし訴えても証拠がないとそれ以上の話が進められないのでしない」とか「企業の態度に反発すれば不利な扱いを受ける」というような考えが根強く存在することもあるのだろうが、やはり誰かが声を上げないと改善されないままになり、被害者が生み出され続けることになる。まあいくら労働問題(過労死や非正規雇用、派遣切りなど)が社会問題化し、頻繁に報道されるようになっても改善が進んでいないことを思うと劇的な改善は望めないのだろうが、どうにかならないものであろうか。

注48:「終」という字を○か□で囲んだもの(新聞・雑誌によって異なるが題名の後ろに付くことが多い)。

注49:最近では広島県では広島ホームテレビ(HOME、広島市中区白島北町)がネットしていた人気アニメ「妖怪ウォッチ」(テレビ東京系。2014〜2018年〔平成26〜30年〕放送)がある。人気凋落に伴う視聴率低迷により今年4月29日をもって打ち切りとなった(残念ながら広島ホームテレビでは「妖怪ウォッチ」は最終回までは放送されなかったがBSデジタル放送を視聴できる環境があればBSジャパンで最終回まで見ることはできた上に後番組で現在広島県を放送区域とする民間テレビ放送局では全くネットされていない「妖怪ウォッチ シャドウサイド」〔テレビ東京系〕もBSジャパンで放送されており、広島県で「妖怪ウォッチ」シリーズが見られないという状況は回避されている)のだが、その日の新聞のテレビ・ラジオ欄には最終回記号は付されていなかった。あれだけ絶大な人気を誇ったアニメ番組がこんな格好で終わらされるのはあまりにも寂しいものがあるのだが、なぜこういう格好になったのだろうか。
※広島ホームテレビの公式サイトでは今年5月6日から「妖怪ウォッチ」を放送していた時間帯(日曜日午前5時50分〜午前6時20分)にアニメ「イナズマイレブン アレスの天秤(てんびん)」(テレビ東京系)を放送することを公表しており、それで暗に「妖怪ウォッチ」は今年4月29日をもって打ち切ると示していた。こちらでも最終回であると明言しなかったということになるわけだが、このような対応は許されるのだろうか。

注50:記すまでもなく都道府県公報にはただこの都道府県道路線を廃止しますとあるだけで理由を示すことはないからである。理由を知ろうと思ったらその路線を管理していた都道府県(但し市区町村が管理している場合もある)に問い合わせるしかない。

注51:本サイトも過去に都道府県道路線の廃止を主張するのはやめろというような抗議を電子メールで受けたことがある(そういう意見を送ってきた方と同一人物の仕業だと思うのだがある道路系サイト〔現存だが管理者の都合により更新は止まっている〕の掲示板に本サイトの姿勢を批判する書き込みもされている)。そのことはこちらでも触れているので併せてご覧頂きたい。

注52:例えば深安郡神辺町立中条中学校(福山市神辺町西中条。1952〜1966)や深安郡神辺町立安那中学校(福山市神辺町上御領。1949〜1966)が挙げられる。深安郡神辺町立中条中学校の跡地はある企業の社宅の敷地に、深安郡神辺町立安那中学校の跡地はある食料品店の物流センターの敷地にそれぞれなっている。企業にとってみればみだりに部外者には侵入して頂きたくない場所であり、それ故学校があったことを示す物件は設置できないのであろう。

注53:例えば中国地方最古参の市立四年制大学である下関市立大学(下関市大学町二丁目)の前身校・下関商業短期大学(下関市貴船町三丁目。1956〜1966)が挙げられる。下関商業短期大学があったところには小さな公園があるのだが、訪れた方の話によると下関商業短期大学があったことを示す石碑は全くないのだという。下関市立大学と下関商業短期大学は合同の同窓会を結成していることや下関商業短期大学の在学経験者が来年4月1日までに全員後期高齢者(75歳以上)になること(最後の入学者が1962年度〔昭和37年度〕入学であるため)、年々在学経験者は逝去によりその数を減らしており、いずれは誰もいなくなること、下関商業短期大学があった辺りの住民でその存在を知っている方も同時に逝去によりその数を減らしており、いずれは誰もいなくなることを考えれば石碑ぐらいは建立してはどうかと思うのだが、いろいろあってその機運は高まらないのだろうか。
※下関商業短期大学は勤労青年(但し18歳以上であれば年齢は問わない。何と69歳の男性が勉学に励み、そのことであるテレビ番組に出たという話もあったという)のための夜学として開学した。昼間は商店や工場などで働く人が勉学に励む場であったが、厳しい状況を潜り抜けてきた当時の人々でも仕事と勉学の両立はかなり厳しい状況だったことは想像に難くない。跡地を示す石碑が建立されないままになっている一因はそういう事情にあるのでは…と思うのだがどうであろうか。

下関商業短期大学があったところにある小さな公園。そこには軍事施設があったことを示す石碑しかなかったという。

注54:「初代筒賀駅」「二代目筒賀駅」と書いているのは混同を回避するという便宜上の理由であり、記すまでもなくそういう駅名ではない。

注55:駅名が変わったのに、路線廃止が取り沙汰される恐れはないのに改称されないままでいる都道府県道路線は実はいくつか存在する。中国地方では山口市を通る県道206号湯田停車場線が該当する。県道206号湯田停車場線の起点がある山口線湯田温泉駅(山口市今井町)は1961年(昭和36年)3月20日に湯田駅(山口市今井町。1913〜1961)から改称したのだが、未だに県道206号湯田温泉停車場線には改称されないままになっている。

注56:私が山県郡安芸太田町に相当する地域の交通政策は平地の少ない山間部にしては厚かったのではないかと考える理由は次の通りである。
・1954年(昭和29年)1月20日建設省告示第16号で初めての主要地方道路線指定が実施された時、山県郡加計町(1898〜2004)を起終点とする路線が四つも指定されたこと(大竹・加計線〔1954〜1971〕と加計・廿日市線〔1920〜1982〕、加計・八重線〔1954〜1982〕、益田・加計線〔1954〜1971〕)。当時の広島県で四つも主要地方道の起終点を持っていた市町村は他には福山市しかなく(福山・井原線〔1954〜1971〕と福山・庄原線〔1954〜1982〕、福山・東城線〔1954〜1965〕、福山・鞆線)、珍しい存在だったと言えた。
・山県郡安芸太田町に鉄道が通じたのは第二次世界大戦後のこと(1954年〔昭和29年〕)であるが、山県郡安芸太田町にある駅の前を起終点とする県道路線がいくつか発足していること(加計停車場線と上筒賀・筒賀停車場線、筒賀停車場線)。第二次世界大戦後に開通した鉄道路線にある駅や第二次世界大戦後に設置された駅の前を起終点とする都道府県道路線はモータリゼーションの進展による鉄道利用の減少もあってかその数は多くはなく、広島県では他には存在しない。
・山県郡加計町は1982年(昭和57年)に広島県にある自治体としての町村では最も多くの国道路線が通るところになったこと(国道186号線と国道191号線、国道433号線、国道434号線の4路線)。山県郡加計町を起終点とする路線は存在しないが、これにより道路状況はともかくとして島根県西部・広島県西部・広島県北部・山口県東部の主要都市へ国道路線を通って行けるようになった。ちなみに2004年(平成16年)10月1日に山県郡加計・戸河内両町及び筒賀村が統合して発足した山県郡安芸太田町も広島県にある自治体としての町では最も多くの国道路線が通るところである(国道186号線と国道191号線、国道433号線、国道434号線の4路線)。
・中国自動車道加計スマートインターチェンジ(山県郡安芸太田町津浪)は広島県で初めて設置されたスマートインターチェンジになったこと(2004年〔平成16年〕12月18日社会実験で設置。2006年〔平成18年〕10月1日恒久設置に移行)。三次・広島方面との出入しかできないのだが、それまで中国自動車道戸河内インターチェンジ(山県郡安芸太田町上殿)を利用せざるを得なかった山県郡安芸太田町加計地区に住む方にとっては広島方面との往来が便利になった。
山県郡安芸太田町は交通の要衝になり得るところでありながら平地が多いところではないのだがなぜここまで手厚い交通政策が施されたのだろうか。興味をひかれるところである。

注57:「JTBキャンブックス 鉄道未成線を歩く 国鉄編」には用地買収が難航したことで建設が滞り、結局開業に至れなかった路線がいくつもあったことが記されている。用地買収の難航と聞くと都市部での話を想像する方が多いのだが、山間部や田園地帯でもあったことをこの本を読んで知った次第である。

注58:可部線の廃止区間の開業時期は次の通りである。
・可部〜安芸飯室間…1936年(昭和11年)10月13日
・安芸飯室〜布間…1946年(昭和21年)8月15日
・布〜加計間…1954年(昭和29年)3月30日
・加計〜三段峡間…1969年(昭和44年)7月27日

注59:1988年(昭和63年)7月に起きた、山県郡安芸太田町に甚大な被害をもたらした集中豪雨を指す。

注60:三江線の開業時期と営業期間は次の通りである。
・江津〜川戸間…1930年(昭和5年)4月20日
・川戸〜石見川越間…1931年(昭和6年)5月20日
・石見川越〜石見川本…1934年(昭和9年)11月8日
・石見川本〜石見簗瀬間…1935年(昭和10年)12月2日
・石見簗瀬〜浜原間…1937年(昭和12年)10月20日
・式敷〜三次間…1955年(昭和30年)3月31日
・口羽〜式敷間…1963年(昭和38年)6月30日
・浜原〜口羽間…1975年(昭和50年)8月31日

注61:若槻礼次郎と細田吉蔵は松江市出身、竹下登は雲南市出身、大橋武夫は仁多郡奥出雲町出身である。

注62:大田市〜粕淵間に計画されていた大滝線が実現した場合を指す。

注63:初めて主要地方道路線が指定された1954年(昭和29年)1月20日時点では出雲市駅は出雲今市駅、益田駅は石見益田駅という名称であった。その後出雲今市駅は1957年(昭和32年)4月1日に出雲市駅に、石見益田駅は1966年(昭和41年)10月1日に益田駅にそれぞれ改称している。

注64:益田駅の駅前広場を起終点とする主要地方道路線は1966年(昭和41年)に発足している。現在も存在する県道35号益田停車場線がそれである。1958年(昭和33年)6月13日島根県告示第525号により一般県道路線として認定され(当時の路線名称は県道87号益田停車場線)、1964年(昭和39年)12月28日建設省告示第3,620号で主要地方道に指定されたものである。

注65:もし益田駅だけでなく大田市駅(大田市大田町大田)や浜田駅の駅前広場を起終点とする主要地方道路線も発足させていれば大田市や浜田市の反感を買わなかっただろうが、なぜかそれは見送られている(浜田駅の場合、駅前広場のすぐ南側を国道9号線が通っていたことが浜田駅の駅前広場を起終点とする主要地方道路線が発足しなかった理由ではないかと思われる)。結局島根県は何を基準に駅前広場を起終点とする県道路線を主要地方道に指定しようとしたのだろうか。
※ちなみに現在大田市駅と浜田駅の駅前広場を起終点とする県道路線は一般県道路線なら存在する(県道174号和江港・大田市停車場線と県道208号浜田停車場線)。結局石見地方にある市の代表駅で駅前広場を起終点とする県道路線がないのは江津市だけとなる(第9章でも書いたが駅前広場のすぐ北側を国道9号線〔国道186号線重用〕が通っているため設定できなかった)。

注66:石見地方と広島市を結ぶ道路の整備が進展した1970年代以降に石見地方で起きた主な未解決凶悪事件(冤罪事件を含む)は下表の通りである(地名は分かりやすくするため現在のもので記している)。

名称 発生年月日 概要
邑智郡邑南町
女子小学生殺害事件
1981年
(昭和56年)
7月16日
発生数日後に容疑者が検挙されたがその後冤罪事件となった。
冤罪確定時点で公訴時効は成立していなかったが捜査を担当していた川本警察署(邑智郡川本町川本)が捜査を再開することはなく、1996年(平成8年)に公訴時効が成立している(余談だが同じ月には松江市郊外で起きた新婚女性殺害事件も公訴時効が成立しており、島根県警察本部は同じ月に二度も凶悪事件の公訴時効成立という屈辱を味わうことになった。松江の事件が邑南の事件の拙速な捜査に繋がったことは否定し得ないのではないかと私は思うのだが…)。
広島市に通じる幹線道路のそばで事件が起きていることや被害者が女子小学生であることから本サイトでは1979年(昭和54年)に廿日市市で起きた女子小学生誘拐・殺人・死体遺棄事件(未解決)や1983年(昭和58年)に広島市安佐北区で起きた女子小学生失踪事件(未解決)との関連を疑っているところである(そのことはこちらで触れている)。
浜田高齢女性殺害事件 2004年
(平成16年)
2月5日
浜田市中心部にある民家に住んでいる女性が自宅に侵入してきた何者かに襲われ、3日後に死亡した事件。
事件現場付近には情報提供を求める看板が置かれているが、島根県警察本部及び浜田警察署(浜田市黒川町)の公式サイトには情報提供を求めるページはない(最近まであったのだが…)。また、事件の知名度も低い。
今年2月2日付中国新聞朝刊によると事件当日現場(被害者の自宅)付近で不審な車が複数見られたとのことであるが、関連があるかどうかは分かっていない。
済生会江津総合病院
入院患者殺害事件
2006年
(平成18年)
3月18日
済生会江津総合病院に入院していた男性患者(宮司)が侵入してきた何者かに殺害された事件。
解決していない可能性が高いのだが島根県警察本部及び江津警察署(江津市江津町)の公式サイトには情報提供を呼びかけるページがない。
事件が起きた済生会江津総合病院は事件発生から間もない時期に江津市江津町の丘の上から江津市江津町の海岸近くに移転している。

石見地方で起きた凶悪事件と言えば解決までに7年もの歳月を費やす結果になった島根県立大学女子学生バラバラ殺人事件(2009年〔平成21年〕10月26日発生。事件は解決したが容疑者は遺体発見直後に交通事故により死亡しており、逮捕し、裁判にかけることはできなかった。もっとも、容疑者特定時点では死体遺棄罪・死体損壊罪の公訴時効も成立していた)を思い起こす方が多いのではないかと思うのだが、石見地方で未解決凶悪事件がいくつか見られる背景にはやはり広島市との結び付きが強いことや広島市に通じる道路の整備が進んだことがあるように思われる。現に1996年(平成8年)8月に益田市美都地区の国道191号線沿いの崖下から若い女性の他殺遺体が見つかった事件では被害者・容疑者とも広島県在住者だったということもあった(余談だがこの事件は発覚から被害者の身元判明・容疑者検挙まで2ヶ月を要したのだが、その間に広島市及びその周辺で起きたタクシー運転手による連続殺人事件〔被害者は年代の違う女性4人。容疑者は後に死刑になっている〕との関連が疑われたこともあった)。
事件の発生した都道府県と事件の関係者(容疑者・被害者)が住んでいる都道府県が違う例は多数起きている。更に都道府県境を越えて関係が強まっている箇所も少なくない。警察はそのことをどのように考えているのだろうか。ここでは石見地方しか取り上げていないが、全国的な問題であり、重要な課題として取り組んで頂きたいものである。

注67:江津市内では浅利インターチェンジ(仮称。江津市松川町上河戸)〜江津インターチェンジ(江津市嘉久志町)間について国道9号線江津バイパスと県道302号浅利・渡津線を、益田市内では久城インターチェンジ(益田市久城町)〜高津インターチェンジ(益田市高津一丁目)間について県道333号久城インター線をそれぞれ代替道路としている。益田市内に関しては久城インターチェンジ〜高津インターチェンジ間に高架道路を通す計画はあるのだが、江津市内についてはそういう計画は策定されておらず、山陰自動車道は江津市内で自動車専用区間が途切れることになる。
※もし浅利インターチェンジ〜江津インターチェンジ間について自動車専用道路を作ることになった場合は江津地域拠点工業団地(江津市松川町上河戸)と江津中央公園(江津市嘉久志町)を避けた経路をとらなければならなくなる。長いトンネルを何本か掘らざるを得ない経路になるのは確実であり、また交通量も少ないと予測されたために一般道路で代替すれば良いということになったものと思われる。ただ、大田方面と益田・広島方面と往来する場合、一般道路を通らざるを得なくなることを考えると自動車専用道路の建設は将来の課題として考えてはどうかと思うのだが…。

注68:江戸時代、現在の島根県に相当する地域を治めていた主な藩としては松江城(松江市殿町)を本拠地としていた松江藩と浜田城(浜田市殿町)を本拠地としていた浜田藩、津和野城(鹿足郡津和野町後田)を本拠地としていた津和野藩がある。この他石見銀山(大田市大森町)を管轄する目的で幕府直轄領になっていた地域がある。

注69:そのことは広島県を放送区域とする民間放送局の状況からもうかがえる。そのことがうかがえる事実を挙げると次の通りになる。
・中継局が多いこともあったのか1980年代後半以降広島県を放送区域とする民間テレビ放送局はいずれも放送開始時・放送終了時にアナログ放送の中継局のチャンネル紹介をしなかったこと。
・広島エフエム放送は都道府県域民間エフエム放送局では最多の中継局(13箇所)を擁していること(但し広島エフエム放送は放送開始時〔月曜日午前5時前〕と放送終了時〔月曜日午前2時過ぎ〕にきちんと全ての中継局の名称と周波数を紹介している)。

注70:私の友人の中島孝祐(なかしま・こうすけ)さんが運営しているサイト「下関市立大学学園祭情報局〜中国地方最古参の市立四年制大学の学園祭のきのう・きょう・あす〜」ではこのページで下関市の人口変遷を紹介しているのだが、下関市(現在の市域から菊川町・豊浦町・豊田町・豊北〔ほうほく〕町を除いた部分)の人口は1985年(昭和60年)に26万9,169人となったのを頂点として以後は減少の一途をたどっている。理由としては主力産業だった造船業や漁業が振るわなくなったことやそれに代わる、多くの雇用を生み出す産業に恵まれなかったこと、福岡市・北九州市へのストロー現象(ストロー効果)が九州自動車道の整備により著しくなったことなどが挙げられる。

注71:そのため下関市立大学は一人も卒業生を送り出していない段階で私学に移管させようという問題が生じている。学生の強硬な反対で撤回されたのだが、財政事情の厳しさはその後も変わらず、大学の整備が進まない一因になった。

注72:シーモール下関には大丸百貨店が開業当時から入居しているが、この大丸百貨店はシーモール下関開業前は下関駅西口(所在地は下関市大和町一丁目。下関駅とは県道250号南風泊〔はえどまり〕港線を挟んで向かい合っていた)で営業していたものである。そのことを踏まえるとニチイ下関店の移転入居も考えられても良かったはずなのだが、実現はしなかった。理由は分からないのだが、下関駅西口唯一の商業施設として頑張っていこうという思いがあったのではないのだろうか。結局はそれが裏目に出てしまったことになるのだが…。
※ちなみにシーモール下関にはダイエーが入居した(2010年〔平成22年〕撤退)。

注73:本文でも触れているが代表的な事例としては岡山県が挙げられる。岡山県では1996年(平成8年)に県道703号備前・柵原自転車道線を認定したのを最後に20年以上県道路線の新規認定がない。そのため次に挙げるような問題が生じている。
・国道53号線岡山北バイパスの全線開通で生じた旧道が県道にならず、岡山市に移管されたために県道路線の起点または終点が岡山市道と接続するものが生じたこと。
・岡山市と倉敷市を山陽新幹線に沿って結ぶ道路(いわゆる新幹線側道)や備前市日生(ひなせ)地区と日生諸島を結ぶ橋など県道路線になってもおかしくないものが県道路線にならないままになっていること(但し新幹線側道の一部には県道路線になっている箇所がある)。
・バイパス開通により旧道になった主要地方道路線が一般県道路線などに再編されず、結果バイパスと旧道の二つの道が主要地方道のまま残されている箇所があること。
・バイパス開通などにより起点や終点が移動したのにそれを路線名称に反映させていないところがいくつも見られること。

注74:鉄道路線の跡地を用いて県道路線の未開通箇所の解消を図ったところは広島県に存在する。県道304号中筒賀・下線がそれで、可部線廃止後に未開通箇所解消が本格化し、2009年(平成21年)春に開通した(但し「広島県報」に供用開始告示は載っておらず、いつ開通したのかは分からない)。県道304号中筒賀・下線は県道112号三次・江津線と同じく未改良箇所や異常気象時通行規制箇所を抱える路線なのだが、国道191号線の迂回路を確保したかったことの他に未開通区間の距離が短かったことや可部線廃止時点である程度工事が進んでいたことが開通に至れた要因になったと言える。
※ちなみにかつて広島県公式サイトの提言コーナーに掲載されていた、可部線跡地を自転車道として整備してはどうかという投稿の中に費用対効果は見込めないが県道304号中筒賀・下線の未開通区間の解消も同時に進めてはどうかという記述もあった。もっとも、現在でも踏切の設置は認められる場合がある(例としては三江線最終開業区間や井原鉄道井原線、可部線可部〜あき亀山間が挙げられる)のだから可部線在りし頃でも未開通区間の解消は図れたのでは…と思うのだがなぜ可部線廃止後まで着手しなかったのだろうか。田之尻駅に通じる県道路線の名称変更を見送り続けたことといい、県道304号中筒賀・下線の未開通箇所の解消を図らずにいたことといい、跡地利用に対して一切関心を示さないでいることといい、何か広島県は可部線可部〜三段峡間はどうでも良い存在と考えていたような気がしてならないのだが…。

注75:代表的な例としては県道466号向島・因島・瀬戸田自転車道線が挙げられる。下の写真は尾道市向島町で撮ったものである(後ろに見える吊り橋は因島大橋〔全長:1,270m〕)が、道路は県道377号向島循環線であるにもかかわらず県道466号向島・因島・瀬戸田自転車道線の県道標識が設置されている。

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